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ナイトエクスプレス


「切符が必要なのか」

 車掌が頷くのを見て、敬人は上着をまさぐると「すまん、確かに持っていたと思うのだが、どういうものだったか忘れてしまった。実物を見せてもらえるだろうか」

 車掌がポケットから取り出した鼠色の切符を見ると、こっそりと手に持っていたノートにそっくりに書き写した。「ああ、それならノートに挟んでいた」

 ノートから切り離されたそれを車掌はしげしげと見つめていたが、鋏を入れると通れるように乗車口の前から退いた。

 敬人が乗り込むとほぼ同時に車両の扉が閉められ、黒塗りの蒸気機関車は蒸気を吐き出しながらゆっくりと動きだす。マホガニーの調度品に囲まれた重厚感ある内装の車内は、ぼんやりと橙色のランプに照らされていた。

 いつの間にか切符に印字されていた番号のコンパートメントに向かう途中、すれ違った乗客に声をかけた。

「若い男の乗客がどこにいるか知らないか」

「はあ」

 顔が真っ暗な影になっている乗客は怪訝そうにゆらゆらと揺れていた。横から見ると影は紙のようにぺらぺらであり、カートゥーンのキャラクターのようであった。そのうち影は思い出したように声をあげた。なんでも、奥の食堂車でイカレたパーティーに耽ってる奴がいると聞いたことがあるらしい。

 なんだそれは、と敬人は呆れた。

「奴は帽子屋にでもなっているつもりなのか」


     ○


 英智が眠りから目覚めなくなって一週間が経とうとしている。

 昔から病気がちの英智がなかなか意識を取り戻さないことは、これまでも度々あったことだが、これほどまでに長いこと眠っているだけというのは例が無かった。

 病室に顔を見に行くと、ちょうど入れ替わりに部屋から出てきた弓弦たちとはち合わせた。

「相変わらず気持ちよさそうにすやすやと眠っていますよ」

 弓弦が現状を報告した。

「いったいどんな楽しい夢を見ているのやら」

「知ったことではないが、さっさと夢から戻ってくれないと困るな」

 苛立ち混じりに溜息をつくと、横からぬっと現れた渉がくつくつと笑っている。

「王子様のキスで目覚めるかもしれません」

「そんなもので目覚めたら医者はいらん」

「試す価値はあると思いますがねえ」

 意味ありげに笑う渉を横睨みすると、「まあ、枕の下でもご覧なさい」と彼は肩を竦めた。

 そのまま帰るのかと思いきや、思い出したように弓弦が振り向いた。

「ああ、そうそう。空の花瓶なら洗面台の上に出しておいてありますので」

 にこりと笑う上品な顔に、思わず鞄の持ち手を強く握りしめながら敬人は礼を言った。

 病室に入ると、英智は皺一つ無いきれいなシーツの海の中に眠っていた。

 弓弦の言った通り、病室に備え付けられている小さな洗面台の上に、空の硝子の花瓶が置かれてあった。鞄の中にしまいこまれていた花束を花瓶の中へ移し終えると、ベッド脇の机に運んだ。

 白いベッドの中、こちらの気持ちも知らないで安らかに眠っている英智は美しい蝋人形のようであった。しかし頬に触れるとあたたかく、胸からは確かに命の鼓動がする。

 少しの逡巡の後、英智の頬に触れたまま身を乗り出して顔を近づけてみた。そのとき枕の下からなにやら薄いノートのようなものが覗いていることに敬人は気がついた。

 それは敬人が昔に描いた、有名な物語をモチーフにした漫画だった。家のどこを探しても見つからない作品の一つだったが、英智が持っていたのだ。

 その夜、家に帰ると久々に真っ白な原稿用紙を広げて机に向かった。

 英智を連れ戻すために、筆だけを持ってここへ来たのだ。


     ○


 柔らかな絨毯の敷かれた食堂車は、ぽつぽつと席が埋まっているだけで、イカれたパーティーが開かれている様子はなかった。どの席にも真っ白で清潔そうなクロスがきっちり敷かれており、その上に黒い革張りのメニューと、赤いスタンド傘のランプが可愛いらしく置かれている。赤い天鵞絨のカーテンが車窓からは、夜空がどこまでも続くように広がっていた。

 入り口近くの席で新聞を読んでいた乗客に他の乗客のことを尋ねてみると、ちらりと新聞から目を上げて小首を傾げ、また新聞に目を戻してしまった。

 そのとき「お兄さん」と、反対側の席に座る影に話しかけられた。

「金髪の坊ちゃんをお探しなんでしょう」

「知っているのか」

「ここにいないってことは先頭車両のラウンジでしょう」

 影は他の乗客と同じように、一つの形にとどまらずゆらゆらと形を変え続けている。

「この列車も南十字が終着点なのか」

「行き先は人によって違うものです」

 もう一度切符を取り出すと、見たことのない文字が再び印字されていた。

「ビー・ロクイチニ」

 影が声に出して読み上げた。

「そんな小惑星に一体何の用がある」

「本当は気づいているのでは」

 敬人は黙って影を見つめた。顔のない影は黒い煙を放っているだけで捕らえ所が無い。キツネのような姿をしていた影はゾウになり、更にはヘビへと姿を変える。

 ボォーっと、機関車が音を立てた。

「拒絶したからじゃないのか」

「何も拒絶なんてしていない」

「恋人なのに断ったんだろう」

「別に恋人でもない」

 ほう、と影は意味ありげに笑った。その笑い方がいやに下品な気がして敬人の感情を高ぶらせた。

「いいか、動物と違って人間の営みには感情に基づいた責任が伴うんだ」

「キスはするのに」

「キスは友情でも行う。欧米圏では挨拶代わりにもなる」

「じゃあその挨拶にはペッティングも含まれるということかい」

 敬人が「貴様に一体なんの関係がある!」と怒号を放つと、そのまま影は逃げるように散っていた。


     ○


 銀河を駆け抜ける豪華列車は蒸気をあげ、ますます速度を上げていった。

 食堂車両を抜けた敬人は、先頭車両にあるラウンジへと向かった。大きな窓に囲まれた開放感のあるラウンジの真ん中には場違いな大きな丸テーブルが置かれている。白いクロスの上には色とりどりのお菓子が山のように積まれ、豪勢なアフタヌーンティーの用意がなされていた。

 敬人がテーブルを囲んだ一行に近づくと、そのうちの主催者が顔をあげて「おや、女王様が来たよ」と愉快そうに言った。

「誰が女王だ。こんな明け透けなものに乗りおって」

 敬人が主催者を睨みつけ、それから天井からぶら下がっている看板を指さした。「それになんだ、この当てつけみたいな集まりは」

 吊り看板には「幼なじみへの鬱憤を晴らす会」とある。

 しかし英智は涼しい顔である。

 ラウンジに乗り込んできた敬人の姿を見ると、創は驚いたように手にしていたティーカップを落としかけ、ソファの上に丸まってうとうとしていた凛月はまったくお構いなしに大きな欠伸をした。

「なんでこの二人までいるんだ」

「凛月くんは大体いつも寝ているから夢の中でよく会うんだよね」

 創は「僕は凛月先輩にお昼寝に巻き込まれました」と隣で困ったように笑っている。「でも、夢の中なら食費がかさまないのでお得です!」

「凛月くんの話はためになるからね、敬人も聞いていくかい」

 くるくるとティーカップをもてあそびながら英智が言う。

「エッちゃん意外と奥手だからねえ」

「奥手?」と敬人が聞き返した。

「どうしても慎重になってしまうんだよね」

「そんなんじゃ一生こっちの気持ちなんかわかんないって、あいつらは」

「奔放な凛月くんがときどき羨ましいよ」

「幼なじみなんてみんな振り回されて喜ぶ生き物なんだから、散々振り回しちゃえばいいんだよ」

「人を変態みたいに言うな」敬人は口を挟んでから、横で給仕をしていた創に向かい「先輩とはいえ、こういう迷惑な集会は断らないといかんぞ」と苦言を呈すと、創は「いえ、なかなか参考になります」と思いのほか乗り気の構えを見せた。

 ようやくのろのろと起きあがってきた凛月は、椅子に腰掛け直すと、ティーカップを手にとって「お茶」と敬人に突き出した。

「俺は貴様の幼なじみじゃないぞ」と敬人が腕を組んだ。「紫乃もあまり人の世話を焼きすぎるな」

「しかし、こうして集まるといつだかのお茶会を思い出すね。司くんがいれば完璧なんだけど」

 英智の言葉に「お茶会?」と敬人がいぶかしんだ。「いつの話をしている」

「ああ、それはこれから起こることだったかな。それとも君だけは覚えていないのかな。たいていの夢がそうであるように、ここは時系列が歪んでいるから」

「もったいぶって話すのは貴様の悪癖だな」

「まあ、とりあえずお茶でも飲みなよ。ケーキもあるよ」

 勧めてから英智はティーカップをソーサーの上に置くと、大きな溜息をついた。

「でもね、僕だって別に好きでこんなとこにいるわけじゃないんだよ」

 彼は言った。「同じことの繰り返しに飽き飽きしているんだ。さあ、せっかく来たんだから早く続きを書いておくれ」

「何度も言っただろう、俺は筆を置いたんだ」

「でも今は握っているよ」と英智が揚げ足をとる。

「俺は帰り方がわからない」と敬人は正直に打ち明けた。

「それなら簡単。切符に書いてある行き先まで行けばいい」と凛月が口を挟んだ。

「いつもそうやって自然に帰ってるんだ。俺たちは次の駅までだね」

 その台詞が合図であるかのように、列車は次の停車場をアナウンスすると、次第に速度を落としていった。

 いそいそと創がお茶会の後片づけをはじめ、終わるころには列車は小さな恒星の停車場に止まった。

「じゃあね、エッちゃん」

「ごちそうさまでした」

 創がお辞儀をすると、列車の扉が音を立てて閉まった。

 列車は彼らを星の上に置いて、走り出していく。


     ○


「幼なじみってなんなんですかねえ」

 そんなことをいつだか言ったのは真緒だった。

 生徒会室で業務の合間に、何の気なしにはじめた会話だった。生徒会室の窓からは、すっかり暗くなった空にちらちらと星が見えはじめていた。その日は桃李と弓弦が帰ったあとまで、敬人に合わせるように残っていたのは真緒だけだった。

「凛月のやつが未だにすげえ甘えてくるんすよね」

 手持無沙汰のように、ボールペンをくるくると回しながら真緒が言った。

「そろそろ本人のことも心配だし、いい加減にしてほしいと思いながら、なんだかんだ面倒見ちゃうんですけど。鬱陶しいのに、頼られなくなると寂しいっていうか」

「貴様も難儀な性分をしてるな」

「副会長なら、なんとなくわかってくれる気がしたんですけど」

 そう答えて真緒が笑った。

「兄弟でもないし、友人というには一緒にいる時間が長すぎる。あれ、なんなんでしょうね」

 なんなんだろうな、と敬人はうわ言のように答えた。

 真面目に考えたことは何度かあった。その度に自分の中でそういうものだと落とし所をつけていたが、そもそも真面目に考えたところで答えはでない問題のような気もした。

 だが確かに、ただの兄弟や友人であるならば、離れただけで魂が引き裂かれる想いはしないのだろう。


     ○


 それから先、銀河を大きく迂回する列車はぽつぽつと見える停車場に止まることなく走り続けた。

 窓の外に鷺が飛んでいるのを見てからしばらく経った後、ようやく小さな星に止まると、列車のアナウンスがあった。

「彗星が横切りますので、当列車はしばらく停車いたします」

 アナウンスを聞くと、ぞろぞろと何人かの乗客たちが列車から降りはじめ、星の上で大きく伸びなどをして身体を休めている姿がラウンジの窓から見えた。

「僕たちも降りてみよう」と英智が提案した。

 ざらざらとした砂地の星には何もなかった。

 しばらくそのあたりをぶらぶらしていると、向こう側に小さな星の屑が集まった大きな河が見えた。

 どうやら天の河の中流のようである。

 近づいてみて、恐ろしいほど透明度の高い水に手を浸けていると、その横では既に英智が靴を脱ぎ始めようとしていた。

「まだ水が冷たい」と嫌な顔をすると、英智は笑い出した。

「僕の身体は今、病室のあたたかい布団の中にあるのを忘れてるよ、敬人」

 待っていろ、と英智に告げると、そのうち向こう岸からぷかぷかと浮いた小舟が流されてきた。

「心配性」と英智が少しだけぶすくれた。「列車が動き出したらどうしようか」

「そしたらこのまま舟で河下りだ」

 二人で乗り込もうとすると、不安定な小舟は一度大きく傾いた。なんとか乗り込んだものの、なかなか小舟はまっすぐに進めず、河の真ん中をぐるぐると輪を描いている。

「意外とコツがいるんだこれは」とオールを漕ぐ敬人が喘いだ。「それに力もいる」

「なんでそんな自分で扱えないものを物語に出したんだ君は」

 英智が呆れた声を出した。「ここで転覆してバッドエンド、というのもアリかもしれないけどね」

 しかししばらくすると扱いに慣れてきたのか、小さな船はまっすぐに安定して河を下り始めた。

 英智は片手を舟からおろし、透明な水面を切った。

 張りつめた冬の夜の空気のように、英智が息をする度にあたりが白く染まった。

「幼なじみに恋をするというのは、変だろうか」

 敬人はオールを漕ぐ手を止め、英智を盗み見た。水を切るように手を浸けている英智は静かに水面を見つめていた。

「別に変でもない」

「そうかな」

「そうだ」

「じゃあ、僕が幼なじみに恋をするというのは、おかしいのだろうか」

 敬人は大きくオールをまわした。

「それも、別におかしいというほどでもない」

 ふうん、と英智は水面を波立たせた。「それならいいや」

 列車に戻る途中、眼前に大きな彗星が横切っていった。

 その姿に、ああ、と英智が小さく嘆息したのが聞こえた。

 そうして二人で彗星が通り過ぎるのを、じっと待っていた。


     ○


「この列車、昔に敬人と見た映画に出てきたものに、なんとなく似ているよね」

 白く曇った窓硝子に人差し指で口髭の落書きをしながら英智が言った。

「あの映画だと雪で列車が通行止めになって、その間に殺人事件が起きるんだったな」

「でもあれは寝台列車だからね。コンパートメントの内装は、魔法学校の映画の方を採用している感じ」

 そう言いながら今度は稲妻模様を書く。おそらく意味は無い。

 ぐるりと迂回をした列車は物語よりものんびりと南十字の停車場に到着した。乗客の大半がそこで降りていき、発車した頃には列車の中は一気に閑散としてしまった。

「そういえば、貴様はどこに向かっているんだ」

 コンパートメントで英智と横並びに座りながら敬人が尋ねる。英智は黙ったまま、ぐるぐると窓硝子に人差し指を這わせていた。

「切符をなくしたのか」

「そうだったら無賃乗車になっちゃうよ」

 観念したように上着から取り出した英智の切符には、何も書かれていなかった。

「僕がいつまでもいつまでも、ぐるぐると銀河を旅していた理由がこれだよ。でもね、よく見て」

 英智は切符を敬人の顔の近くまで持って行くと、灰色の紙の表面にうっすらと文字が浮かび上がってくるようであった。「ほら、敬人がきてから動き出したんだよ」

 英智はほほえむと、切符をまた上着にしまい込んだ。

「二人でどこまでも、どこまでも行こう」

 ああ、と頷こうとしたが、乾いた声しか出なかった。

 代わりに英智の手を握ろうとし、伸ばした手が空を切った。

 今まで隣にいたはずの英智の姿はそこにはなく、英智の残した落書きまでも乾いて消えかけていた。


     ○


 あの日、英智が耳元で囁いた瞬間に、心臓が早鐘を打ち始めたのを覚えている。

「貴様は勘違いをしているんだ」

 押し返してようやく絞り出した言葉に、英智は一瞬呆けているようだった。腰に跨がっていた英智は、「僕は、勘違いしているのか」と呟いた。

「そうだ」

「そうか」

 そのときの英智の肩がひどく小さく、震えているように見えて、敬人はあえて視線を外していた。

 だがそれは、敬人にとって本当に取り返しのつかないことのように思えた。

 たとえそれがもはや意味を為していない境界線だったとしても、それを越えることはただおそろしかったのだ。

 英智がいなくなり、敬人は食堂車からラウンジ、コンパートメントの一部屋一部屋を全て覗いて確認していった。しかし南十字に乗客を送り届けた列車の中には、英智どころか人っ子一人見あたらない。

 直に列車はごおごおと真っ暗闇を突き進みはじめ、ついさっきまで窓の外にきらきらと浮かんでいた星々は見えなくなっていた。

「俺は貴様を送り届けに来たんじゃない」と敬人は叫んだ。「貴様を迎えに来たんだ、手ぶらで帰れるか」

 電燈がバチバチと音を立てた。一斉に灯りが消え、車内は一寸先も見えない闇の中へと潜っていった。

 敬人は暗闇の中、一人ぼっちで立ちつくしていた。

 そうしていると、ふいに後ろに気配がして、敬人は右手を差し出した。

「俺は英智を迎えに来たんだ」

 うん、と英智が言った。差し出した右手は英智の左手に触れ、今度はしっかりと握ることができた。

「でもね敬人、僕は十分がんばったと思うよ」

「天祥院英智が、そう物わかりがいいはずがないんだ」

「敬人は僕をなんだと思っているのさ」

 灯りの消えた夜汽車は、光のない夜空をごおごおと走り続けている。敬人は自分のよりも幾分華奢な掌を握り直した。この掌がまたいつ消えてしまうのかわからなかった。「敬人、痛いよ」と英智が顔をしかめる。

「貴様はまだ行うべきことをまだ半分も終えていない。これは義務だ、責任放棄だ」一息に言った。

「貴様の生まれてきた義務を果たせ、英智」

「容赦がないなあ」

 英智が呆れた声を出した。

 彼の魂をつなぎ止めようと思いつく限りにまくし立てたが、焦燥でうまく思考がまとまらない。言葉にすればするほど、英智が手の中から零れて行くような感覚がして、それがまた敬人を余計に焦らせた。

「それに」と敬人は早口に言った。


「それに、俺は、まだ貴様を抱いていない」


 ごおっと一際大きな音を立てて、夜汽車が闇を抜けた。

 イルカの群のように広がる流星が汽車を取り囲み、窓枠いっぱいに広がるその流星の青白い光が、英智の顔を横から照らしあげた。

 目の前の英智は、ただ青い瞳を丸くしていた。

「確かにそれはまだだね」と彼は言った。

 彼はきつく握っていた敬人の手をほどかせると、代わりに指をひとつひとつ絡み直した。

「じゃあ、一緒に帰ろうか」

 英智が窓枠に寄りかかり、腕を大きく引く。

 そのまま二人で窓の外の闇の中へと落ちていった。

 随分と長い間、真っ暗な中を二人で落ちていた。堅く握りしめていた手は痺れて、繋いでいるのかいないのかもわからない。英智の姿も見えなくなっていた。

 そのうち暗闇の中にきらりと輝く光が見え、そのまま身体が水面にたたきつけられた。大きな水しぶきが起こる。

 水面に顔を出してむせかえっていると、そこは石でできた小さな部屋のようだった。天井からは大きな木の根が何本も突き刺さり、冷たい石の壁もまた木の根と枝が張り巡らされている。

 敬人はまわりを確認したが英智の姿が見あたらない。水しぶきは一つしかなかった。落ちている間にはぐれたのだ。

 英智の名を何度も呼びかけながら彼を探した。木の根に浸食された惑星の中を、水をかき分けるように進むと、足の裏に裂けるような鋭い痛みが走った。どくどくと赤い血液が流れ、赤いバラの花弁のように水に広がっていく。底に沈むガラスの破片を踏んでしまったようだった。いつの間にか靴もどこかにいっていた。

 これが罰なのかと、彼は思った。

 これが罰なのだと、彼は悟った。

 そのとき頭上に広がる闇が一瞬、小さく光った。

「英智!」

 空を見上げながら大きく両腕を広げる。絶対に落とさないように、絶対に離さないように、大きく腕を伸ばす。

 そうして、英智が腕の中へと落ちてきた。


     ○


 既に見慣れた病室の扉をノックすると、しばらくして部屋の主から「どうぞ」と声がかかった。

 英智はベッドの上で起き上がり、珍しく真剣な面持ちで膝の上に置いたノートブックのキーボードを叩いているところだった。

「具合はもういいのか」

「おかげさまで」と英智は自身の肩をねぎらいながら溜息をついた。「一生分くらい寝た気がする。寝てる間の仕事がたまっててしょうがないよ」

「いつも暇だと嘆いているからちょうどいい」

「自分が普段バカみたいに仕事抱えてるからって嫌な奴だなあ」

 ベッドの脇に置いてあった椅子に腰掛けると、英智はノートブックを閉じ、敬人に向かい合った。

 英智の脇にはいつだかに描いた、あの絵本が置かれている。

 敬人の視線に気づくと、英智は顔をしかめながら「捨てないでね」と絵本を庇うように言った。「僕だって、あんまり持ってないのだから」

「別に貴様に襲いかかって奪ったりはしないから安心しろ」

「ならいいけど」

 そう言って、英智は柔らかい表情で絵本の表紙を撫でた。

 なんてことはない、それはたった一人の読者のためにつくった物語だった。読者が満足しなければ、終えられなかっただけなのだ。

 敬人が手を伸ばし英智の手に触れてみると、顔をあげた英智と視線がかち合った。英智の手は、とてもあたたかかった。

 敬人、と英智がのぞきこむように名前を呼んだ。

「俺が貴様に恋をしていると言ったら、笑わないで聞いてくれるか」

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