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からかい上手の英智くん


「はあー、疲れたあ」

 ちょっと休憩と、へなへなと噴水の縁に座り込む桃李を見下ろしながら、渉はやれやれと大げさにため息をついてみせた。

「これぐらいで音をあげていてはお話になりませんよ」

「それはそうだけど」

 むう、と桃李は口を尖らせる。

 先輩たちが卒業する前に少しでも立派な姿を見せて安心させようと、少し前から桃李はまたしても渉にしごいてもらっていた。その気持ちは変わらず確かだが、疲れたものは疲れたのだ。いつもより頑張っているから、それは余計に。

 足がパンパンだよお、と桃李はいつまでも練習を再開せずにぐずぐずしていたが、ふと校舎の方へと視線を向けると「あっ、会長だ」と途端に顔を輝かせた。

 天祥院英智。

 夢ノ咲学院の生徒会長であり、かつて無敗の最強ユニットであった『fine』のリーダー、そして学院の皇帝とも呼ばれた青年である。彼は大きく開け放たれた教室の窓辺で頬杖をつき、灰色がかった空を眺めていた。

 いつものように窓の真下まで駆けていき、声をかけようとした桃李は、そこではたと躊躇った。

 美しい眉を顰めた横顔はどこか憂いを帯びており、物思いに耽っているようであった。

 また体調を崩しているのだろうか。それとも次の企画のことで煮詰まっているのかもしれない。もしくは進路のことで悩んでいるとか。いや会長のことだからもっと壮大な問題について、腐敗したアイドル業界の今後の行く末に胸を痛めているのかも──。

「話しかけないのですか?」

 くるりと踵を返して練習室に戻っていく桃李の後ろ姿に渉が声をかけると、いつもより少しだけ精悍な顔をした桃が振り返った。

「うん、邪魔しちゃ悪いから」

 僕は僕のできることを頑張らなくちゃ、と両腕をあげて気合いを入れている桃李と、窓辺に佇む英智を交互に見比べて、渉は何やら意味あり気に頷いていたが、そのうち愉快そうにスキップをしながら桃李を追いかけていった。

 ──ま、どれも不正解なんですけどねえ。

 粉雪のように儚い顔をした学院の皇帝である彼の頭の中は今、幼なじみに仕掛ける次のいたずらのことでいっぱいなのだ。


     ○


 敬人。

 敬人ってば。

 けーいーと。

 後ろの席から何度も名前を呼ばれて渋々振り返ると、「やっとこっち向いた」と笑っている幼なじみの姿があった。

「ね、消しゴム貸して」

 差し出された両掌の上に消しゴムを乗っけてやると、英智は「ありがと」と受け取り、ノートに書かれた文字をとても丁寧に一つずつ消していった。

 消し終わるまでその様子を見ていると、英智はノートから顔をあげずに「そういえば普通科の女の子が話してたのを聞いてしまったんだけれど」と前置きをして話し始めた。「消しゴムに好きな子の名前をマジックで書いて、誰にも見られずに使い切れると、その子がファーストキスの相手になるんだって」

 細い金色の髪がさらりと顔に影を落とすと、英智はそれを人指し指で薄く形のいい耳にかけた。現れた白い頬は、今日は健康的にふっくらしており、少し赤みがかっている。

「女子は昔からまじないの類を好むからな」

「可愛らしいじゃないか。僕は好きだよ」

 好きだよ。その単語を発するときだけ、英智は上目遣いで敬人の顔を窺った。敬人が視線を逸らしたのを確認すると、やはり少し赤みがかった唇の両端を持ち上げて、またノートに目を落とす。そして「敬人もアイドルなら女の子の好きな物を理解しなきゃ」と言いながら、ノートの上の消しカスを指で払った。

「よし、それなら手始めに敬人も消しゴムに好きな子の名前書いてみようよ」

 声をかけられていた当初からなんとなく感じていた嫌な予感が見事に的中して、敬人は顔をしかめた。

「何が手始めだ。消し終わったならもう返せ」

「恥ずかしがらなくてもいいだろ。奥手の敬人のために僕が書いてあげるよ」

「おい、一体誰の名前を書こうとしてる」

「そりゃあ、敬人の好きな子っていったら」

 言いかけてから、手にもっていた黒のマジックを口元にあてると、英智は何かを思いついたように「ああ、そっか」と言った。

「そういえば敬人のファーストキスの相手って」

 その隙に敬人が机の上の消しゴムをサッと奪い返して背を向けるので、英智は目を丸くする。

「あれ、怒った?」

「これぐらいで怒るか」

 ふうん、と英智はマジックのキャップの先で、敬人の背中をつんつんとつつく。

「そうだよね、クラスのみんなに聞こえるくらいの声の大きさでばらされたら、敬人は怒るよね」

「その話はいつ終わるんだ」

「じゃあさ、僕が消しゴムに書いてる名前のヒント教えてあげるから、それでちゃらにしてよ」

 別に心底知りたくなかった。「隠す必要があるんだろう」

「イニシャルぐらいならいいでしょ。ほら、あててみて」

「じゃあ『A』」

「もっとちゃんと考えてよ」

「そもそも」と、敬人が振り返ったところで予鈴が鳴った。間を置いてから、敬人が声を落とす。「貴様が書いたところで意味があるのか」

「もちろん、あるよ」と何故か英智は断言した。「僕がやり直しを望んじゃいけない?」

「そんなこと知るか」

「敬人から聞いたのに」

 英智が口元に手をあてながらくすくすと笑う。「へえ、そうか。敬人は嫌なんだ」

 そういうことじゃない、と言いかけると、ちょうど椚先生が教室に入ってきたので押し黙った。

 一時期に比べれば学院の秩序はだいぶ保たれたが、元々芸能活動を優先することは許されているので、授業の出席者は多くない。それでも真面目に授業に出ることに意義があるえし、学院の頂点に立つ生徒会副会長として規律を重んじた態度を取らなければならないと思っている。

 模範生徒として教科書を広げていると、ぴんと伸びている背中に、トン、と人指し指が押しつけられた。指はそのまま一本の棒を描くように下まで降りる。真ん中に横棒。もう一本縦棒。

「正解は『H』だよ」と、後ろから耳元に息があたった。「予想と当たってた?」

 まあ、今は生徒会長が一番、真面目に授業を受けていないのだが。

 今日の英智はやたらとテンションが高い。健康なのはいいことだが、そういうときの英智は敬人をからかいたくてうずうずしているので、下手に反応するとろくなことにならないのは幼い頃からよく知っている。

 それからしばらくの間、英智は大人しくノートに板書を写したり教科書をぱらぱらめくったり、窓の外を眺めたりと暇を持て余していたのだが、そのうちまた肩をトントンと叩いて「敬人」と呼んだ。「ねえ敬人ってば」

 無視を決め込むと、英智もこれ以上は無駄だと気づき大人しく授業に集中することにしたのか、ぴたりと呼びかける声がやんだ。

 しかし、しばらくすると後頭部に何かが直撃したような衝撃があった。

 間髪入れずにもう一回。今度は当たった瞬間にビシッと音が立つ。

「英智!」

 小声で咎めながら振り向くと、英智は輪ゴムを人指し指に引っかけ、銃を構えるが如く敬人の眉間に狙いを定めている。

「ばきゅん」

 やめんか、と手をおろさせた。

「何の用だ」

 先ほどから黒板に白いチョークを走らせている椚先生が物言いたげに、ちらりとこちらを向いた気がした。今は授業中である。そして担当講師は学院で一番厳しい椚先生だ。

「ルーズリーフ分けてくれない?」

 お願い、と英智が珍しく両手を合わせて申し訳なさそうに頼むので、敬人は息をついて二三枚渡してやる。

「次からは普通に頼め」

「敬人が無視するかいけないんだよ」

 確かにそうなのだが、なんとなく釈然としない。

 席に座り直し、ようやく落ち着いてノートを取ろうとシャープペンシルを持ち上げると、今度は脇の下からスッと小さく折り畳まれた白いルーズリーフが机の上に差し出されてきた。

 ちらりと後ろの様子を窺うと、英智は何食わぬ顔で板書を写している。

 とりあえず広げて読んでみる。

『チャック開いてるよ』

 敬人はため息をついた。どうせいつものように、英智は敬人が慌てて確認する姿を面白がりたいだけなのだ。まんまとひっかかってしまっては英智の思う壷である。

 だが万が一ということもある。念のために机の中の電子辞書を取り出すのを装いながら、あくまで自然に椅子を引き、できるだけ頭を動かさないように下半身に視線を落として、確認してみた。チャックはしっかり上まであげられている。

 やはりな、と敬人は内心ほくそ笑んだ。危うく英智の思惑にはまるところだった。

 しかしちょうど敬人が一息ついたそのタイミングで、またしても後ろから二通目の手紙が差し出された。

 仕方がないので、二通目も広げてみる。

『椚先生の』

 なるほど、それは大変だ。

 椚先生は生徒にも自分にも厳しい教師としてあまりに有名である。そんな先生がチャック全開で授業をしていたことが周囲に広まれば、今まで積み上げてきたイメージに傷が付くだけでなく、先生は相当な羞恥心に苛まれることになるだろう。それにいつも厳格な先生だけに、このチャック全開事件は心無い生徒たちによって面白おかしく脚色されて、後世まで伝わる噂話にされかねない。ここは一刻も早く事実を確認し、先生にこっそりと伝えることが望ましい。

 そこで敬人はあくまで自然に伸びをするなどして先生の様子を確認しようと試みたが、教壇に立つ椚先生は教卓に隠れてしまい、なかなか確認することはできない。

 いや、待て。

 そこで、はたと敬人は閃いた。

 敬人の席からでは、教壇に立つ椚先生の下半身を確認することはできない。それは後ろの英智の席からも同じはずである。授業がはじまってから椚先生の下半身を確認することができたのは、教室に入ってきたときの一度だけだ。本当に見たというのか。

 もしかするとこれも英智の作戦かもしれない、と敬人は思い至った。開いていない椚先生のズボンのチャックを敬人に指摘させることで恥をかかせようとしているのではないか。もしくはチャックによって気がそぞろになっている状態の敬人が先生に指摘されてあたふたとしているところを見て面白がろうとしているのかもしれない。

「貴様、本当に見たのか?」

 敬人は身体を後ろに向けると、できるだけ声を落としながら英智に確認した。

「見たよ」と英智はすまして答えた。「黒のボクサーだった」

「いや、下着の色までは聞いていない」

「敬人は僕の話を疑ってるの?」

 心外とばかりに英智が敬人を睨んだ。

「そういうわけじゃないが」

「その相談は授業よりも大事なことですか」

 冷たく刺さるような声がして、慌てて顔をあげればいつの間にか椚先生がすぐ隣に立ち二人を見下ろしていた。先生は敬人の机に広げて置いてあった、二通目の手紙を拾い上げた。

「私が一体なんだというのですか?」

「いえ」と敬人は言いよどむ。英智は敬人の出方を窺っているようであった。

 いつの間にかクラス中の視線が集まっており、なんだなんだとこの騒ぎに振り向いた千秋が「あっ!」と声をあげた。

「先生! ズボンのチャックが開いているぞ!」

「こら、話を逸らさない!」と椚先生は千秋を叱ってから、何気なく視線を落としたのだろう。彼は黙ってチャックを上まで引き上げると、ゴホン、と一つ咳払いをした。

「授業に戻りますよ」

 気まずい空気が流れる教室の中で唯一、後ろから机に突っ伏して笑いを堪える声が聞こえてきた。


     ○


 常にどこか人を食ったような態度でいる英智は「天使のような顔して腹黒い」などと評されることもあるが、幼なじみの敬人からすれば「腹が真っ黒」というよりも、彼はただ本質的に「構ってちゃん」なだけであった。彼のすることは何か大いなる目的によって行われることもあるが、実際は気を引きたくていたずらを仕掛けているだけにすぎなかったりすることも多い。

 英智は飽きっぽく、新しい楽しいことが大好きだ。

 英智からすれば「敬人はまったく反応がつまらない」のだという。当たり前である。昔から一緒にいるのだから英智の行動パターンはある程度予測できるし、いい加減なんでもかんでも驚いたりはしない。それだというのに、英智は諦めもせずあの手この手で敬人の気を引こうとしてくるのだから不可思議だ。

 高校に入ってから英智の「構ってちゃん」はだいぶ控えられていたものの、喧嘩祭という二人の通過儀礼を境に、英智はまた敬人に対して子供のように人目を気にせずからかったり、いたずらを仕掛けてくることが多くなった。愛情確認と称して自作自演の脅迫状を自身に送りつけ、敬人を心配させようと画策までしたこともあるが、さすがにたちが悪い自覚はあったのか、最近はもっぱらクラスや委員会で小さいいたずらをしかけてくるだけである。

「うっわあ、すっげえ降られましたよー」

 放課後になると、制服についた水滴をタオルではたきながら、校舎の見回りからわたわたと真緒が生徒会室へ戻ってきた。

「なんだ、降ってるのか」

「ほんといきなりっすよ。今日曇りだっていってたのに」

 軽く愚痴りながら真緒は応接用のソファに座って作業をしている敬人の前に腰掛けると、目の前にうず高く積まれた書類の山脈に一瞬「うへえ」と顔をゆがめた。しかし腕まくりをすると、すぐさま片づけに取りかかる。こういうところが、敬人が彼を買っている理由の一つだったりする。

「先輩はちゃんと傘持ってきたんです?」

「俺は折り畳みを用意してある」

「あっ、さすが。俺は学校の備品のを借りようかなあ」

 そんな世間話をしながらも黙々と手を動かしていると、ふと真緒は机の上に置いてあった敬人の消しゴムを目に留めると、「そういえば妹が話してたんすけど、今中学生くらいの女の子の間で消しゴムのおまじないが流行ってるらしいっすよ」と、何気ない様子で手に取った。

 本当に流行っているのか、とぼんやり考えながら「名前を書くとかそういうやつか」と話を合わせると、真緒はそうそうそれです、と頷いてから「こうやってカバーの下に好きな子の名前を書いて、誰にも見られず使い切るんですって」と、スポンッとカバーを抜き去った。

 真っ白な四角いゴムに、黒々としたマジックが「英智」と書かれている。

 真緒は黙って消しゴムにカバーをはめ直すと、机の上に元通りに戻した。

「すみません、誰にも言いませんから」

「変な気を遣うな」

 敬人が眉間に皺を寄せる。「ただの英智のいたずらだ」

 あっですよね、などと言いながらも依然として目を泳がせている真緒は、話を買えるように「そういや、今日は会長はいないんですか」と部屋を見渡しながら尋ねた。

「今日はユニットの練習の方に行かせた」

「はあ、なるほど。だから姫宮もいないのか」

 そこで敬人は手を止めると、「衣更、貴様もあがっていいぞ」と声をかけた。

 えっ、と真緒が驚いて顔をあげる。「大丈夫なんですか?」

「構わん、雨が本降りになる前に帰れ」

「すみません、じゃあお言葉に甘えて」

 やはり空気が気まずかったのか、真緒はそそくさと身支度を整えてから部屋を出ようと扉に手をかけると、「あっ」と思い出したように振り返った。

「そういえば、さっき椚先生とすれ違ったんですけど、すっごい機嫌悪くて大変だったんで、会ったら気をつけたほうがいいっすよ」

 真緒としては善意での忠告だったのだが、それを聞いた敬人が何故か頭を抱えはじめるので困惑した。

「えっ、どうしたんですか?」

「いや、すまないな……」

「なんで副会長が謝るんです?」

 いやなんでもない、と言いながらも深いため息をつく敬人に、真緒は首を傾げた。


      ○


 英智がいたずらをしかけるのは、幼い頃より変わらない。

 単純にすることもなく暇だったのだろうし、親がずっと留守にしているのもあって誰かに構ってほしいというのもあったのだろう。この世の事象の何もかもが気に入らない、というのもあった。

「結局、僕は適当な身体の丈夫な資産家の娘と政略結婚でもさせられて、子種さえ残せば両親にとってはそれで十分なんだ」

 小学校高学年ぐらいの頃だった。子種、という生々しい単語にぎょっとしたのを覚えている。

 そのとき彼は身体をひどく壊していて、病室のベッドの中でいつも異常にふてくされていた。ちょうど社交界に出た帰りに親が婚約がどうのなんていう話をしていたのを盗み聞きしてしまって、余計に精神的に参ってしまっていたようだった。

 英智はベッドのなかでしきりに「嫌だなあ」と言った。はたから見ても彼のままならない人生は歯車でかっちり決められたように窮屈に見えたし、言いたいことは伝わってきた。そうして最後に「僕はなんなんだろう」と呟いた声が、やけに悲しく胸に響いた。彼は誰もが羨む大富豪の御曹司でありながら、圧倒的に世界の弱者だった。ほんとうの意味で彼の思い通りにいくことなんて何一つなく、いつも誰かの物語を病室のベッドの上から見ているにすぎない。

 それは敬人自身も同じであったのだ。

 すると唐突に「キスして」と英智は言った。

 何を言われたかわからず、敬人はぽかんとしていた。

「敬人、キスしてよ」

「馬鹿を言うな!」

 ようやく意味を理解した敬人が、茶化されたのだと思って怒りだすと、「敬人は僕にするのが嫌なの?」と大きな双眸に真っ直ぐに聞かれて困ってしまった。

「僕は知らない人とキスするくらいなら、敬人とがいいんだけど」

「友達とするのはおかしいだろ」

「じゃあ誰とするのさ」

 敬人は口ごもった。「それは、大事な人とだ」

「僕は敬人が大事だよ。敬人もでしょう」

 そうじゃない、と敬人はかぶりを振った。そしてどう言ったらいいものか悩んでから、小さな声で、世界で一番好きな人とするものだ、と答えた。

「僕は今、敬人が世界で一番好きだよ」

 敬人以外は好きじゃないよ。

 そのときの彼の本心だと思えた。

 敬人、ともう一度名前を呼ぶと、英智は敬人のシャツの袖口を小さな手でぎゅうっと握った。その小さな拳こそが、彼が必死で世界をつなぎ止めようとしている象徴のようであった。何かしてやりたいと思ってしまった。

 敬人はベッドに手をつくと、漫画の見よう見まねで、英智の小さな唇に自身のを押しつけた。目をぎゅっと瞑ると、ふに、と柔らかいものの感触が直に伝わり、弓道の試合の比ではないほどになぜだか異様に緊張し、慌ててすぐに顔を離す。

 そしておそるおそる目を開けたときには、必死に笑いを堪えている英智の顔が目の前にあって非常に困惑した。

「すっごい真剣な顔して」

 英智はついに堪えきれずに吹き出すと「ほんとうにするなんて思わなかったから」と涙を流しながらげらげら笑った。笑いすぎてそのまま呼吸困難を起こしかけ、ナースコールを押す羽目にまでなった。

 こんなに非道い話があるだろうか。

 しかも天祥院の使用人たちが、英智を殺しかけたとしてよってたかって白い目で見てきたものだから、戻ってきた英智に庇ってもらうまで生きた心地がしなかった。重ね重ね納得がいかない。元はと言えば英智が悪いのだ。

 この件で敬人が学んだのは、英智の言うことをなんでもかんでも聞いてしまっては馬鹿を見るという教訓だ。

 それにしたって、たった十年ほどの人生で弄ばれてしまった哀れな純情を、一体どうすればいいというのか。


     ○


 目を開くと、頬に冷たい木の感触がした。

 連日の寝不足が祟ったのか、いつの間にか生徒会室のソファの上で眠っていたようだった。外の雨はいよいよ本降りに変わったのか、ざあざあと雨粒が地面を叩く音が聞こえてくる。

 机に突っ伏したまま、顔を僅かに横にずらし瞼を開いた。

「おはよう、敬人」

「……おはよう、英智」

 すぐ隣に英智がいた。彼は同じように机に突っ伏している彼は右耳をぴったり机にくっつけるようにして、寝ぼけ顔の敬人を青い瞳でじっと見つめていた。

「何をしている」

「敬人を見てたんだよ」

「練習は」

「もう終わった。生徒会室に明かりがついてたから、一緒に帰ろうかと思って」

 英智は人差し指を、敬人の眉間にトンと突き立てる。

「寝てるときもすっごく眉間に皺寄ってた」

 何の夢見てたのさ、なんて聞きながら、彼は突き立てた人差し指で眉間の真ん中を円を描くように「うりうり」となぞった。敬人が嫌そうに軽く振り払おうとすると、ふふふと肩を揺らして笑う。

「ね。こうしてると、雨の音しか聞こえないね」

「そうだな」

「今ね、敬人のことしか見えてないよ」

「俺もだ」

 こうしたある種の閉鎖的な二人だけの空間は、幼い頃を連想させた。あの頃は、懐中電灯と漫画をベッドの上に持ち込んでシーツをかぶれば、そこは簡易的な秘密基地みたいだった。誰にも邪魔されない空間で二人で顔を寄せ合い、たくさんの物語を読み耽っていたものだった。

「また二人で、世界を置いてけぼりにしたみたいだね」

 まったく同じことを思っていた。

気恥ずかしくなってきて目を逸らすと、眉間に置かれた人差し指はすーっと下に降りてきた。鼻筋をなぞり、唇に触れた。

「ねえ、敬人」

 触れている箇所が熱に浮かされたように熱くなっている。

「キスしようか」

 敬人が無言で身体を起こし、机の上に置いてあった眼鏡をかけ直すのを、英智は目で追いながら自身も起きあがりソファに座りなおした。

「敬人、怒ってる?」

「別に怒ってはいない」

「嘘つき」

「嘘じゃない」

 敬人は立ち上がると、机の上に置きっぱなしになっていた作業途中の書類やなにやらを鞄の中に詰め込んだ。

「ただ軽々しく冗談でそういったことは言うな」

「冗談じゃないよ」

 鞄を肩にかけると、英智を睨みつけた。

「それ以上続けるなら怒るぞ」

 そのまま英智をおいて、生徒会室を後にした。

 外は土砂降りである。鞄に入れてあった折り畳み傘を差して逃げるように昇降口を出ると、後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、鞄だけを持った英智が追いかけてきていた。

「待ってよ」

 傘も差さずに駆け寄るものだから、敬人は立ち止まって英智を傘の中に迎えいれてやらねばならなかった。

 敬人は英智を雨に濡らせたがらない。雨の中に英智を置き去りにするようなことは、絶対にしない。それまでわかっていて、あえて走って追いかけてきたのだと思うと、余計に腹立たしかった。

「僕は、敬人を傷つけてしまったのかな」

「……他人事みたいな言い方だな」

「否定はしないんだ」

 細い髪に水が滴るのを、苛立ち混じりにタオルでごしごしと拭ってやると、「痛いよ」と英智が文句を言った。

「敬人は何もわかってないよ」

「何で俺が責められるんだ」

「だって好きな子のことはからかいたくなるもんだろう」

「何が好きな子だ、馬鹿にしおって。体のいいおもちゃだろ」

 吐き捨ててから、英智の方をちらりと見て息を呑んだ。

 英智はひどく驚いた顔をしていた。

「本当に、全部からかってるだけだと思ってるの」

 純度の高い、青い瞳が一瞬大きく揺れた。ただ純粋に驚いている彼は、自らが傷ついていることに気づいていない無垢な少年のようで、より一層哀れに見えた。

「別に、全部が全部、とはさすがに思ってはいない」

「本当に?」

 のぞきこんでくる瞳から思わず目を逸らそうとすると、逃さないように、英智が傘を持つ手を上から握った。

「じゃあどこからが、からかってないんだと思う?」

「……言わせるのか」

 呻くように低く呟くと、「敬人の言葉で聞きたいんだよ」と英智が囁き返した。

 触れ合っている箇所は、依然として熱いままだ。また英智が風邪でも引いているのか。それとも熱を持っているのはどちらだろう。

 意を決して顔を上げ、英智の目を見据えようとしたそのとき、突然目の前でフラッシュが炊かれた。

 カシャッ。

「……英智」

 カシャッ。

「おい」

 カシャシャシャシャシャシャシャシャッ。

「連写をするな!」

 英智が顔に向けていた携帯端末を取り上げると、抵抗するのを押さえつけながら撮り立ての写真をごそっと削除した。

「あっ、非道いことをする!」

「どっちが非道いんだ!」

 敬人は英智に傘とタオルを押しつけると、ばしゃばしゃと水たまりを蹴飛ばしながら校門に向かって走っていってしまった。

「乗せていかなくていいの」

 声をかけると、「いい」と怒鳴るように言ってから、敬人はくるりと振り返り「俺へのあてつけに雨に濡れたら、本気で怒るからな」と釘を刺していった。

 仕方なく英智は濡れ鼠のような後ろ姿を見送っていたが、最後にもう一度「敬人!」と呼びかけた。

「さっきの写真と録音なら、もうクラウドにも保存してあるよ!」

 前を走る敬人の足が、つるっと路面を滑ったような気がした。


     ○


「またいたずらの算段ですか?」

 イヤホンを耳に差し、頬杖をつきながら窓の外を眺めていると、おやおやふっふっふと怪しい笑みを浮かべながら渉が声をかけてきたので、英智はちらりと振り向いて溜息をついた。

「渉まで僕をそういう風に言う」

「おや、違う?」

 わざとらしいほどに大仰に驚いてみせると、英智は組んだ腕の中に顔を埋めた。

 昨日降った雨は、グラウンドのあちこちに大きな水たまりをつくっていた。未だぬかるんでいるグラウンドをならそうとトンボを持って降り、泥だらけになっている年若い運動部員たちに、通りがかった白い大きなマスクをつけた男子生徒がガミガミと注意を促しているようだった。

「別に風邪を引かせるつもりはなかったんだよ」

「ほほう」

「おかげで半径三メートル以内に近づかせてもくれない」

「それは授業を受けるだけでも難儀ですね」

 難儀も難儀だよ、と英智はこぼした。あいつわざわざ先生に言って教室の端と端に座るんだから。そこまでするかな、普通。

「相当、恋煩いをこじらせているようで」

 イヤホンの繋がった端末の画面に映る文字を見て、渉が笑いながら言うと、英智はきょとんとして「まさか、恋じゃないよ」と言った。

「だって、先に恋した方が負けだって言うだろう」

 だから絶対負けたくないんだよねと、ぶつぶつと決意を新たにする英智を見て、渉は瞳をまんまるにしていたが、そのうち腹を曲げてくつくつと笑い出した。

「いや、なに」と、不審そうに見つめる英智に弁明するように、渉は涙を拭った。

「それじゃああなた、本当にからかうのが下手なんですねえ!」

 端から見ればとっくに勝敗が決まっている勝負にこだわっている学院の皇帝は、その言葉にぱちぱちと瞼を瞬かせると、みるみる顔を不機嫌そうにむすっとさせて、ふいと正面を向いてしまった。

「……それ、君にだけは言われたくなさすぎる」

 私はいいのです、部員たちに愛を教えたいだけなので!

 僕だって敬人に、愛を教えてるつもりだよ。

 軽口を叩きながら、窓の外を見下ろす。そしてイヤホンから流れる音声を聞きながら、ああ失敗したやはり言わせれば良かった、なんて考えていると、身体が冷えてきたのか小さなくしゃみをした。

 校舎下にいる敬人が急に顔をあげて、目が合った。

 まさかね。

 妙に聡いくせに、変なところで鈍いこの男との勝負は一体いつ決着がつくのだろうと考えて、心臓がきゅうと痛んだ気がした。負けたくないけれど。

 ずるずると組んだ腕の中に顔を埋める。

「でも、僕が一体どれだけ好きかなんて、あいつはこれっぽっちも考えたことないんだろうなあ」 



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