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なんでもない日





「兄様、はやく行きましょう」

 兄を急かすミチルを追うように、慌ててバケツを掴んでアパートを出たルチルは今にも崩れそうな階段を降りると、掌で太陽の光を遮りながら空を見上げた。

 まだ低い位置にいるはずの太陽はそれでも容赦なく地上を照らし、アスファルトからじわじわと立ち上る湯気が空気を歪ませている。

「ミチル待って」

 暑さに負けず、ずいずいと先を歩くミチルの手には、花束が握られている。

 今日は二人の母の月命日だ。

 二人の両親が亡くなってから十年以上の月日が経っていたが、月に一度の墓参りを欠かしたことはなかった。墓参りは母との思い出のないミチルにとっては、数少ない両親を身近に感じられる機会でもあり、その歳の子には珍しくミチルは毎月の墓参りを楽しみにしていた。

 普段はバスで行くのだが、今日はちょうど路線が運休だというので、タクシーを使うことにした。

 大通りに出るとすぐに空車のタクシーを見つけた。ミチルが身を乗り出すように車道に向かって手を上げると、タクシーは滑り込むように兄弟の前に停車し、迎え入れるようにドアが開かれた。

「すみません、霊園までお願いします」

「はい」

 行先を告げながらルチルがシートベルトを締めて顔をあげると、隣のミチルが驚いたようにまじまじと運転手の顔を見つめていた。不思議に思いながらルチルも運転席に目を向けると、すぐにその緑色の瞳は大きく開かれた。「えっ、ミスラさん!」

 タクシーの運転席に座っていたのは、母の昔からの知り合いだったというミスラだった。

「ミスラさん、お仕事されてたんですね!」

 ルチルの驚いた声に、気を悪くした様子もなくミスラは「はあ」と適当な相槌を打った。

「あなた知らないんですか? この国では働かないと金がもらえないんですよ」

「それは知っています! でもミスラさんも知っていたことにはビックリでした」

 フローレス兄弟の母の知り合いであったというミスラは、その両親の死後、兄弟を援助する者の一人であった。数か月、ひどいときには一年間もの間、姿を見せないと思うと、突然鞄いっぱいの札束や、絞めたばかりと思われる生き物などを持ってふらりとアパートに現れ、驚愕する兄弟を置いてまた数か月と姿を消すのである。常識外れの言動から裏社会に身を置いているのではないかとルチルはこっそり心配していたのだが、まさかこんな近くで働いていたとは。

「ミスラさん、タクシーの運転手さんだったんですね。言ってくれればいいのに」

「別に聞かれてませんから」

「何度か聞いたとは思いますけど……」

 そうでしたっけと気だるげに首を傾げるミスラは本当に記憶が無いようだった。

「運転がお好きなんですか?」

「まったく。退屈ですよ」

 この道路では深夜にタクシーを拾う女の幽霊が現れるという。幽霊は必ず北キャンパスの裏手にある墓地へ行くよう指定するのだが、いざ目的地に着くと車内から煙のように姿を消してしまうのだそうだ。一見普通の人間と変わらないので、どんなに嫌な予感がしても会社としては大事な利用客を無視するわけにいかない。この毎晩のようにタダ乗りする乗車客にも頭を悩ませていたが、一番の悩みの種はこの客を乗せてしまった運転手が相次いで身体や精神を病んでしまうことだったという。

 ほかの社員たちもこの地区を担当することを嫌がり、ほとほと困った会社がなんとしてでも辞めさせてはならぬと囲い込みに奮起したのが、唯一幽霊を何度乗せてもピンピンしているミスラであった。

「辞めようとすると別室に連れて行かれて泣いて縋られるんで、面倒なんですよね」

 タクシーが霊園の入口前の路上に停車すると、ルチルは財布を取り出しながらミスラに話しかけた。

「ミスラさんも、今度母に手を合わせてくれませんか」

「でもそこにあの女はいないでしょう」入口から見える墓石の山を見ながらミスラが答える。「あの女が石の下でじっとしているわけないですから」

「あの女じゃないです。母様です」

 ミチルが俯きながら言った。「ボクと兄様の母様です」

「ミスラさん、一応私たちの母なので、あの女呼ばわりは……」

「どっちでもよくないですか」

 メーターに表示された金額を青いトレーに乗せると、ルチルは小さく息をついた。

「ミスラさんの言う通り、多分墓石の下に母は、いませんけれど」

 タクシーを降り、ドアが閉められる間際、ルチルはミスラにほほえみかけた。「こういうのって、残された人が自分のために手を合わせることもあると思うんです」

「はあ」

「響きませんか」

「とくには。まあ気が向いたら行きますよ」

 タクシーが霊園前の車道を走り去っていくと、ミチルがぽつりとつぶやいた。

「ボク、あの人苦手です」

 俯くミチルの小さな頭を撫でて宥めると、ようやく顔をあげたミチルは兄の背後を見るなり目を丸くして声をあげた。「あれ、フィガロ先生」

 ルチルも振り返ると、墓石の連なるなだらかな坂の向こうに確かに見知った長身が見えた。ミチルが「先生!」と手を振ってみるが聞こえていないらしい。ちょうど石の階段を下って帰るところのようだ。

「フィガロ先生も母様たちの墓参りに来てくれたのかな」

「そうかもしれないね」

 ミチルに頷いてみせてから、ルチルはもう一度フィガロのいた方に顔を向け、「おや」と首を傾げた。

 常緑樹の影に消えたフィガロの隣に、一瞬ファウストの姿も見えた気がしたのだ。


     〇


 インターホンが鳴って玄関に向かうと、扉の外から何やら鍵穴をガチャガチャとさせている金属音と、気持ちの良さそうな鼻歌が聞こえてくる。

 レノックスが不審に思いながら扉を開けると、ほとほと困った顔をしているフィガロがあいさつ代わりに片手をあげた。

「飲んでたらこうなっちゃってさあ」

 そう言って彼が親指で指し示すのは、壁にもたれて手に持った鍵をいじりながらふんふんと鼻歌を興じているファウストだった。「レノ、ただいま」

「言っとくけど、俺が無理やり飲ませたとかそういうんじゃないからね」

「いえ、別に疑ってはいませんが……」

 前日から今日はフィガロと出かけることも、もしかしたら飲んでから帰るかもしれないこともファウストから伝えられていた。例年の経験から悪酔いしてくる覚悟はしてあったが、少し予想の斜め上の酔い方をしている。

 フィガロはこの、この上なく面倒くさそうなかつてファウストだった生き物をレノックスに押し付けるや否や、長居は無用とばかりにそそくさと帰っていってしまった。

 残された面倒くさい生き物はおぼつかない足取りで玄関に入ると、いきなり靴紐をほどくことに苦戦した。

「レノ、鍵が開かなくなっちゃった。直さないと」

「明日壊れてるか見ましょうね」

 靴を脱がせてやってからレノックスが立ち上がると、普段だったらすぐに自室に荷物を置くなりするファウストは、今日はそのままリビングに向かうレノックスのあとをついてきた。

「風呂は……やめたほうがいいですね。汗かかれたでしょうし、蒸しタオルをつくるのでそれで身体を拭いてください」

 フェイスタオルを水で濡らして戻ると、まったくレノックスの話を聞いていた様子のないファウストは、「ラララー」とゴキゲンな調子で歌いながら自前のアルコールコレクションを物色していた。綺麗な歌声だが、まだ飲むつもりらしい。「ルララー」

 ファウストからグラスとボトルを取り上げてソファに座らせ、膝に以前テーマパークで買ってきたねこのぬいぐるみを乗せると、ファウストは「かわいい」と言ってぬいぐるみをぎゅうと抱きしめた。ぬいぐるみに気を取られている間に、レノックスはタオルをラップに包んで電子レンジに突っ込む。

 電子レンジから取り出した蒸しタオルを少し冷ましながらファウストの様子を窺うと、さっきまでぬいぐるみをにこにこ撫でていたファウストはレノックスをじっと見ていた。

「おまえはかわいいなあ」とろんとした顔で言った。「かわいい」

「ジェラトーニがですか」

「ばか」

「すみません、そんなこと生まれてはじめて言われたので」

「うそつき」

「うそじゃないです」

「うそつきだよ」とファウストは言った。「正直なくせにうそばっか」

 レノックスは隣に座ると、ファウストの眼鏡を外してやり、熱い蒸しタオルを頬に当ててゆっくりと丁寧に拭った。

「きもちいいな」

 首筋を拭っていると、ファウストは目を閉じて、小さく息をついた。慌ててタオルをファウストに握らせる。「あとは部屋に戻って拭いてください。今日はもう寝ましょう」

 そのまま立ち上がらせようとするが、ファウストは座ったまま動こうとしなかった。じとりと、何か言いたげな顔でレノックスを見つめている。

「キスしないの」

 額にそっと唇を落としてから離れると、ファウストはむくれた顔のままだ。

「そうじゃない、大人のやつだよ」

「それは明日しましょう」

「やだ」

 子供の駄々のようにむすっとした顔で言い切ると、レノックスの肩に体重を預けた。柔らかい髪がさらさらと首に触れてくすぐったい。彼の白い肌は今は火照って、うっすら赤く染まっている。隣に座ってしまったことを後悔しながら、少しでも距離を取ろうと、レノックスは気づかれないようにじりじりと腰をずらした。

「今も涼しい顔してるし」

「そうでもないです」じりじり距離を取り続けながら、レノックスは正直に答えた。「祭りの太鼓の乱れ打ちぐらいには動揺してます」

「なんだそれ。全然わかんない」

 肩でクスクスと笑うたびに、髪がふわふわと揺れて首をくすぐる。じりじりと後退していた腰はついにソファの肘置きに当たり、これ以上逃げられないところまできてしまった。肘置きの存在に絶望しているレノックスをよそに盛り上がり続ける祭りは、太鼓の鼓動に合わせていよいよ部族も乱入して踊り狂い始めた。

「ねえ、なんで手を出さないの」

「別に手を出さないわけでは」

「きみはしたくないの」

「したいです。でも今日だけはだめです」

 ファウストはじっとレノックスを見つめ、レノックスもまたファウストの紫の瞳から目を逸らすことができず、見つめ返していた。小さな形のいい唇がそっと動いた。

「していいよ」

「しません」

 ファウストは身体を起こすと、レノックスの胸に手を置いてぐっと顔を近づけた。肘置きから上体をのけぞらせたことで逆にそのまま腹の上に乗っかられてしまい、身動きが取れない。ファウストの手からこぼれ落ちた蒸しタオルはすっかり冷えてただの濡れタオルになり、べしゃりとレノックスの腹を濡らした。

「しろ」

 レノックスの顔に熱い息がかかった。

「今日はできません」

「どうして」

「あなたが傷つくからです」

 この判断がはたして正解なのか、レノックスにはわからなくなっていた。

 傷つけたくないから放った言葉に偽りはなかったが、見下ろしてくる彼はひどく傷ついた顔をしていたからだ。

 レノックスは慌ててファウストを抱き上げるとソファにちゃんと座らせ、ぽやぽやしているうちにキッチンからピッチャーと空のグラスを二つ持ってくると、

「水飲み競争をしましょう」と言った。

「水なんか飲みたくない」ファウストがむっとする。

「俺は早いですよ。五杯先に飲んだ方が勝ちです。負けたらなんでも言うことを聞きます」

「言ったな?」思考力が著しく低下しているファウストは話に乗ってきた。「まあ、面白そうだから付き合ってやる」

 最初の一杯はいいが、水だけをひたすら飲み続けるのは案外きつい。二杯目の時点でもうファウストのペースは一気に落ち、三杯目はちびちびコップに口をつけるだけになっていた。

 やがて「トイレ」とだけ言って席を立ったファウストは、それからなかなか戻って来なかった。祭りは終わりだと部族に告げて解散させてから様子を見に行くと、ファウストは寝室のベッドの上で寝息を立てていた。


     〇


 ファウストは自室のベッドで目を覚ました瞬間から、それはひどい気分だった。

 頭は終始ガンガン鳴り響く大きな鐘の中にいるのように痛み、胃はむかむかともたれている。完全に二日酔いだった。

 昨日はベネットの酒場で珍しくフィガロと飲んでいたはずなのだが、恐ろしいことにそのあとの記憶が一切無い。服は昨日のまま襟元とベルトだけが緩められているから、帰ってきてレノックスにそのままベッドに放り込まれたのだろうことはだけはかろうじてわかる。

 また悪酔いしてしまったことを布団の中で猛省していると、薬を持って部屋に来たレノックスがテキパキと世話を焼き始めた。カーテンが勢いよく開けられ東の窓から部屋に午前の陽が差し込むと、吸血鬼よろしく呻き声をあげて致命傷を負った。

「すまない、レノックス。また迷惑かけてるな……」

 薬と水を受け取りながらファウストがつらつら謝罪の言葉を述べると、いえ、と何故かレノックスはばつが悪そうに視線を逸らした。

「昨日のことで俺もいろいろ反省しました」

 レノックスに一体何を反省することがあるのか。まったく話は見えてこなかったが、昨日の自分の言動に対する不安ばかりが募った。

 貰った薬を水で喉に流しこんだのを確認し、新しいパジャマを手渡してもなお、レノックスは部屋にとどまっていた。ぎしり、と音を軋ませてベッドの端に腰かけると、ファウストの頬に腕を伸ばす。

「失礼します」

 顔が近づいて、唇が触れ合った。キスはもう何度かしたことがあって、以前はその都度爆発しそうだった心臓も、最近はようやく慣れて大人しくしていられるようになったところである。だからいつもより落ち着いた気持ちで、目を閉じて柔らかい触れ合いを享受していると、唇の隙間に厚い舌がぐっと押し付けられた。困惑しながらレノックスの名前を呼ぼうと口を開きかけて、その隙に一気に舌が差し込まれる。

 ぎょっとして思わず身を引こうとしたが、後頭部をレノックスの手でがっちり支えられていて逃げられない。そうこうしているうちに、口蓋をつーっと舌でなぞられて、背筋のあたりがぞわぞわして身体がびくりと跳ねる。吸われた舌からじゅっと水音が響いて、今にも叫びだしたい気持ちになった。

「昨日約束した分です」

 ようやく解放されてもなお混乱しっぱなしのファウストを前に、息一つ乱していないレノックスはそれだけ言って立ち上がると、何事もなかったように部屋を出て行ってしまった。

「僕は昨日何を言ったんだ……」

 替えのパジャマに顔を埋めて一人で羞恥に悶えていると、二日酔いの頭に響いて「痛っ」と呻いた。


 

タイトル再利用

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