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BREAKFAST AT SWEET HOME.

 もうかれこれ二桁近い年月をつかず離れず過ごしているが、一緒に暮らすようになってはじめて知ったことは、蓮巳敬人が実は意外と何もできないことだった。

 彼はたいていのことはなんでも器用にこなしてきたが、そのくせ炊事や洗濯といった細かい家のことはさっぱりやってこなかったようで、暮らしていく上で必要最低限の家事に英智と同様な戸惑いをみせることもあった。

 家庭科で習ったから、米の炊き方ぐらいならわかる。味噌汁をつくろうとすると一瞬考え込んで、なんとなく動きがぎこちない。そのくせ出汁は鰹節から取ろうとする。卵焼きをつくらせたら一回目はそれは見るも無惨な姿で、二回目は形がなんとか保たれており、三回目になると崩すのも惜しいほどにそれは美しい姿で完成されたが、今度は味がなんだか物足りなかった。一食の栄養価、四季の彩り、毎日の食事を飽きない工夫を考えはじめたらもう何がなんだかわからない。しかしやりはじめたら誰よりも熱心な勉強家であり、移動時間に栄養学からレシピ本を読みふけり、携帯タブレットにクックパッドのアプリを入れた。彼は誰よりも凝り性でもあった。

 敬人は食生活がそのまま身体の資本になるとよく言っていたが、その資本を維持するためには誰かしらの労力がかかっていたことをはじめて知ったのだった。

 そうして日々慣れない台所仕事に悪戦苦闘をしている敬人の後ろ姿を見ながら、ふと考えることがある。

 彼が一緒に住むべき相手は、なんでも彼の面倒見てくれるような人だったのではないだろうかと。


     ○


 昼時からだいぶ過ぎていることもあって、大学の食堂は閑散としていた。

 ガラスケースの中に入っている食品サンプルを眺めつつ人を探していると、入口周辺の席で課題を広げていた二人の女子大生と目が合った。彼女たちは顔を見るなり「あっ」と小さな声を上げて、そのまま急いで口を押さえた。

 人差し指を口元に当てて口止めを頼むと、黙って何度か頷いた後、二人は揃って一つの方角を指さした。

 会釈と手を振り返して教えてもらったとおりに進むと、お目当ての人物はちゃんとそこにいた。

 カウンター席の端に座り、何冊も新書を壁のように積み上げながら熱心にネットブックを叩いていた敬人は、側に立っている英智に気づくと顔をしかめた。

「こんなところに来たら目立つだろう」

「こんなところでレポートをしているアイドルに言われたくはないよ」

 しかし隣の席の上に無造作に置いてあった鞄を退けてくれたので、そのまま追い返す気はないようであった。好意に甘えて空いた椅子に腰掛けた。

「仕事で昼食を食い損ねたからな、ついでにここで済ませていたところだ」

 そう言うと敬人はすっかり冷めたコーヒーを啜った。

 高校を卒業して生徒会の仕事を終えれば多少は楽になるなどとこぼしていた敬人も、結局はそれまでと変わらないどころかそれ以上に多忙な生活を送っていた。大学の講義を受ける一方で、収録の仕事に向かい、空き時間に教習所のコマを詰め、天祥院家に顔を出しては英智の仕事を手伝うという、常人には無理のある生活を欠けることなく続けることができているのは、彼が蓮巳敬人であるからに他ならない。

「まあ、この生活も教習所が終わるまでの辛抱だな」と敬人は言った。「そうしたら公共機関での通勤もおさらばだ」

「うちの運転手貸すのに」

「そんなんで大学に通えるか」

 敬人はネットブックに視線を戻すと「それで」と言った。「まさか茶飲み話しにわざわざ来たわけじゃないだろう」

「わざわざ茶飲み話に来ちゃいけないのかい」

 恋人なのに、と唇だけ動かして目を細めると、殺し屋さながらの目つきで睨みつけられたのでつまらなそうに肩を竦める。

「次の講義までにこれを仕上げないといけないから、用件は手短に頼む」

「それじゃあお耳だけ拝借」

 そう言って足を組み直すと、背筋を伸ばして切り出した。

「一人暮らしをしようと思う」

 少なからず敬人は驚いたようで、顔をあげた。

「よく両親が許したな」貴様が一人暮らしなんてできるのか、とは聞かなかった。

「条件付きでね」英智は飲みかけのコーヒーカップを手に取ると、その縁をくるくると人差し指でなぞった。

「もう家は決まっているのか」

「これから見に行こうと思う」

「いつ頃の入居になるんだ」

「気に入ればすぐにでも」

 そうか、と敬人は頷く。

 ──しかしあの小さくて我が儘で使用人の手を煩わせてばかりいた英智が一人暮らししようなんて言い出すとは。

 そう思うと感慨深く、少し寂しいような気もした。気を抜くとほろりとしてしまいそうなところを男らしくぐっと耐えた。

「引っ越しする日が決まったら教えてくれ。俺も手伝いに行こう」

「使用人たちに任せるから敬人の手を煩わせるほどじゃないよ、と言いたいところだけど、まあ君にも相応の準備があるだろうしね」冷めたコーヒーに口をつけると、眉をひそめた。「簡単に必要なものの整理だけしておいてくれればそれでいいんだけど。それにしても君、もう少しマシなものを飲みなよ」

 カップを取り上げながら、感慨深さは一気に霧散していた。

「貴様、まだ俺に言っていない情報があるな?」

 尋ねながら、書き終わったレポートをUSBに移し終えるとネットブックを閉じた。

「父が言うには、父の息のかかった使用人の監視抜きで一人暮らしはダメだって言うんだよ」と英智は嘆いた。

「しかし僕だって窮屈な生活が嫌で飛び出すというのに、そんなプライベートのない生活なら実家と変わらないじゃないか。そんなわけで僕と父の意見はしばらく平行線のまま続いていたんだけど、ついに父が折れてね。君と二人でだったら使用人を連れて行かなくてもいいと言うんだよ」

「一人暮らしじゃないじゃないか!」

 思わず見当違いの方向に憤ると、大声に反応して食堂にまばらに残っていた学生たちが振り向いた。軽く咳払いをして誤魔化すと、鞄にネットブックをしまいながら腕時計で時間を確認した。予鈴まで二十分もない。急いでレポートを印刷しなければいけなかった。

「それで仕事と講義の間に大忙しで作業していて思考能力が低下しているであろう時間を狙って話しをつけて、うやむやのままことを進めようとしたわけだな」

「話が早くて助かるね」

「長い付き合いだから貴様の姑息さにも慣れた」

 食堂を早足で出ると、酷い言い草だなあ、などと口だけで嘆きながら英智も後をついてきた。

「俺も家の下見ぐらいはできるんだろうな。わけのわからん家にいきなり押し込まれるのだけは勘弁してほしい」

「父が既に一軒購入しているらしいんだけど、気に入らなければ次を探させればいいよ」と英智は事も無げに言う。

「君、このあとの講義が終わったら今日は予定無いだろう。見に行こうよ」


     ○


 大学の入学式の日、黒いスーツ姿に身を包んで他の学生たちの中に紛れている敬人は、妙にとけ込んでいるにも関わらず、しかし一人だけ大人びていて、というか哀愁に近い貫禄があって、どちらかといえば学生に混じる若い大学教授のようであった。それもそのはず、親の金で何不自由なく勉強だけして進学してきた子供たちとは、歩んできた人生の重さも目的も違うのだ。そんな姿を見ていると苦労をかけたね、と思わずほろりとしてしまう。若いうちに禿げないといいな、とも思う。

 周りの新入生たちが揃って親や友達と話したり写真を撮り合ったりしている中、敬人はいやに堂々としているから目立ってはいないが、ひとりぼっちでいた。両親は忙しいいからこないのか、それとも自分から来るなと言ったのかはわからないが、それも敬人らしかった。彼は基本的に親に頼ることを嫌う。大学の学費も仕事で稼いだ分から賄っているはずだ。

 しかしいつまでもこうして、ひとりぼっちでいる敬人の観察をしていたところで面白くもない。

 というか、英智も一人だった。

 ネタ晴らしとばかりににこにこと手を振りながら近づくと、はじめ敬人は思いっ切り何もわかっていない顔をしていた。英智の顔を視認すると思わず二度見し、そのうち物見遊山感覚で自分の様子を見に来たものだと一人で納得し、英智が自分の学生証をひらひらと見せびらかしてから、ようやく事態を把握して慌てふためきはじめた。

 これぞ三年越しの復讐である。

 敬人に決してバレないように進学先として別の大学の名を友人知人、家の使用人にまで言いふらし、教師にはしっかり口止めをし、心配だったのが両親からの漏洩だったがそれもなんとか未然に防ぐことができた。体調を理由に大学側に打診して、入学前のガイダンスも健康診断も個別に済ませてもらった。この日のために馬鹿みたいな労力を使ってしまったが、元はといえば三年前の敬人が悪いのだ。

 ──どうだ敬人、少しは気持ちがわかったか!

 いつも冷静ぶっている敬人の泡を食った様子を見るのは、なかなか心地が良かった。


     ○


 英智の父親が用意していたというのは、今年建ったばかりだというマンション内の、メゾネットタイプのペントハウスだった。一等住宅地の物件故に入居希望者には抽選が行われているはずなのだが、その最上階を事も無げに押さえるのが天祥院の力である。

 室内は既にモデルルームのように品のある家具や調度品が備え付けられており、入居後もそのまま使用できるのだという。

 廊下を抜けた先のリビングは二階まで吹き抜けになっており、南向きの窓から陽の光が床の木目をあたたかく照らしている。二階部分に続く階段横には小上がりの和室がリビングと直結していたが、柱や床など随所に木材を使用していることで洋と和の調和が取れていた。畳を見たとき、敬人が一瞬だけ少し嬉しそうな顔をしたことに英智はこっそり気づいた。大きな窓の外はルーフバルコニーに繋がっており、その先に小さなイングリッシュガーデンが見えている。

 リビングを一望できるカウンターキッチンは広さと収納のある立派なものであったが、二人とも普段自炊をしていなかったので対する感動は薄かった。

「食洗機を使うと食器が痛むんじゃないか」

 備え付けられている食洗機に敬人は首を傾げた。「皿洗いくらい俺でも家でしてきた」

「さっき洗濯機についている乾燥機でも同じこと言っていたよね」

「洗濯機を見たことがなかった貴様に言われたくない」

 屋敷にいる使用人を手伝いに越させますよ、と部屋を案内する痩せ型の男は収納扉を閉めながら言った。天祥院家の主人に仕えている秘書の一人である。終始事務的な口調に加え、表情が変わらないため何を考えているのか読みとりづらい男だ。

「敬人だって新婚生活を他人に邪魔されたくないだろう」

「何が新婚生活だ」

 二階に上がると、廊下にずらりと扉が並んでいた。それぞれの書斎に衣裳部屋をつくっても部屋が余りそうだ。

 こういう間取りはご家族の方だと子供部屋にしたりするんですけどね、などと言いながら秘書が最後にもったいぶって案内した部屋の真ん中にはキングサイズのベッドがでんと用意されており、敬人は一瞬言葉に詰まった。

「夫婦の寝室だって、どうする?」と、スプリングを確かめるようにベッドに腰掛けた英智が尋ねた。

「ところで一応聞いておきたいんだけど、この家具の配置をしたのって父だったりする?」

「そういうわけでは」と秘書がやはり表情を変えずに答えた。

「一人一部屋でいいだろう。貴様がこの部屋を使え。俺は隣のひとまわり小さい部屋でいい」

「でもほら、もともと生活時間がずれているというのに、更に自分の部屋に寝床まであると、完全に顔を合わせなくなると思うんだよね」と英智は言った。「つまりセックスレスが加速すると思うんだけど、敬人はそのへんのところはどう考えているのか意見を聞かせてもらってもいいかな」

「……その話はあとでいいか」

 ちらりと秘書を見やると、素知らぬ顔であらぬ方向を向いていた。

 さて、こうしてぐるりと家の中をまわってみたわけであるが、二人とも特段不満があったわけではなかった。英智は「思ったよりも家が小さい」などと言っているが、これは放っておいていい。

 価格を尋ねると、営業員は既に英智の父によって一括払いで購入されていることや、マンションの共有スペースの概要などを一通り説明してから、タブレットに映し出されている金額を掲示した。

「まあ、妥当なんじゃないかな」

 英智はタブレットの画面と敬人の顔を交互に見比べた。

 大方予想はしていたが、二十代の大学生二人暮らしの家賃とは思えない金額に思わず天井を仰いだ。

「……俺も半分出す」


     ○


「どうせもうすぐ僕が自由に使える財産なんだ。前払いだと思えばいいんだよ」

「どちらにしても全額貴様に出してもらうつもりはない」

 家賃の面倒を全額見てもらうとなると、なんだかヒモみたいで嫌だったのだが、英智にはうまく伝わらない。少なくとも何回かに分ければ返せるほどの収入と蓄えがあったのが幸いである。

 英智はベッドに置かれていたクッションを敬人に投げた。

 もう既に購入しているから好きにいていい、出るときに連絡してくれと残して秘書は帰ったようなので、こうして残って話し合っているわけである。

 ごろん、と英智が大きなベッドの上に寝っ転がったので、真似をして隣に寝転がってみる。真っ白な天井が視界に飛び込み、息を吸うと新しい家の香りがした。

「本当に寝室にするつもりない?」

 英智は寝っ転がったままベッドサイドに置いてあったリモコンに手を伸ばすと、ぽちぽちといくつかボタンを押す。そのうち壁に沿って白いスクリーンが降りてきて、よくよく見れば頭上には映写機がぶら下がっていた。

「寝ながら映画が観れるよ」

「……それは結構いいかもな」

 天祥院家の映画館さながらの設備のホームシアターには、なんと贅沢なと思いつつも、使わせてもらってみればやはり格別で、なかなか気に入っていたので少しだけ嬉しかった。映画は大画面に限る。

「なら、たまには観に来るか」

「家の中で通い婚というのも、それはそれでいやらしい感じがするね」

 顔を向けると、思っていたよりもずっと近くに英智の青い瞳があった。ふっと英智は破顔すると、そのままうつ伏せに胸の上にのしかかってきた。

「ねえ、一緒に暮らす上で最初の仕事はなんだと思う?」

「何をするんだ?」

 金色の柔らかい髪に指を通すと、英智はにっこり笑って、腰の上に跨るようにして起き上った。

「家中の隠しカメラを探し出して破壊するんだよ」

「……隠しカメラ?」

「と、盗聴器」

 英智の着ていたロングカーディガンのポケットから小さな機器がごそっと現れて、ベッドの上を散らした。

「既に家具が設置されている時点で怪しいと思ったんだけど、案の定ちょっと探しただけでこれだったよ。まああの悪趣味な父親のやりそうなことだね。プロにも頼んでいるんだけど、来るまでに僕たちでも探しておこう」

 そう言って英智はトランシーバーのような黒くて四角い機器を差し出した。怪しい機器に近づけると、反応して音が鳴り出すらしい。唖然としているうちに英智は立ちあがると、敬人の腕を掴んで起き上がらせた。

「もし見られている方が興奮するんだったら申し訳ないけど、でも君はそういう性癖はなかったよね」


     ○


 その後家中くまなく捜索した結果、計三桁近いほどの隠し機器が各部屋から発見された。念のため壁や床に埋め込まれているかどうかまで調べあげ、大部分の家具を買い換えてからの入居となった。

 そうしてはじまった共同生活だったが、結局のところ食洗機や乾燥機をはじめとする家電は大活躍した。

 出来る限り家の中に他人を置きたくない、というのが敬人の考えであった。それは英智も同意である。しかし考えれば考えるほどに、現実問題としてはそうも言っていられなかったのだ。

 洗濯は?

 食事は?

 掃除は?

 少し視野を広げて、想像してみる。それなりに広いこの家を毎日隅々まで掃除するのは骨が折れそうだった。便宜上英智にも多少なりと手伝ってもらうつもりではいたが、まったくやらせたくないというのが本音である。

 結局、家事全般に関して、人を雇うことになった。

 こうして考えると、彼らは成人してもなお、まだ子供と変わりなかった。金を稼ぎ、政治に口を挟み、大人と対等にわたり歩いているが、衣食住という極めて本能に近い部分において、未だに人の手を借りて育っている子供であった。

 英智が一緒に暮らしはじめてから知ったことは、敬人が意外と何もできないことである。彼はなんでも器用にこなしてきたが、そのくせ炊事や洗濯といった細かい家のことはさっぱりやってこなかったようで、否応無く追加された慣れない仕事に悪戦苦闘を強いられていた。

 それでもなお、敬人は最低限のことは自分でやろうとした。できるがやらない、とできないからやらない、は雲泥の差だというのが敬人の持論である。

 何せ彼はやりはじめたら誰よりも熱心な勉強家である。母親や紅郎や弓弦からコツや豆知識などを熱心に聞き取り、移動時間も本やネットから知識を蓄え、元来の凝り性もそれに拍車をかけているようだった。

「またやってる」

 昨日まで美しいアイロン掛け技術の研究をしていた敬人は、今日はまた台所に立って、なにやら手書きのメモと手元の作業とを見比べていた。その背中に容赦なくのしかかると、「んー?」と鼻にかかった疑問符が投げかけられた。いつもであるなら、邪魔だ、鬱陶しい、あっちへ行け、だのなんだとかわいげのない口うるさい説教の数々が降ってくるところなので、今夜はたいそうご機嫌らしかった。

 卵を割っているのを見て「スフレオムレツ」と推理してみる。

「残念、卵焼きだ」

 英智は少々うんざりした。卵焼きなら、先週散々練習をしていたのを見ていたからである。

「お袋にいろいろとレシピを聞いてきた」

「敬人がそこまでしなくていいよ。人に頼むんだし」

「自分もできるようになることに越したことはない」

 それはそうだけど。  

「思えば今回のことは、今まで生きてきて当たり前にされてきたことの重さを知ったいい機会だった」と敬人は語り出す。俺たちは自立しているようで、その実まったく一人では生きていなかったのだ、云々。べらべらと口を動かしている間も手は休むことなく卵をかき混ぜ、フライパンに流し込んでと、せかせせかと動いているので本当に器用なのだろう。

「知識もそうだが、できることが新しく増えていくのは楽しいな」

 菜箸で流し込んだ卵をつつきながら敬人は言った。

「貴様に付き合っていると、新しい世界しか見えてこない」

 ふうん。

「俺の家の卵焼きはしょっぱかったんだが、甘い家もあるようだ」

 貴様はどちらがいいかと尋ねられたが、実家で出されるものは洋食中心で、卵焼きというよりオムレツである。病院食は薄すぎて味なんてよくわからなかった。強いて言えば、昔料亭で食べたことがあったような気がしたが、それは甘くなかった気がした。

「それなら今度甘いのもつくってみよう」

 そう言うと、出来立ての卵焼きを箸で摘むと、英智の口元に運んだ。食えというのである。仕方なく口を開けて頬張ると、しょっぱくも甘くもなく、どちらかと言えば苦い固まりが口の中をごろごろした。有り体に言えば非常に不味かった。

「要検証だな」

「生まれてこの方、こんなひどい実験体にされたことはない……」

 確かにありとあらゆる健康法やら治療は試されてきたが、あんまり気に入らないものや馬鹿馬鹿しいものは突っぱねてもきて、散々使用人たちを困らせたものだ。

 つまるところ、この天祥院英智に不味い卵焼きを食べさせてくるとはいい度胸であった。

 ようやく飲み込んでから文句を言ってやろうと口を開くと、間髪入れずにもう一切れが投入された。

 丸くした目を薄くして睨みつけながら、もぐもぐと咀嚼していると、その様子を見ていた敬人が吹き出した。

 菜箸を持つ手の甲で、それまで堪えていたものが辛抱ならなくなってように笑っている敬人は、幼い子供の頃のようだった。

 子供のように笑う敬人は、少し懐かしかった。

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