01
目の前に、一本道がどこまでも続いている。
容赦なく降りかかる太陽の日差しにじりじりと熱せられた空気が、ゆらゆらと目の前の一本道を歪ませていて、どれだけ進んでも果てがないように見えた。炎天下に加えて、荷台に乗せた荷物がさらに体力を奪っていく。
息を切らしながらペダルを漕いでいる姿に「だらしないなあ」と呆れる英智は、片手で大きな麦わら帽子が潮風で飛んでいかないように押さえ、もう片手は敬人の腰にまわしながら、暢気に荷台に座っていた。そのうち飽きてきたのか気持ちよさげに鼻唄を歌った。自転車の二人乗りで長い長い下り坂をゆっくり下っていく、有名な夏の曲である。
あまりに他人事な態度にそれなりに苛立ち、「じゃあ貴様が漕いでみろ」と言ってみれば、後ろから軽い調子で「ここで死んでもいいならね」と脅された。
「対等な友達になりたいんじゃないのか」
「そういう物理的な意味じゃないよ。適材適所だよ」
英智はそう言ってから、前方に何か見つけたのか背筋を伸ばすと、敬人の肩を叩いた。
「ああ見てごらん、敬人。海だよ」
今まで景色を遮っていた防風林を抜けると、途端に見晴らしが良くなり、太陽に反射しきらきらと輝く青い海が視界に広がった。
三方を海で囲まれている学院では取りたてて珍しい景色でもなかったが、それでも天気がいい日の彩度の高い澄んだ青はきれいに見えた。
突然がくんと車体が大きく揺れて、英智が「うわっ」と間抜けな声をあげた。下り坂に入ったのだ。ぎゅうっと、腰に回す腕に力が入る。
想定していた以上に速度が速かったのか、背中にくっついて急に黙り込む英智に声をあげて笑うと、しばらくしてから後ろから背中を強めに叩かれた。
○
夏休みももう終わるという頃、英智が家を訪ねてきた。
ここしばらくはご無沙汰であったものの、気の知った家に慣れた調子でずかずかとあがりこんできた英智は、自室の机で生徒会の業務をしていた敬人を見るなり顔を顰めた。いつものことなのでこちらも一瞥だけして流すと、英智は気にも止めずに敬人の脇に来て手元を覗き込む。
「手伝ってあげようか」
「貴様が手を入れると余計に仕事が増えるからいい」
「僕の方が役職上なんだけど」
「なんだ、わざわざ文句を言いに来たのか」
そうじゃないけれど、と面白くなさげに壁に寄りかかった英智は、机上にあったペンを適当に一本手に取ると、「おやっ」という顔をした。
「敬人、こんなの持ってたっけ」
硝子ペンだった。持ち上げて蛍光灯の光に照らしてみると、螺旋状の硝子が光に反射して、七色にぬめりと輝いている。
「先日、蔵掃除をしているときに見つけた。祖父のものだったが使わないからと貰い受けた」
付けペンだから携帯性には向かないが、実は長く書くことができて効率がいいのだと敬人は説明する。そんな説明を聞いているのかいないのか、ふうん、と英智はしばらくしげしげとペンを眺めていた。
「ところで何の用だ」
返せ、とでも言うように差し出された右手に英智はペンを置くと、思い出したように持ってきていた線香花火のパックを取りだした。
夕飯後、境内にしゃがんで二人で花火の先に火をつけた。
しばらくぱちぱちと小さな火の玉が弾けるのを眺めていたが、ぽとり、と、闇の中に溶けるように消え落ちると、「敬人から奪った夏を返したい」と英智が言った。
以前から、英智は敬人から青春を、人生を「奪った」という言い方をする。敬人自身は奪われてなどいないとはっきり否定しているのだが、未だに英智にはその意識が抜け切れていないようだった。
「ネガティブな意味で言ってるんじゃないよ」
敬人の表情が一瞬曇ったことに気づいたのか、英智が訂正を入れた。蝋燭の火が風で揺れるのに併せて、ゆらゆらと英智の表情の影も揺れる。
英智が提案したのは、「十八回分の夏の思い出を敬人に返す」ことだった。
「要は、二人で十八個思い出つくろうよ、ということだよ」
確かに、夏に英智が体調を崩しがちなこともあって、長いつきあいだというのに二人で夏らしいイベントごとをした記憶というものが無い。それどころか他の子どもと同じように遊べない英智に気を遣って、敬人だけでも夏休みを楽しもうとしてこなかった。故に、英智の言いたいことはそれだけで充分に敬人に伝わってきた。しかし。
十八個。
夏休みももう終わるというなか、それは達成するにはかなり厳しい数だった。
しかし敬人が口を開く前に、英智は立ち上がってしまった。
「で、これが思い出一個目」
英智の手には手持ち花火が握られていた。
シャワーのように降りかかる火の子からのけぞりながら、人に向けるなと敬人が怒ると、英智はけらけらと声をあげて笑った。
○
夏らしいこと、と言ってもその基準はひどく曖昧で、何をもって夏らしいかの判断はすべて英智に委ねられた。
残り僅かな夏休みで、図書館に行って残っていた宿題を仕上げた。川で釣りして、スイカ割りをして、肝試しもした。バーベキューがやりたいと言い出したときなど、二人でやるにはさもしいイベントのときには、お互いのユニットのメンバーを呼んだり、クラスの連中やたまたま居合わせた後輩たちも巻き込んだ。
英智は毎日、朝になると電話をかけてきて敬人を誘った。用事がある、業務が残っている、というときも一緒について来たがった。そして終わると「また明日」と行って別れるのだ。
そして「今日は海に行こう」といつものように電話で誘ってきたのも英智であり、交通手段を自転車の二人乗りに指定したのもまた英智であった。道路交通法を理由に断ったが、頑として英智は譲らず、長い押し問答の末に押し切られてしまった。英智の思い描く夏のイメージでは、二人乗りはマストであったようだ。
海水浴場から少し離れた海岸は遊泳禁止区域というのもあって、更に奥の磯に親子連れがいる以外は、夏だというのに随分と閑散としていた。盆もとっくに過ぎ、クラゲも出てきているからかもしれない。
敬人が自転車を堤防沿いに止めている間にも、英智はずんずんと砂浜へ降りていってしまい、波打ち際までくると履いていた新品の白いビーチサンダルを脱ぎ捨てて、素足を海水に浸した。
「硝子でも落ちてたら怪我するぞ」
追いついてから注意すると、英智は振り返って手招きした。
「敬人も入ってみなよ、気持ちいいよ」
そう言って敬人の両手を引いた。
波に身体が持って行かれる感覚に思わず「うおっ」と間の抜けた声を上げると、英智が可笑しそうに身体を揺すって笑った。背丈のある男子高校生が両手をつないで、歩く練習でもしているみたいにはしゃいでいるというのははたから見たらさぞかし妙な具合だろう。
海に来たからといって何をするでもなく、しばらく波打ち際を二人でぽてぽてと歩いていたが、そのうち後ろを歩く英智が「痛っ」と小さく声をあげた。
足の裏を確認すると、赤く一本の線が滲んでいる。
「ほら見ろ」
責めるような口調でありながらも、敬人は波打ち際から少し離れると、その場にしゃがんで鞄をおろした。
片足立ちでぴょんぴょんと後をついてくる英智を肩に掴まらせると、持っていたミネラルウォーターでじゃぶじゃぶと足の裏の砂を洗い流してやる。白く張りのある肌がさっくりと切れていて、見ていて痛々しい。続けて消毒液を取り出すと、「いつもそんなもの持ち歩いてるの?」と英智が呆れたような顔をしたが、容赦なく傷口にかけると肩を掴んでいた手に力が入り、黙りこくった。最後に大判の絆創膏を何枚も重ねて貼る。
「化膿しないようさっさと帰って医者に診てもらえ」
タオルで足をぬぐってやりながら敬人が顔をあげると、一瞬きょとんとした青い瞳と目が合った。ふいと視線が逸らされる。
「泣かないなんて偉いな」
自転車が停めてあるところまで戻りながら褒めてやると、英智はあからさまにむっとした顔を見せる。
「この歳で泣かないよ」
「昔は転んだだけでびいびい泣いていた」
「昔の話ばかりするのは年取った証拠だよ」
「そっくりそのまま返してやる」
しかし行きと同じように英智は荷台に乗ると、絆創膏がたくさん貼られた足を動かしてみたりしながら「でも、ありがとう」とぽつんと言った。
来た道を自転車で戻っていると、すっかり冷えた潮風がシャツをすり抜けて汗をかいた肌に触れた。腰に回されている英智の腕だけが温かく、確かにそこに存在しているのを感じた。
「この夏が終わったら、僕たちはどうなるんだろうね」と後ろで英智が言った。首筋のあたりに英智の息が触れる。
いつの間にかあたりはすっかり暗闇に染まり始めており、地上と空の境界が水彩絵の具のように橙色に滲んでいる。
「終わるのか、これは」と、前を向いたまま敬人が尋ねた。
「終わるよ」後ろで英智が答えた。
「何にだって、必ず終わりはくるよ、敬人」
○
目覚まし時計の音に瞼を開けると、見慣れたいつもの自室の天井が見えた。すぐには起きあがらず、布団の中で耳を澄ませてみる。夏でもまだ太陽の昇りきっていない窓の外はぼんやりと薄暗い。ざくざくと人の歩く足音がする。規則正しく箒が掃かれる音、人の話し声。そこでようやく敬人は起きあがった。
着替えてから顔を洗い、居間に降りた頃にはすっかりと外は明るくなっていた。テレビの電源をつけると、毎日変わらない朝のニュースが流れる。ニュース画面の左上に映し出されている日付は、夏休み最終日のものだった。
かれこれ時間にして一週間、同じニュースを見ている。
テレビの画面を見つめながら、また戻ってきていることを確認すると、別室から母親が自分を呼ぶ声を聞いた。そしていつもと同じように、その瞬間に手に持っていた電話が鳴るのだ。
02
本来ならば学校が通常通りに始まってから、もう一週間が過ぎている、はずだった。
気がつけば、夏休み最終日を何度も繰り返している。
はじめてこの事象が起きたときは夢でも見ているのだろうと疑い、二日目は明らかにおかしいと自覚し、その足で天祥院の屋敷まで赴いて英智をたたき起こした。
しかし起き抜けにこんなゲームのバグのような話を聞かされても、英智はひどく落ち着き払っていた。そしてさも当たり前のように「終わらない夏休みなど無い」と敬人に言うのだ。
そもそもこの時間の歪みに気づくのが遅れた理由は英智にあった。
家族の誰もが、この事象に気づいていなかった。家族だけではない、出会う人すべてが「敬人」という外的要因による影響が無い限り、毎日同じ動作を繰り返しているのだ。日付が変わればすべてリセットされ、敬人からしてみれば数時間前に起きたことも何も覚えていない。
その世界の中で唯一、毎朝違うことが起こっていた。毎朝必ずかかってくる英智からの電話の内容だけは、一度たりとも同じものはなかった。
英智もまた、この繰り返される世界の中で記憶がリセットされていなかったのだ。
○
夢ノ咲学院の図書室を訪れると、珍しい組み合わせが敬人を出迎えた。こんな夏休みにも図書室に籠もる人物がいるとするならば、てっきり図書委員であるつむぎだと思っていたのだが、窓際に佇む英智と話しているのはかつての生徒会長である零だった。
二人は敬人の存在に気づくと、英智は視線を落とし、零は少し笑って、奇遇じゃのう、と声をかけた。
「何を話していたんだ」
去り際の零の後ろ姿を送りながら英智に尋ねると、「別に、たいしたことじゃないよ」
と英智は答える。しかし昨年にこの学院で起きた「物語」上、「因縁」の関係である二人は、普段は学院で談笑している姿なんて見せたことがないのだから、それだけで十分「たいしたこと」である。
「それで、調べ物ってなんなのさ」と今度は逆に英智が尋ねた。
英智との約束の前に調べたいことこそ、別にたいしたことではなかった。
「フィクションから解決の糸口を探そうというんだね」
英智は頬杖をつきながら半ば面白がるように、本のページをめくる敬人を眺めている。
フィクションは所詮フィクションであり、類似した作品を調べたところで解決するとは思っていない。しかしまったくフィクションのようなことが実際に起こっているこの状況では、少しでも持っている情報が多いに越したことはない。
英智は積まれた本の一番上の一冊を取り上げると、ぱらぱらとめくった。筒井康隆の有名なSFである。
「実は僕が未来人で、敬人との思い出が全部つくられた偽物だったりとか?」
「それこそ馬鹿々々しい」本から顔も上げずに、敬人は一蹴した。「貴様が偽物だったら俺はもっと楽に生きれたはずだ」
二人以外誰もいない図書室では、外の様子がよく聞こえてきた。
夏休みといえども、グラウンドでは運動部が部活動に勤しんでいるし、常にどこかのユニットが練習室を使っているため、学院のあちこちで生徒の声が響き渡っている。彼らもまた、何度も同じ練習を繰り返しているのだろう。
ふと思い立ち、敬人は顔を上げた。
「そういえば、足の傷はどうした」
英智は黙って履き物を脱ぐと、素足を晒した。
確かに傷のあった場所を、親指でなぞってみる。白い足の裏には痕すら残っておらず、一日でこれほどまでに切り傷が治癒されるはずもない。海岸の硝子で切ったはずの傷は綺麗に消えていた。
英智の顔を盗み見る。白い顔はほどよく赤みを帯びており、普段と比べても気分も悪くなさそうである。
突然「敬人、覚えてる?」と声が降ってきたので、思わず視線を逸らしていた。
「小さい頃、僕が硝子で指を切ったときのこと。腱が切れてたらどうしようって敬人、顔面蒼白になっちゃってさあ。あの頃は敬人にもまだ可愛げがあったよね」
そんなこともあったような気がするが、あまり覚えていなかった。
すると英智はあからさまにむっすりと表情を曇らせた。自分だって忘れていることはたくさんあるはずなのに、敬人が昔のことを覚えていないと英智は途端に不機嫌になる。
「で、今日は何をするんだ」
話題を変えると、英智は制服のスラックスから携帯タブレットを取り出すと、しばらくいじった後に敬人に向けて画面を回転させた。画面にはバスの時刻表が載っている。
「だいぶ遠いな」
英智が上目遣いでしっかりと見据えた。「こんなときでも時間は有限だよ、敬人」と彼は言う。
○
一日何本かしか出ていないバスに乗り込んで、一時間ほど揺られて降りた先は地元の夏祭りが行われている小さな神社だった。この日に夏祭りをやっているのは、ここしかなかったようだ。
神社の中は朱色に灯る提灯のおかげで昼間のように明るい。喧嘩祭でも出店が立ち並んだが、実際の夏祭りを英智と二人でまわるのは初めてだった。
そのためか、英智はなんでも珍しがった。
「今日は僕かき氷を食べに来たんだよ」と英智が言った。「本当に舌が変な色になるのか確かめたい」
お目当てのものを手に入れると、二口、三口と食べるなり、舌をちろりと出して敬人に見せた。
「舌、緑になってる?」
「なってる」
二人が腰をおろした石段は出店から少し離れたところにあり、大きな木に灯りが遮られて薄暗い。かき氷に耐性が無い英智はすぐに頭がキンキンとしだしたのか、半分以上残した状態でカップを敬人に手渡した。
「言わんこっちゃない!」と敬人は怒ったが、結局残り物を食べてやってしまうのが甘いところである。
英智の脇には、光るブレスレットやら水風船から、何故かストローが二手に分かれた妙な色のトロピカルジュース、定番のたこ焼きの入ったパックなどがどっさり積まれていた。屋台にあるもののほとんどが実際に見るのがはじめてである英智は、食が細いくせに食べ物屋台をすべて網羅しようとするので、買いすぎないように常に目を光らせていたのだが、それでも敬人の目をなんとすり抜けてこれだけ買いこんだようである。そして敬人にとっては、そこまでも想定済みである。何故なら長い付き合いだ。どうせ英智の残り物を処理する羽目になるので自分の買い物はほとんどしていない。
敬人が腹に据えかねながらも英智のかき氷を少しずつ消費している間、その英智はまんまるたこ焼きをしげしげと眺めてから一口齧り、まだ充分に冷めていなかったのか「あつい」と顔を顰めた。敬人が笑うと、落ち着いた頃に時間差で足の脛を蹴られた。
「貴様は俺に対してだけはやたらと暴力で訴えるな」
ぐいぐいと口に押しつけられようとするたこ焼きを避けながら敬人が呆れた。しばらく不毛な攻防戦が続いた。
そのとき、細い笛の音色がそれまでの空気を裂くように、小さな神社に鳴り響いた。思わず揃って音の鳴る方へ顔を向けると、今度は音色に太鼓が混じる。櫓を囲むように盆踊りがはじまった。
二人でその様子をぼんやりと見ていたが、急に話を切り出したのは英智だった。
「敬人は、この夏に終わってほしいと思うんだね」
「当たり前だ。そんなものは自然の摂理に反している」
「でもずっと夏休みが続いたら、楽しいかもしれないよ」
「冗談はよせ」
「身体の調子がいいんだよ」英智が言った。「元気なんだよ、ここずっと。普通の子みたいに生きていられるんだよ」
確かに、たこ焼きを頬張る英智の頬は、例年に比べても肉付きがよく、健康的である。夏の気温は英智にとって鬼門で、常に青白い顔で入院しているのが常であった。学院全体が活気づいている今の生活が、英智にとって楽しいのもあるのかもしれない。
何となしに、手元の英智のかき氷のカップを見つめる。既に食べ終わり、綺麗に空になっている。
「そんなのは生きているとは言わないだろう」
英智はゆっくりと咀嚼していたが、飲み込むと、小さく息をついた。
「確かに、これは生きているとは言わないな」
青白い顔をして、ベッドに横たわる英智が思い返されていた。痩せた細い腕には、何本も太いチューブがつながれており、度重なる注射の痕で、本来の白くきめ細かい肌は斑に鬱血している。そうこうしているうちに彼は最後かもしれない深い眠りにつき、こちらの声は届かなくなる。
手元のカップから顔をあげると、ほんのすぐ目の前に、英智の長い睫毛が見えた。
「敬人は正直だね」
薄い瞼が持ち上げられて、ブルーハワイみたいな英智の瞳が屋台の灯りに照らされてぬめりと光った。少しでも動いたら触れそうな英智の細い髪からは、何故かあの潮の空気が香ってくるような気がした。
英智はじっと敬人の顔を見つめていた。
それから「舌だして」と言った。
「敬人も舌、緑になってる」
そう言うなり、彼は残っていたたこ焼きを丸ごと一つ、敬人の口につっこんだ。すっかり冷めていたが、いきなり口の中に異物を突っ込まれて泡を食ったような顔をする敬人を見ると、英智は声をあげて笑い、パックのゴミを捨てに立ち上がった。
一人残された敬人はなんとかたこ焼きと格闘しながら、先ほどの英智の言葉を反芻する。
英智はこの繰り返される夏を気に入っているのだろうかと考えてみる。
そんなはずはない、とその考えはすぐに打ち消された。あの英智に限ってありえない。彼は停滞を何よりも嫌っているのだ。
こうして同じことをぐるぐると繰り返し考えるのはひどく不毛である。しかし考えなければ先に進めないだろう。
そのとき敬人が何気なく顔を上げると、神社の大きなご神木の下に小さな子どもが座り込んでいるのを見つけた。
敬人は立ち上がって、その子どもに近寄った。
「どうした、親とはぐれたのか」
子どもはじっと下を向いたまま、何も言わない。もう夜だというのに、子どもは大きな麦藁帽子を被っており、つばが顔に影を落としている。ひとりぼっちになってしまって心細いのか、はたまた具合でも悪いのか。
「ほら、一緒に探してやる」
手を取ると、子どもは僅かに身じろぎをして、ゆっくりと顔をあげようとした。
「敬人」
背後からする冷たい声に思わず振り返る。
英智がひどく怒っていた。彼は、敬人と麦わら帽子の子どもを睨みつけていた。
呆気に取られていると、掴んでいた子どもの手がするりと離れた。あっ、と思ったときには、走ってどこかへ行ってしまった。
「貴様のせいでこわがってどこかへ行ってしまった」と敬人が思わず非難すると、英智は口を一文字に結んでいて何も答えない。
そしてしばらくしてから、絞り出すように「敬人はお人好しすぎる」とだけ言った。
すっかり祭の気分でもなくなってしまった。
彼らはそのままバスに揺られて来た道を戻った。
よほど怒っているのか、帰りのバスの中で英智は一言も口を利かなかった。
03
そもそものはじまりはなんだったのだろうと考える。喧嘩祭が終わり、しばらくした頃。夏休みももう終わる頃。唐突に家に訪ねてきた英智は、敬人の夏を十八個返すと言った。
普通に考えて、残りの日数的に十八個を返すことは不可能だった。それでも言い切った英智はこの現象を知っていたことになるのではないか。
一人の少女が満足するまで延々と夏休みが繰り返されたのは、昔に読んだライトノベルである。同じように、この現象は英智が引き起こしているのだろうか。
もしも英智がそれを返し終わったら、この夏は終わるのだろうか。
ありえない。とかぶりを振る。しかし、ありえないことが今まさに起きている。
それぐらい、この世界は英智にとって都合が良いものに思えたのだ。
○
どんなに喧嘩をしたり雰囲気が険悪になったとしても、次の日まで持ち越すことというのが、良くも悪くも幼い頃からほどんどなかった。別にいやなことを忘れるわけではないのだが、何事も無かったように普通に話しかけられれば、こちらも普通に返してしまい、一緒に遊んでいるうちに怒りもだんだん和らいでしまうのだ。おそらく「何故自分がこいつ相手に気を遣わなければならないのか」という思いはお互いにあった。しかし遊び友達は欲しい。お互い同年代の友達が少なかったせい、というのも十二分にある。
そういうわけで、英智は何事も無かったように、次の日もいたって普通に敬人に電話をかけてきた。
「面白いところを見つけた」
電話口で話す声色は子どものようであった。
英智に連れて来られたのは少し離れた街にある老舗の百貨店である。見上げれば、屋上から小さな観覧車とジェットコースターが僅かに覗いていた。
「ほら、面白いでしょう」
何故か英智は得意気であった。
しかし昔ながらの屋上遊園地というのは、確かに今や珍しい。中に入っている飲食店も、白い看板に古びた赤いフォントで「ファミリーレストラン」とある。どうやら昔の面影を可能な限り残したようだ。
屋上に踏み入れると、妙な違和感を感じた。
「前に来たことがなかったか」
硝子の扉から見た景色に、一度来たことがあるような感覚を覚えたのだ。
しかし「無いよ」と英智は即答した。「ここ、随分昔に潰れて長いこと放置されてたのを、最近リニューアルオープンしたんだから」
遊園地と言っても、乗り物といえるものは観覧車と、ジェットコースターもどきと、馬が五頭くらいしかいないメリーゴーランドに、屋上を一周する列車と、のろのろ進むパンダぐらいのもので、どれもブリキのおもちゃのようである。
それでも子どもは楽しいのか、周りは親子連れで溢れていた。その中で高校生男子が観覧車の列に並んでいるのは少しばかり気恥ずかしいものがあるが、英智は案の定堂々としている。
一周の短い観覧車はすぐに順番が回ってきた。
小さくちゃちなものであるはずなのに、ビルの屋上という立地にあるおかげか意外にも眺めがよい。眼下に広がる模型のような街の、ずっと遠くの方に目を凝らしていると、夢ノ咲学院らしき建物を見つけた。すぐ真下に視線を移すと、屋上の特設エリアではヒーローショーが始まっていた。これはうちの学校の生徒も出番がありそうだぞ、とクラスメイトの顔を思い出す。この夏が終わればの話ではあるが。
「敬人が有名な漫画家になったらディズニーランドつくろうみたいな話したことあるよね」と唐突に英智が話し出した。
「それだと正確にはディズニーランドじゃないがな」
「二人でマーケティングのまねごととかしたりね。ターゲット層ごとのアトラクションとかお土産とか、パークの内装とか考えて」
「キャラクターの著作権がどうとか」
「荒稼ぎしようとしたよね」
今思うと実にかわいげのない子どもである。
「でもあのとき二人とも本当の遊園地行ったこと無かったから、どういうところなのか知らなかったんだよね」
「実際にいろいろ行ってみて、何か変わったのか」
英智は少し考える素振りをした。
「次は屋内遊園地に行こうかな、まだ行ってないから」
「強欲め」
「でも夏らしくはないなあ」
そのとき係員の手によって、硝子扉が開かれた。おもちゃのような遊園地では空中散歩もあっという間に終わってしまう。
○
その夜、敬人の家まで送っていった英智は、そのまま泊まると言い出した。
この突然の迷惑な客に、家の者は嫌な顔ひとつせずしなかった。それどころか懐かしいなどと言いながら英智の分の布団まで用意している。この我儘な幼なじみのことは、もう少し雑に扱ったって構いやしないのである。
敬人が風呂からあがると、先に済ませていた英智は机に向かって、ペンを走らせていた。
「冬もだけど、夏はとにかく嫌いだったな」
顔を上げずに、英智が呟いた。それはいささか唐突な告白だった。「苦しいだけでひとつも楽しくなかったから」
「そうだろうな」
「あのとき敬人にああは言ったけど、みんなが遊んでるなか、どうして自分だけってずっと思ってた」
紙の上を滑っていた、硝子のペンの動きが止まる。書き上がった紙には、この夏に二人で遊んだことが箇条書きされ、上から順に、一から十七までの番号が振られている。
英智がその下に書き足した。
十八、花火大会。
そして敬人へ振り向いた。
「次で終わるよ」
最初の英智の話では、十八個返すことで、この夏は終わるはずだった。
明日で、この繰り返される日々が本当に終わるのだろうか。
敬人は敷かれた布団の上にあぐらをかくと、膝を叩いた。
「英智」
英智は明らかに困惑した表情を浮かべた。
「犬じゃないんだから」
「ほら、いいから来い」
しぶしぶといった形で英智が隣に腰掛けると、敬人は膝に英智の頭を押しつけわしゃわしゃと撫でた。ぐえっ、と天祥院英智らしからぬつぶされた蛙のような声を一瞬出しながらも、「乱暴しないで」と文句を言う。
「敬人は昔から撫でるの乱暴だから、ちょっと痛いんだよ」
「そうか?」
「そうだよ」
膝に押しつけるようにむっすりした。
「それに膝も堅いから寝心地だってよくないんだよ」
憎まれ口を叩いていた英智は、そう言いながらも瞼が重たくなってきたのか、小さなあくびをこっそり隠れるようにかみ殺している。
普段ならなんとかわいげのない、と腹が立ったりするのだが、今日は不思議とそうはならなかった。
こうして英智の細い髪を梳くように撫でていると、自然と幼い頃のことを思い出す。
英智が眠れないと嘆く夜、呼び出されては少しでも安心させようと頭を撫でてやっていた。そうしていると、どんなに不安だった夜でも、自分もだんだん眠くなってきたものだ。
「俺は好きだがな」
英智は身じろぎせず聞いていた。
「そう?」
「ああ」
あのころとは大きく変わったが、変わらないものも確かにあった。英智に訴えられるまで気づかなかったそれは、この夏が終わったらどうなるのだろう。
ふうん、とそれまで顔を伏せたままだった英智は、しばらくして「猫だとでも思ってるのかなあ」と呟いた。
○
一枚の硝子の向こうで、青白い顔をした英智がベッドに横たわっている。
今夜が峠だと、医師が言う。
英智の両親はその場にいなかった。片親は一瞬だけ顔を見せたが、仕事があると怒ったように言って、いつの間にかいなくなってしまっていた。
痩せ細った棒のような細い腕には、何本もチューブがつながれており、度重なる注射の痕で、本来の白くきめ細かい肌は斑に鬱血している。
硝子の向こうの彼は深い眠りについていた。
真夏だというのに、集中治療室のソファに座っていると真冬のように寒く感じられた。時計の針の進みがひどく遅く感じた。そこだけ時空が歪んでいるようだった。一足先に隣の治療室から出てきた患者の身体は、布で覆われていた。
いつの間にか敬人の隣に、先ほどの医師が立っていた。彼は敬人の両肩を抱くように叩くと、目の前の死にかけている友に向かって、声をかけてやりなさい、と言った。励ましてやりなさいと。
しかし彼は、硝子の向こう側にいて、おまけに深い眠りについているのである。会話をしたくても、どうしようもできない遠いところに一人でいるのである。
敬人が渋っていると、その医師は、後悔しないうちに、と続けた。後悔しないうちに別れの言葉を告げろ、と要はそう言うのである。
峠を越えると、英智はようやく集中治療室から普通の病室に戻された。
それでも長いこと彼が目覚めることはなかった。敬人は時間が許す限り顔を見に行き、彼が起きるのを待った。夏になる度に、そんな毎日を繰り返していた。
眠っている英智に話しかけたことは一度もない。説教は起きているときにしないと、意味がないからだ。
○
出店の立ち並ぶ花火大会の会場は、見物客で溢れかえっていた。
めぼしい場所は既にレジャーシートが隈なく敷かれている。出店前の通路は人がつっかえて動くのも一苦労であった。ここからじゃろくに花火が見えないと英智がわがままを言ったが、確かに落ち着いて見れるような場所を探すには骨が折れそうだった。
英智であれば来賓席を買い取ることは可能だったろうが、あそこからみよう、と彼が指差したのは近くの百貨店の屋上であった。屋上には今時珍しい、小さな観覧車が見えている。
その間にも行き交う客に押し流されそうで、敬人は英智の手をしっかりと握ると、祭の客の流れに逆行して、その百貨店へと進んだ。
百貨店はもう閉まっているのか硝子扉の向こうは真暗であった。不思議と扉に鍵はかかっておらず、押したらすんなりと開いてしまった。
百貨店の中は空っぽだった。
商品の並んでいない棚と、段ボールががらんとした室内に無造作に残されている。埃っぽく、入口付近には風で入りこんだ砂や落ち葉が散乱している。
しかし英智は躊躇わずにずんずんと奥へと進んでいき、止まっているエスカレーターを歩いて登っていった。
しかし、上階にいくにつれて、英智の呼吸がだんだん荒くなっていく。入退院を繰り返す英智にはもともと体力がないので、あたりまえである。
もう帰ろうと言ってもいやいやと首をふるので、少し休憩してから、また彼の手をひいてのぼった。
引っかかる、英智の指に巻かれた絆創膏をなぞる。
「指を切ったんだったな」
敬人が言うと、後ろからついてくる英智がうなずいたのを感じた。
「ガラスでできたペンを、俺が落としたんだ」
「そうだよ」と英智が答えた。
「粉々に割れたそれを英智が拾おうとして、手を切ったんだ」
「そのあと二人して大人におこられたんだよ」
「夏休みさいごの日だった。さいあくの夏休みだった」
「だから敬人が、夏休みのつづきをしようって言ったんだ」
えいちの歩みがとまった。
夏だというのに、ひどくさむかった。
まわりはあいかわらず、まっくらやみで、えいちの手をにぎっているのか、いないのか、わからなくなった。
「えいち」
返事がない。
「やめろ、えいち」
いつの間にか、ぜんごがわからない。どちらへ行けば、先へすすめるのかがわからない。
「勝手にいなくなるのだけはやめてくれ」
うしろで、ガラスのわれる音がした。
ふり返ると、やみの向こうから、赤い火の玉のようなものがみえた。
それはとてもあたたかそうで、なぜだかひどくなつかしかった。
もともと自分とひとつであったような、そんななつかしさだった。
火のたまはどんどんちかづいてきて、それはおとなぐらいの大きさになって、おとなのかたちになった。
さしだされたてのひらに、ためらいもなくふれると、あたたかかった。
「早く行かないと、花火が終わっちゃうよ」
懐中電灯で照らしながら、英智が言った。
○
前を歩く英智の背を追うように、残りの階段を登りながら、思い返す。
何にだって必ず終わりがくることを、幼い頃から誰よりも身を以て知って生きてきた。
小さな終わりを繰り返して、ときに続けたりして、それでも最終的に人間は誰しも「死」という明確な終わりが待っている。
いつか白いベッドに横たわる英智と対面するときがくるかもしれないし、もしかするとそこに横たわっているのは自分の方かもしれなかった。
ずっとわかっているつもりだった。
英智が屋上に続く扉に手をかける。
このときには、敬人はとうに気づいていた。
この夏を繰り返していたのは、英智ではなかった。
紛れもない自分自身だった。
○
屋上の扉が開けられると、濃淡な闇に弾ける色鮮やかな閃光を浴びた。
真っ直ぐ先の沖合で、次々に打ち上げられる花火が夜空に咲いては消え、咲いては消えていく。火花が弾ける轟音が屋上一帯を支配していた。
塗装の禿かけたブリキのパンダの乗り物に二人で並んで座りながら、そうして二人で花火を見ていた。
花火が咲く度に、隣に居る英智の顔を照らしては消えていく。夜空を見る英智は笑っているように見えた。喜んでいるのか、はたまた悲しんでいるのかは、わからなかった。
さらに佳境へと入った花火は息つく間もなく次々に打ち上げられ、最後に一つ大きな花火が打ち上げられると、空に静寂が戻った。
「十八個目」と呟く声を、隣で聞いていた。
彼の声を聞くのは随分と久しぶりに思えた。空を見上げたまま動かない。ああ、と小さく嘆息した。
「夏が終わっちゃった」
その瞬間、確かに時計の針は動き始めていたのだろう。
指を伸ばせば触れられるほど近くに放り出されていた、英智の細く骨ばった手を、気づいたら握っていた。顔を見てはいけないような気がした。
「来年の夏は、どうなってるんだろう」
想像がつかなくもあり、つきそうでもあった。
真っ白い病院の個室で、窓の外を眺める英智の姿が浮かんだ。
そのあとすぐに浮かんだのは、舞台の上で目映いスポットライトに当てられた英智の姿だった。汗をびっしょりかき、今にも倒れそうになりながらも、舞台に捌けるその瞬間までペンライトの海に手を振り続ける英智の姿だった。
はじめて自分を慕う後輩に、戸惑いながら接する姿。部活の後輩に歩み寄ろうとする姿。ろくなことを考えていないときは子どものようにはしゃいでいて、人の驚いた様子を見て涙を流して笑っている。
花火が消え、灯りを失った夜空には星が見え始めていた。
「どうせ貴様の頓狂な思いつきに、また振り回されているんだろうな」
04
「敬人、ちゃんと楽しんでる?」
背後から覗きこむように顔を出したのは英智だった。
振り向いた敬人の身体には「本日の主役」と書かれたたすきがかけられている。学院唯一のプロデューサーが、馴染みのアイドルたちの誕生日をサプライズで祝っていくのが、いつの間にか慣例になっていた。
九月六日は、蓮巳敬人の誕生日である。
「この夏でうっかり精神年齢だけ還暦すぎるところだったからな」
「また大袈裟なこと言ってる」
笑いながら英智が会場を見渡した。「それにしても慕われてるね、敬人」
クラスメイトも教室で祝いの言葉を言ってくれたが、こうして集まってお祝いしてくれたのは、ユニットのメンバーや、部活、そして委員会の面子がメインであった。こうして彼の目の前に広がるのは一年前の自分であれば想像し得なかった光景であった。
「まあ一つ目を飾るには、なかなかいいイベントだよね」
しかし、今まさににこにことしながら吐かれた英智の言葉に、敬人の感慨は一瞬にして吹き飛んだ。
「言ってなかったっけ。秋は秋で、また敬人にこれまでの思い出を返してあげるから」
そのときの敬人は、さぞかしうんざりした顔をしていたのだろう。
「まだ懲りてないのか!」
「そうこわい顔しないでよ」と弁明する。「大丈夫、ちゃんと敬人の誕生日を盛り上げたいと思ってるだけなんだから」
「どちらかと言えば人の誕生日をダシにして遊びたいだけだろう」
この誕生日会を率先して準備したのは英智だったという。しかし、敬人が見るのも嫌な大豆のケーキが朝っぱらから教室に置いてあったりと、むしろ嫌がらせに近いことも平然と行われて油断ならない。(「だから大豆ケーキはただのおふざけだよ」と、英智が本日数度目の訂正を入れた)
しかし英智はすうっと目を細めると、ふうん、とつまらなそうな顔をする。
「彼女には素直にお礼の言葉があったのに、僕にはないんだ」
そう言うと、踵を返してしまった。
天祥院英智という人間は難しいと、第三者は評価する。彼には、自分の本心すらもときにわからないのだから、取り扱い説明書をつくるにも一苦労である。自分でも気づかないうちに、機嫌が良くなったり悪くなったりとめまぐるしい。
ひとつ溜息をついてから、追いかけていって後ろから彼の腕を掴む。振り返る。
「……ありがとう、英智」
素直に告げると、英智は一瞬間を置いてから「どういたしまして」と頷いた。機嫌は持ち直したようだ。だがそのあとも敬人が腕を掴んだまま離さないのを疑問に思ったようで、不思議そうに敬人の顔と、掴まれた腕とを見比べる。
「あと、来年は大豆ケーキだけはやめろ」
敬人からしてみれば一言でも言ってやらないと気が済まなかっただけだった。
しかし、何故か英智はその瞬間だけ不思議な表情をした。驚いているようにも、笑っているようにも思えた。
敬人にはそれが、今にも泣き出しそうな顔に見えた。
英智には申し訳ないがその表情が妙に可笑しくて、なんとも形容し難い感情が胸のあたりにまでこみ上げてきて、いつの間にか敬人は吹き出していた。
当然のごとく困惑しているのは英智であり、それが余計に面白くさせてしばらく身体を折り曲げてくつくつと笑っていると、「僕、なんにも面白いことしてないけど」ときょとんとしていた英智もまた、つられるように笑い出した。
なんだこいつら、自分たちで豪華賞品を独り占めするつもりだろうと、やいのやいの叫んだのはレオだった。そもそも敬人を一番笑わせた人に豪華賞品を出すという英智の発言からきているのだが、そうじゃないよ、と否定する言いだしっぺの声も力ない。かつてはこわがられていたはずの生徒会長と副会長が揃って爆笑しているというのは目立つに決まっているので、当たり前のように周りに人が集まってきていたが、それすらも気にならなかった。
目じりに溜まった涙を拭いながら、英智は「敬人」と呼んだ。
「誕生日おめでとう、敬人」
長い夏休みが明け、やっと巡ってきた九月六日は、蓮巳敬人の誕生日である。
この秋、敬人は十八歳になった。
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