ハニー・ハニー
大学構内に時たま現れると噂の「ベネットの酒場」の存在を知っていても、実際にそこの酒を味わったことのある人物はごくわずかである。
クラシカルなリヤカー屋台の小さな酒場には、カウンター用の丸椅子が五つ置かれ、屋台の中のシャイロックと呼ばれるマスターの後ろにはなかなか歴史のありそうな酒瓶がずらりと並び、天井からは綺麗に磨かれたワイングラスが逆さに吊るされていた。そこがたとえラグビー部のグランドの真ん中だったとしても、ひとたびカウンターに座れば眼前に広がる光景は趣あるシックな酒場そのものである。しかし、夜が空ければ一瞬にして屋台は消え、また次の夜にはまったく別の場所で開店しているのだそうだ。
ちなみに構内での無断営業はもちろん禁止されている。
ファウストは三年生の頃にたまたま見つけて以来、一人でふらっと飲みたいときに寄ることにしていた。なぜだか、一人でふらっと飲みたいときに、その酒場は必ず目の前に現れたのだ。
酒場には先客がいた。フィガロの顔を見つけて無言で引き返そうとすると、上着の裾を掴まれて引き留められる。
「飲みたいなら飲んでいけばいいでしょうよ。俺だって今日は連れがいるし」
確かにフィガロの隣には大柄の男が座って、ゆっくりとグラスを傾けていた。長い黒い髪を頭の上で一本に結わえている男は、まるで一人で来ているかのように静かに酒を味わっていた。
「こんばんは」と声をかけると、大柄の男はゆっくりとグラスを口元から離し、ゆっくりとカウンターに置いた。目は伏せられたままである。まったく愛想がない。レノックスのほうがもう少し愛想があるくらいである。
フィガロから律儀に二席を飛ばして一番端に座り、シャイロックに「いつものやつ」を頼んだ頃に、ようやく最奥から「こんばんは」と固い挨拶が返ってきた。
そんなに悪い人ではなさそうであった。
どういう関係なのかわからなかったが、宣言通りフィガロはファウストに干渉せず、もっぱら今日の興味はその連れの男のようだった。
「最近どうなのよ」
「別に」
「アーサーも今年から大学生だろ」
「ああ」
「授業どうだって?」
「さあ」
「いや普通そういう話するでしょ」
「何も」
ひどい会話である。
ひとつも盛り上がらない隣の会話を肴にグラスワインを傾けていると、スマートフォンにメッセージが来ていることに気づく。もともと一杯飲みたかっただけなので、会計を済ませて立ち上がると、シャイロックが声をかけた。
「もう終電ですか」
「いや、こいつ電話一本で、一緒に住んでる彼氏が迎えに来るから」
余計なことを言うフィガロをにらみつけていると、シャイロックは「あら、やらしい」としっとりとした声色で言った。
「なんで一緒に住んでるだけでやらしいんだ」
「同棲してる大学生なんて日がな一日授業にも出ないで、境界も曖昧になるぐらい、いちゃいちゃぐちゃぐちゃと耽っているものでしょう」
妙にいやな表現にファウストは顔をしかめる。「そのへんの腐れ大学生と一緒にするな」
しかしファウストの反応も気にせず、フィガロは頬杖をつく。
「いいなあ。付き合ったばかりなんて、一番楽しいでしょ。寝る前とかにいちゃいちゃしてさあ」
「いちゃいちゃとね」
「いちゃいちゃと」
なぜだかレノックスを貶されたような気がして、ファウストはいささかむっとしていた。
レノックスは真面目で律儀で堅実で誠実な男である。勉学を疎かに、バイトとサークルで遊び呆け、身体目当てで惚れた腫れたを繰り返すそ不埒な大学生連中とは違うのだ。ファウストがいつもよりいっぱいごはんを食べたり、ぐっすり眠ってすっきりしているのを見ると非常に満足そうにし、手を繋ぐだけでうれしそうに顔を綻ばせる男なのだ。
そういえば、あいつ本当に何もしてこないな。
今までろくに気にもしていなかったが、確かに恋愛関係らしい触れ合いというのをたいしてしてきていないし、レノックスも求めてこなかった。求められなかったので余計に気づかなかったのである。そもそもごはんをいっぱい食べてて満足とは何か、小さい子供だとでも思っているのか。
「問題はほかにあったようですね」
どうやら何もかも見透かしているようなシャイロックの微笑に否定も肯定もできずにいると、「ちょっと眠れなくて、って甘えりゃいいじゃない。それで落ちない男はよっぽどだから」とフィガロが口を挟んだ。
「絶対にするか、そんなこと」
噛みつくように言い返していると、遠くから小さくバイクのエンジン音が聞こえた。
その間も、端っこにいる男はひとり意に介さず、静かに酒を味わっている。
〇
「どうされました?」
風呂も終えてあとは寝るだけというところでレノックスのもとへ行くと、彼は敷布団の上で洗濯物を畳んでいた。
「……ちょっと眠れなくて」
「でも寝られた方がいいですよ。今朝もはやかったでしょう」
よっぽどの男は至極真っ当なことを言った。
「ホットミルクでも飲みますか?」
「子供扱いはするな」
いつもより語気を強めてしまったが、レノックスは気づいていないようだった。
「砂糖の代わりに少しだけ蜂蜜酒を入れると身体もあったまるし、リラックスもできるし、何より美味しいですよ。俺も飲みます」
それはちょっといいなと思って黙っていると、肯定と取ったのかレノックスは立ち上がってキッチンに向かってしまった。
「いやそうじゃなくて」
電子レンジでマグカップに入れた牛乳を二つ温めている間に、レノックスは自分の荷物からホットアイマスクを取ってきてファウストに渡した。
「それと眼精疲労でも寝付きづらくなるそうなので、寝る前に瞼の上に乗せてみてください。気持ちいいですよ」
「ああ、なるほど」
チンと音の鳴った電子レンジからマグカップを取り出し、戸棚にしまってあった蜂蜜酒をとろりと垂らす。スプーンでクルクルと回すと、一つをファウストに持たせた。
「どうぞ」
「おいしい」一口啜って気に入った。
「カップはあとで洗っておくので、流しに置いておいてください。寝る前に歯磨きはしてくださいね」
「わかった」
「それではおやすみなさい」
めちゃくちゃ手厚くもてなされてしまった。
ホットミルクのおかげですっかりぽかぽかした体で寝床に入り、もらったホットアイマスクを閉じた瞼の上に乗せる。瞼が奥までじんわり温かくなっていくのが気持ちよくて、確かにこれならよく眠れそうである。
本当にいいのか、これで?
初心に戻って考え始めたらまた悶々としだして、ベッドから抜け出し部屋の中をしばらくぐるぐると回り、五周したところで結局また居間へと戻った。
レノックスは布団に入って、もう眠ろうとしているところのようだった。
「まだ何か?」
いくら何でも、まだ何か、は無いだろう。
ええいままよとずかずかと部屋に押し入って、ファウストはレノックスの前にどっかり居座った。居座ったはいいが、内容が内容なだけになかなか切り出すことができない。無言のまま時間ばかりが流れていくなか、レノックスが口を出した。
「子守歌もいりますか?」
「そうじゃない。というか寝かしつけようとするな」
また流されて気持ちよく寝かしつけられてしまう前に、意を決すると本題に切り出した。
「おまえは一向に何もしてこないが、普通は付き合ってるなら、こう寝る前とかに」意を決したはいいが、いざ言葉にしようとすると、どうしても詰まる。「その、いちゃいちゃしたりするんじゃないのか」
「いちゃいちゃしたいんですか?」本気で驚いている顔だった。
「普通は、そうするんじゃないかと思って」
「すみません、そういうの興味ないかと思っていました」
そんなわけあるかと声をあげたかったができるはずもなく、また実際いままでその通りでもあったのでむっつり押し黙っていると、レノックスは居住まいを正して、「気づかずに申し訳ありません」と律儀に低頭すると、両腕を差し出した。
「ではどうぞ、こちらに」
差し出された腕を見つめてファウストは途方に暮れた。
「したことがないから、作法がわからない」
「自己流でいいですよ」
そう言いながらファウストの腰を引き寄せ抱き上げると、自分の膝の上に座らせた。顔にかかった前髪を払い耳にかけ、指の背で頬をそっと撫でる。至近距離から赤い瞳に見つめられて、これは思っていたよりも恥ずかしい。
「こういうことですよね」
「……こういうことだと思う」
自分で言い出したというのに、耐え切れなくなってレノックスの肩に顔を埋めて体を預けると、背中に腕をまわして抱きしめられた。随分前にこうしたときと変わらず心臓は早鐘を打ったが、ほどよく力をこめてぎゅうとされていると今は心地よい安心感があった。おまけに先ほどさんざん寝かしつけられそうになって体がぽかぽかしているので、大きな体に体重を預けてゆらゆらされていると、慣れれば少し眠くさえなってくる。
「すみません、確認なんですが」
「うん」
「いちゃいちゃというのは、この先は含まれないんですよね」
慌ててがばっと身体を引き離して起き上がる。「待て、それはそういう意味だったのか!」
「えっ、違うんですか」
「いや、違わない。そうじゃない。違わない!」
自分がもう何を言っているのかもわからなかった。おさまっていたはずの心臓がまた早鐘を打ちはじめ、ぐるぐると目が回った。「今日はその、心の準備ができていないので、それはまた後日に」
「わかりました」
顔から火が出るようで片手で顔を覆って俯く。レノックスは優しくその手を掴んで引き離し、自分の指と絡めると、薄いくちびるにキスをした。ふわっと、蜂蜜の香りがした。
真っ赤になった耳に空いた掌で触れ、愛おしそうに微笑むと「じゃあ、今日はたくさんいちゃいちゃしましょうか」とレノックスは言った。
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