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アンド・グッドナイト





 同居するときにあらかじめ決めたルールは今でも残っている。そのうち洗濯については、当初から各自で洗う決まりにしていた。これは下着をそれぞれ相手に洗わせるのが申し訳なかったというのが一端にあり、依然として続いているルールである。そのため、この家では脱衣場に洗濯かごが二個並べられている。

 しっかりとそのルールに則り、レノックスが自分の洗濯かごの中身を洗濯機に移していると、自室にいたはずのファウストが慌てたように脱衣所に現れ、「ちょっと待て」と制した。

「どうされました」

 なぜかファウストはうーんとかごの中を物色しはじめ、おもむろに黒いTシャツを手に取ると、唐突に顔を埋めてみせたのでレノックスはぎょっとした。

「うん、これがちょうど良さそう」

「なにをされてるんですか」

 さりげなくTシャツを取り返そうとするレノックスの手をかいくぐりながら、ファウストは口の端を上げた。

「実験だ」

 実験?

 聞き返すと、なぜか得意げにファウストは説明しはじめた。

「どうやら僕はおまえと一緒に寝ると安眠できるようだ」

「はあ、そうだったんですか」初耳であった。

「でも毎日一緒に寝るのはお互い気を遣うだろう」

「俺は構いませんが」

「そこで試しにおまえのにおいのするものと一緒に寝てみたところ、添い寝と同様の効果が得られることに気がついたわけだ」

「ああ、なるほど」やっと話が繋がったレノックスは頷いた。「ちなみに、俺は一緒に寝るのは全く構いません」

「一緒に寝ると気を遣うからな、お互い」

「俺の方はいつでも全然大丈夫です」

「ベッドも狭いしな」

 いつになく機嫌のいい様子で話すファウストの姿は少しだけ幼く見え、レノックスの胸の中をあたたかいもので満たした。ファウストが楽しそうだとレノックスもうれしいのである。

「しかし、すごいのは結果だ。すでに一週間この実験を続けているが、この一週間毎日熟睡できている。天候や季節などあらゆる環境下でも実験を行う必要はあるだろうが、ひとまずおまえの洗濯物にある程度の熟睡効果があるとみえる」

「よく眠られてるのは喜ばしいですね」レノックスは素直に喜んだ。

「ちなみに使用したシャツはちゃんと責任をもって僕の方で洗濯して返している」

「どうりで最近シャツだけ変なところに置いてあると思いました」

 ファウストの言葉に、腹の中を蝶が舞っているような心地になっていた。心から信頼されているようでこれ以上うれしいことはないし、自分の持ち物がファウストの役に立っている事実が何より誇らしい。「今夜一緒に添い寝するでも、俺は構いませんよ」

「おまえはすぐベッドから落ちるからな」

 ファウストは洗濯物を持ったまま揚々と自室へ戻っていった。

 ファウストの役に立てていることも、彼がぐっすり熟睡できていることも心からうれしかった。それなのに、心の隅に何か引っかかりを感じるような、もやもやと霧がかっているような気がするのはなぜだろうか。

 布団の中で裸眼でぼやけた天井を見つめながら、窓の外がうっすらと明るくなるまでレノックスはしばらく考え込んでいた。


     〇


 ここ一週間ほどファウストは機嫌が良かった。というのも、ここのところ夢見も良ければ体調も良い。ひどいときは連日のように見る悪夢が影を潜め、毎朝すっきりとした目覚めが続いており、それが自身の体調にも影響を及ぼしているようだった。これも「実験」のおかげであり、結果は今日も成功とみえる。

 もともとは「一緒に寝た日はそういえば夢見が良いな」ぐらいの発見だったのだが、それがどうやら要因はにおいにあるらしいと気づき、試しに洗濯かごに投げ入れられていたシャツを持ち帰って寝てみたところ、いきなりこれが大正解だった。手軽だし、一人で解決できるし、一緒に寝れば起こる煩わしさが一切ないのも良かった。

 そういうわけで、ここ数日ファウストは非常に機嫌よく過ごしていたわけだったが、それも帰ってきてきれいにすっからかんになった洗濯かごを見るまではのことであった。

 乾燥まで終えた洗濯ものはすべて畳まれて、あるべき場所にしまわれているようである。愕然と立ち尽くしていると、すでに寝間着に着替えているレノックスが後ろから脱衣所を覗いた。

「すみません、うっかり全部洗濯してしまいました」

 不自然な一本調子でレノックスが言った。嘘が下手なら演技も下手であった。

「おまえ……」

「今夜のところは俺で我慢してください」

 この強行手段に責めるようにムッとした表情で腕を組む家主に、レノックスは両手を広げてみせる。

「さすがに自分の服に負けるのはつらいです」

「勝ち負けじゃないと思うけど……」

「敷布団だったらベッドから落ちませんし」

「布団でもいつもはみ出るだろ」

「しっかりくっつけば大丈夫です」

「そうしたら僕が寝づらい」

 ふいと顔を逸らしても、レノックスは食い下がった。

「ファウスト様」

「今日はやだ」

「……」

「だめ」

 こういうとき、黙ってじっと見つめてくるこの赤い瞳が苦手である。下手に出ているようで絶対に揺るがないこの目をまともに相手にしてしまえば、根負けするのは確実だった。だからできるだけ視線を合わせないように、こちらも主張を通そうとしてみるのだが。

「寂しいです」

 その瞬間、勝敗は決まった。

 溜息をついて、枕を取ってくるから、と伝えると普段表情に乏しい顔が一瞬明るくなったように感じたのは気のせいではないはずだ。どこか嬉々とした足取りのレノックスに手を引かれながら、「あっ」とファウストは思いついて声をあげた。

「今日はレノの布団で僕が寝るから、代わりに僕のベッドをレノが使えば……」

 もの言いたげなレノックスの視線に気づいて、口を噤んだ。「わかったよ、僕が悪かった」

 相変わらず強引なやり方に納得はいかないにしても、たかだか添い寝ひとつでここまで嬉しそうにされるのは、そう悪い気はしなかった。

 まあ、たまにはいいかもしれない。

 それでもやっぱり腑に落ちなくて、手を引かれながら「いい案だと思ったんだけどなあ」とぼやいてみせた。

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