風が強くて、猫が騒ぐ。
足元を通り抜けた風が青い葉を宙へと舞い上げた。そのまま空を見上げると、煌々としたペーパームーンのような満月がぽっかりと浮かんでいる。周りの星が隠れてしまうほど月の明るい晩だった。
向かい風を切るように足早にマンションのエントランスへ向かうと、猫の鳴き声が聞こえた。思わず立ち止まって耳を澄ませる。鳴き声は一匹のものではなく、何匹もの声が重なり合うようにあたりに響いていた。喧嘩をしているような攻撃性は感じられない。
音のする方へ探るように歩いていくと、どうやらマンションの敷地内にある小さな遊具スペースの茂みのなかから聞こえてくるようだった。
茂みを覗き込もうとしたところで、後ろから声がかけられた。
「こんばんは、ファウスト」
鳴き声がぴたりとやんだ。
振り返ると、月明かりを背にいまだ幼さの残る青年が立っているように見えた。
と、次の瞬間に強い風が二人の間に吹き込んで、思わず目を瞑る。再び瞼を開けたときには、そこに立っているのは髪の長い女性の姿であった。
「猫が鳴いているから、この世界のファウストが近くにいるんじゃないかと思って、寄ってみたんです」
どうして名前を知っているのかと尋ねると、別の世界のあなたに会ったことがあるのだと彼女は答えた。
「私はちょうどその世界へ帰るところなんです」
詐欺師でも使わないようなセリフだったが、嘘をついているようには見えなかった。
目の前の彼女は、とくに特別なところもなく、ひどく善良そうで、誠実な瞳をしていた。口を開くたびに、とても慎重に言葉を選んで話した。言葉を大事にする人間だ。そんな人間をよく知っていた。
だからか、別に嘘でも構わない気もした。彼女の話に付き合うのも悪くないと思い、動物の姿を模したバネのついた遊具に腰かけた。
突然この世界に現れた彼女は、今日一日、この近くの高校に身を置いていたそうだ。転校生の彼女は初日からいきなり生徒会に配属され、問題児ばかりの卒業生たちをそれぞれの道へと送ってきたのだそうだ。
「でも帰る前にファウストに会えて良かったです」
「いきなり知らない世界に飛ばされてさぞ不安だったんじゃないか」
話を合わせるように尋ねてみれば、彼女は意外にもけろりとしていた。
「四月一日になると毎年知らない学校へ転校したり、SFみたいな世界へ飛ばされたりしているんで、だいぶ慣れてきました」
「それはなかなか難儀な……」
彼女と話していると、はじめて会った気がしないのはなぜだろうと思った。彼女はどこか懐かしく、部屋に戻ってレノックスを呼んできてやりたい気持ちが起こった。彼女に会えばレノックスもきっと喜ぶだろうと、どうしてかそう思ったのだ。
長い時間、旧くからの友人と再会を喜び合うように、そうして彼女と語らっていた気がするが、実際にはものの数分のことだったのかもしれない。
彼女は立ち上がると、最後に、ファウスト、と呼んだ。
「この世界はあなたにとってどうですか?」
「別にどうということもない」
考えるまでもなく、素っ気なく答えた。「相も変わらず同じ過ちを繰り返しているような、しょうもない世界だ。でもそんな世界でも、生きていくのも悪くはない気がしてきた」
「あなたの心が少しでも穏やかに過ごせているのなら良かったです」
「そうであるように僕も思うよ」
彼女は少し困ったように微笑んだ。野良猫を心配するような調子で、ささやかな邂逅に別れを惜しむように。
「さようならファウスト、またどこかで」
「ああ、さようなら」
彼女は最後に会釈をすると、とても自然な足取りで公園を出て、生垣の向こう側へと姿を消した。生垣の先でもう彼女の姿は忽然と消えているかもしれないし、まだ普通に歩いているのかもしれない。そんなことを考えて、最後まで彼女の名前を聞き忘れていたことに気がついた。
ファウストはマンションを見上げた。そうして立ち上がると、窓から明かりの漏れる小さな部屋へと向かって歩き出した。
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