top of page

KATZE!


 俺は猫である。どこで生まれたかとんと見当はつかぬが、気がついたときには白くて細い腕の中で、ゆりかごのように抱き抱えられていたことだけは覚えている。その腕はゆらゆらと俺を抱きながら、子守唄のようなものを口ずさんでいた。

 あとから聞いた話によると、俺は大きな屋敷の門の前に置かれていたクレートの中で、小さくなって眠っていたそうである。そのときの俺は何故か立派な首輪をしており、銀のプレートには「ケイト」という俺の名前がアルファベットで掘られていた。

 その状態から捨て猫のようにも見えなかったため、屋敷の使用人たちで元の飼い主を探してくれていたようではある。しかしその家の一人息子は元々探す気があまりなかったようで、成果が芳しくないと悟るや否やさっさと捜索を切り上げてしまったという。

 その頃の俺はそんなことも露知らず、海のようにだだっ広い上等な絨毯の上でよちよちと歩く練習をしていた。その一人息子はおもむろに俺を抱き上げると、広い屋敷の中を丁寧に案内してまわった。そしてその部屋の一つ一つで、ご飯はここでとること、手洗いはここ、この部屋には入っちゃ行けない、執事の誰々さんは猫アレルギーだから近づいてはいけない、など俺に重々言って聞かせた。

 最後に自分の部屋に戻ると、その部屋の隅にはふかふかの寝床が用意されていた。彼はその上に俺をおろすと、新調したばかりのぴかぴかの首輪を俺にはめ、「ここがケイトの新しい家だよ」と言った。

 そうしてその日から、俺は英智の飼い猫となったのだ。



– 夏 –


 初夏の日差しが燦々と照らす午後、俺は背の高い戸棚の上で籠城を決めこんでいた。

「降りておいでよケイト」

 下では英智が懸命に呼びかけていた。先ほどから彼は「美味しいお菓子があるよ」「毛づくろいしてあげるよ」と甘言を囁き誘惑してくるのである。

 それでも尚無視を続けていると、ようやく諦めたのか「ケイトって抱っこされるの好きじゃないよね」と溜息をつき、ベッドの上に腰かけ足を投げ出した。「他の猫みたく膝の上にも乗ってこないし」

 英智はさも悲劇であるかのように憂いているが、しかしそんなのは当たり前のことである。まだ庇護されなければ生きていけない乳飲み子のときならばともかくとして、立派に立ちあがることのできる今になって子供のように抱かれるなんて日本男児として廃るというものだ。

「寂しいなあ、可愛くないなあ」

 英智がもう一つ盛大な溜息をついたが、この手に乗ってしまい酷い目に遭ってきたのは記憶に新しい。

 勝手に寂しがっているがよい、と俺は床に降りると英智の足下をすり抜け部屋を出た。


     ○


 俺は猫ではあるが、他の猫よりも大変博識であり、大変知恵のついた猫である。

 俺は英智の留守の間はひたすら本を読んで知識を蓄えているし、テレビのニュース番組を見ているため世情にも明るい。俺がこれだけ常に精進を重ねているのも、すべては英智を支えるためである。

 俺の飼い主にあたる天祥院英智は、通っている夢ノ咲学院で生徒会長という全校生徒の頂点に立つ役職に就いており、なんでも学院のトップユニットまで率いているとのことであったが、俺にとってはまだまだ手の掛かる子供も同然である。

 英智は幼い頃、清々しいまでの「暴君」であったようで、古株の使用人たちはことあるごとにこぞって当時の話題を出している。(勿論、主人たちのいない場所でこっそりとである)最近では自ら「もう暴君ではない」と宣言しているのだが、要するに信用がないのである。

 そうは言っても、今でもその傍若無人は健在で、彼は度々学院で嫌なことがあると俺に八つ当たりをした。いつだったか相当むしゃくしゃしていたのか「敬人の馬鹿野郎」と罵詈雑言を浴びせながら俺の肉球をひたすら揉むというに非道な行為に没頭していたこともある。

 加えて英智は病院が嫌いである。彼は幼い頃より病弱で、学校にもろくに行けないほどに入退院を繰り返していたらしい。そのため彼は自由を拘束する病院と、それを連想させるものを何よりも嫌がるのだが、一日でも長く彼の心臓が時を刻むためにはそうも言っていられない。英智の身体は未だに爆弾を抱えたままなのである。それでも英智は一度こうと決めたら最後、絶対に意見を押し通そうとする頑固なところもあり、この性格のせいで何度死にかけたことか。俺がこの家に来てからでも数え出したらキリがない。

 民衆の上に立つものがそれではいけない、と俺は考えた。そのため俺が英智を支えてやるのだと、物心がついた時分には既に固く決意していた。甘やかしていたら英智がろくな大人にならないのだ。

 今度ライブがあるんだろう、その前にちゃんと検診には行っているのか、もう少し休んでいた方がいいんじゃないか、などとお小言を並べていると、英智はうんざりしたように「うるさいのが家の中にもいる」とぶすくれた。

「ケイトが抱っこさせてくれたら行くよ」が彼の常套句であったが、俺とてそう易々と身体を受け渡してやる義理はない。俺が一肌脱がなくたって一人でヘルスケアに気を配れるようになってもらわなければ困るのだ。

 それから数日経った頃、制服に身を包んだ英智は朝っぱらから俺を探して戸棚の上などを見上げていた。

 七月に入ってからというもの、英智はなんだか機嫌が悪かった。いや、もしかしたら逆にものすごくいいのかもしれない。どちらにせよ、最近の彼は隙を見せるとすかさず肉球を揉んだり尻尾を触ったりし、俺をしばらく行動不能にさせてくるので、俺はなるべく近づかず戸棚の上やベッドの下などから彼に話しかけていた。

「出ておいでよケイト」とベッドの下をのぞき込みながら英智が言った。「一緒に朝ご飯食べて仲直りしよう」

 無事に帰ってきたら考えてやる、と俺はベッドの下に持ち込んだ『長靴をはいた猫』のページをめくりながら答えた。


     ○


 いつだったか、やはりこうして追いかけてくる英智に捕まったときのことである。そのときは突然英智が床に倒れたので、心配して駆け寄ったところを捕獲されたのだ。善意に付け込んだ悪質な犯行である。俺の必死の抵抗も虚しく、そのまま英智に抱きあげられると別室に連れて行かれた。

 そこで俺は大豆にされていた。

 一体どこを探せばこのような悪趣味な猫用衣装を売る店を見つけ出せるのか甚だ疑問であったが、珍妙な衣装に身を包み、感情という感情を殺した俺の姿を写真に撮りながら爆笑している英智はこれまで見たことがないぐらいご満悦であった。

 彼は携帯タブレットで何枚も写真を撮ると、誰かに送るつもりなのか何やらぽちぽちと操作をしはじめ、その間に俺はぶんぶんと頭を振って度し難いベージュの被りものを脱ぎ去った。

 英智の様子を見ながら、これはきっと「インスタグラム」にあげるに違いない、ピンときた。英智はときどき自分の写真を自分で撮りながら「インスタグラム」にあげ、そこで他人から多くの「イイネ」を貰っているのである。俺の写真はさぞかし「イイネ」をされることだろう。浮かれポンチな衣装を着ているのを人に見られるのは屈辱以外の何物でもないが、「イイネ」稼ぎに一肌脱いで協力してやるのはやぶさかでは無かった。

 しかし英智はメール画面を開きかけてから思い直したように、そのままタブレットを閉まってしまった。

 なんだやめてしまうのかと俺が横から画面をのぞきこんでいると、英智はふっと笑みをつくり、俺を抱き上げ首元に顔を埋めた。

「ケイトはいい子だねえ」

 英智は昔から俺の体毛に顔を埋めてすんすんとにおいを嗅ぐするのが好きであった。その度に「ケイトは家にいるのにお日様のにおいがして不思議だね」とふにゃっ笑うので、俺は妙になんだかそわそわと落ち着かない気持ちになってしまう。

 英智は俺を抱きながら、自室から繋がるバルコニーに出た。彼の家は小高い丘の上にあって、町の全貌が見下ろせるようになっている。

 彼はやわらかな風にあたりながら眼下の町並みを眺め、ぽつりと呟いた。

「でも、君もいつかここを出て行ってしまうのかな」


     ○


 その日、英智が帰ってきたのはひどく遅い時間だった。確か今日臨んだのは学院の行事の中でもとくに大きなイベントだったと聞いた。彼は疲れ切っていたのか、そのまま数日もの間、ベッドの中でこんこんと眠り続けていた。

 眠り続ける英智の顔は、小さな男の子のようだった。

 時折見せる英智のこういった表情が、俺は苦手だった。昔のアイドルの映像などを見ていると普段穏やかでのんびりした言葉を紡ぐ口元からは早口な専門用語がまくしたてられ、全身血の気のない肌をしているのに青い瞳だけが不気味にギラギラと燃えるように照っていた。多幸感に包まれたその顔を見る度に、黒い空の向こうの眩い星々に魅入ったまま、こちら側に帰ってこれなくなってしまうのではないかと本気で思うのだ。

 拾って貰った恩を感じているのもあるが、俺は単純に英智のことを好いていた。英智の力になってやりたかった。だから常に心を鬼にして、彼をこの世界につなぎ止めようと説教を垂れてしまうのである。純粋に言動に腹が立つというのも勿論あるのだが。

 それから三日ほどして、英智はようやく遅い起床を果たした。

 使用人に朝食の用意をさせている間、英智は未だ夢うつつといった風にぼんやりとしていたが、ベッドの横で先に朝食を取っている俺を見つけると、顔をすり寄せるようにぎゅうと抱きしめて頭の上に接吻してから、膝の上に乗せ、「うちのケイトは偉いねえ、いい子だねえ」と耳の裏をカリカリとかいた。おとなしくカリカリされながら俺は満足げに喉を鳴らした。

「ケイトは猫なのに待てができるものね」

 当然である。待てだけでなく、やろうと思えば大抵の芸はできるし、字も読める。犬以上の働きを見せることだってできるのだ。

「それに予防接種も泣かなかったしね」

 俺は胸を張った。

 なぜならば俺は英智の猫だからな!

 英智はにっこりと笑った。久方ぶりに見る、穏やかな笑顔だった。

「じゃあ去勢手術も平気だね」


     ○


 一歳を前にして、俺は日本男児として大事なものを喪った。

 しかし全く悲しむことではない。

「やっぱりつがいを作る予定も無いんだから取っちゃった方がいいよね。病気になるといけないし」と英智は動物病院の待合室で語った。「早いうちにしちゃった方がいいと前々から考えてはいたんだけれど、全然ケイトが捕まらないんだもの。広い家も考えものだね」

 こればかりは英智の言い分は理に適っている。

 使用しないにも関わらず放置することによって病気になる犬や猫は多いと聞くし、必要がないならそのリスクを軽減してやろうと計らうのも飼い主の責務である。それに共存する人間にとっては成熟した雄猫のマーキング活動は困ってしまうのだろうし、俺自身もあちこちで周囲が睦言を交わしまくる時期にも一人理性を保つことができるというのは大変喜ばしい。

 よって悲しんではいない。

 悲しんではいないのだ。

 俺が一夜にして恒久的な平静を得てしまったことに戸惑う日々を送る一方で、英智は最初こそ俺のエリザベス・カラー姿を嬉々として写真におさめていたが、学院が夏休みに入ると連日のツアーで家を空けていることが多くなった。

 日本の夏というのは蒸し暑く、人間であれ猫であれ辛い季節である。

 それでも英智は気丈にも頑張っていた。

 嫌いな検査にも進んで臨み、採血を取りながら「万全な状態じゃないとね」と俺に笑いかけた。「一世一代の大舞台なんだから」

 どうやらツアーの後、英智にとって大事な舞台を企画しているようだった。

 応援してやりたいのは山々だが、俺は心配だった。英智の身体は連日の疲労がたまり、目に見えて衰弱していた。何度か本人に説教がてら訴えたものの「心配性だなあ」と笑うだけで全く取り合ってくれなかった。

「でも僕は大丈夫なんだって、示してやらないと」

 そういったわけで、英智が倒れたのは、むしろ不幸中の幸いというやつだったのかもしれない。

 その舞台に英智が一体何をかけていたのかは知らないが、そのまま舞台に臨んでいれば取り返しのつかないことにもなっていたかもしれない。彼は頑固だから、倒れて入院までしなければ意地でも舞台に立つことを選んでいたことだろう。悔しいだろうが今は我慢の時である。何も無理して生き急ぐことはない。

 安心しろ、いずれまた機は来るぞ。

 それまでしっかり英気を養っておけ。

 慰めの言葉をかけてやると、病室のベッドの中に押し込められた英智は膝の上の俺を撫でながら静かに微笑んだ。それから突っ伏して俺を抱きしめると、静かに嗚咽を漏らしながら俺の名前を呼んだ。



– 秋 –


 英智が言うには、「敬人」というのは彼の幼なじみであるという。

 彼の話をまとめると、「敬人」という男はユーモアという概念を持ち合わせていないため冗談がまったく通じず、常に不機嫌であり、ねちねちと説教臭く人の揚げ足ばかりを取り、説教をされて怯えている少女の顔を見るのが何よりも好物で、おまけに性的不能、激昂すれば般若の如き形相になり、退治するには大豆で眼鏡を割らなければならないのだという。それらが本当ならば大変恐ろしい男だ。決して英智に近づけたくはない。

 俺と「敬人」の名前が一致しているのは偶然以外のなにものでもないが、彼の話す幼なじみはあまりにも褒められるべきところが一つもない男であり、英智もよくまあそんな男と同じ名前の猫を家に置こうと思ったものだと逆に呆れてしまう。

 幼なじみではあるものの、英智とそいつが現在進行形で友好的な関係を築いているのかどうかと言えば、おそらく否。俺がそいつの存在を知ったのはつい最近のことであり、それまでずっと俺の前では一切英智が話題に出すことはなかったからだった。


    ○


 その病院内では、深夜、廊下から足音がするのだという。

 足音はまるで病棟を巡回するように、病室の扉を律儀に一つずつ、こんこん、とノックしていく。しかし返事をしなければ扉を開けることはせず、そのまままた次の部屋の前へと行き同じことを繰り返すそうで、気味は悪いが実害が無いため入院患者内でのちょっとした話の種にされていた。

 その夜もいつもと同じ時刻、こんこん、と謎の訪問者によって扉がノックされた。

 たまたま起きていた患者は、いつものことだとたいして気にも止めなかったらしい。しばらくして部屋の前にいる気配が消えていくのを感じ、少しホッとしたそのとき、タイミング悪く患者は大きな咳をしてしまった。

 足音が部屋の前に戻ってくる気配を感じた。

 しまったと思ったその瞬間、一度も開けられることのなかった扉が開かれた。

 入り口に軍服を身に纏った男が立っていたのだという。

 男の右肩は大きく血に濡れていて、そこから先にあるはずの腕が見あたらなかった

 て。

 男が呻いた。

 男はまっすぐに患者のいるベッドへと向かい、ああ、ここにあった、と呟いた──。

「男は失った自分の右手を探して、毎晩この病院内を徘徊しているそうだよ」

 英智がそう締めくくった直後、病室の扉がノックされた。

 俺が思わず扉に向かって威嚇をしたのに対し、英智はのんびりと「どうぞ」と来訪者を招き入れた。入ってきたのは女性の看護師であった。「あっ、天祥院さん駄目ですよ、猫ちゃん出しちゃ」

 英智は困ったような顔をしながら、しぶしぶ俺をクレートの中に戻した。

「あと勝手にうちの病院の怪談を吹聴しないでください。本気にして怖がってる患者さんたちがいるんですから」

「それはそれは、語り手冥利に尽きるね」

「そんなこと言って、立派な業務妨害ですよ」

 看護師は英智の話し相手をしながらも実に手際よく体温を計っていったが、どうにも忙しいらしく、終わるとさっさと病室を出て行った。

 猛暑の中のユニットツアー後、疲労がたたって倒れた英智はそのまま入院を余儀なくされた。

 院内はもちろん動物による見舞いは禁止だったのだが、クレートから出さないことと他の患者や見舞い客の目に触れないことを条件に、俺が見舞いに行くことだけは許された。これもすべて天祥院家の権力と、俺が秀でた猫であるおかげである。しかし英智は病院の関係者がいなくなると平気な顔で俺をクレートから出し、「病院だと逃げないからいい子」とやっぱり俺の肉球を揉んでいた。

 そういうわけで、俺は入院中の間、暇をしている英智の話し相手となっているわけだ。

 入院中の英智はよくぼんやりとしていた。本を読み、音楽を聞き、映像を見ながら研究をした。ときどきもはや独り言のように俺に話しかけ、「どう思う? 敬人」と意見を聞いた。そして暗くなると眠った。

 あんまり暇なので、英智は俺によく怪談を語って聞かせていた。英智は普段心霊番組や怪奇小説を読まないくせになぜだか異様に怪談に詳しく、次から次へと身の毛のよだつような話がぽろぽろと語られるので俺は不思議でしようがない。たまに同じように入院生活に飽き飽きした小児科棟の子供たちが英智の病室に迷い込むことがあり、その度に英智は嬉しそうに子供たちを恐怖のどん底に突き落とし号泣させて帰すため、こうしてときどき看護師がやってきて注意をしていくわけである。

 それ以外では、英智はよく窓の外を見ていた。

 一体なにを見ているのか、外に何があるのか、と俺も一緒に眺めてみるが特別おもしろいことが行われているわけではない。窓の真下にある正面玄関では毎日毎日同じように、患者や見舞客の往来が行われているだけである。

「僕はこの窓の外へ飛び出し、みんなと一緒に遊びたかったんだよ」

 一度、英智は俺を抱きながらそんなことを言った。しかしせっかく外に飛び出したというのに、友だちとの遊び方がわからなかったのだという。階下では誰かの見舞い客なのだろう、子供たちの笑い声が響いていた。

 英智の長い人差し指がツッ、と窓枠をなぞった。

「皮肉だね。結局、僕は未だに窓の外を眺めているに過ぎないんだ」


     ○


 入院中、英智のユニットメンバーが何度か見舞いに来た。

 俺は彼らと会うのは初めてだったが、普段からしばしば話題に出るため顔を見ればすぐに誰だかわかった。一方英智は会う人会う人に俺の名前を尋ねられてもはぐらかして答えていたが、事情を知ってからだと無理もない話である。ろくでもない幼なじみと自分の猫が同じ名前というのは英智にとって恥ずかしいことなのに違いない。

 そんな見舞い客の中でも、英智がとりわけ来訪を喜んだのは日々樹という男である。

 日々樹という男について、俺から多くを語るのはよそう。なぜなら俺はこいつが気にくわないからである。虫が好かないと言った方がいいか。故に奴を語るには確実に俺の悪意が大いに含まれてしまい、客観的で公平な描写ができない可能性が大いにある。

 そういった理由で、俺は日々樹が来るとなるべく関わらないように離れた場所で無関心を装っているのだが(逃げるというのも癪である)、大体において俺の大人な気遣いは日々樹自身によって妨害された。日々樹は髪を自由自在に動かすなどの謎の妖術を駆使して俺を捕らえると「おお~よぉ~しよぉ~し」などと猫撫で声を出しながら耳の裏やら顎やら触りまくってくるのである。

 俺はこいつが大嫌いだ!

「しかし猫というのは意外ですねえ」

 俺が日々樹の秘技に陥落している隙に、日々樹は英智から贈られた首輪のプレートを裏返して、愉快そうにくつくつと笑った。英智が溜息をつくのが視界の隅に映った。

「どちらかと言えば、みなさん『狗』のようだとおっしゃるでしょうに」

「まさか」と英智は何度か瞬きをした。「敬人が僕に尻尾を振って構われたがるなんてとんでもない!」

 英智が検査に行っている間、日々樹は俺を膝に乗っけて相変わらず首のあたりなどをぐいぐい触りながら「これは根深い問題みたいですねえ」と呟いた。

「英智があんな調子だと、私も安心して未来に帰れません」

 おいおいと泣く演技をしながら、猫型ロボットのようなことを言った。そういえば色も似ていた。

 貴様なんぞ端っから必要ないから帰ってしまえ! と俺は毒づいたが、「可愛くないことを言うのはこの口ですか!」と例の妖術にてすぐに黙らされた。

 しかし俺は内心鼻で笑っていた。

 猫型ロボットなんぞいなくても、幼なじみがいなくても、英智の飼い猫の俺がいるのだから、英智は未来永劫安心なのである。


     ○


 その夜、消灯時間をとうに過ぎひっそりと静まりかえった廊下を、カツ、カツと渡る足音がした。

 夜勤の看護師が巡回でもしているのかとも思ったが、それにしては迷いなく一つの目的地に向かっているように聞こえて異質であった。

 そのうち足音はこの部屋の前で止まった。

 こんこん、と扉がノックされた。

 右手をなくした男の亡霊!

 俺は扉の向こうの訪問者に思わず身構えたが、静かに開けられた扉から室内に入ってきた男には両腕がしっかりとついており、健康そうで、おまけに英智が通う高校の制服と同じものを身に纏っていた。

 クレートの中にいた俺からは死角になっていて顔までは見えなかったが、すぐに俺はその男が「敬人」なのだと直感した。

 敬人は電気もつけずに病室に入ると、そのまま静かに英智の枕元に立った。

 先に聞いていた英智の話もあり、こんな遅い時間に一体何しにきたのかと俺はその様子をクレートの中から注意深く伺っていたのだが、敬人はしばらく何をするでもなく、棒立ちで英智の寝顔を眺めていた。

 そのうち身を屈めて英智の金色の髪にそっと触れた。

 細い髪を梳くような動作を何度か繰り返し、そのまま起こすことなく、彼は立ち去った。たっだそれだけだった。

 数分に満たない短い滞在者が去ると、また病室は俺と英智との二人きりに戻った。本当に、一体何をしに来たのだろうか。用があるのなら起こせばいいし、もっと早い時間に来訪できるよう日を改めればいい。そんなことを考えながら滞在者が去っていった扉から視線を戻して驚いた。それまで穏やかな寝息を立てていた英智が、暗闇を睨みつけていたのだった。

 多少なりとも俺は混乱した。まるでわけがわからなかった。何故狸寝入りなぞする必要があるのか。起きていたのなら、話しかければいいのに。会話をすることすら億劫だったのだろうか。

 天井を睨んでいた英智は起き上がって窓辺に寄ると、カーテンに手をかけてから躊躇った。そのうちに夜の静寂を破る自動車のエンジン音が遠くなっていくのを聞き届けると、彼は結局カーテンを開くことなくそのままベッドに戻った。そうして布団をかぶり、今度こそ朝までじっとしていた。



– 冬 –


 外に出たいと言うと、英智は意外にもあっさりと承諾した。

 退院してからの英智はまた元の忙しない生活へと戻り、家を空けていることが多くなっていたが、一方で天祥院家の広い屋敷もあらかた知り尽くした俺は、次第に外の世界に興味を持つようになり、家を出て見聞を広めてみたくなったのである。外での経験が、きっといずれ英智の役に立つことだろう。

 英智の部屋のバルコニーから、眼下の町並みとその向こうに広がる海を眺め、日に日に冷たくなっていく風にあたっていた俺は「ついにその時がきた」と感じた。

 GPSのついた首輪をはめながら、「車には気をつけるんだよ」と英智は軽い調子で言った。俺は真新しい赤い首輪を見下ろした。これで常に俺の居場所は英智に把握されることになるわけだ。

 バルコニーに立つと、一度呼吸を整えてから勢いよく手すりを蹴った。すとん、ときれいに刈られた芝生の上に降り立つ。

 振り返ると、英智は手すりに寄りかかりながら俺に向かってひらひらと手を振っているのが見えた。

 その瞬間、なぜだか俺は無性に悲しくなった。

 英智の顔を見ていると、言いようのない悲しみが胸に押し寄せてきて、俺を困惑させた。散歩に出かけるだけなのに、英智に対してひどい裏切りをしているようだった。

 俺はそれらを振り払うようにしっかりと前だけを見据えると、一気に駆けだした。


     ○


 英智はあえて語らなかったが、どうやら使用人に後をつけられているらしいことが、家を出てしばらくしてから気づいたことだ。常に居場所を割られ、監視されているというのは窮屈であった。しかしそれを我慢すれは、安全な中での「自由」を得たことになる。規則というのは対象の安全を守るためにあるわけだ。逆に猫の子守ひとつで二十四時間体制で監視させられている使用人たちが哀れであった。

 俺はとりあえず繁華街に降りてみた。

 週末を謳歌する私服姿の学生に溢れる駅前の商店街はいやに賑やかであった。そこかしこで笑い声が起き、ちかちかとした色彩に溢れ、おまけに狭いなかでものがごちゃごちゃとしている。郊外に位置する閑静な天祥院の屋敷や、真っ白な病院とはなにもかもが違い、ここでは時の針もめまぐるしくくるくると回っているように感じる。

 俺の散策は一見順調に進んでいった。魚屋のご婦人に「美人さんねえ」と刺身を勧められたが、去勢以降は体重の節制をしているので丁重に断りをいれた。途中で園児たちに「にゃんこ!」と追いかけられ、そのうち「ふぐり!」と叫んで追いかけてくる英智と同じぐらいの歳の少年が増えたりしなければ、初日としてはまずまずの手応えである。

 それからはあてもなく道沿いに歩いていたわけだが、普段家の中で過ごしているための運動不足がたたり、俺は少々疲れてきていた。どこか静かに休めるところはないかと探していると、大きな寺社の門が目に入った。

 もちろん、寺社に入るのは初めてである。しかし猫が入ってはいけない法律はなかったはずだ。厳粛そうな門構えの奥には、追いかけてくる子供や高校生もいなそうである。

 週末であるにも関わらず境内は閑散としており、葉を落としきった木々が余計に寒々として見えた。

 そのままずんずんと境内を進んでいくと、本堂の裏手に民家を見つけ、垣根の向こうをひょいっと覗きこんでみた。締め切った窓の向こうに寝そべっている真っ白な子犬の丸っこい尻が見えた。何となしに近づいてみると、なんとその子犬は床に直に置かれている水槽をぺちぺちと叩き、金魚をいじめているではないか。

 なにをしているんだ貴様は!

 思わず怒鳴って叱りつけると、子犬の垂れている両耳がぴくりと立ち上がった。首をもたげて突然の訪問者を確認すると、なぜ、とびっくりしたように子犬は尋ねた。

 なぜもなにもないが、俺はとりあえず子犬を目の前に座らせると説教をした。すべての動物に平等に命があり、他人が無闇に奪ったり、脅したりしてはいけないのである。そんなことも飼い主に習わなかったのか。

 子犬はきょとんと聞いていたが、だって金魚動かないよ、と水槽をまたぺちぺちと叩いた。死んじゃったのかと思って。

 どれどれと覗きこんでから、冬だから眠いだけだ、と俺は答えた。寒くなると魚も動きが鈍くなるのだ。俺は本を読んでいるから知っている。

 ふうん、と子犬は自ら尋ねたくせに興味なさげに鼻を鳴らした。しかしそのあと、そっか死んでないんだ、と小さく呟いた。

 俺はなんとなくその子犬に興味を持って、縁側に腰を据えた。子犬はちらり、と振り返って俺を見やったが何も言わなかった。子犬は青い瞳をしていて、それがどこか見覚えがあった。

 すっかり順序が逆になってしまったが、少しの間休ませてほしい、と俺が申し出ると、子犬はあっさりと承諾した。続けて、飼い主に挨拶をしたいが在宅か、と尋ねると、途端に子犬は不貞腐れたような顔をする。最近ろくに会っていない、と子犬はむっすりしながら寝っ転がった。

 彼が言うには、普段は飼い主が帰ってくるまで日がな一日、こうして窓辺で外の景色を眺めながらごろごろしているそうである。猫と違って犬は法律できちんと放し飼いは禁止されているので、彼が外に出ることができるのは飼い主がジョギングがてら散歩に連れ出す僅かな時間だけであった。しかしその飼い主も部活動に委員会活動、ユニット活動と大変多忙な学生であるため、あんまり構ってくれる時間がないとのことである。

 退屈なのか、と俺が尋ねると、退屈だよ、とさらにぶすっとしながら子犬は答えた。安定と刺激は交互にこなければいずれ生き物は死んでしまう、と彼は憂いた。

 俺はその子犬の姿をじっと見つめた。

 それなら、できるだけ俺が遊びに来よう。俺が提案すると、彼はまた驚いたように耳がぴくりと立ちあがった。

 子犬の名前は「エイチ」と言った。


     ○


 それからは約束通り、俺は定期的に白い子犬、もといエイチに会いに寺に通うようになっていた。

 俺はそこで退屈のあまり死んでしまいそうなエイチの話し相手となっていたのだが、エイチと話すことは俺にとっても新しい発見があった。エイチは家の中に引きこもっているにも関わらず、意外にも物知りで深い教養を持ち合わせた子犬だったのだ。なんでも彼の飼い主が相当な博識であり、おまけに説明したがりだから一緒にいると嫌でも覚えてしまうのだという。

 君にちょっと似ている、とエイチは飼い主のことを語った。

 彼の飼い主は通っているアイドル養成学校で生徒会副会長という役職に就いているため多忙を極めている。イベントごとが近いときなどは日夜学校を駆け回っており、そのまま学校に泊まって家に帰ってこないことも多い。そして疲れて果てて帰ってきた日などは、度々エイチを膝に乗せてうとうとしながら、彼と同じ名を持つ幼なじみの話をするそうだ。それだけ日々頑張っているのは、全てその幼なじみのためなのだという。

 ここまで丁寧に説明されて未だ気づかぬ者もいないだろう。そう、つまり彼の飼い主こそが「敬人」であり、俺がたまたま立ち寄ったその寺こそが「敬人」の実家であったのだ。

 しかしそうなると、敬人は飼っている白い子犬に英智と同じ名前をつけて可愛がっていたことになる。端から聞くとなかなかの変態的所業に思われるが、更によくよく考えれば自身の飼い主だって端から見ればまったく同じような状況なのである。

 それにしても不思議な偶然が重なったものだ、と俺は言った。名前が合致するなんて、そうそうあることではない。その運命のいたずらのようなもののせいで、どいつもこいつも同じ名前で大変ややこしいことになっている。

 しかしエイチは、偶然なものか、とあっさり返した。

 偶然が二度重なれば、それは必然なんだよ。

 俺は首を傾げた。何故こいつは子犬のくせに、やたらと意味ありげな物言いをするのだろうか。


     ○


 俺が敬人の家に通っていることは、首輪についているGPSによって確実に英智にバレているはずなのだが、意外なことに彼はそのことについてまったく言及してこなかった。好きにさせてもらえているのは気が楽だったが、なんだか不気味でしようがない。

 ここのところの英智は元気がない。彼の身体は元気であるほうが稀なのだが、それを差し引いても英智は元気がなかった。そしてそれに比例するように英智の機嫌は下降する一方であり、しかし夏のようにこまめに暴発させるでもなく、まるでため込むかのようにせっせと爆弾を肥やし続けているのだから余計にタチが悪い。

 それにしても、英智は一体何が不満だというのだろうか。

 英智は確かに身体が弱いが、それは今に始まった話ではない。生まれ持った体質をとっくに受け入れているはずだった。彼は憧れたアイドルの世界に身を投じ、憧れのアイドルまで手中に入れ、そこで輝くような栄光を掴んだ。学院には新しい風を吹かせる後輩たちが育まれ、彼に刺激をもたらし続けている。彼には愛すべきユニットのメンバーの他に、部活の後輩たちもいる。何よりも俺がついている。一体何が足りないと言うのか。俺にはこれが不思議でしようがないのだ。

 すっかりとお茶飲み友達としての立場が定着したエイチは、俺の話を黙ってふんふんと聞いていたが、それは君が敬人じゃないからだよ、と予想もしていない答えを告げてきた。

 しかし俺は、バカな、と鼻で笑った。

 町を歩くようになってから、敬人の話はあれから随分とたくさん聞いてきた。同時に英智の語る彼の話はだいぶ悪意に満ちた誇張がされていたこともわかったのだが、それを抜きにしてもなんともひどいお話である。英智とともに革命を起こし、学院の頂点に立ったはいいが、そのあと後輩の新星ユニットにあっさり敗北し頂点の座を譲り渡してしまい、当の英智本人とも不仲なのだという。

 杜撰な脚本である。俺ならばもっとうまくやることだろう。

 エイチは溜息をついた。もっと視野を広く持った方がいい、とエイチが言うので、少なからず俺はムッとした。

 ケイトはそもそもなんで彼の面倒を見ているのさ。

 質問の意図がわからず、俺は顔を顰める。

 君が面倒なんて見てやる必要無いと思うんだけどな、僕は。

 言葉が過ぎるぞと俺が怒ると、ひねくれものの子犬はムスッとしている。英智の面倒を見てやっている理由ならばいくらでも挙げられる。しかし強いて言うならば、それは俺が英智の猫だからである。それ以上でも、それ以下でもない。

 北風がざわざわと木々を揺らした。風の冷たさに思わず身震いすると、中に入ったら、と相変わらずムスッとしているエイチが誘った。

 二階の窓が開いてるから、君なら中に入れるよ。

 教えて貰ったとおりに家の中に入ると、エイチは体をずらしてクッションの上に場所を空けた。

 貴様は窓の外に出たいのか、と俺はエイチに尋ねてみた。

 出たいな、とエイチは言った。

 ここもなかなか快適そうなのに、と俺は重ねて言った。陽のあたる室内は、風が通らないのもあってぽかぽかとあたたかかった。

 君だって窓の外へ出たかったから、ここに来たんだろう。

 エイチの隣に腰をおろしてうつ伏せに寝ころぶと、エイチが身体に鼻先をくっつけた。少しばかり機嫌は良くなったようである。

 ケイトはお日様のにおいがするね、と彼は言った。そういうエイチもぽかぽかとあたたかくて、お日様のにおいがした。

 そのまま丸まって二人で眠った。

 それから部屋の中まですっかり真っ暗になった頃、突然部屋に電気が点けられると、「うわ、なんだその猫は!」と英智と同じ制服姿の男の頓狂な声が響いた。敬人だ。

 制服を脱ぐ間も与えられずに駆け寄ったエイチに踵をがぶがぶと噛まれている敬人は「わかったわかった」と軽くあしらいながら部屋を出ていき、すぐにドッグフードの入った皿を持って戻ってきた。

 俺の前には空の皿を置き、「悪いがキャットフードは無いんだ」などと言いながら湯がった鶏ササミを律儀にちぎって皿の上に乗せた。

 少し躊躇ってからそれに口をつけると、敬人は俺の頭を撫でながら「おまえは一体どこから入ったんだ?」と尋ねた。

 俺はときどき彼の顔を見ては、別に俺に似ていないじゃないか、とこっそり憤慨した。

 ついでに般若にも鬼にも似ていないな、とも思った。


     ○


 はじめて門限を破って帰ると、英智の不機嫌は最骨頂に達していた。加えて他の犬の臭いがすることに気づくと、「浮気者!」となじってきた。「朴念仁みたいな顔してどすけべ猫!」

 何故か英智は非常に怒っていた。確かに門限を破ったことは俺が悪いが、そこまで怒られる筋合いは何もなかったので徹底的に反論すると今度は「ケイトのくせに生意気な!」などと言って口論になり、そのまま口を利いてくれなくなってしまった。

 勝手にしろ、と俺は窓を開けてバルコニーに出た。

 さすがに猫の俺でも冬の夜に吹きつけてくる海風は冷たかった。それでも俺は耐えてバルコニーから見える真っ黒な海を睨みつけていた。空には真っ黒な厚い雲がどんよりと星々を覆っていて、その中で灯台の明かりだけがチカチカと光っている。

 バルコニーからは街の外れにある、木々の生い茂る小さな山の姿もよく見える。そこにエイチたちがいるんだな、と俺はぼんやり考えた。寺社のある小山を眺めながら、今日のことを反芻した。エイチのことを考えて、それから俺と同じ名前の男の顔を思い出した。どうして同じ名なのか、考えたこともなかった。考える必要はないと思っていた。

 さすがに寒さに耐えかねて部屋に戻ると、怒り疲れたのか英智はソファに横たわって眠っていた。

 まるで子供のようだと思いながら、その様子を見ているうちに俺の怒りはすっかり霧散していた。こんなところで寝て風邪を引くと困るので、起こそうと英智の身体の上に飛び乗った。

 すると英智はうっすらと目を開けて「大好きなんだよ」と呟いた。「大好きなの」

 わかっている、と顔に鼻をすり寄せると、英智は自身の鼻を押しつけながら、「どこにも行かないで」と言った。「でも縛りたくないの」鼻の先が冷たく濡れた。

「愛しているんだよ」

 俺はソファの背もたれにかかっていたブランケットを引きずりおろすと、英智の上にかけてやった。

 英智はもう寝息を立てていた。

 俺もまた寝床に向かいながら、もう一度振りかえって英智の寝顔を見た。

 最後の一言がどちらに向けられたものなのかは、わからなかった。



– 春 –


 大きく開け放たれた窓を前に、英智が立っていた。

 強風に煽られたカーテンがばたばたと音を立ててたなびいている。

 まるで何かの儀式を執り行うかのように、英智は丁寧に窓の縁に足をかけていき、縁の上にゆっくりと立ち上がった。

 英智が、一度だけ振り向いた。

 ばさばさとなびく髪が邪魔で、表情が読みとれない。何かを言ったような気がしたが、風の音が邪魔で聞き取ることが出来ない。

 それでも、英智がここから飛び降りるつもりなのは俺にも十分にわかった。

 しかし遊び方がわからなかったという英智のことだから、きっと猫のように上手に飛び降りることもできないに違いない、と俺は思った。

 きっと英智はどこに飛び降りればいいのかもわからないだろう。

 きっとこのままでは怪我をしてしまう。

 きっと誰に助けてもらえばいいのかもわからない。

 爪と肉球しかないこの毛深い手では、滑り落ちていく彼の腕を掴むことができない。

 この小さな体躯では、人間の身体を支えることができない。

 どれだけ説得を試みても、俺の言葉は人間の英智には伝わらない。

 英智の猫である俺にできることと言えば、せいぜい一緒に落ちてやることが関の山である。

 そのとき一際強い向かい風が吹いて、一瞬にして英智の身体が視界から消えた。

 そこで俺は、ハッと目が覚めた。

 寝床から這い出ると、日はすでに随分と高くなっており、アーチ型の窓枠がだだっ広い床に陰を落としている。どうやら俺は珍しく朝寝をしたようだった。

 既に主のいなくなったベッドの上にあがると、腰をおろしてみた。

 十分に日の光に当たったシーツはあたたかくなっており、英智の体温は感じられなくなっていた。


     ○


 英智の長年の積もりに積もった癇癪は今にも爆発寸前で、一度爆発したら最後、どうなってしまうのかは飼い猫の俺にもわからない。彼は非常に危うく、今にも壊れそうであった。そんな状態がかれこれ一年も続いている。

 英智は一体何が不満なのか。一体何が足りないと言うのか。

 俺はあまり泣き言をこぼすのは好まないのだが、その日はエイチに話さずにはいられなかった。いつかと同じようなことを彼に話し、同じようにふんふんと頷きながら聞いていたエイチは俺が話し終わるまで待つと、君が敬人じゃないからだよ、とやはりいつかと同じようなことを言った。

 俺が人間じゃないからなのか。

 今度は、俺はそれを静かに受け入れた。俺が予感しはじめていたことであった。追い打ちをかけられた俺はすっかり意気消沈してしまった。

 しかし、ちがうちがう、とエイチは首を振った。

 敬人じゃないと駄目なんだよ。

 俺は、そんなにも敬人に劣るのだろうか。

 エイチはそういうことじゃないんだよなあ、と言った。だって僕と英智も違うもの。

 それから俺たちは境内を眺めていた。その日エイチは敬人の家の人の計らいで、絵馬掛所にリードでつながれていた。先ほどから女子高生に写真を撮られてにこにこご満悦である。

 暖かくなってくると、寺には学生の姿がちらほら見えるようになった。おそらく大半は受験の合格祈願、クラス替えの願掛けに、なかには甘酸っぱい願いを掛けにくる者もいるのだろう。少なくとも、ここに願いを掛けにくる者たちは否応無く進む時間の中を生きているように見えた。時は進むものである。英智たちに感じる気持ち悪さは、時が止まっているような、時の流れがそこだけ詰まってしまっているような気持ち悪さだった。

 今にも死にそうな顔で絵馬を真剣に掛所に結んでいる男子高校生を見ながら、エイチがぽつりと呟いた。

 願掛けなんてしなくても、好きなら一緒に遊べばいいのに。

 人間とは難儀だな。

 所詮猫と犬には、人間の機微がわからなかった。

 俺はふと思いついて、敬人と仲直りでもすればあいつの情緒不安定も少しはマシになるのではないか、と提案した。

 喧嘩もしてないのに仲直りも何もないよ、とエイチは答えた。


     ○


 その夜、敬人が床に入ったのは日付がたっぷり越えてからだった。

 彼の飼う犬がいなくなったのだ。

 ある日、いつの間にか寺に保護されていた子犬だった。いかにも血統書付きの種であったため、飼い主を探してやったのだが捜索の結果は芳しくなく、何故だか異様に懐かれてしまったのもあったため、結局そのまま飼うことにしたのだ。

 学校から帰り、家の中のどこにもその子犬がいないことに気づくと、だんだんと背筋が凍っていくのを感じた。

 いいお天気だったので外につないでいたら、いつの間にかリードを外していなくなってしまったのだという。既に警察と保健所に連絡はしてあるというので、寺の境内から近所の道路まで懐中電灯を片手に探し回ったが、手がかりひとつ見つけることができず落胆した。

 盗まれてしまったのだろうか。ようやく一歳を迎えようという歳になるはずだが、純血種であれば小さな子犬でなくても盗む輩はいるだろう。単純にリードがはずれて自分で逃げてしまった可能性もある。しかし普段散歩で近所をぶらつく以外には外に出たことのない箱入り犬であった。一度外に出て迷子になったら戻って来られないだろう。そのまま車にはねられていたらと思うと、焦燥で居ても立ってもいられない。

 起きたらもう一度連絡してみようと決めて、ようやく床に入った僅か一時間後。

 静寂な寺の境内の上空に小型ヘリがプロペラ音と共に滞空し、拡声器による爆音が響き渡ることになるのだ。


     ○

 

 英智はヘリコプターの上から拡声器を持ち上げると、立てこもり犯に告げる警察官よろしく「蓮巳敬人、出てきなさい」と命令した。張りつめたような寺の空気が爆音にびりびりと揺れた。

 近くの民家が明かりがぽつぽつと一斉に点りはじめたのと、敬人の家の二階の窓が勢いよく開かれたのはほぼ同時であった。

「近所迷惑だ! 一体今何時だと思っている!」と顔を出した寝間着姿の敬人が叫び返したが、その声もまただいぶ近所迷惑であった。英智がその姿をサーチライトで照らすと、彼は「眩しい!」と腕で顔を覆いダメージを食らった。

「君の愛犬は僕が預かった。返してほしくば僕と決闘だ」

「卒業も間近だというのに貴様の遊びに構っている暇はない」

「おや、そんなことを言っていいのかな」

「そんな幼稚な狂言に俺が乗るとでも思っているのか」

 しかしそこで拡声器越しに苦しげに鳴く子犬の声を聞くなり、敬人は愛犬の名を叫び顔色を変えた。

「ついでに犬に僕と同じ名前をつけている恥ずかしい行為を世間に暴露してやろう。君のファンは幻滅するどころかアンチへと転身し、日々苦情と脅迫状にまみれた紅月は卒業を待たずとも事実上解体、君は芸能界で生きる道を絶たれてしまうかもしれないね!」

「ええい、たったそれだけでそこまでひどいことになるか!」

 そう叫んだあと、敬人は「ちょっと待ってろ」と律儀に断るや否や窓から頭を引っ込めた。家の中からはなにやら言い合いのような声が聞こえてくるため、おそらく騒音に対する家人からの苦情が敬人に向かっているのだと思われた。

 英智はその間にヘリから梯子を降ろすと、そのまま下屋の上へと降り立った。カツ、カツと優雅に二階部分にある敬人の部屋の前まで歩いていき、前屈みに窓をのぞき込むと戻ってきた敬人に、彼は左手を差し出した。

「まるでロミオとジュリエットのようじゃないかい」

「こんな奇天烈なロミオがいてたまるか」

 敬人は差し出された手をはねのけると、自らも窓の外に乗り出し、二人は瓦屋根の上で相対峙した。

「して、どういうつもりだ英智」敬人は思いきり睨みつけた。「たちの悪い悪戯にもほどがあるぞ」

「悪戯だと思うのなら、そこで指をくわえてみているといい。僕に大事な者をすべて奪われていく様を」

「そこまで外道に墜ちたというのか貴様は」

「そう思ってくれて構わない」

「……貴様が本気だと言うのなら、俺は貴様を全力で潰すぞ」

「そのつもりで僕は言っているんだ。本気でかかってきなさい」

 月明かりの元、両者は激しく睨み合い、まさに一触即発の空気が醸し出された。

 先に口元をゆるめたのは英智だった。

「僕と喧嘩をしよう、敬人」

 英智は、はじめてその言葉を口にした。ようやく口にできた言葉だった。

「小さな男の子のように、泥だらけになって喧嘩をしようじゃないか」


     ○


 結論から言えば、英智はまた倒れた。

 しかし今度はしっかりと舞台に立ち、幼なじみと相見えたあとに、そのまま自身の意思で病院に向かったのだった。彼は舞台にあがる前「この舞台のためならば死んだって構わない」とまで言っていたのに、実際入院する羽目になった彼は「そこまで酷くないのに大袈裟すぎる」とぶつくさと文句を垂れていた。

 俺とエイチが病室に持ち込まれていたチェス盤を挟んで主の留守を預かっていると、人間の方の敬人が現れた。今日は日曜日だというのに、彼は相変わらず制服に身を包んでいる。

 俺たちが揃って彼が手から提げている紙袋の中身をじろじろと注視していると、視線に気づいたのか敬人はばつが悪そうに「俺が花束を持っているのがそんなに意外か」と言った。「花でもあれば陰鬱な入院生活も少しは華やぐかと思ってな」

 病室に英智が戻ってくると、敬人は紙袋ごと花束を手渡して俺たちに言ったこととまったく同じことを、更に長尺でぐだぐだと繰り返した。英智はさほど興味も無さそうにそれを受け取ると、「この花束って僕のイメージカラーだったりするの?」と尋ねて、敬人を一瞬にして黙らせた。

 その間に「お土産に貰ったお菓子があるからお茶を淹れてあげよう。それくらいの時間はあるよね?」と敬人が止める間も無くさっさとお茶の用意まで始めている。

「学院の近くに美味しい紅茶が飲めるお店ができたんだって、創くんたちが言ってたんだよ」

「それ以上カフェインを摂取するつもりなのか」

「一杯くらいいいだろう、敬人も今度付き合ってよ」

「まあ一杯くらいなら」と折れているうちに、英智はティーカップを敬人に手渡した。しかしまだティーカップに口もつけていない段階で、お茶菓子を口元にぐいぐいと押しつけるので、しまいには「自分で食える!」と敬人に怒られている。

「僕は君から奪った青春を返したいんだよ」というもっともらしい言い分に「奪われていないしそれとこれとは別だ」と敬人は眉を寄せ、それを見て英智はくつくつと笑っていた。最初こそまた喧嘩でも始める気かと思った二人のやり取りだったが、どうやらこれが本来の距離感らしかった。

「というか、やたら俺の家に来ていたその猫はなんだ」

 立場が悪いのか、明け透けに敬人は突然話を変えた。「名前に関して俺を糾弾したくせに、その猫も俺と同じ名前じゃないか」

 しかし英智はしれっとして、俺を抱き上げる。

「この子はいい子だよ、普段はツンケンしてるくせに僕が元気がないと察してくれて慰めてくれる。敬人より十倍優しいし賢い子だよ」

 敬人が睨みつけている間、俺はそっぽを向いていた。窓際ではチェス・プロブレムに飽きたエイチが欠伸をしてうとうとしている。

 英智の腕の中で俺はこの先のことを考えた。

 もしかしたら俺とエイチが一緒に住むようなことがあるかもしれないし、たまに遊びに行くような関係がずっと続くかもしれない。現実は物語のように簡単にうまくはいかないが、あんまり見ていられないようなら、また俺が手を貸してやってもいい。何故英智の面倒を見るのと言えば、いくらでも理由は挙げ連ねられる。しかし事はもっと単純で、それ以上でもそれ以下でもなく、俺がただ英智の猫だからである。敬人がずっと英智の面倒を見てきたのもきっと、単純なことがきっかけだったに違いない。しかし彼は猫ではないので、また俺とは違った理由なのだ。

 何はともあれ、英智はこうして元気に笑っている。

 俺は喉を鳴らした。

 英智の猫として、これ以上望むことはないだろう。

Comments


bottom of page