一体何故、こんなことになっているのか。
白い天井からぶら下がる絢爛なシャンデリアを睨みつけながら、敬人は現在の自分が置かれているこの意味不明な状況を整理しようと努めた。しかしそれをするには湯船に浮かばれた薔薇の花びらのムッとした香りが篭もったバスルームというのは、いささかどうにも不向きであった。だからと言って、この状況を笑って受け流せる程の度量は残念ながら持ち合わせていないのだ。
故に考える。
いい歳した幼なじみと二人きりで、膝を付き合わせて湯船に浸かっているとは一体どういう状況なのか。
「昔は散々一緒に入っていたのに、今更何を恥ずかしがるんだ」
脱衣所で新品のバスタオルと寝間着を投げて寄越しながら英智は首を傾げたが、そういう問題ではなかった。
「それに君は紅月の子たちとは一緒に銭湯に入るじゃないか。裸の付き合いだとか言って。修学旅行だってクラスで大浴場に入るものなんだろう」
「それとこれとは話が違う」
「何が違うんだ」と英智は人差し指を敬人に向けた。「それこそ卑猥だ、猥褻だ、破廉恥だ!」
そう言われると返す言葉もなく、仕方なくこうして二人で湯船に浸かっているわけだが、円形に広いアンティークな浴室の真ん中に可愛らしく置かれた猫足バスタブの中、細身とはいえ長身の男二人が無言で見つめあいながら詰め詰めで入っているというのはなかなか異様であり意味不明であり異常事態である。もし自分が天祥院家の侍女であり、こんな浴室に間違えて入り込んでしまったならば、「キャア!」と短く叫んで一目散に逃げ出すことだろう。
しかしこちらの困惑などお構いなしに、目の前の男はいたく涼しげな顔で、下半身のあたりを注視しながら「元気なくない?」などとのたまっている。幼なじみの家の風呂場の、しかもこんな状況で元気になっていたら問題である。
「もしかして緊張してる?」
「こんな場でリラックスできるほどの強靱な精神は持ち合わせていない」
ふうんと、バスタブの縁に腰掛けていた英智は足を組み替えた。
自分ばかり見られるのも癪なので、負けじと睨みつけるようにして見返したが、裸眼では視界が悪いせいでもちろんよくは見えない。
幼なじみは美しい男であった。
受肉した天使とは言い得て妙であり、その身体は病人の不健康な痩身というよりは、人間が生まれてから年と共に蓄積されていく余分なものが一切身についていないといった方がしっくりくる。そうして湯気を纏った裸体には猥褻な印象は一切なく、陶器のような滑らかな肢体は完成された芸術品のような美しさがあった。
そんな分析をしているうちに「あんまり入ってると湯あたりするね」と英智は立ち上がった。「君もほどほどにして出てきなよ」
敬人は浴槽に一人取り残されると、深く沈み込むように湯に浸かって、ようやく溜息をついた。
まったくもって、一体何故、こんなことになったのか。
○
ことの始まりはなんだったのか思い出せない。
しかし漠然と最近、なんだか周囲でおかしなことが起こっているような気はしていた。気がしていたというのは、あくまでおかしいと断言するほどの決め手がないからである。
例えば英智に「やあ」と朝のにこやかな挨拶と共に下半身を鷲掴みにされたり(おかげで朝っぱらから、廊下で早足の追いかけっこをする羽目となった)、食堂で昼食でも取ろうとすれば顔も知らない後輩がこぼした水でスラックスがずぶ濡れになり、たまには活字の海に溺れるかと図書館で借りてきた本を開けば何やらやたらとラブシーンが多いような気がし、カバーを外して中身を確認すれば全く別の本と差し替えられていたり。その程度のことである。
先日実家の寺に送り主不明の荷物が届いた。既に敬人の部屋に運ばれていた大手通販会社のロゴの入った段ボールを不審に思いながらも開けてみれば、そこには古今東西老若男女が卑猥に絡み合う猥褻図書と、何が入っているのかわからない液体が入った瓶やら、用途を想像したくないような物体、その他もろもろが禍々しい妖気を醸し出しながらぎっしりと詰め込まれており、その光景に唖然とした後、次の瞬間には急いで蓋を閉じて慌てて周囲を確認していた。中身が中身なだけに処分するにも扱いに困り、未だに部屋の押し入れの中に手つかずの状態で封印している有様である。
そういったわけで、この数日というもの敬人の機嫌は日に日に下降していった。生徒会室で事務仕事を片づけている間でさえ少しでも刺激すれば長い説教を浴びせられることを恐れた生徒たちに距離まで置かれ、恐れ知らずにひょっこり顔を出して話しかけて行くのは英智くらいのものであった。
睨みつけながら出迎えると、英智は気にもとめずに「僕から仕事を奪おうたってそうはいかないよ」と敬人の机に寄りかかった。机から万年筆を一本取り上げてくるくると回しながら、その間も常人離れした速度で積み上げられている書類を捌いている副会長の手腕を眺めている。
「お疲れのようだね。ちゃんと息抜きしている?」
「貴様に心配されんでもしている」
「そんなことを言ってまた倒れても知らないよ」
ばつが悪いのか、一瞬敬人は目を伏せた。激務がたたって熱を出したのは記憶に新しかった。
「どうやら虫の居所まで悪いようだ。何かあったのかな」
どうにも集中できないので手洗いに立つと、何故か英智も後をついてきた。
一体なんなんだ。
「敬人は少しがんばりすぎ」
手荒いの扉を閉めながら英智が言った。「僕たちせっかく対等になったんだから、もう少し頼ってくれないと」
「今はまだ貴様に頼るほどの仕事はないだけだ。そのときがきたらがっつり働いてもらう。これから寒くなるにかけて貴様は体調を崩しやすくなるのだから、それまで安静にしていろ」
「相変わらず屁理屈屋だな」
英智は溜息をつくと、手に持っていたままだった万年筆を敬人の胸にトントンと叩いて返した。
「というか、貴様はいつまでそこに立っているんだ」
胸ポケットに万年筆を仕舞いながら敬人が眉を寄せた。英智がずっと立っているから用を足せなかったのである。
ああ、と英智はそこではじめて状況に気づいたような顔をして、「僕にはお構いなく、どうぞ」と両手で促した。
お構いするに決まっているので廊下へ強制的に追い出すと、英智は引きずられながら「泊まりにおいでよ」と言った。「家でも残った仕事を片づけたり、家業を手伝ったりしているんだろう。たまには友達の家でのんびり朝寝でもすればいいさ」
何を企んでいるんだと尋ねれば、心外だと肩を竦める。
有無を言わせない雰囲気のお誘いは非常に断りづらかったが、そんな雰囲気もお構いなしに断ったところ、翌日学校帰りに英智のボディガードたちによって車まで担ぎ込まれ、そのまま天祥院家まで連行されたのである。誘拐同然の行為に車内でむっすりしていると、英智は「道楽に付き合うと思って我慢してよ」と太股のあたりに手を置いた。
かくして道楽に付き合った結果、今に至る。
○
最近はご無沙汰であったが、幼い頃はよく英智の家に泊まりに行っていた。彼の両親は大変忙しく、家に寄り付かない人たちであったため、度々呼び出されてはその代役を務めさせられていたのである。
とんでもない我が儘坊主だった当時の英智の権力は家の中でこそ最高潮に振るわれていたが、そんな幼い暴君も夜になって海のように大きなベッドの中では打って変わってしょんぼりしていることがあった。そういう時、必ず英智は「手を握って」と囁いた。その度に敬人は自分と同じくらいの、柔らかくて小さな手を毛布の中で捜し当てて握りしめたものだった。
あれから歳月が過ぎた。背丈が伸びた今でも、何故かこうして背中を合わせて同じ布団の中に入っているというのは不思議な感覚だった。いつの間にか幼い日々を美しい思い出として宝箱の中にしまい込み、これだけあれば生きていけると、もう二度と訪れないものなのだと思いこんでいたのかもしれない。
風呂から出た後、次は何が待っているのかと身構えたが、後はさっさと寝るだけらしかったので少し拍子抜けした。
敬人はこれまでのことを整理しようと試みたが、じっと目を瞑って時計の針の音を聞いていると、風呂上がりで身体がほかほかしているのと、なにやらドッと疲れたのもあって、気を抜けばすぐにでも眠りに引き込まれそうであり、どうにもうまくいかない。
そのうちに闇に紛れるくらいとても小さな、声変わりの済んだ美しい青年の声が「敬人」と呼んだ。「敬人、起きてる?」
ああ、と答えると、英智が寝返りを打った。
「何考えてる?」
「少し、昔のことを思い出していた」
「小さい頃はよく泊まりに来てくれたね」
「昼夜問わずに呼び出してくる非常識な幼なじみがいたからな」
「文句を言いながら寝かしつけてくれるんだから、君は本当に変な子供だったな」
変な子供だったのはお互い様だろうと欠伸混じりに言うと、クスリと笑った息がうなじにかかった。身じろぎすると、足の裏に英智の足の指がひっかかるようにしてぶつかり、すぐに離れた。
「俺も貴様が何考えているのかわからん」
「お互い様か」
「お互い様だな」
手首のあたりに、遠慮がちに英智の指が当たった。細くしなやかで、骨ばった大人の手だった。無意識のうちに、その手を握っていたように思う。
「僕、ずっと考えていたんだ」
眠りに落ちる間際、英智がそんなことを言ったような気がした。
○
もぞもぞと下腹部のあたりに触れられている感覚で、敬人は再び目を醒ました。
寝ぼけ眼で呆けていると、それが背後から腕を回されており、寝間着の中に潜り込もうと探られている状況であることに気がついた。そうしてだんだん覚醒してきた意識の中で、これはなにやらおかしいぞと察しはじめた頃である。寝間着の中に伸びていった手は、やがて最後の砦にまで潜り込み、ついに肌へと触れたのだった。
キャーッ!
といった乙女のような叫び声を上げたかあげていないか定かではないが、沽券に関わる問題のためどうか叫んでいないと思いたい。
さすがに仰天し、思わず跳ねるように上半身を起こした。眼鏡をしていなかったので顔はよく見えないが、英智もまた驚いたように半身を起こし、しばし顔を見合わせた。
いつもは湯水のようにあふれ出てくる言葉がこのときばかりは何も思いつかず、口を開いては閉じたりしながらわなわなと震えていると、「ごめんよ、敬人」と先に英智の方が謝った。彼にしては珍しく真摯に謝罪した。「まさか朴念仁の君が、泣くほど怖がるとは思わなかったんだよ。申し訳ない」
「うるさい、泣いとらんわ」
「いや泣いてるよ、君」
「泣くわけあるか!」
と叫びながら鼻を啜った。明らかに情報処理が追いつかず、なんだか頭まで痛くなってきたので、手で顔を覆いながら呻いた。
「貴様は、何故自分をもっと大事にしない……」
「僕は別に君を誘ったわけじゃないよ」
顔を上げると、英智は起きあがってベッドの上にしっかりと座り込んだ。
少し落ち着いてきたので、敬人はベッドサイドに置いてあった眼鏡をかけると、視界がやっと鮮明になり頭の中までもすっきりとするように感じる。
「これはいわば実験だったんだよ」
実験。
尋ね返すと、彼は大真面目に頷いた。
「あまりにも朴念仁の敬人が、そもそも性欲があるのか、下半身が機能しているのかどうかということを確認していたにすぎない。ついでにどういったもので性欲処理をするのかも興味があったんだけれど、僕の贈り物にも一切手をつけている様子が無いし、これはますます怪しいと」
「誰から送られてきたのかもわからんような荷物に手をつける奴がいるか!」
思わず叫んでしまったが、やっぱり貴様が犯人だったのか、と憤慨もした。しかし貰えるものは貰っておけばいいじゃないかとばかりに英智が首を傾げているので、どうやら彼には伝わっていないらしい。
いや、そもそもの問題はそこではない。
「何故俺の性欲なんぞに興味を持つ」
言葉にするとあまりにも馬鹿馬鹿しい質問で気恥ずかしかったが、しかし英智は至極当然のようにしれっと答えた。
「何故って、性欲がなければセックスができないだろう」
「……俺たちは付き合っていたのか?」
「まさか。逆に敬人は付き合っているとでも思っていたのか?」
おかしな話になってきた。
「誤解のないように言っておくと、僕としては別に敬人のそちらのほうが機能しなくたって構わないんだよ。ただそうなるとつきあい方も変わってくるから、事前に知っていた方がお互いのためにいいだろうと思ってね。それにちゃんと入るかどうかというのもあるし」
ちなみに何がどこに入るかと言うと、と大真面目な顔で説明しようとするのを、言わんでいいと制する。先ほどから理解が追い付いていない頭を整理しようと敬人は眼鏡の蔓をいじった。まったくわけがわからなかったが、なんとかかみ砕こうと試みた。
「いややっぱりおかしいのは敬人だよ」と英智は言った。
「機嫌は悪そうなのに距離を取ったりはしないし、文句言いつつ一緒にお風呂にも入るし」なんなんだろうこいつ、って思ってさあ、と英智は眉をひそめた。「もしかして変な性癖ある?」
「貴様が有無を言わせなかったんだろう!」
なんなんだこいつ!、はこちらの台詞であった。
大声を出すと、ずっと身に籠っていた力が抜け、いつの間にか渇いた笑いのようなものが口から漏れていた。二人して湯船で向き合って「なんなんだ」と思っているというのは、端から見て実に滑稽であった。
不思議そうに見つめてくる英智に、「とにかく、こういった行動は交際してからするものであり、そうでないと心臓に悪い」とこぼせば、英智は何故か怒りだした。
「こちらの気も知らないで、いとも簡単にそんなことを言う」と英智は目を吊り上げた。「じゃあ君は一度でも、僕を抱けるか考えたことがあるのか」
どうなんだ、と自問してみた。
よくわからなかった。
性欲自体はあるはずである。詳細は省くが、それは確かである。だからといってそれとこれとは別問題である。どうなのか、よくわからなかった。それもそのはずだ。考えたこともなかった。
「俺はそういった色恋沙汰には疎い」と敬人は白状した。
「だから貴様の言っていることも、未だに半分もうまく理解できていない。順序よく話してくれないか」
両手を握って促すと、英智は少しだけ困ったような顔をした。
それから「これからのことを考えていたんだ」と彼は言った。
○
一緒に育ってきたと言っても過言ではない。
英智を通して社交界というものに敬人は触れたし、英智の知らない外のことも敬人が教えた。一緒に同じ本を読み、音楽を聞き、映画を見た。ときに、汚い大人たちの社会を一緒に批判し、理想を語り合った。そんな生活を続けてきたから、本を読めば「あいつが好きそうだ」「いやあいつは怒るだろうな」なんて、すぐによぎる。自分の好みよりも、相手の好みや思想を熟知している。
しかし本当にそうだろうか。
一緒に大きくなってきて、お互いのことはなんでも知っているのに、実のところなんにも知らないような気がした。そうしてもっとよく考えてみた。わからないことだらけだった。
例えば、この仕事を続けている以上はどこかの女優とキスなり濡れ場なり演じることもあるだろう。あたりまえだが、そんな行為をする幼なじみのことはまったく知らない。そんな姿を画面の向こうから見るのは、なんだかひどくつまらないような気がした。
幼子の独占欲かもしれなかった。
でもつまらないんだからしょうがない。
「ねえ、敬人。大人になるということは、知っていくことだと僕は思う。それが残酷であることは、僕たちは誰よりも、嫌と言うほど知ってきた。でも僕は、だからこそ君と大人になっていきたい。君のことを教えてほしい」
そこまで一息に言うと、英智は息を吸った。
「僕と一緒に大人になってくれる?」
しばらく、言葉が出なかった。
世界から音が喪われたような沈黙が流れた。ただ黙って、目の前の幼なじみの顔を見つめていると、そのうちに耐えかねたように「何か言って」と英智が呟いた。
彼の言葉を飲み込むこと自体には、そう時間はかからなかった。だが、考えてもいなかった可能性の掲示に言葉を喪っていた。促されてようやく喪った言葉が戻ってきたようであった。
「貴様のことを全部わかろうとするのは、俺の人生をかけてでもきっと足りないだろうな」
顔を上げた英智は、少しだけ意外そうな顔をしていた。
「浪漫があるだろう?」
「知的好奇心が疼く」
「探求の大海原に乗り出すときだよ」と言いながら、英智が笑い出した。「ねえ、僕告白したつもりなんだけれど、本当にわかってるの」
「わかっている」
自分でも不思議なことに、幼なじみに告白をされた衝撃は、思ったよりも少なかった。
英智の言葉を理解した瞬間に訪れたのは、唐突に道が開けたような感覚であった。
目の前に広がるのは、まだ誰にも踏み荒らされていない未知の世界だった。
それまで真っ黒になるまで二人で必死に描き続けてきた道のりは、この先も目眩がするほどに果てしなく真っ白な紙が続いていて、どこまで行っても終わりが見えない。成長するに従い次第に行儀良くなっていかざるを得ない足跡は、英智とならそうはいかないだろう。
広大なキャンバスを、小さな男の子のように手をつないで駆け回ることができたなら、それは途方もなくおもしろそうだと思った。
「英智が進む方向に、俺も共に進もう。同じ景色を見せてくれ」
「やっぱり敬人って変な奴だよ」と英智は何度か瞬きした。「こんな馬鹿みたいな告白で付き合おうと思うだなんて、物好きにもほどがある!」
○
一体何故こんなことになったのか、どれだけ遡って考えてもキリがない。
それまでのことに、いくら理由を探したところで無意味な気がした。過去の上に現在があるが、握れる手が隣にあるのにも関わらず過去を大切に偲んでいたって仕方がない。生きている以上、どうしたって進まなければならない。
「手は散々繋いできたね」
ロンドン橋をする子供のように、敬人の両手を握ってぶらぶら揺らしながら英智が言った。
関係が新しくなるのだから、付き合い方も変わってくる。
そうなるとまた少しずつ手探りで二人で関係に適応していかなければならない、と英智はこれからの課題を上げ始めた。
「ハグもしてきた計算でいいのかな」
「一応しておくか」
両手を離してから軽く広げてみせると、すぐに英智がもたれかかってきた。おそらく他の人よりも少し低いだろう体温は、それでも薄いパジャマ越しに暖かかく伝わってきた。不慣れながら背中に腕を回すと、それよりも英智が腕に力をこめた。
こうして改めてやってみると、なかなか気恥ずかしい行為である。
「恋人になってからははじめてだね」と英智が耳元で笑った。
未だ慣れない新しい関係性の名称を、そう声に出されると、余計になんだかくすぐったいような気がしてきて不思議である。それを機にひどく朧気だった実感のようなものがようやくじわじわと身体に巡り始め、なんとなく座り直すと、英智は少しだけ身体を離していたずらを思いついた子供のような顔を向けた。
「キスより先のことも済ませよっか」
「さすがに今日これ以上は無理だ」
英智がつまらなそうに目を細めたので、咳払いをしてから付け加えた。
「だがまあ、おそらく、貴様の最初の心配は杞憂に終わる」
英智が見つめてきたので、バツが悪くなり「と、思う」と更に付け足す。
英智はちらりと下を向いて、中途半端な現状に「ああ」とも「うん」とも言えない声で頷いた。
「なるほどね」と英智は身体を離した。「今まで上手くいかなかったけど、こういう絡繰りだったのか」
「おい、分析するな。性格が悪いぞ」
「でもその性格が悪い奴のことが好きだから、君は付き合うんだろう」
完全に意表を突かれて思わず口を噤んだ。
そのときになって、どうやらこの先も、自分の立場がすこぶる悪いことに、ようやく気がついたのだった。英智だって同じはずなのだが、なぜだか自分の立場の悪い未来ばかりが見えてしょうがない。
「ああそうだ」と敬人は半ばヤケクソ気味に答えた。
「貴様は昔からまったく傲慢で我儘で、やることなすこと突拍子がない。何をしでかすかわからない。これからは少しは落ち着いてほしいが、こんなろくでもない男についていけば、退屈を知らないからな」
「男の趣味が悪いんじゃないかな」と言いながら英智は笑いを堪えている。「他にはないの?」
少し考えてから、英智がしたり顔でこちらを見ているのに気がついて答えるのをやめた。代わりに目の前の額を軽く指で弾くと、英智は「痛っ」と大袈裟に額を手で押さえた。
「あとは追々言ってやる」
「あっ、ずるいなそれ」
「先は長いから覚悟をしておくんだな」
「僕の方こそとんでもない奴と付き合っちゃったなあ」
額をさすりながら、英智が声を上げて笑い出した。
「ああまったく、美しく死んで終わる物語ならどんなに楽だったろう!」
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