半月ぶりに家に帰ると、英智の姿が見当たらなかった。
それ自体はさして珍しくもないことである。お互い多忙の身のため、一緒に住んでいるといえども、しばらく顔を合わせないなんてことも日常茶飯事であった。
長いドラマの撮影の後、間を空けずに向かった海外ロケは予想外に時間がかかり、身体は隅々までぼろ雑巾の如くくたびれていた。普段ならありえないくらいだがシャワーを浴びるのすらも億劫で、ただ柔らかい布団だけを求めてゾンビのような足取りで寝室へと向かった。
寝室のベッドの上には、既に大きな丸い膨らみがあった。なんだ帰っていたのか、と思ったのと同時に半月前の出来事がありありと蘇る。これはふて寝でもしているに違いないと思って近づいた。
「英智、この前は悪かった」
小さな山に手を触れて、その感触におやっと思って毛布を払いのけると、そこに英智の姿はなく筒状に丸められた毛布があるだけである。
丸めた毛布には、置き手紙が貼り付けられていた。
○
突然の訪問者に、北斗はうんざりしたように自宅の玄関の扉を開けた。
「いきなり押し掛けて申し訳ないね」
「本当に申し訳がないと思っていたら、インターホンを連打したあげく、近所の少年たちを買収して階下から俺の名前を大声で連呼させるようなことはしないと思うんだが」
近所迷惑のあまり仕方なく家にあげてしまった、と睨みつけると、訪問者は柔らかい笑みを浮かべるばかりで、よっこらせと小さなキャリーケースを玄関の中へあげた。
「して、何故生徒会長がここに?」
「一瞬だけ同じユニットだったよしみで、何も聞かずしばらく泊めてくれないかな」
どうせろくでもない用事だろうとは思っていたが、案の定な要求に北斗は軽く頭を抱えながら、とりあえず居間へと案内した。
「それならば同じユニットの仲間のところに行けばいいのに、何故うちに」
「そういったクラスとか部活のつながりだと、すぐに居場所がばれちゃいそうなんだよね。その点まさかここに来ているとは夢にも思わないだろう」
「それほど家に帰れない事情があるなら、ホテルでも借りればいいのでは……」
「クレジットカードの情報なんかですぐ場所が割れちゃうよ」
なんだか焦臭い話に北斗は眉を寄せた。いくら高校時代の先輩であり、王権を奪ってやろうと一時対立しており、現在はなんだかんだユニット同士切磋琢磨している仲だといっても何かの事件に巻き込まれるのは甚だ御免である。
ふと思いついて、「副会長に相談すればいいじゃないか」と北斗は提案した。風の噂で同居しているとは聞いていた。その横柄な物言いに突っかかってしまうことはあったが、彼の人情や手腕は北斗の知るところでもあり、こういうときさぞかし頼りになることであろう。
しかしその名前を聞いても、英智は貼り付けたような笑顔のまま「ああ」とだけ言った。さすがに機微に鈍い北斗でも、この反応にある程度の事情は察した。
「ところで、どうしてまだ『生徒会長』呼びなんだい」
機嫌を損ねてしまったのか、強張った顔で英智は北斗に人差し指を突きつける。「僕はとっくの昔に引退して、そのあと真緒が立派に一年務めあげたはずだけど」
「それはそうなんだが」と北斗は腕を組むと、首を傾げた。「どうも俺の中では、あんたはすっかり『倒すべき悪の生徒会長』というイメージで固定されてしまっているらしい。明星の件でそれなりに世話になったというのにすまないが」
「まあいいけどね、ラスボスはそれくらい印象深くないと」
少し機嫌が直ったのか、英智は踵を返すと廊下をキャリーケースを引きながらずんずんと進んだ。「さて、僕はどの部屋を使ったらいいのかな」
「俺の家はときどきメンバーが来て打ち合わせに使ったりするんだが……」
「いいね、僕も何かアドバイスできると思うよ」
絵に描いたような暖簾に袖を押している状況に、ぬう、と北斗は呻いた。
○
「へえ、それで英智先輩今来ているんだ」
「かれこれ一週間になる」
楽しげに部屋の中をきょろきょろするスバルとは対照的に、北斗は重い溜息をついた。元々細身で表情が顔に出ない男であるが、それでも若干やつれているのが目に見えてわかり、かつて同じ委員会でその人となりをよく知る真緒は心の中で合掌した。
「蓮巳先輩にはもう連絡したのか」
「試みたのだが、なぜだか『紅月』の誰ともこの一週間連絡がつかなかった。どうやら番組収録か何かで海外に行っているようだ。とりあえずメールは何件も送っているから、そのうち気づくとは思うんだが……」
「今の時代に携帯がつながらないって、どんなところに行っているんだろう……」
真が考え込んでいると、ただ一人状況を好意的に捉えているスバルは明るい声をだした。
「いいじゃん、せっかくだからアドバイスしてもらおうよ。俺たちも『fine』にアドバイスしてさ。きっとおもしろい話いっぱいできると思うな」
「明星くんは仲良しだもんねえ」
「それならば明星の家へ行けばいい、と言いたいところだが、それでおまえのパフォーマンス精度が落ちるのも困りものだしな」
そう言うと北斗はソファの上で頭を抱えた。
この一週間というもの、片時も気が休まることはなかった。
家にさほど親しくない他人がいるだけで気を遣うというのに、当の英智は「そう気を遣わなくてもいいよ」と何故か家主顔で悠々と居座り続けた。
この機に外食がしてみたいと仕事帰りの北斗をファミレスや回転寿司に連れ回すだけでは飽き足らず、恋バナをしようと布団に入りこんでくる始末だ。ええい、いい加減にしてくれと嫌がる度に、英智は愉快そうに幼なじみに似ているといったことを言いかけ、途端にその幼なじみに対する怒りを思いだし、思い出してしまった自己嫌悪からこちらに八つ当たりしてくるので扱いづらいことこの上ない。
精神的負担とは別に、物理的負担があるのも困りものであった。家電を壊すのである。それが単なる家電音痴なのではなく、ただ使い方がわからないだけで、一度教えればすぐに使いこなせはするし、自分でもネットで下調べをしてから使用してはくれるのだが、それでも壊してしまった家電はもう元通りにはならない。自立した際におばあちゃんがくれた掃除機がうんともすんとも言わなくなったときは部屋でこっそり泣いた。
かつての部長の方がまだマシだったような気がしたが、当時の奇行の数々を思い返して撤回した。どちらにしても『fine』の印象がだだ下がるばかりである。
「俺だって毎日疲れている! 明日の本読みだってしなければならない! それなのに何故! 家に帰ってこうも気を遣わねばならないのか!」
「落ち着けよ北斗」
いつにもなく取り乱しているリーダーの珍しい姿にただならぬ苦労を感じ取り、真緒は肩に手を置いて労った。
こう考えると、英智の周りにいる人物とは皆とんだ大人物なのではないかと錯覚する。北斗に幼なじみはいないので感覚はよくわからないが、少なくともあれと二十年近く共に過ごせる気はしなかった。
「で、その天祥院先輩はどこに……」
「確か台所でなにやらしていたな」
北斗が思い出したちょうどそのとき、台所から「北斗~」と呼ぶ声がした。ゆったりしたスリッパのパタパタとした足音が響き、冷蔵庫の陰からひょっこり顔を出した。
「電子レンジが壊れちゃったみたいなんだけど」
「またか!」
急いで立ち上がって向かうと、電子レンジからなにやら白い煙が朦々と立ち上がっている。扉を開けようとしてうっかり素手で触ってしまい「あついっ」と悲鳴をあげた。
「なんでアルミホイルに巻いた芋を電子レンジで温めたんだ……」
「焼き芋というのを食べてみたくて」
「焼き芋は電子レンジでつくるものではない」
北斗はもう怒る気力もないのか、「すまない、おばあちゃんが送ってくれた芋……」と力なく呟いた。
その傍らでスバルだけは「ほんとに英智先輩いるじゃん! やっほ~!」と明るく手を振って挨拶し、英智も「やっほ~!」とにこにこ手を振り返している。
「……えーと、今実家の豪邸からは出てるんだよね?」
「普段どうやって暮らしているんだ?」
「皆目見当がつかん!」
北斗が叫んだと同時に、インターホンが鳴った。
液晶越しに待ちに待ったその姿を確認すると、北斗はいち早く玄関まで赴き、扉を開けた。
「副会長」と北斗は早口に呼んだ。
「早くあの人を連れて帰ってくれ」
○
「密告するなんて、君たちにはがっかりしたよ」
すっかり拗ねてしまって、ソファの隅に丸まりながら英智が言った。ガンとして敬人と顔を合わせたくないらしく、クッションを抱え込んでこちらに背を向けている。
「すまない生徒会長、しかしやむを得ない。俺も限界だ。わかってほしい」
「そうだ、後輩から散々苦情がきているんだ。迷惑をかけるな英智」
「僕が誰に迷惑をかけようと敬人には関係ないだろう」
「そういうわけにもいかん」
「そういうわけにいかないので帰ってくれ」
敬人が腕を掴んで引っ張ったところで、英智はてこでも動く気がないようだった。今度は脇をがっしりと掴んで無理矢理にでも起きあがらせようとすると、突如普段の病弱ぶりが嘘のように飛びかかり、敬人の上に馬乗りになりながらやわらかいクッションで殴り始めた。想像以上のバイオレンスな光景に真が「ひえ……」と声を漏らしながら目を覆う始末である。ところどころ本気で痛そうな声が漏れて聞こえてくるのが生々しかった。
攻撃がやむと、クッションから飛び散った綿を払いのけながら、敬人は声をおとして言い聞かせた。
「貴様が俺に相当怒っているのは十分にわかった。家でいくらでも貴様の言い分を聞いてやる」
「その手には乗らないよ。君のお得意の話術で言いくるめる気だな」
「貴様が一度でも俺に言いくるめられたことがあったか」
「僕の言い分はここで言うし、君の反省と命乞いもここで聞くよ」
英智はクッションを抱き抱えながら、敬人の上であぐらをかいた。
仕方がないので仰向けにのけぞりながら、敬人は北斗の顔を見上げた。
「……氷鷹、すまないが部屋を貸してくれるか。英智と二人で話がしたい」
「なんだ、後輩の前じゃろくに話もできないのか」
「後輩に聞かせるような話じゃないだろう!」
英智はふん、と鼻をならした。
「本当に悪いと思っているなら、その後輩たちの前で自分の罪を言ってごらんよ!」
言いよどむ敬人に、ほらほら、と催促する。「どうした、言えないのか!」
ぬう、と敬人は呻いた。
○
口が裂けても後輩たちの前で言うことなんてできるわけがないので、代わりにこちらで説明しよう。
その日敬人は、ちょうど長いドラマの撮影を終えてようやく一息つけるところであり、心身共にくたびれて帰ってきたところをオフシーズン中の英智によしよしと迎えられた。
久方ぶりに家でゆっくり一緒に映画でも見ようと思っていたのだが、ベッドの上でぴったりくっついていると、こちらも久方ぶりの心地よい重さとぬくもりにだんだんとそんな気分になってくるのも当然であり、肩に寄りかかっていた英智がそっと首をもたげたの合図に唇を合わせた。ついばむようなキスは次第に長い深いキスに変わり、そのままゆっくりと柔らかいベッドの上に押し倒した。
するのも久しぶりだった。お互いに忙しい身で一緒に暮らしているといえども半月ほどろくに顔を合わせないときもある。おまけに英智の体調を考慮して肌に触れないことも多かった。
それゆえに一度火がつけばよくよく燃え上がってしまうというもので、間接照明のぼんやりとした薄明かりの中「ああ、そこは駄目だよ敬人……」「一体何が駄目なんだ?」と平常時に思いだしたら死にたくなるような台詞をたっぷり交わしながら、とろとろになるまで溶かし合い、さあいざっ、と御御足をひょいと持ち上げたところでベッドサイドに置きっぱなしにされていた携帯タブレットが振動した。
興が削がれつつも振動音をやり過ごし、気を取り直していざっ、と仕切り直そうとしたところで二回目の振動である。さすがにタブレットの電源を切ろうとしたところで、液晶に表示される名前を見ると敬人は顔色を変えた。
「待て、神崎だ」
嫌な予感がして英智も身体を起こした。敬人はベッドサイトに置いてあった眼鏡をかけ、液晶を睨みつけていた。先ほどまでの胸焼けしそうな甘い時間はどこへやら、既に完全に仕事モードへ入ってしまっている。
「やっと長い仕事が終わったばかりなんだし無視したら」
「あいつも俺のスケジュールは知っているはずだ。それでもかけてくるとはよほど緊急に違いない」と言いながら既にさっさと寝間着に着替え、電話をかけ直しに廊下に出て行った。
仕方がないのでベッドの上でぽけーっと待っていると、しばらくして戻ってきた敬人はすっかり仕事に出かける身支度を整えていた。
「すまない、急な仕事が入った」
「……こんな時間に?」
「流行風邪で出演者が続々と倒れているそうだ。さすがにそんなに穴は開けられない」
別に敬人が出なくていいんじゃない、とは言わなかった。英智も一流のアイドルである。さすがに芸能界の厳しさも一度だって好機を逃してはならないことも十分にわかっている。もしそれが自分でも、同じことをしただろう。ゆえに英智は快諾した。この火照った身体はどうしてくれるんだと思いつつも、それは仕方ないのだ。まことに度し難い話だが。
しかし問題なのは、その後そのまま「世界猛烈寺修行の旅」などというふざけた番組のロケで中国に連れて行かれ、山奥の寺に入ったきり半月も音信不通であったことである。
「なんだそのくだらない番組は!」と英智は叫んだ。「君ほどのキャリアならもうそんな番組に出なくたっていいだろう! 若者の芽を摘むな!」
事情を知ってドン引いている後輩たちは、打って変わって掌を返して英智に同情的になっていた。
「どうせ会長の我が儘だと思っていたら副会長が悪い」
「天祥院先輩かわいそう」
「まだちゃんと謝ってないんじゃないか」
「キスして仲直りしろ!」
スバルが身を乗り出して怒った。
「人前でそんなことできるか!」とさすがに言い返すと、「もっとすごいことしてるくせに何を言うんだ!」「男を見せろ!」「そして仲直りしてさっさと出て行ってくれ!」とやんややんや口々に責め立てられ、最終的に手拍子と合わせたキスコールが部屋中に響き渡った。
ヤケクソになって未だ自らの上で馬乗りになっている英智を引き寄せて唇を塞ぐと、その途端英智から舌を割り入れられて深く吸い上げられた。
長い情熱的な接吻に「おおお~」と外野から間の抜けた歓声があがった。
かくして無事に仲直りできたわけであった。
○
「いやあ、本当に良かったよね。帰ってもらって」
「一時はどうなることかと思ったけどな」
二人が帰ると、氷鷹家は一気にお疲れ会モードと化していた。
「後日ちゃんと礼に来るが」と敬人が去り際に渡した、なんだかやたら高級そうな菓子折りを見るやメンバーのテンションは鰻登りに上がった。
謎のアドレナリンが大量放出しその場にいた全員の気が狂っていたようなそら恐ろしい空間だったが、私生活の二人とそれほど絡んだことのない真はともかく、真緒は懐かしい高校時代を思い返していた。
毎日生徒会室に顔を出していたあの日々。まだ自分が書記だった頃、会長と副会長が揃うと時たま生徒会室はあんな感じだったものだ。
しかし隣に座る北斗の切れ長の目にうっすら光るものを見つけると、さすがにぎょっとした。
「長い間仲を保つということはそう簡単なことではない。相手を許し、許されなければならない。そんな想いの篭もった情熱的な接吻だった。未だ人の機微に疎い俺だが、不覚にも心に届いてしまった」
「俺、本当におまえのことちょっとよくわからない……」
顔を引き攣らせながら思わず真緒が後ずさると「まあ、いいじゃん。ハッピーエンドなんだしさ」とスバルが笑った。
うむ、と北斗も満足げに頷いた。
「終わりよければ全て良し」
「仲良きことは美しき哉!」
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