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ワールドワイド・スーパーハニー!

「僕たち、付き合ったら上手くいくと思う?」

 その提案は一見、突拍子が無く、とても唐突なもののように思えた。実際にそこに至るまでの間、そんな雰囲気を感じさせない、まったく取るに足らない話を二人でしていただけだったし、そもそもそういった台詞は物語の中だけで聞くものだと思っていたのだ。別に本気で物語の中にしか存在していないと思っていたわけでもないが、そういったことを恋愛として誰かに言ったり言われたりするような経験はこれまでの人生では縁遠かった。

 しかも、それが入り浸っている生徒会室で、幼なじみの口から出てくるとは誰が想像しただろう。

「どうだろうな」

 敬人の口から出たのは正直な感想であった。考えたこともなかったような気がした。

「今更そういう惚れた腫れたといった関係は、こそばゆいだろう」

「そうかな」

 英智は椅子から立ち上がると、敬人の手を取った。窓から差し込む沈む際の目が眩むほどの夕日が、彼の形をした長い影を床に下ろし、敬人の影に重なった。少しでも身じろぎすれば触れあいそうなくらい彼は顔を寄せると、耳元で囁いた。

「試す価値はあると思うんだけど」


     ○


 その日の生徒会は重い緊張感に包まれていた。

 その場にいる役員たちは皆、とある共通の話題を振るべきかどうか様子を窺い合っている。その中心にいる人物は部屋中に充満する居たたまれない空気に気づいているのかいないのか、いつもと変わらず眉間に皺を寄せながら資料を読み込んでいた。

 待ち望んでいた最終下校のチャイムが張りつめた生徒会室の空気を裂くと、これ幸いとホッとしながら役員たちは帰り支度をはじめた。

「衣更、少し待て」

 ほかの役員たちと同じように帰ろうとしていた真緒は、敬人にそう呼び止められて足を止める。どことなく周囲からの憐憫の眼差しを感じながら、うす、と軽く頭を下げた。

 敬人は最後の一人が部屋を出るまできっかり待つと「さっきのあれはなんだ」と尋ねた。

「気づいてたんすか」

「あれだけ遠巻きにされればさすがに気づく」

 曖昧に笑いながら真緒が言葉を探していると「いやわかっている、気を使うな。どうせ昨日のテレビのことだろう」と敬人が忌々しげに制した。

 それは地方局の夕方のお天気コーナーの一幕で、たまたま近所のショッピングモールの広場で女性アイドルの曲を踊るダンサーたちの姿が映されていたというだけであった。

 なぜかそのセンターに明らかに巻き込まれたという困惑一色の顔で一緒に踊る学校の副会長がおり、その脇で見守る一般人の中で腹を抱えてげらげら笑っている生徒会長の姿さえなければ、さらっと見逃されていたことだろう。その衝撃映像は瞬く間に校内SNSで拡散された。

「まあ、なんであんなことを……とは思いますけど」

「あれはフラッシュモブだったのだ」

 拳を握り、歯を食いしばりながら敬人は吐き出した。

「フラッシュモブというのは恐ろしい。雇われた者たちのことを思うと、そう無碍にもできない。おかげで恋するフォーチュンクッキーを一曲まるっと踊る羽目になってしまった。しかも仕掛け人はその傍でげらげら笑い転げているのだからたちが悪い」

「でも俺たちアイドルなんすから、目立ってなんぼじゃないっすか。ドッキリなんか日常茶飯事でしょ」

 真緒のその場しのぎの慰めは敬人には届かなかったようだ。長いため息をつきながら頭を抱えた。「完全に日々樹の悪影響だ。やはり奴はこの学院において害でしかない」

「それは極端な話ですけど、大変でしたね」

「まったくだ。次にしたときは恋チュンハラスメントで訴えてやる」

 決意を新たに頷く敬人に、真緒は何気なく質問した。

「そういや、なんで二人でショッピングモールなんかにいたんすか」

 自然な仕草で眼鏡の位置を直しながら一瞬言葉を詰まらせた敬人を見て、真緒は自分の失態に気づいて後悔する。せっかくの本能が逃げろと信号を送ってくれていたのに、自らその話題に踏み込んでしまった。生徒会長と副会長の関係に深入りしたところでどうせろくなことにはならないのだ。

「俺は公私混同はしない主義だ」

 普段通りのえらくもったいぶった口調で敬人が言った。「たいしたことではないので隠すつもりも無いが、公に言いふらす必要もないと思っていたので黙っていた」

「はあ」

「実を言えば、俺と英智は三週間前から交際をはじめた」

「あっ、まだ付き合ってなかったんすね。おめでとうございます」

「ありがとう」

 視線を落として、またクイと眼鏡の位置を直す。

「実を言えば、先ほどの話には続きがある」

「恋チュンですか?」

「そうだ、テレビ局が映していないその直後のことだ」

 曲が終わると、先ほどまで笑い転げていた英智が神妙な顔をつくって前に出てくるなり、敬人の前で跪いたという。

「そのとき、英智にこれを渡された」

 敬人は上着のポケットから出した自身の携帯タブレットをいじると、液晶画面に一枚の写真を映し出した。薄暗い生徒会室でぼんやりと光りを放つ「それ」を見た瞬間、思わず真緒は両手を口に当て息をのむ。

 小さなガラスの靴であった。とある夢の国のお土産屋さんでも売っていると話に聞くが、おそらくそれよりもずっと繊細で精巧な作りのものだ。

「どう思う」

「どうと言われても」

「交際開始三週間の贈り物でこれは性急すぎやしないか」

「確かに重すぎる気はしますけど」

「つまるところ、英智にとって俺はシンデレラというメッセージなのだろうか……?」

「や、やめてください! 俺に判断を委ねないで!」

 敬人はまたタブレットをしまうと、生徒会長の机に寄りかかり肩を竦めてみせた。

「これにはさすがの俺もしばらく動転したが、俺なりに奴の行動を熟考した。つまるところ、あいつはスパダリとフラッシュモブを履き違えて、とりあえず金さえかければいいと思っているんだ」

「でしょうね」

「そうなれば話は早い。俺が奴に正しいスパダリとフラッシュモブをみせてやればいい。俺も受け身のまま翻弄されているのは性に合わんからな」

「なるほど、そういう結論にいくんすね」

 ここまでの怒濤の話の展開に翻弄されっぱなしの真緒はとりあえず頷いてみせる。

「しかしだ」敬人は持論を展開した。「仮に俺のフラッシュモブと英智のフラッシュモブが同時に起こったとしたら、フラッシュモブとフラッシュモブの全面戦争が勃発しかねない。それだけは避けねばならないだろう」

 そこまで言うと、敬人は本日二度目のため息をついた。

「まったく、どうすればいいんだろうな」

「俺には住む世界が違いすぎてよくわかんないすけど」

 早く帰りたいなどという考えは臆面にも出さず、真緒はできるだけ真摯に答えた。「小金を持っているとそれはそれで大変なんだなと思いました」


     ○


 一度家に帰ってから着替えてきたという英智は、皺ひとつないスーツを少しだけカジュアルに着こなしていて、片側のサイドの髪を後ろへ流した姿で現れた。昔から英智とくる店に、ドレスコードがあるのは珍しくはない。

 リムジンで迎えにきた英智は、後部座席を開けて敬人の姿を一瞥するなり「授業参観のお父さんみたいだね」と素直な感想を漏らした。「でも敬人らしくていいと思うよ」

 連れてこられたのは高層ホテルの上階に位置する薄暗いカジュアルレストランであった。中へ入ると、入り口に立つきっちりとした身だしなみの給仕が、英智の顔を見るなりそそと席へと案内をする。真っ白なテーブルクロスの上に、橙色に淡く輝く小さなキャンドルが灯されているその席は、星空よりも明るい夜景と、その真ん中にひときわ輝く街のランドマークでもあるテレビ塔が真っ正面で一望できる位置にあった。

 席に着いて一息すると、給仕がグラスの中にドリンクを注いだ。未成年なので中身はもちろんソフトドリンクである。予約の段階ですでにメニューは決められていたらしい。

「乾杯」

 グラスを傾ける。

 店の中央にあるグランドピアノから、耳に心地よいピアノクラシックの生演奏が流れ、その上に穏やかな談笑や食器の触れあう音が重なっている。英智の選ぶ店なので味もサービスも申し分はない。上の空で口を動かしつづけていなければ、もっと味や雰囲気を楽しめたことだろう。

 今日で交際をはじめてから一ヶ月になる。

 これまでの流れからいえば、絶対に何かがあるのは読めていた。むしろ何かがなければおかしいくらいで、そのことばかりが気にかかり、先ほどから英智が話している雑談もまったく頭に入ってこない有様だ。

「ねえ敬人、聴いてる?」

 さすがに英智が訝し気に目を細めた。

「英智、話がある」

 フルコースも残るはデザートを待つばかりというタイミングである。このあたりで「妙なことをするな」と釘を刺しておこうと敬人が言い掛けたそのとき、「静かに」と英智が人差し指を口元にあてて黙らせた。

 店の照明が落とされる。

 途端に目の前にそびえ立つテレビ塔の塔体が虹色に染まりあがった。それと同時に店の真ん中にある白いグランドピアノに照明が当てられ、音が鳴らされる。いつの間にかその周りをオーケストラが取り囲んでおり、耳に馴染んだ曲の生演奏がはじまった。

 演奏が佳境に入ると、テレビ塔の色が薄い桃色に変わり、その塔体に「K♡E」という文字が浮かび上がる。

 静寂の後、店の客中から上品な拍手が沸き起こった。

「一ヶ月記念だよ」

 僕たちの、と手を握られる。珍しく言葉を失った敬人を前に、英智は嫣然として微笑んでいる。

「感動して声も出ない、かな」

「どちらかといえば唖然として声も出ない」

 少しでも落ち着こうと、敬人はすっかり冷めてしまった紅茶で喉を潤した。「どうしてCLANNADの曲だったんだ」

「だって敬人好きなんだろう。ゲームもDVDもCDもたくさん持ってるじゃないか」

「確かにあれは人生だと、昔に貴様に話したような気もするが」

 何事もなかったように食事に戻っている人たちの中には、今まさにオーケストラに演奏された曲がまさかギャルゲー原作のアニメのものだと気づいている人は誰一人いないだろうということがせめてもの救いである。

「英智」

「どうかした?」

 きょとんとしながら、英智は首を傾げる。毒気のない顔に一瞬罪悪感が芽生えたが、拳を握ると意を決した。

「貴様が俺のためにいろいろとサプライズを考えてくれているのはわかる」

「気に入ってくれたら嬉しいよ」

「だからこそ単刀直入に言うが」

 そのとき英智の上着の中で着信音が鳴った。先を越されて呆然としている敬人を置いて、英智は液晶に映る着信の主を確認するとうんざりしたように肩を竦めた。「父親からだ。無視すると面倒くさそうだからちょっとかけ直してくるよ」

 英智が席を離れるのと入れ違いに、厨房から火花をあげている蝋燭が何本も立ったホールケーキの乗った台車を押してきた給仕がテーブルの脇に立ち止まった。

「こちら店からのサービスです」

「一旦下げてくれませんか」

 火花のようなホールケーキとともに厨房に戻っていく給仕を見送りながら、敬人は椅子に深く腰をかけると息をついた。

 らしくない気遣いに心身共に疲れていた。いつもであれば、こんな馬鹿な真似はよせと英智を一蹴していることだろう。問題なのは、これが英智のいつもの冗談ではないのがわかっていたからだ。

 英智はおそらく大真面目である。やり方がなんだか古くさくておかしいだけで、彼は真面目に敬人と「恋人」らしいデートをしようとしているのだ。だから普段のように強い口調で諫めるのは、敬人といえども憚られた。それに、と敬人は慮る。英智は飽きっぽい。そのうち勝手に向こうからこの状況に飽きるのではないか、それならばわざわざ言葉にして気分を害させる必要はないのではないか。こうして英智の気分にただ身を任せているというのは、まったくもって敬人らしからぬことだけれども。

 そう、まったくもってこれは自分たちの関係らしいことではない。いずれ薄れるだろうと楽観していた違和感は肥大していくばかりである。

 望む関係はこれだったのだろうか、と敬人は考える。

 英智は本当にこういうことがしたかったのだろうか。

 先ほどの給仕が戻ってきたので、敬人はうんざりした顔を取り繕うのも忘れて口を開いた。「すみません、料金は払うので先ほどのケーキはキャンセルしてください」

「いえ、ラストオーダーになります」

 そんな時間になるのかと腕時計で時刻を確認する。

 そこでようやく、その場にいない英智のことが気にかかった。英智が電話をかけ直しに席を立ったまま、しばらく経つ。一向に戻ってこないのだ。

 店の外には出ていないようなので、奥のトイレまで様子を見に行くと、扉一枚隔てた向こうから勢いよく水の流れる音がする。

 扉を開けると、流しっぱなしの洗面台にすがるようにもたれかかる英智の姿が目に入った。彼はがごほごほと咳込みながら、つるつると反射する大理石の床の上に座り込んで肩を震わせていた。

「英智」

 その肩を抱くように触れると、英智の瞳が一瞬怯えるように揺らいだ。

「僕は大丈夫だから」

「何が大丈夫なんだ」

 英智の背中をさすりながら、敬人は下の駐車場で待機しているはずの彼のSPを電話で呼び出した。


     ○


 幸いなことに、英智の容態は大事にはならなかった。ただ薬の副作用で軽い目眩が起こり、その際に動転したのか、気管に異物が入って咳込んでしまったというだけだった。

 帰りの車の中で、「最悪だ」と英智は呻いた。

 高速道路を走る車窓からの景色は、糸を引くように街の灯りが過ぎ去っていく。楽しげに色を変えながら廻る、どこかの商業施設の観覧車が通り過ぎていく。彼は窓に頭をもたれかかるようにして、自身の容態とは相反するような煌びやかな夜景が遠ざかっていくのを、横目でじっと睨むように眺めていた。

 敬人が指の先で彼の額に触れると、じんわり汗ばんでいて、相反して肌は血の気がなく真っ白であった。水分の含んだ瞳が熱っぽく宙を睨んだ。

「最悪だ、もっとちゃんとやれたのに」

 その声もまた水気が含んだように震えていた。「もっとちゃんとエスコートできたのに」

「貴様に愛されるのは気分がいいな」

 額にかかる前髪を払ってやりながら、敬人が笑った。少しでも安心させてやりたかった。

 しかし「嘘だ」と英智は言った。その口を挟む暇さえ与えぬ責めるような口調の強さに、敬人はいささか面食らった。英智は敬人の手を払いのけるようにして背を向けると、窓辺によりかかる腕の中に顔を埋めてしまった。

 暗闇に浮かぶネオンだけが、窓の外を静かに流れていく。しばらく経ってから英智がようやく口にしたのは、くぐもったひどく小さな言葉だった。

「敬人は、僕がどれだけ敬人のことを好きかなんて考えたこともないんだ」


     ○


「僕たち、付き合ったら上手くいくと思う?」

 その提案は一見、突拍子が無く、とても唐突なもののように思えた。実際にそこに至るまでの間、そんな雰囲気を感じさせない、取るに足らない話を二人でしていただけだったのだ。最近の評判のいい舞台が気になるだとか、買うだけ買って読めていない本が積む一方だとか、久しぶりに学院のこととはまったく関係ない話を生徒会室に残りながらしていただけだった。

「どうだろうな」

 口から出たのは正直な感想であった。誤魔化したいわけでもなく、ちゃんと考えたことがなかったのだ。

「試す価値はあると思うけど」

「交際をか」

「後悔させないつもりだよ」

「それは……なんだ、ありがとう」

「どういたしまして」

 唐突さとその押しの強さに、これはまた何かの悪い冗談かとちらりと思ったが、英智は食い下がってきた。

「本当だよ。僕が彼氏になったら、いっぱい尽くしてあげるし、なんでも買ってあげる。敬人が欲しいなら島でも国でも。毎日送り迎えさせるし、記念日はとびっきりのサプライズで祝うよ。彼氏としてそう悪い条件じゃないと思うんだけど」

 いつの間にか手に痛みを感じていて、それが英智に強く握りしめられていることによるものだとようやく気づいたものの、なぜだか指摘するのが憚られた。英智の瞳はまっすぐと敬人を見据えていて、それを一瞬でも逸らすのは目の前の彼へのひどい裏切りのようにも思えた。

「英智、まわりくどいのは貴様の悪癖だと、俺は何度も言っているだろう」

 視線をはずし、握った手を解かせると、英智の瞳が一瞬大きく揺れた。代わりに、より絡められるように自ら握り直す。

「俺も英智が好きだ。付き合おう」

 そのときの英智は、ほっとしたような、力の抜けたような、なんだか泣きそうな顔をしていた。


     ○


 授業終わりのベルが鳴り、教師が教室を去り一息つくと、途端に壁の向こうからなにやら爆発音のような笑い声が聞こえた。隣のクラスの騒がしさに比べれば、A組は静かに思える。敬人が鞄から次の授業の教科書を取り出していると、前の席に座る人影が目に入った。

「敬人、今日は一緒に帰ろうよ」

 横座りして身体を敬人に向けている英智は、昨日とはうってかわって機嫌が良さそうに敬人の手を弄んでいて、彼が何を考えているのかもうわからなかった。

「今日は部活だ」

「じゃあ待っててもいいかな」

 物語の王子がするように、恭しく指先にキスを落とした。視界の端で哀れにもその様子を目撃してしまった泉が顔を歪めているのがわかる。

「やめだやめだ」

 ここまでが敬人の限界であった。さすがにもうこれ以上は付き合っていられない。敬人は降参するがごとく両手を上げた。「こんなのは、まったくもってらしくないだろう。何が目的なんだ、英智」

「なんのこと」

 表情を変えずに英智が聞き返す。

「俺は最初、貴様が本気で言っていると思っていた。だが、やはり何か裏があるとしか思えん」

「敬人はそう言ってほしいの」

 睨み合うでもなく、ただ瞳の奥をさぐり合うように二人はしばらく見つめ合っていた。

「そりゃあちょっとは無理はしてたけど」視線をそらさずに英智が言う。敬人の手を握っていた力が強くなる。「裏も何も、僕は正直だよ。正直じゃないのは敬人の方だ」

「俺がいつ貴様に嘘をついたというんだ」

「じゃあ、どうして僕と付き合ったんだ」

 ここまで文字通り、開いた口がふさがらない状況があるだろうか。生唾を飲み込んで、敬人は声を抑えた。

「俺の気持ちは先に言っただろう」

「そんなの本当の気持ちじゃないよ。でも最初は嘘でも口説いていけば僕と付き合ってもいいと本心から思ってくれるかなって頑張ったのに」

 この苛立ちの起因がどこにあるのか敬人自身にもわからなかった。一つあげるとするならば、何一つ信じられていないことに対する裏切りに似た感情だった。

「貴様は自分が自分がと、自分の主張ばかりしている」

 口から出たのは敬人自身でも驚くほど責めるような低い声だった。英智が一瞬怯むように黙り込んで、視線を逸らした。

「だってそうだろう、敬人は殊勝なふりして浮気ばっかしてる」

「誰がいつ浮気をしたんだ。おもちゃをころころと変えるのは貴様の方だろうが。貴様の自己中心的な態度に振り回されるこちらの身になってみろ」

「それと恋人はまったく別だよ」

「そっくりそのまま返してやる」

「敬人なんか僕が好きだって言うからそんな気になってるだけじゃないか」

「聞き捨てならん」憤慨した敬人が立ち上がった。「誰が貴様なんかに合わせたというんだ」

「だってそうだろ、僕の方が先に好きだった」

「いや俺の方が先に好きだ」

 まったく何もわかっていない男に、勝手に本心を決めつけられるのは業腹であった。

「貴様は気づいていないかもしれんが、曲だって常に貴様を想って書いていたんだぞ」

「そんなのは自分に酔ってただけだよ」

 英智も負けじと柳眉を逆立てると、人差し指をびしりと敬人の顔へと向けた。「敬人は自分に酔っている!」

 これはさすがの敬人の怒髪天を衝いたようだった。

「言わせておけば」

「俺からも言わせてもらうけど」

 突然かけられた声に思わず口を噤んで振り返ると、腰に手をあてた泉が腹立たしげに二人の横に立っていた。泉が教卓を指すと、やはりこちらを睨んでいる椚先生と目があった。いつの間にか、ここが教室であることも、休み時間であったことも忘れていた。

「もうとっくに授業はじまってるから、生徒会」


     ○


「敬人のせいで怒られた」

「どう考えても貴様のせいだろ」

 授業を妨害したとして、二人には罰として椚先生より放課後の教室の掃除を言い渡されたのだった。英智は敬人を恨めしげに睨んだ。

「いつもなら埃がたつから掃除をするなって言うのに、今日は言ってくれないし」

「自分の主張がめちゃくちゃなことに気づいているか」

 しばし睨み合っていたが、先に敬人が肩を落として息をついた。

「やめよう、子供の喧嘩よりも幼稚だ」

「賛成」

 一応は黒板を拭いたりと掃除らしいことをしている敬人に対して、英智は早々にやる気をなくしたらしく、窓際に寄りかかると長箒を持て余していた。開け放たれている窓からは、グラウンドや体育館から運動部の喧噪がどこか他人事のように遠く響いてくる。敬人が振り向いたときには、英智はぼんやりと教室の隅のあたりを見つめていた。

「ほら、やっぱり上手くいかない」

 うまくいくわけがなかった、と彼はやはりどこか虚ろ気に呟いた。薄く開いた口から放たれた言葉は、下手すれば外の喧噪にかき消され、聞き漏らしてしまいそうであった。「言わなきゃ良かったんだ」

「本当に、俺が言ったことを何一つ信じていないのか」

 英智は何も見ていない。それが先ほどは無性に腹が立って、今は悲しかった。

「最初に言っただろう、俺も英智が好きだ」

「僕の方が好き」

「まだ言うか」

 呆れたように敬人が少し笑った。もうあまり怒っていないようだった。

「俺が貴様と付き合った理由を詳細に言ってやる」

 鼻を鳴らして人差し指で眼鏡の位置を直す。一緒に隣に並ぶ敬人の顔を、英智が見つめた。

「俺は貴様のことをずっと家族のように思っている。それは貴様も同じだろう。それくらい共にいるのは俺にとって当たり前のことなんだ。しかしそう言えば、今度はそれは恋愛感情じゃないと貴様は屁理屈をこねくりまわすだろうから先に言わせてもらえば、自分でも驚くことに貴様に対する友愛や敬愛や情愛だけでなく不純な感情だってある。それだけじゃない。貴様が健やかなときはもちろん、体調を崩しているときも、その隣にいるのが俺じゃないと我慢がならないからだ。どれだけ拒否されようとそれだけは絶対に変わらん。貴様が俺の夢そのものだからだ。どこで終わろうとどこまで続こうと、その最後まで英智と人生を寄り添うつもりだからだ。どうだ、これでもまだ足りないか」

 英智は下を向いたまま黙っていた。まだ響いていないのかと思い続けようとすると、彼の手がジャケットの袖口に伸ばされ、控えめな力で引いた。

「サプライズが重いよ、敬人」

 英智は下を向いたまま、もう片手で顔を覆うようにしている。

「だって、それはまるで結婚のプロポーズじゃないか」


     ○


 その日の生徒会もまた、重い緊張感に包まれていた。その場にいる役員たちの中心にいる人物は、部屋中に充満する居たたまれない空気に気づいているのかいないのか、今日もやはりいつもと変わらず眉間に皺を寄せながら資料を読み耽っている。

 そこで唐突に、座の中心にいた敬人が立ち上がるとその場の空気が硬直した。

「衣更、少しいいか」

 誰も見てはいない。しかし無言の視線を感じながら、真緒は敬人の後へとついて生徒会室を出る。隣の空き教室の前の廊下まで進むと、周りに誰もいないことを確認してから、「今日はなんだというんだ」と敬人が声を落としながら尋ねた。

「あー」腕を組みながら眉を顰める敬人の視線から逃れるように、真緒が天を見上げる。

「また、ちょっと噂がたっていまして」

「俺のことか」

「生徒会長と副会長が婚約したとか」

 射抜くような視線に適わず、真緒は観念した。「この前教室でそんなことを話しているのを聞いた生徒がいたとかなんだとかで」

「くだらん、そんなことか」

 ばかばかしいと言うように敬人が片手をあげる。思ったより軽い口調で、真緒は胸をなで下ろした。

「みんなゴシップ好きっすよねえ」

「まあ、半分は本当だ」

 なで下ろした胸がそのまま硬直した。

「別に婚約はしていない。似たようなことは言ったらしいがな。むしろ、それを機に初心に戻ることにしたんだ」

 そう言うと敬人は懐から薄いツバメノートを取りだし、真緒の顔の前に見せつけた。

 真緒はツバメノートの表紙に書かれた文字と、敬人の顔を見比べ、一瞬間を開けた後に大きくのけぞった。

「ウワ──交換日記だ──ッ⁉」

 ツバメノートの表紙には、黒のマーカーの達筆な文字で「交換日記③」と書かれてある。もしや一度の交換でノートを一冊消費しているのだろうか、そんなおそろしい考えが脳裏によぎるとすぐさま自ら打ち消した。

「俺たちはそれまで過ごしてきた年月の上にあぐらをかいて、どこか相手の気持ちを決めつけていた節があったことに気がついてな。それまで疎かにしていたことを埋めるためにはこれが一番手っ取り早い方法だと思ったんだ」

 目の前で震えている後輩など意にも介さず、敬人はぱらぱらとノートをめくると口元を綻ばせた。

「この歳で俺が交換日記など意外かもしれんが」

「意外を通り越して妙な納得感はありますよ」

「まあ、誰もが一度は通る道だろう」

「そうっすね、女子が小学生の頃とかに通りますね」

「顔を見るたびについつい憎まれ口を叩いてしまうんだが、こうして日記という形の文章だと驚くほど素直な言葉が書けるので、俺たちの性には合っているようだ。正しい学生の交際の形とも言えるな。それに、お互いのことをもっと理解するために、最初のページに最近の気になるものや、好きなものを書いたりもしている」

「それプロフィール帳も兼ねてるんすか⁉」

 敬人は満足気にノートを閉じると「まあ、そういうわけで心配をかけたが、なんとかうまくやっていけるだろう」と締め、生徒会室へと戻っていった。

 心なしか軽い足取りでなんだかより不思議な道へ進んでいっているように見えるが、うまくいっているならばそれに越したことはないだろう。妙な疲労感を覚えながらも、真緒もまた副会長のあとへ続くように生徒会室へ戻ろうとした、そのとき。

「ちょっと待ちなさい」

 誰もいないと思われていた空き教室からひょっこり顔を出したのは、全ての元凶である生徒会長であった。

 英智は真緒を招き入れ適当な席に座らせると、自らもその前に座り向かい合う。

「なんですか」

「実はちょっと相談があるんだけど」

 生徒会長から個人的に相談されるというのはただ事ではない。嫌な汗が肌を伝うのを感じた。英智は長い指を絡めるように組むと、たっぷり時間をかけて切り出した。

「男子高校生が二人で交換日記をすることについて、君はどう思うかな」

 今時の高校生は交換日記はしないよね。でも敬人がとても乗り気でそんなことを言える空気ではないし、そもそも交換日記をしたことがないので、どんな内容を書くのが正解なのかわからないんだよ。などなど。

 目の前の後輩を置いてけぼりにしながら、英智は淀みなく続けた。懸河の弁に溺れながら、真緒は思わず叫んでいた。

「もう勘弁してください!」


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