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君の失くした心臓のはなし

  • 執筆者の写真: matsuo
    matsuo
  • 2020年11月16日
  • 読了時間: 61分

※時代考証から背景まで何もかも滅茶苦茶だけど、エネルギーとパッションだけはある話です。※





 しんぞう【心臓】[名]

(1)静脈から戻ってくる血液を動脈に送り出し、全身に循環させる働きをする器官。人間では胸腔内のやや左側にある。

(2)物事や組織などの中心部。「都市の心臓部」

(引用:明鏡国語辞典)


 


 イギリスに心臓が無いことに気づいたのは、数ヶ月前のことである。

 いつもの世界会議、場所は主催国であるイギリスだった。いつものごとく各々が好き勝手に自分の意見を言いたいだけ喚いただけで、全く問題の進展もなかった会議が終わると、各々ため息をついたり、雑談に興じたりしながら会議室を後にした。そんな中、イギリスは書類の整理をしたり、ぐちゃぐちゃになった会議室の椅子を元通りに整えたりと最後まで残っていた。

 そんな様子を見ながら、アメリカもまた会議室の外でだらだらと待っていた。というのも、わざわざこんな小さな島国にまで来たのだから、最近発売したゲームを持って彼の家に乗り込み、機械音痴のイギリスがコントローラを両手に持って悪戦苦闘する様をさんざ笑いたいという目論見があった。

 ようやく部屋から出てきたイギリスは、アメリカを見るなり思いっきりウザそうな顔を向けた。

 が、それもいつものことなのでまったく気にしない。

 さっそくこの後の予定にスペシャルな提案をすると、イギリスは「俺の都合は無視かよ」と呻いた。

「こんな時代錯誤な古くさい国に長居してねえで、とっとと大好きな家に帰って、ご自慢の音ばっかでかい最新の家電に囲まれればいいだろ」

 わずか数十分前の会議で、アメリカが「時代錯誤のおじさん」だの「古くさいカチカチの頭」だの、散々イギリスを言いように罵倒したのを忘れるほど、まだ記憶力は錆び付いてはいなかった。

「確かに俺の家の方が君の家よりも百倍快適だけれど、あいにくもう君の家に荷物送っちゃったんだよなあ」

「何勝手なことしてんだよ!」

 声を荒げながら先を歩くイギリスは、暗い堅牢な階段を上っていく。欧州の国々はだいたいそうだが、イギリスもまた昔のものをいつまでもいつまでも大事にする。会議に使ったこの建物も何百年も昔に建てられてからずっと手入れをして使い続けている。だからどこもかしこも薄暗く感じて、アメリカは少しだけ苦手である。

「いいか、こちとらガキの遊びに付き合ってる暇はねえんだよ」

「ただ単にゲーム音痴を笑われるのがこわいんだろ」

「あんだとコラ!?」

 振り向いた顔は完全に「元ヤン」のそれであり、紳士の国が聞いて呆れる。

「うちだって最近はなあ──」

 そう言い掛けたとき、歩幅を早めて階段を上っているイギリスの身体が傾いた。

 その一瞬、アメリカには時がスローモーションのごとく進んでいるように見えた。イギリスが手すりへと伸ばした手は間に合わずに空を切り、そのまま体勢を崩す。

 アメリカとして別に無様に落っこちていく彼を笑ってもよかったのだが、残念なことにそれより先に身体が動いていて、気づいたときは階段から落ちてくるイギリスを受け止めていた。

 身長はさほど変わらないはずなのに、胸の中にきれいにおさまってしまった痩せっぽちの枝みたいな身体は、ひどく軽く小さく思えた。本当にちゃんと食べているのか甚だ疑問である。

 そんなことを考えながら頭を捻って、ふと気がついた。

 薄っぺらな彼の胸からは、一切の鼓動がしない。


     ○


 自分たちのことを「船」と表現したのは誰だったか。時代が波であれば、国民が風、そして政府はマスト。いい風が吹いたときに舵を切ってもらえばどこまでも進んでいけるし、風にあらがった舵を取られればうんともすんとも進まない。手入れをしてもらえば何百年だって存在するし、手荒に扱われればすぐにぼろぼろになってしまう。そんな存在。

 そんな存在であるから、彼らは限りなく人間に近い姿をしていても、決して人間ではない。人間であるどころか、生物学的に説明のできる生物ではない。たとえば国が豊かであれば自分たちも楽しいし、国民が怒っていればなんだか腹が立ってくる気がする。経済が滞れば風邪を引く、とてつもなくへんてこな存在なのだ。

 故に、生き物のように物理的な怪我で死ぬこともない。それがどういった理屈でこのへんてこな奴らにあてはまるのか説明するのは不可能である。なぜだかわからないが死なない、という一点につきる。死ぬような事態が起きたとしても、大いなる歴史と自然の補正力によって、うまいこと事態を回避したり、とんでもない回復力を見せつけて元の姿に戻るのではないか、とも考えられる。

 こうして説明すると、なんだかとても深刻な星の元に生まれた存在であるかのようだが、実際のところ「彼ら」はとても陽気かつ暢気であった。自分たちの存在が何かなんて哲学的なことに思い悩むことなく、今日もどこかで喧嘩をしたり仲直りをしたり歌を歌ったり踊ったり発売されたばかりのゲームに手をつけたりと大忙しなのだ。

 だいぶ脱線してしまったから、話を戻そう。

 落ちてきたイギリスを受け止めてから数時間後。彼を家まで送りあげたアメリカは、出された缶入りのクッキーを頬張りながら、心臓を持たないかつての宗主国が慣れた手つきで紅茶を淹れる様を見つめていた。

「心臓を落とすなんて、とんだ間抜けだなあ」

「うっせえな」

 言い返しながらも、イギリスはどこか気まずそうに紅茶を啜った。

 物理的な攻撃じゃ死なない「国」たちは、たとえ心臓をどこかに落っことしたとしても死なないらしい。実際、ロシアも会議中に心臓を落っことしたことがあった。あれは確か世界大戦の頃のことだったか。本人曰く、たびたび「ぽろっ」といってしまうらしいのだが、普通はそんなものぽろっと落とさない。それだけ落とすのは相当身体が錆び付いているか、相当の人でなしかのどっちかだ。

「どうやったら落とせるのか逆に気になるよ」

「ハッ、世の中にはまだまだおこちゃまにはわからない事象がたびたびあるんだよ」

「年寄りは相当身体ががたついてるんだな」

「ああ!?」

 そこでイギリスがくしゃみをした。寒いのか、家に帰るなりスーツを脱いで私服に着替えたイギリスは、もこもことした厚手のセーターにブランケットを羽織っている。

「そもそも俺の身体のことなんか、おまえに関係ねえだろ」

 どことなく拗ねるように睨んでくるグリーンアイにそう言われて、アメリカは少し考えてみる。どうやら心臓が無くてもたいした不調は無いようだし、そもそも今までも問題なく生きてきたそうなのだから、確かにイギリスに心臓があろうがなかろうがアメリカに直接的な関係はなかった。しかしながら、こうして目の前で話している人物の心臓がないというのは、どうにも幽霊と話しているみたいでなんだか不気味だ。

「いいよ、俺も一緒に探してあげるよ」

 一瞬、イギリスの瞳が大きく揺らいで、慌てたように逸らした。

「別にいいよ」

「気にすることなんかないんだぞ。それに、そんな間抜けな話なんか誰にも相談できないだろ。俺が聞いてあげるよ」

 だからもう心配ないんだぞ!

 鼓舞してやろうと思い切り肩を叩くと、心臓のないやせっぽちの柔な身体は、いってえ!、と怒ったような悲鳴をあげた。


     ○


「ていうことがあったんだ。なっ、間抜けな話だろう!」

「私は今、周囲に黙っていてほしい大事なことは、絶対にアメリカさんには話さないと固く誓いました」

「どうしてだい?」

 スカイプ越しの空気を読まない明るい声を聞きながら、日本はため息をついた。

 先日の遠い異国での世界会議から、ようやく時差ボケにぽけぽけしていた体内時計が再び正しく機能し始めた矢先のことであった。時差などまったく考えないアメリカからの連絡で深夜にたたき起こされた日本は、そのノーと言えないお国柄から、こうしてゲームのオンライン対戦に興じる羽目になっている。

 そんなアメリカが最近気に入っているのは、日本の老舗ゲームメーカーで発売された、自分のナワバリカラーのペンキを相手と塗りつぶし合うことでナワバリを取り合うという、至ってシンプルなゲームだ。相手への妨害攻撃も可である自由度の高さが人気に火をつけた一因でもある。日本でも大流行し、一時期ゲームハードが品薄になり入手困難になったこともあった。

 画面越しの戦況は今のところ、アメリカ側陣営が圧倒している。アメリカが気に入って使用しているガロンは非常に強力で、迂闊に近寄ると痛い目に遭うので戦況の打開に手をこまねいていた。

「おやアメリカさん、それは新しい武器ですね」

 日本が気づくと、アメリカは得意げに自慢話を披露した。彼のニュー武器は現在の環境でSランクと評されるものであった。

「日本はXランクの武器があるのに、どうして普段は弱い武器ばかり使うんだい」

「これは動画用の縛りプレイというやつでして」

「それにしても日本は神出鬼没だからやりづらいんだぞ、やっぱり君たちは忍者の末裔なのかい」

「いえ、そういうわけでは……それよりも、以前カナダさんとオンラインで一戦交えたときはまったく歯が立ちませんでした。気配というものが完全に消えているんです」

 アメリカの熱心な布教活動によって国たちの間でもこのゲームのプレイヤーは着実に増えていたが、完全なダークホースであったのがカナダであった。アメリカの家に遊びに行った折りに、押しに負けて軽くプレイしただけなのだそうだが、とにかく気配を消すのがうまいのである。どれだけ注意を払っていてもいつの間にか背後におり、気づいたときには倒されている。本人の穏やかな気性と似ても似つかぬその仕事人ぶりは一個師団をも壊滅させる勢いがあり、オンライン界隈では「幽霊ローラー」として瞬く間に恐れられた。

「あれだけの腕前を持ちながら滅多に現れないことから、今や都市伝説と化していますからね」

「彼は自己主張が弱すぎるからなあ」

 答えるアメリカの声はなんだか覇気がない。

「しかし、控えめで謙虚で非常に好感が持てます」非常に我の強い欧州の面々を思い浮かべながら日本は力説した。「それに国自体も治安も良く、穏やかでのんびり時が進んでいるようで、とても居心地のいい国ですよね。私の家でもロハスは流行っていますから、ああいう暮らしは羨ましいです。メープルも美味しいですし」

「日本人は働くのが好きすぎるんだぞ」

「別に好きではないのですが……」

「まあ、確かにカナダは老後に暮らすにはいいかもしれないけどね」

 先ほどからのアメリカらしくもない、妙に煮えきれないような反応に、日本はおやっと首を傾げた。

 実は世界会議のあとにアメリカはカナダの家に寄っており、ここでもイギリスに心臓がない話をしたことを日本は知らない。

「ずいぶん前に落としたそうなんだ。俺はまったく気づかなかったよ」

 そして何気なく、「君は知ってたかい」と尋ねると、カナダは手に持っていたカップを取り落とした。

 彼がそこまで動揺するのは予想外であった。確かに元兄である国が心臓を落としていたら一大事なのかもしれないが、それでも異様に思えた。

 しかしアメリカが床に散らばる破片を拾うのを手伝おうとすると、彼はそれを制止し、「帰ってくれ」と言った。普段のカナダからは想像できないほどの強い意思表示に、アメリカは一瞬面食らった。

「頼むから帰ってくれ、アメリカ」


     ○


 突然の画面上の惨状に、アメリカは「What!?」と悲鳴をあげた。「君たちどうして人数が増えるといきなり強くなるんだい!」

 アメリカのアバターはいつの間にか日本人プレイヤーのアバターに包囲されており、そのまま為すすべもなく倒されスタート地点に転送される。他のプレイヤーたちも同様のようで、勢いをつけた日本チームは堅実に陣地を塗り固め、瞬く間に戦況は一転した。

「これが集団行動に優れている日本人の戦術ですので」

「まるで意味がわからないんだぞ。そもそも君たち日本人は何を考えているのかわかりづらいんだ! やっぱり日本に流れる忍者の血なんだな!」

「いえ、そういうわけではありませんが」

 もう一回やるんだぞ、という若さあふれるパワフルな駄々っ子大国にため息をつきながら、日本は老体に鞭を入れてコントローラーを握り直す。

「しかし大変ですね、イギリスさんも」

「ん? あんあっえ?」

 ゲーミミングヘッドホン越しの声は聞き取りづらい。おおかたちょうど口に何かものを詰めているのだろう。コーラだとか、ポテトチップスだとか。

「先ほどの話ですよ。イギリスさんが心臓を落とされたって」

「ああ、そのことか」

「確かにここ数年、あまりお身体の調子が良くなさそうでした。国況とは別として。だから薄々おかしいなとは思っていたのです」

「そうだったっけ?」

 会議で会うイギリスの顔を思いだそうとして、アメリカは首を捻らせる。会議でのイギリスの言動といえば大抵はアメリカの意見にけちをつけるか、皮肉を言うか、フランスと喧嘩をしているか、やっぱり皮肉を言っているかのどれかだ。いつも通りだったような気がする。

「一度お見舞いに行った方がいいんでしょうかね」

「別にいいんじゃないかい。彼、心臓がないわりに元気そうだぞ」

 それに、と付け足す。「イギリスがもたもたしているから見つかるものも見つからなかったんだ。今度は俺が捜索に乗り出すって言うんだからな、すぐに見つかるさ」

 すると、ふふ、と日本の笑う声が聞こえてきた。

「なんだい」

「いえ、でもやっぱり何かと大変だと思いますよ。誰かの手助けが必要です」

「まあ、そうかもしれないね」

「でも今度はアメリカさんがいるので、きっと大丈夫ですね」

 妙に含みのある日本の言い方に、アメリカは眉をしかめる。

「アメリカさんは優しくて強いヒーローなんですから、困っている人にはいっぱい優しくされるんでしょう」

「なんだか妙に引っかかるんだぞ、日本」

「いえいえ、じじいは若い人たちのお話には口出ししませんから」

 やはり、日本は何を考えているのかわからない。


     ○


 かつて、イギリスはアメリカの「兄」であった。彼がアメリカを独占できたのは、結局のところたった十数年ほどの短い期間だったが、それでもアメリカが自身で選んだはじめての「兄」であった。イギリスは国の運営から外交策、乗馬や航海の仕方、銃の扱い方までアメリカに手ほどきをした。

 そのときのアメリカは、海の向こうからの新しい知識の山に目を輝かせ、片っ端から吸収し、もっともっとと貪欲に知識を求めていた頃であった。周りの国々に追いつけ、追い越せるるように、もっと賢く、もっと強くなりたいと願い始めていた頃だ。イギリスやフランス、他の国からの知識に飽きたらず、もっとほかのところにまで。

 アメリカの家に泊まっていたイギリスは、その夜ゲストルームで国としての業務を片づけていた。すると珍しく遠慮がちなノックのあとに部屋のドアが開けられて、小さな顔がのぞいた。

「どうした、アメリカ」

 うつむきがちに部屋に入ってきたアメリカに、眠れないのかと尋ねれば、一瞬間があってから小さく頷く。イギリスは椅子から立ち上がると、アメリカの元へ歩いていき、かがんで小さな背丈に目線を合わせた。

「こわい夢でも見たのか」

 その日、アメリカは獲物の解体の仕方を見せてもらっていた。

 それを教えてくれたのは、少し前からときどき会うようになった、先住民族の青年だった。彼と、彼の部族は、言葉の通じない金色の髪をした幼い少年に対してもとても親切であった。彼らは自分たちの文化を、度々こうしてアメリカに教えてくれていた。

 彼の後をついていくと、崖下に巨大なバッファローが倒れていた。崖っぷちまで追いつめられ、そのまま落ちたのだろう。彼らの伝統的な狩猟方法であった。彼はナイフを取り出すと、撫でるようにバッファローの分厚い肌の上へ押し当てる。その跡を辿るように、血が浮き出てきた。

 彼は慣れた手つきで、丁寧に、しかし素早く捌いていった。

 彼らの民族は無意味な殺生はしない。殺した生き物の一部だって無駄にしないのだという。肉はどの部位もすべて食す。一部は干し肉にして保存食とする。毛皮は寒い冬を乗り越えるための防寒用のコートになる。

「これが心臓だ」

 取り出して見せた心臓は、覆う体液が太陽の光に照らされてぬめぬめと光っていた。

「生き物にとって一番大事なところだ」

「一番大事なところ」

「心臓には霊力が宿る」

 彼はアメリカに手のひらを出させると、心臓を持たせた。息をとめたばかりの心臓はあたたかくぬめっていて、今にもまたドクドクと動き出すのではないかと想起させた。

 あの感触を思い出すと、自身の心臓が早鐘のごとく鳴りたつ。ぐずるように小さな頭を膝にこすりつけてくるアメリカを見かねて、イギリスは小さな彼を抱き抱えた。

「大丈夫だ、アメリカ。何もこわいことはない」

 おまえは太陽に愛された子だ。なんの不幸も訪れない、だから安心しろ。イギリスはこれまで何度もアメリカにそう言い聞かせた。

 イギリスの腕に抱かれているときの穏やかな心音は、いつも幼いアメリカの気持ちを落ち着かせた。

 あのときにはまだ、イギリスには確かに心臓があった。


     ○


 昔のアメリカといえば、それはそれは素直な可愛い子であった。

 どっさりとたくさんの紅茶を持って海の向こうから遙々会いに行けば、「また来てくれたの?」とそれはそれは喜んで笑顔で出迎えてくれたし、イギリスが教えるもの、持ち込むものすべてに興味を持ち、滞在中の夜は毎晩添い寝をせがんでベッドの中でイギリスの家のフェアリーテイルを聞きながらまどろんだものだ。だからこそイギリスが国へ帰るときは、毎度今生の別れとばかりに怪獣のごとく愚図って大泣きし、周りの大人たちを困らせたのだ。

「俺だと思って持っていてね」

 一度、返る間際のイギリスを引き留めて、小さな宝箱を「俺の大事なものなのが入っているの。開けないでね、俺だと思ってね」としゃくりあげながら渡してきたこともあった。そのなんとも健気でいじらしい姿に、何度もイギリスは胸を詰まらせたものだ。

「イギリスったら、また撫でてるのね」

 イギリスの唯一の気心の知れた友達である妖精はどこからともなくふよふよと現れると、イギリスの肩に腰掛けた。

 リビングの棚に置かれた、小さな宝箱の背を撫でながら、イギリスはそんな失われた思い出を記憶の底から探り出していた。悲しいかな、とうの昔に失われてしまった思い出である。

「こら、出てくるなって」

「私は昔からそれ苦手。未だにあの子の想いが強すぎて近づけないの」

 なんでも昔、興味本位で中身を確認しようとしたところ、箱全体からこの島国では見たことのない種類のとても強い力が放たれており、行く手を阻まれただけでなく、そのまま思いっきり跳ね返された際にあちこち身体をぶつけてひどい目に遭ったというのだ。

「想い、ねえ……」

「さっきから何ひとりでぶつぶつ言ってるんだい」

 自分の家のごとく、くつろいだ姿でソファにふんぞり返っているこの男に、そんな可愛らしい好意なんてものが欠片でも残っているとは到底信じられなかった。今も出してやった手作りのスコーンを「食物兵器」だの「不味すぎて食べられたもんじゃない」だのと散々なことを言いながらぺろりとたいらげている。そのまま寝っ転がろうとする妙に圧迫感のある図体に「そんなだからメタボになるんだよ」と小言を並べれば、生意気な顔をして「今は世界八位まで下がったんだよ」とすぐさま言い返してくる始末だ。

 時の流れほど残酷なものはないと、これまで何度もイギリスは思い知らされている。


     ○


「そういえば、君の心臓はいつ失くしたんだ」

 閑話休題。思い出したように尋ねるアメリカに、記憶の彼方から探しものをするようにイギリスは天井を見上げた。「そうだな、おまえの家に足繁く通っていた頃にはもう無かったな」

 その答えはアメリカを驚愕させるには十分であった。

「ずいぶん大昔じゃないか! それだけ長いこと失くしたまま放っといたなんてどうかしてるんだぞ」

「いちいちうるっせえな。無くてもなんとかなるんだよ」

 イギリスは簡単に言うが、本当にそうなんだろうか。イギリスが足繁くアメリカの元へ通っていた頃といえば、それはまだアメリカがイギリスの保護下にあった頃だ。つまり彼から独立したあの戦争のときも、そのあと幾度とない衝突も、世界大戦の頃にも、イギリスの胸には心臓が無かったということになる。そんなことがあり得るのか。自分たちの身体のことは生まれてからしばらくすれば「なんとなくすべてわかっている」ような気がしているけれども、わからないことも大いにある。イギリスの言うことが本当ならば、確かに心臓が行方不明でも案外大丈夫なのかもしれない。

 壁時計の鳴る音にアメリカが思案に耽っていた顔をあげると、軍手をはめて野暮ったい麦藁帽子をかぶり、いそいそと自慢のイングリッシュガーデンに降り立とうとするイギリスの姿が目に入り、慌てて立ち上がった。

「待って、今から一体何するつもりだよ!」

「何って、どう見たって庭の手入れだろ」

「君、この前倒れたばっかりなんだぞ。わかってるのかい」

「あんなの軽い目眩だろ。それに俺が倒れたのと、こいつらの世話をしなきゃいけないのは変わんねえからな」

 まったくこれだ、とアメリカは舌を巻く。イギリスは一度敵だと認識した者に対しては利己的でどんなに卑劣なことだってやってのけるというのに、身内だと認識した途端にとことん甘くなり、自分を犠牲にしてまで過剰なほどに世話を焼きたがる。その重たすぎる献身で失敗した例が目の前にいるというのに。

 アメリカは庭の向こうに立ちはだかると、イギリスから軍手とスコップをさっさと取り上げてしまった。

「俺がやる」

「おまえ、庭いじりなんかしたことないだろ」

「病人に働かせるのはヒーローが見過ごせないんだ」

「病人って……大袈裟だな。素人に下手に手出しされて滅茶苦茶にされる方が困るんだよ」

「大袈裟にもなるよ。それなら俺が間違えないように、そこで君が指示してくれればいいよ」

 言い残すなり、アメリカはイギリスを置いてさっさと庭に入っていく。「なあ、とりあえず雑草を抜けばいいんだろう」と声をかけると、イギリスも観念したようだった。

「じゃあ、雑草だけ抜いて、あとは軽く水かけてくれればいいから」

「了解」

「雑草と間違えて別なもん抜くなよ」

 ガーデンチェアに座らされたイギリスは、最初の方こそアメリカの手際にやきもきしてあれこれといちいち指図をしていたが、そのうち案外問題ないと判断したのか、黙って見ているようになった。

 郊外にあるマナーハウスに住むイギリスがせっせと世話をするイングリッシュガーデンは、手間がかけられている分近所でも評判であるそうだ。仕事が多忙でなければもっと構ってやれるのにとイギリスは嘆くが、草花は瑞々しく咲き乱れ、それでも立派なものである。空の色をそのまま映したような青い花に水をかけているアメリカを見ながら、イギリスはぼんやりと昔のことを思い出していた。

「そういえば、おまえ青い花を欲しがってたことがあったよなあ」

「そうだっけ」

 そんなこともあった気がするが、あまり憶えていない。青い花を見ていると、ふいに胸の奥に悲しい感情が流れ込んでくるから、アメリカ自身あまり考えないようにしていた。

「そうだよ、だから俺がおまえの家に運んでやったんだ。あれめちゃくちゃ大変だったんだからな。それぐらい憶えてろよ」

「悪いけど俺の頭脳は未来を描くためにあるんだ。それに君の昔話は毎度毎度でしつこいんだよ」

「そりゃ悪かったな」

 イギリスがまたひとつくしゃみをした。彼はこのところくしゃみばかりしている。初夏が近い今日なんかは普段よりも気温が高く、こうして外にでて庭仕事なんかしてれば太陽の日差しがじりじりと肌を焼いてくるくらいで、アメリカはTシャツとジーンズというラフな格好だ。対するイギリスは、また厚手のカーディガンを羽織っているのだから、見ているだけで暑苦しいったらありゃしない。

「なんだい風邪かい、うつさないでくれよ」

 あからさまに厭そうな顔をすると、イギリスはムッとしたように目を細めた。

「うつさねえよ。風邪じゃないから安心しろ」

 そう言いながらも、イギリスは三十年近く愛用しているカーディガンの前を合わせるように羽織り直し、軽く鼻を啜った。

 どういうわけか、アメリカはその姿に無性に苛立ちを覚えた。イギリスと話していると、度々こういうことがある。アメリカ自身にもわからないが、彼のやることなすことが気に入らなくて仕方がなくなるのだ。

「こんな暑い日にそんなださいカーディガンなんか着てたら余計に風邪引くんだぞ」

「なにがださいだ、一言余計なんだよおまえは」

 アメリカから発せられる余計な一言には、意図的にイギリスを怒らせたいものと、本当は別に怒らせたいわけではないのに無性にイライラしてなんでもいいから傷つけてやりたくなるものと、二種類がある。この二種類はアメリカにもうまく違いが説明できないし、イギリスに関しては多分区別がついていない。近年はイギリスともそれなりにうまくやれているが、それでも気づけばいつの間にか言い合いに発展してしまう。イギリスもこのままではまたいつものように喧嘩になると察したのか、椅子から立ち上がると黙って部屋の中へと戻っていった。

 二種類のうちの後者に関しては、気分が晴れるどころか、イギリスがその場から去った途端に決まって気分が悪くなった。それがまた余計にアメリカを苛立たせるのだが、このときは彼の体調のこともあって言いようのない後ろめたさが押し寄せ、どこか陰のある後ろ姿を振り返った。

 その瞬間は、まるであの日のフラッシュバックを見ているようだった。イギリスの身体はまたも大きく傾いて、しかし今度は、そのまま音を立てて倒れた。


     ○


「やっぱりドイツが俺の家に興味もってくれるの嬉しいなあ」

 ガイドブックを片手に立つドイツの周りをせわしなくうろちょろしながら、イタリアがだらしなくへへと笑った。

「まあ、おまえの家は気候もいいし、見るべき遺産もまだまだたくさんあるしな……」

「ドイツは観光でも真面目だよねえ」

 水の都、ヴェネチアの中心部にあるサン・マルコ広場は、常にたくさんの鳩と観光客と、そこに潜むスリでごった返している。

 イタリアは未だにドイツ人に人気の観光先で、ドイツがこうしてイタリアの案内のもと観光にくるのもこれで数度目である。もともとドイツ人の観光といえば学術的な意味合いの強い歴史探索が主であり、古代ローマの遺産や芸術の多く残るイタリアという地はやはり相性がいいらしい。

 とはいえ、ドイツだけでなく世界中から人気の観光地なので、土地勘に不慣れなまま行くとその人の多さに辟易してしまう。

 だが、そこはイタリア=ヴェネチアーノ。さすがというか、彼はドイツを案内しながら観光客の人混みをすいすいと抜けて、人通りの少ない安全な道を選んで進んでいく。そこへ「ヴェッラとデートをした話」だとか「この前つくったパスタが激ウマな出来だった」とかどうでもいい話を大袈裟な身振り手振りで語って聞かせ、その中にはごく稀にだが、国と共に生きてきたイタリアだからこそ知っているようなタメになる情報も混ざっているのだった。

「そうだ、ご飯だけじゃなくてジェラートも相変わらず美味しいから食べてってよ」

 イタリアが目の前にあるジェラテリアを指し示し、歩きだそうと一歩を踏み出した瞬間であった。

「Hey,you guuuuuuuuy!」

「ギャー!」

 マンホールの蓋を内側から勢いよく押し上げ、飛び出してきたのはアメリカであった。ドイツは顔面蒼白になりながらも、今にも飛び出しそうな心臓を押さえこみ声を荒げた。

「アメリカ、なんでこんなところにいるんだ! まさか、そこから入国したのか!?」

「俺の家のFBIの情報網と技術力を甘く見られたら困るんだぞ!」

「いや、普通に入ってくればいいだろ!」

 意味不明な供述をしながらマンホールから這い出てきたアメリカは、マンホールの蓋をきっちりとはめ直すと、立ち上がって衣服についた埃を払った。

「ところで君たち、心臓を見なかったかい」

 あくまでマイペースなアメリカは勝手に話を進めていく。しかしかつての連合軍にいい思い出がなく、おまけに突然予想不可能な方法で現れたアメリカにすっかり驚いてしまったイタリアは「ごめんなさい! ごめんなさい! 心臓取らないで!」と恐縮しまくりで話にならない。「代わりにドイツのをあげるから」と勝手に他人の心臓を取り引きしようとするが、アメリカは「別にイタリアとドイツの心臓なんか貰ったってしょうがないよ」と失礼なことを言った。

「俺が探しているのはもっと別の心臓だよ。きっとものすごく古くさい旧式みたいなのか、もしくはものすごく毛むくじゃらの変な心臓だと思うんだ。あれだけ変な太い眉毛してるんだから、心臓にまで生えててもおかしくないだろ」

「なるほど、イギリスの心臓を探しているのか……」

 初夏の某日、イギリスが自宅の庭で倒れたと聞いてから、一ヶ月近くが経つ。イギリスの体調不良の噂は瞬く間に各国の面々に広まっていった。それと同時にイギリスが自身の心臓を持っていないことも広く知られることとなってしまったのだが、これに関してはだいたいアメリカが原因である。

 イギリスの体調が悪いのは十中八九彼の胸におさまるべき心臓がおさまっていないからだ、というのが各国の見解であった。今のところイギリスの体調と国況はリンクしていないようで、彼の国の様子は特段大きな変化があるわけでもないように見えた。しかしいつどういう風に状態が悪化し、更にとばっちりを食らうかは誰にもわからないので、とりあえず近場の欧州の面々は恐々としながらこの隣国の様子見を続けているのである。

 しかし、とドイツには腑に落ちないことが一つあった。

「どうしてアメリカがイギリスの心臓を探しているんだ。おまえにメリットはないはずだろ」

 アメリカは世界各地、イギリスが立ち寄りそうなところを転々とまわって、こうして情報を集めているそうだが、ドイツからしてみればありえない光景だった。基本的にアメリカは自分に見返りがないと動かない。それは過去、ドイツをはじめ、世界中が身を持って知っている。おまけに彼の家はIT大国で、「捜査は足でするものだ」なんていう古くさい考えは持ち合わせていないのだ。

「なんでかって?」

 ハリウッド俳優のごとくもったいぶって間を開けると、アメリカは親指を上に突き立て「それはもちろん、俺がヒーローだからさ!」と、並びの良い白い歯を輝かせて見せた。

「弱きものが困っているなら見過ごせないのがこの俺さ! まあ彼に一緒に探すって約束しちゃったから、ちゃんと約束を守って探してあげてるんだけどね。ヒーローはよっぽどの理由がない限り、約束は破らないんだ。それに最近は俺の家でも探偵ものは流行っているから、たまにはこうして現場に赴いて捜し物をするというのも面白いと思ってね。ま、古くさいイギリスの家とは違って、クールでパワフルな俺の家らしく探偵はアイアンマンだから強くて賢いぞ!」

 そういうわけで知っていることがあれば教えてくれ、とおおよそ人にものを頼む態度ではないアメリカに、ドイツは溜息をつく。

 多くの国々がまとまってできたドイツは、他の欧州の面々と比べると年若く、自身で持っている記憶の期間はあまり長くない。知識の多くは兄たちに教えて貰った歴史であり、ドイツが自身がその目で見てきたアメリカとイギリスの関係も、長い歴史の中からすれば比較的最近のことである。世界大戦のときはこのタッグに苦しめられたが、プライベートでいえばこの二国のことはよくわからない。最近はうまくやっているようだし、とくにイギリスは元弟の独立記念日に必ず体調悪化がするという難病に苦しんでいるにも関わらず、彼なりに祝ってやろうと色々四苦八苦もしているらしい。しかし相変わらず世界会議では必ず一回は言い争いが起こり、そこから会議がまったく進展しなくなり、こちらが迷惑を被ることは少なくない。昔から彼らを見てきたフランスなんかはゆったりと構えながら「今のあれは犬猫がじゃれてるだけ」などと言ってはいるが。

「俺には心当たりなどまったくないが……一応聞くが、イタリアはどうだ」

 ドイツの陰に隠れていたイタリアは、落ち着くと「なんだアメリカかよー」などと言いながらすっかりくつろいでおり、いつの間にかジェラテリアのオープンテラスで買ったばかりのジェラートを頬張っていた。

「え、なに?」

「だからイギリスの心臓がどこかにあるかって話だよ」

 イタリアは考えているのか考えていないのか、ジェラートを咀嚼していたが、やがてのんびりと「誰かにあげちゃったんじゃないかなあ」と言った。

「ドナーバンクに提供しちゃったっていうのかい」

 イタリアの意見を一蹴して鼻で笑うアメリカもまた、いつの間にか買ってきたジェラートを咀嚼している。

「でもアメリカだって、昔好きな子に何かプレゼントしたりしたでしょ」

「へ?」

 キョトン、とアメリカが聞き返す。そのとき、ずるっ、とコーンからジェラートが落ちかけ、慌てて態勢を立て直す。

「あっ、あー……」

「あーもう、何やってんだ」

 ドイツがハンカチを渡してやると、アメリカはおとなしく受け取って、指に垂れたジェラートをふき取る。

「まったく、おまえが変なことを言うから」

「えー、ドイツだってそういう経験あるでしょ」

 呆れたようにかぶりを振るドイツにイタリアがそう言えば、いや俺は……となぜか狼狽えている。そんな二人を後目に、ジェラートでべたべたになった親指を軽く舐めながら、アメリカはイタリアの質問を反芻していた。

 気恥ずかしかったから答えを誤魔化したのではない。

 そんな記憶がひとつも、自分の中から出てこなかったからだ。


     ○


 昔の記憶が曖昧なことがある。

 もちろんすべての記憶ではない。長い歴史の中、虫食いのように記憶がどこか抜け落ちたように感じることが多々あるのだ。

 たとえばイタリアの言葉。そんな記憶もとから無かったのかもしれないのに、どうしてか心のどこかに引っかかって出てこないような感覚がもどかしい。

 たとえばいつだか自分に知識をくれた先住民族の彼。それから彼がどうなったのかは会っていないのでわからない。そのあとはイギリスからの独立戦争で、アメリカ自身も忙しい日々を送っていた。それに、それから百年も経たないうちに、彼らの仲間たちは無意味な殺生によって追い込まれ、殺されてしまった。彼らがいたことは決して忘れない。彼から教わったことは、今でもこの身体に染み着いている。それでも、個人となると彼の名前も顔もよくは憶えていないのだ。

「そりゃあ俺たちは国だ。何百年も生きていれば、昔の小さなことをひとつひとつ憶えていることのほうが難しいさ。代々ずっと仕えてくれていた秘書なんかはそりゃあ憶えてるけどな。国民が認識していない歴史、俺たちが個人的に会ったような人々はどうしたって憶えていたり、憶えていなかったりと記憶が曖昧になる」

「そういうものかい」

「そういうもんさ。そのとき教わったことは、おまえだってちゃんと憶えているわけだしな」

 アメリカよりもずっと長く国として生きているフランスは、アメリカの話を聞きながら紅茶を啜ると、「うーん、相変わらずセンスのない味」と批評した。

「俺んちのと変わらない味だぞ」

「だーから、センスがないって言ってんの」

 マグカップをテーブルの上に戻すと、フランスは頬杖をつきながら、甘ったるいマフィンを頬張るアメリカの食いっぷりを眺めていた。

「まあ、おまえの場合はそれだけじゃないかもしれないけどねえ……」

 なにやら奥歯にものの詰まった言い方をする。

 しかしアメリカが聞き返す間もなく、フランスは一つ伸びをすると、いかにも洒落た腕時計で時刻を確認する。そろそろいい時間であった。

「ほら、アメリカ。あいつの見舞いに来たんだろ。そろそろ行くか」

 イギリスの体調はあれから悪化もしなければ、回復もしていない。

 プライドの高いイギリスはいくら体調が悪かろうと誰かに頼ろうとしない。そもそもかつて栄光ある孤立という負け惜しみを極めた結果に天下を取った島国であるから頼れるような友達もいない。同居している三人の兄とは最近はそこそこうまくやっているようだが、長年の軋轢からか同じ屋根の下にいながらあまり顔を合わせないし、彼らの会話は見ているこっちがむずがゆくなってくるほどにぎこちないのであてにはならない。病床に臥せている末弟を見て見ぬふりはさすがにしていないがろうが、続けていればきっと心労で体調が悪化するし、介護する方も倒れかねない。そういうわけで偵察も兼ねてときどき面倒を見る役目を押しつけられたのが、昔なじみであり長年の喧嘩仲間である、良くも悪くも気兼ねなく言い合いができるご近所のフランスであった。

「しかし、ありゃ頑固老人の方がまだ扱いやすい」とフランスは自身の肩を労いながら泣き言を漏らした。

 ヒースロー空港内のスターバックスで朝ご飯を済ませると、フランスと並んでレンタカー会社のカウンターへと向かう。イギリス兄弟の住むマナーハウスはロンドンからほど遠い郊外にある。電車でも行けるが、最寄り駅から更に歩かなければならないため、タクシーかレンタカーで直接向かった方が便利だ。確かに田舎景色は美しいが、日常生活には向かない辺鄙な場所に未だ住み続けているのかアメリカには理解不能である。移動を運転手に任せているので案外困らないのかもしれない。

「ま、お兄さんとしては、おまえがあいつの見舞いにくるまで丸くなってくれて嬉しいよ。このままお兄さんの代わりに介護してくれない?」

「俺だってあんなのの介護は御免被るよ。第一、君の家からより遠いしそう頻繁には来れないし。ただ俺と一緒にいたときに倒れられたというのは気分が悪いからね。それに、約束しちゃったからなあ」

「約束?」とフランスが聞き返した。

「彼の心臓を一緒に探してあげる約束をしたんだ」

 こうして実際に歩いてみても、色々な言語があちこちで飛び交う空港内の喧噪はまったくもっていつも通りだ。イギリス絡みのおかしなニュースも聞かないし、変態的なニュースは今でも度々聞こえてはくるけれど、それだっていつも通りだ。ただイギリスという概念のような存在だけが体調を崩しているのだから不思議である。

 不意にフランスが口を開いた。

「なあ、アメリカ。おまえ、イギリスの心臓の在処に本当に心当たり無いのか」

「なんで俺が知っているんだい」

 アメリカは笑いながら答えて、ふと何かに思い至ったように立ち止まった。後ろを歩くフランスへ振り返る。

「君は在処を知っているのか」

 フランスは微笑を浮かべると、アメリカに一歩近づいた。そしてアメリカの胸の真ん中を、トン、と人差し指で触れた。


     ○


 昔からイギリスが嫌いだった。

 彼は自身の弟たちのことを家族だと言い、自身の文化を持ち込み教育を施し、他の国から守ってきた。しかしそれは自分の利益を搾取する都合のいい対象を守っていただけだ。自分に都合の悪いことに関して、彼は聞く耳を持たなかった。「おまえのことを考えて」というのが彼の常套句だったが、本当のところ彼は自分の利己しか考えていなかった。

 そういう彼が嫌いだった。

 誕生日に目に見えて具合が悪くなってみせるのも、あてつけのようで気分が悪くて仕方がない。まるで彼の身体全体を使った呪いのようだ。おまえなんか生まれてこなければよかったと、生を否定されているようだった。

 彼が本当に嫌いだった。

 ──あの雨の中。あの降りしきる雨の中、ひざまずいて泣いて見せたのもアメリカには腹立たしささえ覚えた。自由を望んだ途端に手のひらを返し、これからは「敵」だと散々罵ったくせに、最後まで貫けないあの弱さが嫌いだった。あそこで小さな背中を見せるのはおそろしく卑怯だと思った。

 そうだ、昔から、大嫌いだったのだ。


     ○


 乱暴に家の中へ押し入ってくる足音で、寝室にいたイギリスは目を覚ました。強盗のわりには足音に迷いがない。家の勝手を知っている者だ。足音はまっすぐに寝室へ向かってくる。

「おいフランスか──兄貴か。どっちでもいいが、もっと丁寧に開けろよ」

 声を張り上げながら、ブランケットをひっつかみ、肩に羽織る。

 ベッドから抜け出そうとしたそれと同時に、寝室の扉が大きな音を立て、乱暴に開け放たれた。ずかずかと部屋へ入ってくる男を見て、イギリスは言葉を失った。

「やってくれたな、イギリス」

 ベッドの上の自分を見下ろす大きな身体は、怒りに震えていた。

 アメリカの後ろに、肩を竦めながら立つフランスの姿があった。瞬時に状況を理解したイギリスは、フランスを睨みつける。

「フランス、てめえ──話しやがったな」

 しかしフランスは怒声を意にも介せず、飄々としたままだ。「どうせばれるのはもう時間の問題だったんだって。おまえの身体は相当ガタがきてる。隠し通すのはもう限界だ」

「そういうことじゃねえ!」

 イギリスがフランスへの怒りに任せて立ち上がろうとすると、肩を捕まれベッドの上に押し戻された。肩を掴んで震えるかつての弟を、イギリスはシーツの上で呆然と見つめた。

「俺が話をしに来たんだ!」

 よく通る大声が家中に響きわたり、しんとした。

「よくも勝手に、自分の心臓を俺に移植したな。これじゃあ、まるで人造人間じゃないか! しかも俺はそれをまったく知らず数百年の間過ごしていて、なぜか部外者のフランスだけが知っているんだ。当事者の俺は完全に除け者だ」

 アメリカが力任せにシーツを殴ると、みし、と古いベッドが揺れた。やり場のない感情を抑えるように、二度、三度と殴ると、彼はずるずると床の上にしゃがみこんで頭を抱えた。

「最悪だ。最悪な気分だ。こんなものいらない。俺は誰にもこんなことを頼んでいない」

「そりゃそうだろう、おまえは憶えてないんだ」

 身体を丸めた姿は大きな子供のようだとイギリスは思った。優しい声がアメリカの頭を撫でようとすると、それは無碍に払いのけられた。

「おまえは小さかったし、今も自分の心臓がないから記憶が飛んでるんだ──」

「君に返す」

 青い瞳がまっすぐにイギリスを睨みつけた。「現に今、君は心臓が無くても普通に生きている。君の心臓を使うぐらいなら、俺だって無いままでいい」

「本当に悪かった、アメリカ」

 イギリスはベッドから抜け出すと、ベッド脇にしゃがみ、アメリカと目線を合わせた。かつて彼が小さかった頃にしたのと同じように。

「今よりももっと不確かな存在の小さかったおまえは、見ていて死にかけてるみたいだった。放っておけなかったんだ」

「それでも俺は君を許さない」

 アメリカの瞳は揺るがなかった。

「無理矢理にでも君に返す」

 イギリスは口を噤んだ。そのまま視線を落とし、長いこと黙っていた。

 しかし、突然払いのけられた手でそのままアメリカの胸ぐらを掴むと、彼の青い瞳に自身の瞳が映りこむほどに顔を近づけさせた。

「そんなことをしてみろ、今度は俺がおまえを殺す」

 眼力には、有無を言わせない圧があった。

 それは明確な殺意だった。

 イギリスはそのままアメリカを寝室の外まで引きずって押し返すと、ごほごほとせき込みながら扉を閉め切った。

「アメリカ」

 フランスが後ろから声をかけるが、それに対する返事はなかった。

「信じられない。まるで話にならない。ほんとに、むちゃくちゃだよ」

 閉め出されたアメリカは、扉に額を押し当てるとしばらくその場でうなだれていた。

「何がしたいんだよ、君は」


     ○


 今からざっと数百年前。合衆国が生まれる前の、どこまでも続くようなだだ広い新大陸の草原の真ん中に、倒れている少年が発見された。幼い少年はまるで死んでいるようにぐったりとしているものの、身体のどこにも外傷がない。助け起こした人間が心音を聞こうとして驚いた。彼には脈もなければ心音もしない。しかしなぜだか呼吸はしているし、確実に生きてはいるのだ。

 彼の面倒を見ていた人間たちは、丸太小屋へと運ばれてきた、いつも太陽のように元気いっぱいだった幼い「祖国」の変わりきった姿におおいに驚いた。そして人類の身体とはまるで違うこの事態に困窮し、泣きついた先が、彼らの宗主国であり、同じ「国」という存在でもあるイギリスだったという。

 それが空港までレンタカーで送ってくれたフランスの語る、事の顛末であった。

「なんで自分の心臓を譲ったかの説明になってないって? そんなの、あの眉毛の感情の機微なんかお兄さんにはわからないさ。すべてあとから、問いつめてあいつから無理矢理聞き出した話だしな。でもなアメリカ、あいつから与えられたおまえが本当にそれを理解できていないとも、俺は思ってないんだぜ」


     ○


 日没の太陽を厚い雲が覆い、あたりが暗くなり始めると、カナダは家路に向かう足を早めた。遠くの空でごろごろと鳴り響く雷を聞きながら急いで玄関に滑り込んだ頃には、ぽつぽつと降りはじめた雨足は次第に強くなっていた。

 雷雨が響く真っ暗な窓外をのぞきながら、カナダが「うわあ危なかったね、クマ吉さん」と、隣に座るいつも一緒の仲良しの白いクマさんに話しかければ、容赦なく「ダレ?」と返ってきた。「カナダだよ! もー、そろそろ名前覚えてよ」

 しかしこのクマさんの名前は本当はクマ次郎さんというので、こればかりはお互い様である。

 さて夕飯の準備に取りかかろうと、買ってきたものをダイニングテーブルの上に並べていると、ふっと家の灯りが消え、一帯が闇にとけ込んだ。

「大変、停電だ」 

「予備電源ガアル」

「そうだった。このまえの台風でいろいろ新しくしたんだ」

 防災用具の諸々がしまってある地下室に向かうべく、カナダは手探りで戸棚までたどり着くと、懐中電灯を取り出す。長いことクマ次郎さんと二人で暮らしていると、様々なアクシデントを二人で乗り越えなければならない。助けてもらうこともあるが、生活におけるたいがいのことでは焦らなくなっていた。

「ふふ、なんだか様になってきたよね。アウトドアの達人みたい」

「オイ、調子ニノルナ」

 そのとき乱暴に家のドアを叩く音がして、今度ばかりはカナダも情けない悲鳴を上げざるを得なかった。こんな激しい雨の中、しかも停電中の夜に来客の予定はない。一瞬脳内にホラー映画の一幕がよぎって、慌てて打ち消した。

 カナダがおそるおそる戸口へと向かうと、後ろからクマ次郎さんがカナダの服の裾を引いた。

「ダイジョウブカ?」

「大丈夫。困ってる人かもしれないよ。前の道で車が壊れたのかも」

 ドアを開くと、ちょうど雷の激しい閃光があたりに広がり、戸口に立つ人物のシルエットを浮き出した。一瞬遅れて爆発音のような轟音が鳴り、「ヒッ」と短い悲鳴が漏れる。

 玄関に立っていたのはアメリカだった。

 傘も差さずに来たのか、髪や衣服はびっしょりと水分を含み、ぼたぼたと玄関ポーチに水たまりをつくっている。しかし彼は身体から水が滴るのも構わず、ただひたすらにじっとこちらを睨んでいた。ただごとじゃない様相に、一瞬で彼の身に何かあったことだけは感じ取れた。

「どうしたんだアメリカ、びしょ濡れじゃないか」

 声をかけるも、アメリカはその場から微動だにしない。

「君も知っていたのか」

 ようやく開いた口から出たのは、普段のアメリカらしくない、ゆっくりと喋る、知らない男のような低い声だった。

「なにを」

「俺の心臓が赤の他人のものなこと」

「知らないよ」

「嘘だ。フランスは知っていた。君も俺より長いことイギリスと一緒にいたんだ。イギリスに心臓がないことだって知っていたんだろう」

 目の前のアメリカは、一切の聞く耳を持つまいと決意しているようであった。彼は目に見えて、ひどく疲弊していた。眼鏡の奥の青い瞳に浮かぶのは紛れもない怒りの感情であったが、風に揺れる炎のようにちろちろと覗くのはそれだけではないように思えた。

 やがて「俺にだけ何も知らされてなかった」と絞り出すように呟くアメリカの声は、今にも雨にかき消されそうなほどに弱々しかった。

「イギリスさんが心臓が無いのは知っていたよ。ずいぶん前だ」

 カナダが静かに口を開いた。

「イギリスさんは、自分からは誰にも話さなかった。僕が気づいたとき、すでにフランスさんも気づいていた。インドさんなんかも気づいていたかもしれないけれど、あの人はあまり深入りしないから。知らないであの空っぽの胸に銃口を向けていたのは君だけだよ、アメリカ」

 アメリカは黙って俯いていた。

 暗闇の中、後ろで様子を窺っているクマ次郎さんに振り返ると、大丈夫、とカナダは頷いてみせた。一歩踏み出してアメリカに近づく。

「イギリスさんのなの」

 アメリカが頷くのを見て、カナダは静かに微笑んだ。「じゃあ、赤の他人のものじゃないだろう」

 はじめて兄弟がいると知らされたとき、カナダは期待と緊張で胸が高鳴ったのを今でも憶えている。自分の兄弟はどんな顔なのか、どんなものが好きなのか、仲良くなれるだろうか。実際に会ってみれば、アメリカの方は当時からまったく興味が無さそうだったけれど。

 二国の関係は良好だが、軋轢や確執と呼ぶには些細すぎる、見えない壁のようなものを今でもカナダは感じていた。片や独立を選び、片や親元へ残ったことによって生まれた、後ろめたさでもあり、前だけ向いて先へ進んでいく兄弟へのコンプレックスによる壁はそう簡単には崩れなかった。カナダがようやくアメリカと対等に接することができると思った頃には、両者には言うべきこと言わざるべきことの判断ができるほどに大人になっていて、子供の頃のまま感情をぶつけあうことは叶わなかった。

 幼少期から青年期に生まれたそれは、今でも胸の奥につっかえて離れない。

「君はあの人から独立したとき、寂しかったかい」

 唐突な質問だった。目をぱちぱちと瞬かせている間に、アメリカは続けた。

「俺は独立したときも、寂しいと感じることはほとんど無かった。最初こそ後ろめたさは多少なりともあったけれど、自分の正しさを誰よりも俺自身が知っていたから平気だった」

「君はそうだろうね」

「そうさ、まったくなにも問題なんてなかったんだ」

 そう言うアメリカは、まるで問題がないとは思えない顔をしている。

「さっき心臓を抜いたんだ」

 さらりと恐ろしいことを言いだす隣国に、カナダは更に言葉を失った。

「胸に真っ黒な穴が空いたようだった。身体の中をすきま風が通って、ひどく寒いんだ。それから、急にひとりぼっちになったような孤独感が押し寄せてきた」

 ここ数年の、イギリスの後ろ姿がカナダの頭をよぎった。だが、そのとき思いついた言葉を、そのまま口にすることはできない。

 そんな考えを読みとるように、アメリカは自嘲気味に鼻で笑った。

「君も、俺を恩知らずだとなじるのか。『だからイギリスさんは君に心臓を与えたんだ、君はイギリスさんの優しさに生かされていたんだ』って。そんなのは違う。そんなものは優しさでもなんでもない、単なる愛情の押し売りにすぎない」

 まくし立てる彼の感情の吐露を、カナダは黙って聞くことしかできない。

「ずっと嫌いなんだ、あの人のことが。恩着せがましくて、じめじめ湿っぽくて、酒癖まで悪くてもう最悪だよ。ただの機械音痴を伝統だなんだと言って旧式の非効率な方法ばっか取っているのも、見ていていらいらするし、遊びに行けば俺たちが小さい頃に好きだっていったものを性懲りもなくつくって待っているのも、何もかも腹が立つ。あんなに料理下手なくせに笑っちゃうだろ。なんであの人はあんなに馬鹿なんだ。ときどき、未だに期待するような顔をするんだ。もうとっくに家族なんかじゃないのに、家族にするみたいな顔を俺に向けてるんだ。それが一番腹が立ってしょうがない」

 先ほどから彼からぼたぼたと滴る雨水は、足下の水たまりの上へと落ち広がっていく。

 そこでカナダは少し考えると、「ねえ、アメリカ」と問いかけた。

「二百年の鐘を貰った日のことはさ、さすがに憶えてるよね」

 アメリカは肯定も否定もしない。

「だって君、すごく喜んでた」

「それは憶えてない」

「嘘だね。憶えてるくせに。君はあの人が帰ったあと、みんなに自慢しまくってたんだから」

 あの日のアメリカはいつも以上に饒舌でテンションが高くて、絡まれた国たちは皆「もう! いつも以上にうざいんだけど!」と辟易して、でもそんな様子のアメリカを本当に厭がってるものたちはあの会場に誰一人いなかったのだ。

「君は喜んでたよ」

「だから、いちいち憶えてないよ」

「憶えてるよ、ちゃんと」

 アメリカの手を取ると、俯いていた視線が上げられた。

「ねえ、アメリカ。腹が立つのは寒いからだ。今君が寒いのは、雨に濡れているせいもあるよ」

 そのとき、玄関の電灯がパッと光を放ち、真下に立つ二人を照らした。同時に家の灯りも点り、近所の家々も徐々に明るさを放っていく。戸口ではクマ次郎さんが白くてふかふかした大判のタオルを二組持って待っていた。

 カナダは招き入れるようにアメリカの腕を引いた。

「いいこと教えてあげるよ、兄弟。あったかいご飯をたくさん食べて、メープルがたっぷり入ったホットミルクでも飲んだら、すぐに寒くなんてなくなるよ」


     ○


 カナダの言うとおり、温かいシャワーを浴びて、暖炉の前で三人で出来立てのあったかい夕飯を腹一杯食べれば、心の空虚も幾分満たされた。そして食後にほっとミルクを飲む頃には、アメリカにも普段のあつかましさがだいぶ戻ってきた。

「でも考えてみれば、アイアンマンは機能しなくなった心臓を動かすために、埋め込んでそれが元でパワードスーツをつくってヒーローになったんだ。やっぱりヒーローに困難はつきものなんだ」

「そうだったっけ」

「そうだよ! 君、俺の家の映画とかに詳しいくせによりによってコミックを読んでないのかい!? 今MCUだって熱いんだぞ!」

「前に一回見たきりだから忘れちゃったんだよね。でも新作はちゃんと追ってるよ!」

「じゃあエンドゲームが始まる前に復習しようよ。去年の誕生日に俺がアップルティーヴィーあげただろ、あれどこやったんだい!」

「使い方がよくわからなくて、箱に入ったまま……」

「君のそういうとこはイギリスそっくりだなあ……」

 探してあげるんだぞ、と人の家をあさる姿はさながら強盗か、冬眠を起こされたクマである。途中で勝手に冷凍庫を開けると、「おっ、アイスクリームがあるじゃないか! 映画のお供にぴったりだぞ!」と大胆に無断で取り出して、これまた無断でメープルシロップをたっぷりと上からかけた。

「オイ、マサカアイツ泊マル気ナノカ」とカナダに訴えるクマ次郎さんに「元気になったならいいんじゃないか」とカナダも夜盗のような兄弟を盗み見る。

 イギリスに心臓が無いことに気づいたのは、いつだったか。確かアメリカとイギリスの関係がうまくいかなくなりはじめた頃にはイギリスの様子に違和感を覚えはじめ、確信を持ったのはヨーロッパでの戦争で疲れ果てた彼の看病をしているときだ。あのときはかなり動転して、イギリス本人に半泣きになりながら確かめたのだ。実はフランスも当時から気づいていたことを知ったのは、もっと後のこと。

 しかし先にアメリカが心臓を失くしていたのだとは、思ってもいなかった。しかもイギリスの心臓が、その空洞に収まっていたとは。

 だって、その期間、ざっと二百年以上!

 アメリカが自分の心臓を胸の空洞に収めていた期間よりも、イギリスの心臓を収めていた期間のほうが遙かに長い。よくもまあまったく気づかないでいたものだと感心するが、それだけ長く一緒にいればとっくに自分のもののように感じられて違和感すらもなかったのかもしれない。

「それにあんなアメリカ、アメリカらしくないよ」

「オマエハオ人好シスギル。ソンナダカラ目立タナインダ」

「それにしても君の家はいつきても代わり映えしないな~!」

 ようやくお目当てのものを見つけたのか散々部屋を荒らし終わると、アメリカはソファにふんぞり返って、アイスを頬張りながらそんなことを言い出す始末である。

「そ、そんなことないよ。メープルグッズだって前より増えたし、君の家が変わりすぎなんだよ。あれだけころころ変わったら落ち着かないよ」

「どんどん新しくなって使い勝手がよくなっていくのはいいことだろ?」

 キョトン、としながらアメリカは聞き返す。

 さてと、と腹が十二分過ぎるほどに膨れるとアメリカは立ち上がった。

「そうだ。いつものパワフルでスマートな俺が戻ってきたところで、とびっきりのグレートな確信がもてたんだぞ!」

「それはよかったね」ためいき混じりにカナダが頷く。「で、それはなに?」

「俺の心臓は、まだこの世界のどこかにある!」


     ○


 国にいたイギリスの元に届いた緊急の通書で呼び出されてみれば、広い新大陸の中の小さな丸太小屋の中、ベッドの上に横たわる幼い少年の姿であった。草原で倒れているのが見つけられたというアメリカは、今はぐったりと布団の中で眠りこんでいる。それまでの数日、食欲もなくいつもどこかぼんやりとしており、ふらっと行方をくらましてしまったのだという。

 イギリスはふと、部屋中にあたたかい空気が充満していることに気づいた。

「先ほど一度目を覚まされたときに、寒い、寒いとおっしゃっていたので、火を炊いているのです」

 人間たちを部屋から出すと、イギリスにくっついてきていた妖精が鞄の中からふよふよと飛び出した。そのうちの一人がアメリカの胸に耳を押しつけると、驚いたようにイギリスに向かって言った。

「ねえ、イギリス。この子、心臓が無いわ」

 そんな馬鹿な話あるわけない。しかし同じように、何度その小さな胸に耳を当てても、彼から大地の鼓動は聞こえてこないのだった。

 きっとどこかに落としてきちゃったのよ。小さい子にはよくあることよ。

 そうよ、イギリスも小さい頃は、お兄さんに追いかけられながらよく心臓を落としていたわ。

 その度に私たちが森の中から探し出してきて戻してあげたんだから。

「じゃあ、こいつの心臓も探しだしてきてくれ!」

 イギリスが焦ったように叫ぶと、妖精たちは一様にして黙り込んだ。

「でも、イギリス。この国は広いわ。あの深い森の中よりも、うんと」

「いつ、どこで落としたのか見当もつかないし、それに──その子、死にかけてる」

 必死で目を逸らしてきた事実を指摘されて、イギリスは自身の心臓が止まりかけた。

「小さい子だから、心臓がないだけで肉体と精神のバランスが崩れるのよ」

「きっと心臓の鼓動も弱くなってるから、目印にはならないよ。すぐには見つからない」

 無意識に、最後に会ったときのアメリカを思い出していた。

 ──ねえ、イギリス。

 ──またすぐに来てね、絶対に来てね。

 大粒の涙を拭いながら、母国に帰ろうとするイギリスの裾を掴んで、嗚咽混じりに何度も何度も彼はそう言った。幼いアメリカの無垢で純粋なストレートな願いは、常にイギリスを困惑させた。縋りつく幼い手を振りきって別れる度に、身を切るような思いだった。そうやって誰かに懇願され、待ちこがれられた経験なんてイギリスには無かった。すべてイギリスにとってはじめてのことだった。はじめてだったのだ。

 ──イギリス、

「ならいい」

 冷たい身体を起きあがらせると、その腕に抱いて、小さな額に己のをこすりつけた。いつも彼からする、お日様のにおいが今は恋しかった。彼のころころした笑い声が聞きたかった。

「大丈夫だ、アメリカ。俺のを貸してやる」


     ○


 閉め切られた寝室の扉をノックしてみるが反応はない。フランスは仕方なく勝手に扉を開けると、明かりもつけずに先ほどとまったく変わらぬ体勢でベッドの上に丸くなっている野暮ったい塊に声をかけた。

「おい、飯つくってやったぞ」

「誰がおまえの飯なんか食うか」

 ま! かわいげのないこと!

 ふざけた声色でそう言うと、ちょうどタイミング良く、ベッドの中からはぐるるるると腹の虫が鳴る音がした。心臓がなくても体調が悪くても、部屋にあふれる美味しそうなにおいに腹の虫はあらがえぬらしい。フランスが鼻で笑うと、殺人級のスピードのクッションがベッドから飛んできた。「十分元気じゃないの」

 フランスはドア枠に寄りかかると、人一倍頑固な昔なじみに、珍しくできるだけ親身に話しかけた。

「なあ坊ちゃん、俺もいい加減帰りたいわけよ」

 しかしクッションと共に布団の中から飛んでくるのは、いつも通りの罵詈雑言であった。

「うるせえな、いいからさっさと帰れよ。そもそも別にいてくれなんておまえに頼んだ覚えはないがな」

 てこでも動かない態度に、ため息をつく。

「いい加減、アメリカに返してもらえって言ってんの」

 一瞬沈黙があった。

「前まで平気だったんだ」

「それはおまえがぶいぶい言わせてたころのことだろ? 今の年中風邪気味の俺たちじゃ耐えられないっつの」

「ちょっと疲れがたまってるだけだ。またすぐに元に戻るさ」

「この二十一世紀にか? もう時代が違うだろ。なあ、おまえが心臓を与えたのは小さい頃のアメリカだ。そりゃあ確かに、あのちっこくて泣き虫だったアメリカが心臓がないっつーんだ。かわいそうだと思うよ。なんとかしてやろうと思ったろう。でも今のあいつはちょっとやそっとじゃ折れないくらいの大国だ。何よりあいつ自身が返したがってる。ヒーローの試練だって言って受け入れるだろうさ」

「確かに今は俺らよりあいつの方が逞しいよ。あんなに可愛かったのに人が違ったみてえに変わっちまった。今でも口を開けばくたばれだ、バカだのなんだの罵倒してくるし、俺のやることなすことなんでも鼻で笑ってくるし、世界大戦のときなんか笑顔で俺に向ける予定の兵器を見せてきやがった。マジのサイコパスかよ」

 そもそも独立戦争の時分から、すでにアメリカの心臓はイギリスのものだった。これまでの幾度と無い争いも、アメリカはイギリスの心臓と共に乗り越えてきたというのに、人の心臓を使っておきながらまったくもって恩知らずで、勝手なことばかりするやつだ。「でもな、嫌なもんは嫌なんだよ」

 背を向けたままのイギリスは、そのまましばらく黙りこくっていた。

 やがてぽつりと、「さっき、あいつの顔見たか」と言った。

「あいつ、泣き顔が昔と全然変わんねえんだよ」

 フランスは半ば呆れたような息をつくと、部屋の中へつかつか入ってきて、手近にあった雑誌で布団にくるまった毛虫をパコッとはたいた。

「じゃあ、尚更返してもらえ」

 フランスが部屋から出て行くと、また腹の虫がぐるぐると暴れ出す。寝返りを打って、部屋の扉へと目を向けると、トレーに乗った食事が床の上にぽつんと置かれていた。

 独立戦争から世界大戦までの間、胸に穴を空けたまま、寒さに堪え忍んで過ごしてきた男はベッドから起きあがると扉に近づく。外から「ちゃんと残さず食えよ」と付け足された声が聞こえた。


     ○


「さあみんな、今から世界会議をはじめるぞ! 今日の議題はズバリ、俺の失われた心臓についてだ!」

 円形の会議室の真ん中で声を張り上げると、アメリカはホワイトボードを勢いよく叩いてみせた。

「これで遺跡の中にあったら、インディジョーンズ並の一大スペクタクルな大冒険ができていいんだけどなあ。あっ、ちなみに俺に今心臓がないからって、国を攻めようとしたり馬鹿なことは考えない方がいいんだぞ。俺の心臓の有無は国には一切反映されてないんだからな! そういうわけだから残念だったなロシア! ところでなんでいるんだい?」

「君がみんなを呼んだんじゃない」

 ロシアは肩を竦めた。「それに僕たち、今はお酒を酌み交わしながら談笑だってする仲でしょ。僕としては元気のないアメリカくんをポキッとしてもつまらないしね」

「HAHAHA! 相変わらず君から黒いオーラが出てるんだぞ!」

「おまえら、私情で召集をかけたんだから、せめて議題くらいは進めろ……」

 早速脱線していく会議に、ドイツが頭を抱えた。

 アメリカが緊急世界会議だと召集をかけたのが、一昨日のこと。私情もいいところの会議なんだから無視したって構わなかったはずなのに、今やこうしてニューヨークの高層ビルにあるガラス張りの会議室になんとなくみんなで集まってしまっているのが、いわゆるアメリカの力だ。円形のテーブルにぽつりと空いた一席以外はすべて埋まっている。その一席は、イギリスのものだ。

「で、その心臓がまだどこかに現存していると考えた根拠を、そろそろ聞かせてもらえるかな」

 背もたれにゆったりもたれかかりながら尋ねるのはフランスだった。

 よくぞ聞いてくれたとばかりに、アメリカは不敵に口の端を上げてみせた。

「簡単なことだ。本当に消失しているのならば、とっくに再生している」

 なるほど、と頷いたのは日本だ。

「私たちはふつうの人間のように怪我や寿命で命を落とすことはありませんし、身体の一部が大きく損壊したままの状態でいることも認められていません。私たちの身体には、ほぼすべてに意味が宿っているからです。アメリカさんのお宅に現時点で国が滅亡するような危機はありませんから、身体の一部が消失したままでいる理由はありませんね」

「場所に心当たりはないのか」

「俺が見つかったのは草原だったというな、フランス」

「らしいよ」

 答えを受けた日本は口元に手を当てると、熟考した。

「では普通に考えると、そこからほど無いところで落とした可能性が高いということですね」

「そうすると難しいな。数百年前だと景色が変わりすぎているだろう。そんな不気味なものが変わらず、ずっと落ちているとは考えづらい。誰かが拾って形を保ったまま保管しているにしても、普通の人間ならそんなことをする理由がない」

「永遠に朽ちずに脈動する心臓は珍しいですから、教会や研究室で保護されているかもしれませんね」

「そんなん見つかったら、とっくに世界でニュースにでもなってそうなもんやけどなあ」とスペイン。

 でもさあと、口を挟んだのはロシアだった。

「そもそもイギリスくんの身体に不調が出始めたのは近年からなんでしょ。心臓が無くなってから倒れるまでの時差は個人差があるみたいだし、もっと前に落としていた可能性もあるんじゃないかな」

「そうなるとお手上げやなあ」

 打つ手がない、という雰囲気が会議室に充満し始めた。

 そのとき。

「誰かにあげちゃったんじゃないかなあ」

 イタリアの発言に、各国が振り向いた。

「イタリア、またその話か」

 呆れるドイツをよそに、イタリアは気にせず続ける。

「ほら、心臓を元にしてつくったシンボルってハートでしょ。アメリカやイギリスの言葉でも、ハートって言うし」

 イタリアは自分の胸の前で、両手の人差し指と親指をくっつけてハートの形を作って見せると、「ま、由来は諸説あるけどな」と愛の国、フランスが答える。

「でもそうだよ、愛の意味を持つシンボルであるところのハートは、心臓を抽象化したって説が一般的に広まってるな。実際、心臓がハートで描かれてることは多い」

「俺もヴェッラに大好きな気持ちを伝えるために、たくさんハートをあげるよ。心臓はあげたことないけど、ハートのカードにいっぱい愛の言葉を贈ったり。あとは思い出の品を俺だと思って持っていてほしいから渡すこともあるよ、パンツとかデッキブラシとか」

「なっ、パンツだと」

「イタちゃん、情熱的やなあ」

「気持ちを伝えるのと、下着を贈るのと、実際に心臓をあげるのとでは、それぞれ相手の反応もだいぶ違ってくると思いますけどね……」

 カラン、と横から軽い音がして、日本が首を傾げた。

「アメリカさん?」

 アメリカはペンを取り落としたのも気づかず、イタリアの言葉に固まっていた。


     ○


 その夜に見た夢は、なんとも奇妙なものだった。

 アメリカはだだっ広い草原の真ん中にいた。高層ビル群の代わりにあるのは切り立つような高い山々だけで、何にも狭まれない青い空を見るのはえらく久しぶりだなあと思ったところで、これは昔の記憶なのだと悟った。

 とりあえず歩いてみようと、しばらくあてもなく進んでいくと、丘の上にぽつんと建てられた木造の家を見つけた。開拓者の家だ。

「Hi、アメリカ合衆国」

 後ろから声をかけられて振り返ると、そばかすのある少年が立っていた。いつの間に近づいたのか、まったく気づかなかった。彼は自分よりもずっと大きなアメリカを見上げて、笑いかけた。

「君は誰だい」とアメリカが問いかける。「この家の子?」

「貴方は俺を知っているよ」と少年は言った。「俺は正直、貴方のことを憶えていないんだけど」

「どうやら、これはずいぶんとへんてこな夢なんだぞ……」

 眼鏡を外して目をこすると、少年が声をあげて笑った。

「夢は脳が情報を整理するためにあるんだ。つまり俺は貴方の記憶だよ」

 説明しながら少年は家の脇に立つ木の幹に一本一本触れていく。木陰に隠れる度に、少年の背丈も少しずつ高くなっているような気がした。

「俺は君を憶えていないよ」

 少年の姿を目で追いながらアメリカが言った。「幽霊っていうわけじゃないんだな?」

「全然違うって! だって貴方たちは人間の私たちよりもずっと長生きなんだ、憶えていないのは当たり前さ」

 少年がアメリカの手を引く。少年はいつの間にか青年の姿をしていて、背丈もアメリカと変わらないほどになっていた。「ほら、行こう」

「どこに行くんだい」

「だから知ってるだろ」

 気づくと、海沿いの小さな町にいた。港には大型船が泊まっており、男たちが海の向こうから遙々やってきた荷物を下ろしてる。

「ああ、イギリス船だ」

 あちこちに積み上げられた木箱の前に商談が行われており、さっそく船からおろした荷物は荷馬車に積まれ、木や石でできた家々の間を縫うように通っていく。町の真ん中に高く掲げられているのは、まだ見ぬ母国「イギリス」の国章だ。そこは小さかったアメリカがよく通っていた町だった。

「あっ、あそこの飲み屋、何度も行ったな」

 アメリカが指で示す先にある石造りの建物に、ちょうどガタイのいい男が入っていくところであった。「船乗りたちがあそこに溜まってたんだ。もうしばらくすると、みんなあそこで政治の話をしていた。俺はまだ酒は飲めなかったけど、大人の話をよく聞きに行ってた」

 青年はほほえんだ。「知ってるよ。俺もあそこの先代には世話になったんだ」

「それから、あれはお母さんと、そのちっちゃい赤ちゃんのいた家だ。赤ちゃんは何もかもすっごく小さくて、ミルクのにおいがして、それですぐに泣くんだよ」

 一目見れば、今でも当時のことをありありと思い起こせる。自由を求めてやってきたイギリス人たちによる都市は活気に溢れていた。

「あそこのおばあさんは頑固でうるさいんだけど、ときどきつくりたての野菜を持たせてくれるんだ。あのおばあさん、なんていったかなあ──」

 いつの間にか青年を見失ったことに気づいたアメリカは、慌ててあたりを見渡した。家の角から出てきたのは、温厚そうな白髪の老人だった。老人は皺だらけの手でアメリカの手を取ると、その手に一輪の青い花を握らせた。

「私が今こうして夢の中にでてきたということは、貴方は今でも私を憶えているということです。脳じゃなく、心臓でもなく、身体のどこかで」


     ○


 親愛なる、心臓を失くした隣国。


 ハロー、イギリス。元気にしてるかい。

 と言っても、心臓が無くて今もこうして寝込んでいるわけだから、元気なわけがないんだけど。ちなみに俺は元気だよ。

 ああ、やっぱり手紙は苦手だ。俺は単刀直入な方が好みだからね、こうして文字で手紙の流儀に則って書くというのは、まどろっこしくて仕方がない。でも顔を見て話したくても、君はぐっすり夢の中にいるわけだから、仕方なくこうして手紙を書いているわけだ。

 結論から言うと、やっぱり、君の心臓を返しにきたよ。

 そう言うと、君はまた怒り狂って話にならなくなるだろうけど、とりあえずこの手紙を破かずに最後まで読んでくれ。手紙なんてらしくないと思ったけど、こういうときばかりは手紙って便利だね。だって俺たちは顔を合わせればすぐに喧嘩になって、いつも本当に伝えたかったことを最後まで伝えられないで終わっちゃうんだ。

 そう。今度は、君に安心してもらえる根拠がある。俺は自分のをちゃんと見つけた。俺の心臓はこの世界にまだちゃんと存在したんだ。

 どこにあったかは書き示さないでおくけど。ああ、当時の自分がどれだけ間抜けだったかはわざわざ書きたくないからね。ただ子供時代の俺のしたことなんだから、少しは多目に見てほしいとは思う。

 でも自分の心臓の在処をすっかり忘れていた俺も大概だけれど、数百年間もそばに置いておきながら気づかなかった君も大概だぞ。君ってやっぱり変なところで抜けてるよな。

 そういうわけで俺は大丈夫だし、君ももう大丈夫。

 これで万事オールオッケー、最高のハッピーエンドてわけだ。

 自分の心臓が戻ってきて最初はなんだか変な気分だったけど、今はすっかり馴染んできたよ。やっぱり自分のは最高だね。それにしても、君の心臓ったら古くさくてすぐに不具合を起こすし、使いづらいったらありゃしなかったんだぞ。

 でも一応言っておくと、俺の心臓を数百年も捨てずに取っといてくれてありがとう。

 目が覚めたとき、君の古くさい胸にも新しい風が吹くように、祈っているよ。


 P.S. やっぱり君のあのカーディガンださすぎるから、この機会に捨てたほうがいいと思うよ。


     ○


「だから一言余計なんだ、一言」

 脱力しつつもイギリスはその手紙を最後まで目を通すと、もう一度頭から読み返した。最近はめっきり電子メールやSNSでやりとりをしようとする元弟の筆跡を見るのは久しぶりであった。数年前に筆記体をやめた崩し文字のその奥には、何度も何度も教えたブリティッシュイングリッシュが隠れているような気がした。

 目が覚めたとき、えらく長い冬がようやく終え春がきたかのように、身体の芯から隅々までぽかぽかと熱を帯びているのを感じた。そんな感覚は久しぶりであった。視線をベッドサイドに逸らすと、封の閉じていない手紙が置かれてあり、そこに書かれてあった内容を読んでようやくすべての合点がいったというわけだ。

 それからもう一つ。

「ほら、いい加減起きろ、アメリカ。眼鏡のフレーム歪むぞ」

 丸い金色の頭をぐしゃぐしゃとかき撫でると、不愉快そうに顔の向きを変えて、また寝息を立て始める。いつからそうしているのか、ベッドに覆い被さるように俯せになってアメリカが眠っているのだ。

 呆れたように溜息をつくイギリスだったが、とりあえず眼鏡だけははずしてやろうと手を伸ばすと、寝息をたてるその顔見て吹き出した。

「寝顔までちっとも昔と変わんねえんだなあ、おまえ」


     ○


 丘の上の教会で鐘が鳴った。どうやら結婚式をしているらしく、新郎新婦を大勢の人たちが取り囲んでいる。

 その様子を、少し離れた教会の公共墓地からアメリカたちは眺めていた。国民が腹を立てていると自分たちまで腹が立っているような気がする彼らは、同じように国民が幸せそうだと、自分まで幸せな気がしてくる。ブーケを投げる花嫁も、それを囲む人々も笑顔に溢れていた。幸せそうで何よりだ。 

 アメリカはイギリスを連れだって一人の男の墓地を探していたが、この捜査は難航を極めどうやら敗色濃厚である。三百年以上も前の、一般人の墓地だ。名前も場所も朧気な記憶を辿って探しているだけ。黙々とそれらしい場所をあたっていても、見つかるはずがない。

「そいつ、おまえの友達だったのか」とイギリスが尋ねた。

「どうなんだろうな、心臓が戻ったら思い出すかと思ったけど。今でも、まだ詳しくは思い出せないんだ」

 アメリカは手に持っていた青い花束に視線を落とす。朧気に憶えてるのは、青い花の記憶。なぜだか、よく憶えていないような男の墓に、この花を手向けたかった。

「でも失くしちゃいけないものなのは憶えてる」

 腰をかけていた木の柵の上から飛び降りると、アメリカは歩き出した。

「帰るのか」

「どうせ見つかりっこないし」

 ふうん、とイギリスもあとをついてきた。彼には関係のない話だったが、きっとなんとなくの察しはついているのだろう。

 彼はあたりを見渡すと、「このへんあれだよな、昔おまえが住んでたとこの近く」と話し出した。

「おまえ、おねしょしたシーツの証拠を隠蔽しようと、朝っぱらからこのあたりまで走って逃げたんだ」

 ピクリと、アメリカが立ち止まった。

「いい加減なこと言うのやめてくれるかい」

「いい加減じゃねえよ。小さかったから忘れてんだろ。俺が泊まる度によくおねしょしてたんだからな、おまえ」

「名誉毀損で訴えるぞ!」

 わなわなとイギリスの顔に人差し指を突きつけると、呆れ顔のイギリスが「指を向けるな」と払いのける。

「つか、おまえも人の心臓を数百年も借りパクしてんだろ。自分の行動は棚に上げてよく言うよな」

「何度も言ってるけど、別に俺はそんなこと頼んでないし、君が勝手に押しつけたことだろ」

「あん?」

「はあ?」

 そのとき、下からすくい上げるようないっそう強い風が吹いた。風はアメリカの手から青い花束を攫う。そのまま雲一つない青空の中へと高く、高く運んでいった。

 大の大人が、その様子をただただポカンと見上げているのは端から見たからさぞかし間抜けだろうと思われた。どちらからともなく顔を見合わせると、気恥ずかしくなって、やはりどちらからともなく視線を逸らした。

 帰り道、今度は先に歩き出したイギリスが不意に言った。

「人間の臓器も記憶があるっていうよな」

「移植前の人間の趣味や嗜好を憶えているってやつかい」

「そう、今まで好きでもなんでもなかったものが途端に食いたくなったりするやつ」

 唐突にはじまるオカルトじみた話にアメリカはわくわくしてきた。アメリカはこの手の真相解明されていない話が大好きだ。

「へえ、君はどうなんだい」

 状況を楽しむように笑いを堪えながら尋ねると、イギリスが鼻を鳴らす。

「そうだな、今は無性にハンバーガーが食いてえ」

 アメリカがはじけるように笑った。

「君らしくもないナイスな嗜好じゃないか。いいよ、食べに行こうよ! 快気祝いだ」

「ビッグマックにコーラとシェイクもつけてな」

「ますますナイスだ!」


     ○


 急かすように青い空に響く汽笛の音に、イギリスは顔をあげた。

 汽笛の音がどこかもの悲しく感じるようになったのは最近のことだ。

 何故だか青い花がほしいとねだったあの子は、約束通りそれを持って新大陸まで遙々会いに行けば顔を輝かせて喜んだ。しかし、その翌日意気揚々と出かけていったと思えば、やがて大泣きして帰ってきた。癇癪を起こした彼は出迎えたイギリスに泣いて当たり、最後には「イギリスなんか大嫌い」と喚いて自室から出てこなくなってしまった。いつもならイギリスが帰国する日には、朝から帰らないでと駄々をこねるものだからアメリカに見つからないようにこっそり帰ることも多々あったが、今日なんかは朝から顔も出さなかった。

 昨晩、アメリカを宥めてやりたくても、怪獣のように泣きじゃくる彼の話は支離滅裂のぐちゃぐちゃで、うまく要点を聞き取ることができず、それが余計にイギリスを困らせた。

 唯一わかったのは、彼の友達であった「Davie」が死んでしまったということだ。

「イギリスさん、そろそろ」

「ああ、わかってる」

 乗組員に促されて、後ろ髪を引かれながらも、桟橋から船へと向かったそのとき。

 いぎりす──っ!

 自分を呼ぶ声に振り返れば、陸地から小さな姿が走り寄ってくるのが見えた。

 慌てて「少し待ってくれ」と乗組員たちに頼みこむと、イギリスは乗りかけた甲板を降りて、勢いよく飛び込んできた小さな身体を迎え入れた。

 息を切らしたアメリカは、その大きな青い瞳からぼろぼろと大粒の涙をこぼし、それをあふれたそばから小さな両腕で必死にぬぐって、ごめんなさい、と言った。

「昨日はごめんなさい、イギリス、ごめんなさい」

 大嫌いって言ってごめんなさい。

 しゃくりあげながら彼は何度もごめんなさいと謝った。

「いいんだ、アメリカ。もういいんだ」

「これ、持っていって」

 泣きじゃくりながら息を切らして渡してきたのは、小さな宝箱であった。箱にはこれまた小さな鍵がかかっていて、手に持ってみるとそれとなく重みがある。

「俺の大切なもの入れたの、開けないでね」

「ああ、わかった」

「俺だと思ってね、ずっと持っててね」

 ねえ、イギリス。忘れないでね。

 俺のこと忘れないでね。

 絶対に忘れないで、また俺に会いに来てね。

 絶対だよ。

「イギリス、大好きだよ」

 大きな青い瞳と共に向けられたただまっすぐな言葉に、イギリスは言葉を詰まらせた。

「ああ、大事にする。絶対にまたすぐ会いにくるよ。俺も大好きだ」

 抱きしめた身体は震えていて、どこか冷たくて、イギリスはそれをどうにかして止めてやりたいのに必死で、だから彼の小さな胸から鼓動が聞こえてこないことに、そのときは気づかなかったのだ。


 


 こころ【心】[名]

 人間の体の中に宿り、意志や感情など精神活動のもとになるもの。精神の働きそのものや、その現れ、また、それをつかさどる場所などとしてとらえられる。

 胸(=心臓)がそれに当たると信じられてきた。

(引用:明鏡国語辞典)

 
 
 

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