音を立てずに襖を開くと、薄暗い部屋の中をそろそろと進んでいく。行き着いた布団の山の中にいるのはぐっすりと寝こけている幼なじみであり、眠っているときでさえ眉間に皺を寄せているその顔を上からのぞき込んだ。さぞかし夢見が悪いのだろう。
いざ!
外気に触れてキンキンに冷えた両掌を手術前の医師のごとくスッと前に取り出すと、眠っている標的の頬と首筋に勢いよく触れた。あたたかい布団の中でぬくぬくした身体にとってさぞかし暴力だったのであろう。突然の冷気に「ぎゃあ!」といった悲鳴と共に、びくりと大きく反応した。反射的にもたげた顔は何が起きたのかと思考が停止しきっており、困惑しきったその一瞬の顔はひどく幼く見えた。
敬人は裸眼を思いっきり細めて枕元に座る英智の顔を確認すると、ああ、だの、うう、だの地を這う獣のような低い呻き声をあげながら枕に顔を埋めた。
「おはよう敬人、雪が積もっているよ」
もごもごと「なんでいる」というようなことを言っているのが聞き取れた。
「雪が積もっているんだよ、敬人」
英智がそう答えてからしばらく待ってみたが、自分で聞いたくせにその後ぴくりとも動かず反応が無くなった。英智はもう一度、日の昇りきっていない外に繰り出すと、冷たい雪の中に両手を突っ込み、すぐさま部屋の中に戻り、布団の足下にまわった。毛布の中にキンキンに冷えて赤くなった手を忍ばせると、そのまま「えいやっ!」と、敬人のくるぶしを握った。
「一体なんなんだ!」
悲鳴をあげながら飛び起きた敬人が間髪入れずに怒鳴った。
「この街で雪がこんなに積るのは珍しいから、解ける前に遊ぼうと思ってきたんだよ」と英智は膝で歩いて枕元に戻りながら説明した。「僕は天気予報で今回の大雪を知ってから常に状況をチェックしていたし、朝から遊ぶために敬人のスケジュールもしっかり確保して、昨日は夜の九時にはもう就寝したんだ。敬人もきっとそうだと思っていたというのにこの有様に僕はとても残念に思っているよ。ねえ、ちゃんと聞いてる?」
敬人は英智に背を向けて、また枕の上に倒れ込んでいた。
「聞こえてる」
「何時に寝たの」
敬人はできるだけ体勢を崩さずに枕元の目覚まし時計に手を伸ばし、頭を少しだけもたげて時刻を確認した。「……一時間前」
「ずいぶん夜更かししたねえ」
「こんな非常識な時間にやってくるような誰かが無茶な仕事を増やしたからだ」
「敬人、いつもこの時間には起きてるだろ」
「起きてるからといって常識の範囲には入らん」
目が覚めてきたのか、いつもより掠れた低い声は調子を取り戻したように饒舌になってきた。
「貴様はいかにも俺にアポイントメントを取ってきたかのような口振りだが、昨日までに俺は貴様から『明日は空いているか』という一点しか聞かれていない」
「空いていると聞いたよ」
「それだけじゃ普通アポとは言わん。しかし俺は長年のつき合いから、どうせ貴様は俺の家へ突然押し掛けてくる気でいるんだろうというところまでを予測しており、貴様のために予定は空けたままでいたわけだ。だが、さすがにこんな時間にくるとは想定していない」
「それは惜しかったね」
暢気な声に遺憾の意を示すがごとく、しばらくだんまりを決め込んでいたが、突然英智の手首を掴むと、ぐいと布団の中に引き込んだ。
「老人みたいに徘徊してないで貴様も朝寝でもしろ」
「それ普段の敬人にも言ってやりたいよ」
言い終わらないうちに鼻の頭にキスが降ってきて英智は口を噤んだ。
「顔も冷たい」
両の手で英智の頬を挟むと、額をこすり合わせた。
「どこもかしこも氷みたいに冷たいな」
体温がじわじわと溶かされるようで面映ゆさを感じながら、英智が視線を逸らした。
「敬人、僕、さっき障子閉め忘れたんだけど」
「どうせここはそんなに人が通らない」
「でも引きずり込むとき、お母さん通りながら見てたよ」
今度こそ敬人が跳ね起きた。
○
夢ノ咲学院のあるこの街は、冬になると一応は雪が降り積もる。一応、とつくのはこの降り積もる雪というのが、雪と呼べばいいのか霜と呼べばいいのか、なんとも微妙なささやかな代物だからである。数年に一度どかりと大雪が降ることはあれど、海の近くだからなのか大抵は多くは残らず、昼には解けてまた見慣れた景色に戻ってしまうのだった。
「で、何をするんだ」
まだ誰も踏んでいない真っ白な地面をざくざくと踏みしめながら敬人が端を発した。山の上にある敬人の家の寺は街よりも雪が積もりやすいのだが、普段よりも数センチ白い地面が高いというだけで、いつもと違う景色に見えた。
「早朝にたたき起こしたほどなんだから、何かプランがあるんだろう」
「雪合戦」
「二人でするのか」
「じゃあ、大きい雪だるまをつくる」
「つくれるほど雪は無いぞ」
英智は考え込むと、おもむろに足下の雪を握って丸めると敬人に投げつけた。
「子供か、貴様は」そう言っている間にもう一つ投げた雪玉が敬人の頭部を掠める。「しかもノーコンめ!」
雪玉はそのまま敬人の背後にある松の木に直撃し、葉に積もった雪がその振動でどさどさと大きな音を立てて敬人の頭の上に降り積もった。英智はけらけら笑いながら、怒号と共に飛んでくる雪玉から逃げまわった。
高台の端まで行くと、石段をスコップで除雪しはじめた見習い僧侶たちから「危ないですよ」と声がかかる。
英智は街へ指を向けると、振り返った。
「ほら、敬人が昔つくったスノウ・ドームみたい」
英智は雪国に行ったことがない。たいていの子供は家族旅行や学校の合宿で雪国に行くが、今にも死にそうな男はたいてい病院や家のベッドの上にいて、まずふつうの家の子のような心躍る家族旅行なんてものに行ったことがない。それは敬人も一緒なのだが。
だから小学生の頃に図工の時間につくらされたスノウ・ドームを、学校の帰りに寄った病院で寝ている英智に気まぐれに押しつけたことがあるのだが、英智は思いの外その贈り物を喜んだようだった。入院中のベッドの脇に常に置いて、気が向くと雪を降らせていた。暇になるとケーキの上のお菓子のような街を見て、ここはどんな国のどんな街なのかを敬人に尋ねた。この雪だるまは誰がつくったのか、人々はどんな暮らしをしているのか、どんな生業をしているのだとか。その度に敬人は偽物の雪景色に、偽物の物語をつけくわえていった。
○
英智の言ったとおり、お昼になると高く昇った太陽の日差しで降り積もっていた雪はじわじわと解けだした。除雪されたアスファルトはすっかり乾き、それ以外も濡れた地面が見え隠れるようになった。残った雪もいずれは氷のように固くなってしまうだろう。
「除雪して片づけられた雪ほど汚らしいものはないね」
縁側に座りながら、そう言って英智はあたたかいお茶を啜った。敬人の母が茶菓子と共に持ってきて淹れてくれたのだ。
「雪兎もすぐ解けちゃうね」
「冷凍庫に入れるか」
お盆の上にちょんと仲良く並んだニ体の小さな雪兎を敬人が見やった。
「でも、ずっとは取っておけないから」
そう言って英智は雪兎を持って立ち上がると、脇にある塀の上にニ体を揃って並べて置いた。これで完全に溶けてしまっても、そこに雪兎がいたということにすら誰も気づかず、思い出されもしないだろう。
「今度の雪も偽物の雪だね」
庭をぐるりと見渡しながら英智がぽつりと言う。吐き出された息があたりを白く染め上げた。英智はときどきこのあたりに降る、うっすらと積もる程度の雪を偽物の雪だと称する。
「そんなに本物の雪が見たいなら、北海道なり北欧なり見に行けばいいだろう」
茶を啜りながらぶっきらぼうに敬人が言うと、英智が目を丸くした。
「敬人も一緒に?」
「そんなところに行ったら風邪ひきそうで心配だしな」
「まあ機会があったらね」
想定していたよりもすげない返事に、何か気に入らなかったのだろうかと考えていると、英智はまた敬人の隣に腰をかけた。
「まあ、僕には敬人のつくったスノウドームがあるしね」
「それこそ偽物中の偽物だろ」敬人が呆れたように言った。「それに、もう壊れてしまったんだろう」
小学生の頃に英智にあげたスノウ・ドームは壊れてしまったという。彼の家の新米メイドが部屋を掃除している際に、落として割ってしまったのだ。
古参の使用人たちは事の重大さに怯え、そのメイドはクビとそれ以上の処罰を覚悟しながらも誠意を込めて謝ったそうだが、そのとき英智は一言も彼女を責めなかったそうである。
「形が無くても大丈夫だよ」英智は言った。
「それに僕は、敬人のつくる偽物はね。昔から結構好きなんだよ」
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