彼はその頃、幼い子供であった。
当時既に世間に名を馳せていた二人の第一子として生を受けた彼は、透き通るような薄い金色の髪に、マシュマロのように白くもちもちとした柔らかい頬を持っていた。平たいおでこにはめまぐるしく日々追加されるたくさんの知識と興味関心事で溢れ、ぷっくりとした形のいい唇はそれらを雄弁に語り、綺麗な若草色をした大きな瞳は常に世界が真新しく新鮮に映り、森羅万象に対する好奇心で爛々と輝いていた。
彼は二人が一生懸命考えてつけてくれたステキな名前を持っているが、それに込められた本当の意味を知るのはまだ当分先のことになるだろう。生まれたときから一緒にいる緑と黄色のセキセイインコのぬいぐるみが、彼の大切な友人であり宝物である。
彼が毎日話してくれるお話からすでにその知己と聡明さがにじみ出ていたと語るのは敬人であり、彼の創る鼻歌やお絵かきの一つ一つにも独特の芸術的センスがいかんなく発現していたと語るのは英智である。親バカともとれるほどに惜しみなく愛情を注がれた彼は、一番懸念されていた短命な家系であるところの英智の身体の弱さも受け継ぐことなく健康に育つこととなった。
彼はこの両親を敬愛していた。彼にとって、何よりも誇りであった。それは成長した今でも変わらないことである。
彼が一番好きなのは、寝る前に英智の膝の上でゆらゆらと抱かれながら、敬人のお話を聞く時間だった。それは敬人が小さい頃につくったお話が多かったが、彼や英智にせっつかれてその場で即興でつくることもあった。その場合、たいてい主人公は彼の、小さな冒険譚であった。様々な危機が訪れる展開にはらはらと手に汗握り、しかし必ず最後はハッピーエンドで、ほっと安堵した途端、うとうとと眠くなるのである。そうしているとき、恐怖も不安もすべて取っ払われて、ようやく安心して眠ることができたのだった。
○
その日、幼稚園から帰ってきた彼がいつものように病室へ入ると、そこには誰もいなかった。少し考えてから病室を後にすると、彼は一階に戻って裏口の扉から外へ出た。空は灰色に曇っていて、遠い空から黒い雨雲がどんどんとこちらに近づいているのが見える。冷たい風が吹いて、一瞬背筋をぶるっとふるわせると、急いで裏庭にある小さなイングリッシュガーデンに向かって走った。
まもなくして、彼はテラス席に座って楽譜に目を通している英智を見つけた。
英智は彼の姿を見るなり、柔和な笑みを浮かべて立ち上がった。
「やあ、かわいい僕のクリストファー・ロビン」
走ってくる彼を抱き留めて迎え入れると、「顔を見せて」と彼の目線の高さに合わせてしゃがみ、彼の頬に触れながらその瞳をのぞき込んだ。
「英智はいつも目を見るね」
「ああ、君の瞳が何より好きなんだ」
「他はないの?」と尋ねると、英智は青い瞳をパチパチと瞬きさせた。「あとは賢い中身がたっぷり詰まったこのおでこかな」そう言って彼の額にぐりぐりと自身のを押しつけると、彼がくすぐったそうに笑った。
またしてもひんやりとした風が、ガーデンスペースの中を吹き抜けていった。この小さなイングリッシュガーデンはあまり公の場に姿を現せない英智のために作られたものだが、それを天祥院家が作らせたのか、はたまた病院側が好意で作ったのか判然としない。ただ英智がこの病院の中で唯一気に入っているところだという。
「また降りそうだし、中に入ろうか」と英智が言った。
見上げると重たい雨雲が差し迫ってきていて、今にもひと雨きそうであった。「病室に確か貰い物のチョコレートがあるよ」
彼を抱いて立ち上がろうとすると、彼は首をふるふると横に振った。英智が首を傾げる。
「もう大きいから、抱っこすると英智が疲れちゃうからダメだって」
「それは敬人が言ったんだね。まったくしょうがないなあアイツは。僕だってまだ息子を抱き上げるくらいできるよ」
そこまで言うと、よっこいしょと彼を抱き直しながら立ち上がった。「でも確かに君は重くなったな。大きくなったんだね」
英智の腕の中で、彼はもぞもぞと幼稚園鞄を開いて中身を漁った。
「あのね、英智に絵を描いてきたよ」
「嬉しいな。またお話しながら見せてくれるのかな」
英智が言うと、彼はにっこり頷いた。しかしすぐ顔を曇らせると、「このまえ、壁にお絵かきしたら敬人に怒られた」とむっすりしながら言いつけた。
最近あてがわれた彼の部屋は、もともとさほど使われていなかった書斎の一つを潰したものである。早いうちから自立を促そうと、敬人による一人で寝る癖をつける試みらしいが、今のところ結果は芳しくないらしい。できたての彼の部屋はまだ物も少なく殺風景である。真っ白な壁は彼にとって広大なキャンバスに見えることだろう。
「あふれ出る君の創作欲を邪魔するとは相も変わらず分からず屋だね。あとで叱ってやらないと」
彼が絵を描いて見せると、誰よりも喜んでくれるのは他ならぬ英智だった。
はじめて彼の絵を見たとき、そして彼が絵を描くことが好きだと知ったとき、英智はその陶器のような白い肌に涙を伝わせた。幼い彼にはもちろんその意味がわからず、少なからず困惑させられた。
その涙の本当の意味を彼が知ったのは、もう少し大きくなってからのことである。
○
蓮巳敬人には、幼なじみがいた。実家の寺と懇意にしている家の一人息子で同い年。遊び友達にでもなるだろうと父親につれていかれた葬儀の場で出会った少年だった。まるで自分を神様だとでも思っているぐらい我が儘で傲慢で、そのくせ泣き虫で、誰よりも臆病な少年だった。生まれたときから重い病気を患い、その身体には常に確かな死の気配を纏っていた。
「何も残せずに死ぬのが怖い」
いつだか病院のベッドの上で、そう言った彼の白く細い腕には点滴の管が繋がれ、これまでのおびただしい数の注射の跡が痣となって痛々しく残っていた。小さく震える手のひらを力強く握る度に、胸が締め付けられるようにきりきりと痛んだ。
この静かに激しく燃え上がる命を、敬人は愛していた。単純な崇敬ではない、友情でも愛情でも、もちろん同情なんかでもない、いかんとも言い難い複雑なぐるぐるとした情に、幼い頃よりずっと突き動かされていた。彼のためにすべてを捧げても惜しくなかった。敬人にとってそれは当然のことであった。高校三年の夏の終わり、英智によって対等な友人として関係が修正されてもなお、それは変わらない。対等になったことでその関係がまた少しずつ変化を起こしていても、名実ともに人生を共にすることになってもなお、それは至極当然のごとく思われた。それらはすべて当たり前のように、すとんと胸の中に落ち、あたたかく広がっていった。
たださすがに英智が子供を欲しがることまでは予想外だったので、ひどく困惑させられた。昔から無茶を言う奴だが、これはさすがに無理があると思った。意見の対立からやがて大喧嘩に発展したが、話し合いに話し合いを重ねて結局は敬人が折れることとなった。昔からそうだ。どんなに大喧嘩したって、いつも敬人から謝っている。ずっとそうして、二人でやってきたのだ。
そうして覚悟を決めたとならば、万全の対策を講じる必要があった。
最初は英智のための世界をつくるために。あの夏から今は英智の望む世界と、この世界に折り合いをつけるために働いてきた。
そのために自分がいるのだと、自負している。
○
面会時間がとうに過ぎた病棟は、ひっそりと静かであった。ときどき聞こえてくるぽつぽつとした話し声や、廊下を通る足音、窓の外でしとしとと降り注ぐ雨音がやけに響いている。顔見知りの看護士とすれ違いながら、敬人は行き慣れた廊下を進んだ。
突き当たりにある病室は、電気が点いていなかった。敬人が部屋に入ると、ベッドの中の英智が半身を起き上がらせて迎え入れた。
「残念、入れ違いだね」と英智は微笑みながら言った。「今さっき、君のお母さんが迎えに来て帰って行ったよ」
電気を点けて来客用の椅子に腰掛けながら、具合はどうかといったことを聞いた。
「そう悪くないよ」と英智は答える。「これからのスケジュールに備えて、大事を取って退院を一週間延ばしただけだから」
彼の誕生は、英智の肉体を極限まで追いつめたらしい。彼が生まれてからの数年間、英智はその生活のほとんどを病院の中で過ごしていた。仕事は完全に断っていたわけではなかったが、病院から直接現場に赴くことも多く、家で過ごせた時間はきっと他の親子たちよりもずっと少ない。
窓の外を打つ雨音は次第に激しくなっていった。
「また降ってきたな」と窓の外を見ながら敬人が言った。
「敬人は雨が嫌いなんだね」
「嫌いと言うほどでもない」
「好意的でないのは、僕のせいなのかな」
「それもあるな」
雨にはあまりいい思い出がなかったりする。
気圧が低くれば英智の体調もますます芳しくない。濡れて体を冷やせば風邪を引いて死にかける。一度、庭で遊んでいた際に、激しい夕立に遭ったことがあった。家の中に戻るまでの僅かな距離、僅かな時間であったが、雨に濡れて身体を冷やした英智は肺炎を起こしてそのまま入院してしまったことがある。
「でもあんまり僕にとっては雨は関係ないんだよね」と見舞いの席で幼い英智は言った。「死ぬときは何したって死ぬんだ。だから君がそんな顔をするのは無駄なんだよ、敬人」
英智は口元に笑みをつくると、一緒になって窓の外を眺めた。
「あの子、いつもより元気がなかったな」
「貴様の退院が延期になって少し落ち込んでるだけだ」
「それはあるだろうけど」
「貴様が戻ってきたら機嫌も良くなるだろう」
すると「敬人」と咎めるように英智が呼んだ。「おんぶに抱っこは嫌だって言ったよね」
一瞬、敬人は面食らったような顔をした。それから一つ息を吐くと、沈むようにして椅子に腰掛け、最近彼が幼稚園に行きたがらないと説明した。
「駄々をこねるわけじゃないんだ。朝になると、今までできたことが少しずつできなくなっている」
「壁に落書きもしちゃったんだってね」
「聞いたのか」
「怒られたって文句言ってたよ」英智は笑いながら言った。「あの子は一度駄目だと言えばもうやらないのに」
「少しきつめに叱りすぎたかもしれない」
「甘くなったなあ! 昔は、幼い僕には問答無用で叱ってたのに」
敬人は少し考えているようだった。「貴様とあいつは違う。それに、俺もあの時とはもう何もかも違ってしまっている」
英智は少し身体を窓際に避けると、その空いたスペースをぽんぽんと叩いた。座れとのことらしい。隣に腰掛けると、英智はぴったり寄り添うようにして敬人の肩に頭をもたせかけた。
「ねえ、敬人死んじゃいそうだよ」
英智が目を伏せる。「またここで隣のベッドで寝るかい」
「あれは体調管理を怠った俺の落ち度だ。もう同じことにはならない」
思い出したように敬人が呻く。
彼が生まれてからの濃密すぎる一年、敬人は非常に多忙な日々を送っていた。もっとも彼の人生では、忙しくないときの方がずっと少ないかもしれない。「紅月」以外での個人のメディア露出を極力減らし、家での書き物を中心にした。母校である夢ノ咲学院で臨時講師として教鞭を振るうようになったのもその頃である。偏に少しでも彼に合わせた規則的な生活を送りたい思いからだった。
英智はあまり信じていないのか、ふうんと気の無い返事をした。それから敬人の掌に自身のを重ねて指を絡めるようにすると、「僕はあの子と一緒に暮らすのが怖いんだ」と静かな声で呟いた。その声に、薄い掌を握り返す。
「貴様にも懐いているだろう。今日も自分から会いに行きたがっていた」
「あの子は僕のことなんて、ときどき会って遊んでくれる親切なお兄さんぐらいにしか思ってないよ」
悪戯っぽく口端をあげて笑うと、英智は繋いでない方の手で、敬人の頬に触れた。
「ね、敬人。先に待ってるから、一緒のお墓に入ろうね……」
「縁起でもないことを言うな……」
げんなりした声で告げると、英智の首筋に触れて自分の方へと引き寄せた。コツン、と額を合わせると、触れ合った箇所からじんわり英智の熱が伝わってくる。上目遣いで見上げる英智の透き通る青い瞳と視線が交わった。
「何を考えてるか知らないが、貴様は好きに生きればいいんだ」
睨みつけるように言えば、青い瞳は一瞬驚いたように丸くなった。
「負い目を感じているならばさっさと戻ってこい。貴様にも手伝ってもらわないと本当に死にそうだ」
「それはかなり責任重大だね」
捩るようにして、くすぐったそうに笑った。
「まあ見ててよ、頑張って生きてみるから」
○
幼なじみがいた。実家の寺と懇意にしている家の一人息子で同い年。遊び友建にでもなるだろうと父親につれていかれた葬儀の場で出会った少年だった。まるで自分を神様だとでも思っているぐらい我が儘で傲慢で、そのくせ泣き虫で、誰よりも臆病な少年だった。生まれたときから重い病気を患い、その身体には常に確かな死の気配を纏っていた。
はじめて会ったときはとんでもない奴だと憤慨したのを覚えている。その次に会ったときは、不思議な奴だと思った。どれだけの人生を捧げても構わないくらい、こんなに面白い奴はきっともう二度と出会えないと感じるまで、そういくらもかからなかった。
ずっと昔から英智の望む世界を見たかった。その世界で、誰よりも自由に、思うがままに生きる英智を見たかった。その為ならなんだってしてやれると思った。英智に降りかかる火の粉を払い、彼の抱える大事なものまですべて包んで守ってやれると、そう思った。自分に与えられるものなら、なんだって与えてやりたかった。
そうして求められるだけ与えてきた身体は、擦り減るどころか入りきらないくらいのたくさんのお返しで溢れてしまった。
廊下を走る、小さな足音がした。
少し間を置いてから書斎のドアが薄く開かれると、廊下からインコのぬいぐるみがひょっこりと顔を出した。何が始まるのかと見ていると、突然インコの首が絞められ「グェェエエエギギイイイ」とこの世のものとは思えない断末魔の叫び声をあげた。「この子が死にそうなの! 中に入れて!」
「小芝居はいいから中に入れ」
呆れながら敬人がドアを開けると、インコのぬいぐるみを両手に抱えた彼が部屋の前に立っていた。
「言いたいことがあるなら、小細工をしないでちゃんと言いなさい」
彼はもじもじとインコの首を絞めたりしていたが、やがておそるおそる「敬人と寝ていい?」と尋ねた。
「大きくなったから、自分の部屋で寝る約束だろう」と敬人が腕を組む。「まだ累計三日と成功していない」
「でも、向こうだとうまく眠れない」彼が自室の方を指さす。「うまく眠れないと、朝起きれなくなっちゃうよ」
敬人はしばらく渋い顔をしながら考えていたが、根負けして彼の手を引いて寝室に向かわせた。「今日だけだぞ」
彼はまずインコの寝床をベッドの上につくってやってから、ようやく自身もあがって布団の中に入った。その隣に敬人も潜り込んで横になると、彼は目元だけ毛布から覗かせながら「お話して」とねだった。「アリスのがいい。続き聞かせて」
「残念ながらあれの続きはないんだ」
「でも気になるよ」
「そうだな、今続きを考えて聞かせてやってもいいが、それよりも俺はおまえの話が聞きたい」
彼は大きな目をぱちくりさせた。
「幼稚園のこと?」
「幼稚園のことじゃなくても」
彼はしばらく毛布に顔をくっつけて何を話そうか考えていたが、やがて「英智はね、元気そうだったよ」と今日の話を始めた。
「チョコレート食べた。あと絵を描いたら喜んでくれた」
「どんな絵を描いたんだ」
「ナイショ」ふふっといたずらっ子みたいに笑った。「英智が敬人にナイショにしよって」
のけ者にされた意趣返しにわき腹のあたりをくすぐると、彼はきゃあきゃあと身を捩って喜んだ。さんざん笑うとようやく疲れたのか、彼が小さな欠伸を漏らしはじめた。
「英智ね、もうすぐ帰ってくるって。英智が帰ってきたら、僕が家の中案内するんだよ」と彼は小さな声でぽつぽつ続けた。「それから英智と一緒に寝るの」
「一人で寝るのはまだ怖いか」
敬人が尋ねると、彼はちょっと悩んでから、小さく頷いた。
「真っ白な壁は寂しい」
ふとよぎったのは、英智の病室のことだった。壁もベッドも真っ白で清潔な病室は、いつも暗い影が落とされていた。
あやすように彼のお腹を布団の上からぽんぽんとたたきながら、敬人は一つ提案した。
「来週晴れたら、部屋の模様替えをするか」
「模様替え?」
「おまえ好みの部屋にするんだ。ペンキを買ってきて、壁一面にたくさん絵を描こう」
毛布から覗かせた瞳が、一瞬で爛々と輝いた。息を大きく吸うようにしながら「天井にも描いていい?」と彼は尋ねた。「インコとか、パンダとか、何描いてもいいの?」
「ああ、どこに何を描いたっていい」
彼にとってこれはひどく魅力的な企画だったらしく、頬を上気させながら、ほう、と息を吐いて毛布に顔を埋めた。
「敬人も一緒に描こうね。英智もね」
「それは英智にも聞かないとな」
「楽しみだねえ」
「晴れたらだけどな」
「でもね、僕は雨はね、結構好きだよ」
落ち着いて、またうつらうつらとし始めている様子の彼はもごもごと言う。「英智も嫌いじゃないと思うな」
しばらくして、彼が静かな寝息を立てたのを確認すると、敬人はそっとベッドからおりた。しんとした部屋の中で、彼の寝息と、雨の音だけが聞こえてくる。遠く離れた病室のことを考えながら、部屋の灯りを消した。
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