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おしゃべりインコの憂鬱

 


 生まれた時から、彼の隣にはインコのぬいぐるみがいる。

 特別珍しくもない、至って平凡な黄色と緑色のセキセイインコのぬいぐるみである。

 どこへ行くにも連れて行くので、おばあちゃんやおじいちゃんどころか、敬人や英智とよりも彼と共に過ごし、彼を支え、彼を育てた隠れた功労者だ。

 一体このインコの何が彼の琴線に触れたのかは定かではないが、幼稚園のお友達たちがアニメや乗り物のキャラクターグッズで身を固めているのと同じように、彼は黄色と緑色のセキセイインコのグッズを集めているのだった。

 その中でも特別な一番の友だちは、やはりこのぬいぐるみである。

 そんな彼の友だちは今まさに、大変な事態に陥っている。バラバラに破けた皮膚から綿が飛び出し、その自慢の声をあげられなくなってしまったのだ。

 一体誰がこんな非道いことをしたかと言えば、それは敬人である。

 もちろん敬人は悪意を持ってこのインコに非道い仕打ちをしたわけではない。いくら大事にしていたと言えども、五年もの歳月を彼と共に過ごしたインコのぬいぐるみは十分に薄汚れ、中の綿はすっかり潰れてくたびれてしまっていて、あまりにも貧乏ったらしい有様になっていた。そこでよかれと思って洗濯に踏みきったところ、どうやら縫合までゆるくなっていたらしく、洗濯機の中で糸が完全にほどけてバラバラになってしまったというわけである。

 変わり果てた友人の姿に、彼は呆然とし、愕然とした。

 友だちの死体を前に立ちすくむ息子に、敬人は慌てながらも誠心誠意を込めて謝罪した。彼が短い人生を通していかにこのインコを大切に愛していたかを誰よりも知っていたので、わりと真面目に謝った。本当に申し訳ない。言い訳のしようもない。しかし次の一言が、鮮やかに彼の地雷を踏み抜いた。

「新しいものを買ってやるから」

 失言であった。

 その一言で、彼にとって友人の死が現実になってしまった。彼は弾けるように声をあげて泣き出した。同じじゃないと厭だと駄々をこねた。抱いてあやそうとする敬人の手を振り払い、身を捩って暴れて、ついでに腹も蹴った。

 彼の様子に、自分の行いは棚に上げてだんだん腹も立ってきた敬人が「いい加減聞き分けろ」と怒鳴ると、状況はさらに悪化した。地獄絵図である。

 賢い彼は、基本的にずっと聞き分けのいい子供であった。言葉がわからなかった歳の頃はまだしも、コミュニケーションが取れるようになってからは、こちらが何故ダメなのかをきちんと説明すればすぐに理解するので、その点に置いては非常に育てやすい子であった。

 そのため、これほどまでに聞き分けもなく泣きわめく姿は珍しい。むしろ今まで我慢を強いられてきた彼にとっては、喜ばしいことですら思える。

 しかし同時に、呆れるほど頑固者でもあった。これはどちらに似たのかはわからない。この調子だといつまで経ってもこの状況が収まりそうにもない。

 敬人はほとほと弱ってしまった。

 ちなみに英智はと言えば、先ほどからずっとその一部始終に腹を抱えて笑い転げていた。


     ○


 玄関のチャイムを鳴らしてからしばらく待っていると、やがて扉が開かれて、顔を出した敬人が家の中へと招き入れた。

「急にすまない、鬼龍」

 髪がところどころ跳ねていて、昼間仕事で会ったときよりも若干疲れているように見える。「さっきまで泣きわめいて大変だったんだが、やっと落ち着いたところだ」

「今は和室に籠もって、隅でしくしく泣いてる」と英智がリビングの一端にある小上がりの和室を隠す襖を覗き見ながら言った。「ああ、かわいそうに」

「言っておくが、俺はちゃんと謝ったんだ。しかしまったく聞き入れてもらえない」

「彼があれだけ大事にしてるものを簡単に捨てて、新しいものを買うなんて言うからさ」

「もう直すしか手がない」

「そこで君の出番だよ」

「だいたい話はわかったけどよ」脱いだ上着をソファにかけながら、紅郎が答える。「で、ガイシャはどこだ」

 インコのバラバラ死体を前にすると、紅郎はあからさまに「あちゃあ」という顔をした。

「洗濯したくらいでこうなるか。一回無理に腹の中でも開けたんじゃねえか」

「開ける? なんのために」

「わかんねえけど、どっか縫合がほどけかかってたんだろう」

「古いぬいぐるみだから、そうなっててもおかしくはないね」

 そのとき和室と居間とを隔てる襖が、スッと薄く開かれた。小さな緑色の瞳が、襖の向こうからこちらの様子を伺っている。

「ほら、お客さんにはご挨拶しなきゃだめだよ」

 英智が声をかけてみるが、反応はない。紅郎が目を向けると、勢いよく襖を閉めてしまった。

「失礼だろう」と敬人が怒る。襖から返事はない。

「赤ちゃんの頃に会ったことあるのにね」

「あいつ大神には懐いているのにな」

「大丈夫だよ。顔はこわいけど、取って食ったりはしないよ」と英智が襖に話しかける。しばらくしてから、「ごめんなさい、って言っておいて」と返事が返ってきた。

「ごめんなさいだって」

「気にしてねえよ」

「気にしてないって」

 襖がまたちらっと開いて、閉じられた。

 話を戻す。

「すぐに直るか」

 敬人が確認すると、紅郎が考え込んだ。「ぬいぐるみは慣れてねえからなあ。小さいから半月もかかんねえとは思うが」

「十分だ。恩に着るぞ」

 するとそれまで隙間からじっと覗いていた彼が突然飛び出してきて、英智の後ろへと隠れ移った。背中の裏でもじもじとしているので英智が容赦なく前へ押し出すと、「インコのお医者さんですか」と彼は観念して、寝間着の裾を引っ張りながら神妙な顔で尋ねた。

「それに近い」

「おねがいです。体が悲惨なんです」

 悲壮感たっぷりに告げる。「どうか助けてあげてください」

「最善を尽くそう」

 深々とお辞儀をしあった。先に彼が顔をあげた。

「またおしゃべりもできるようになりますか」

「おしゃべり?」

「中に録音機が入っていたんだよ」と英智が説明した。「おなかを一回押すと再生、二回押すと録音。インコだからね」

「そんな機能あったのか」と敬人が驚いた。

「まあ、知ってたらまず洗濯しようとは思わないよね」

「見あたらねえけどなあ」と紅郎が綿の中を探してみる。「小さいからどっかいっちまったのかな」

「それも直るかな」

「同じのを探してみるが、おしゃべりは無理かもしれねえなあ」

「なにとぞよろしくおねがいします」

 今度は床に手べったりをついて、深々と低頭している。


     ○


 しかし翌朝になっても、彼の機嫌は依然として治る気配がなかった。

 むっすりしながら起き上がり、むっすりしながら顔をばしゃばしゃと洗って、むっすりしながら寝癖を直し、むっすりしながら園服に着替えて、むっすりしながら朝ご飯のウインナーをフォークで突っついては皿の上で転がしている。

「こら、食べ物で遊ぶな」

 敬人が注意しても聞き入れる様子がない。昨夜からずっとこの調子で、敬人とは断固として話をしないつもりらしい。

「おまえが怒るのはいい。俺が悪いからな。ただだからといって無視をしたり蹴ったりしてもいい免罪符にはならないぞ」

「加害者が何言ったって無駄だよ」

 食後の紅茶をのんびり飲みながら英智が茶化した。

「でもそんなにむっすりするものじゃないよ」と英智は、両手で包み込むように彼の白いおもちのようなほっぺを持ち上げた。「これじゃあ、せっかく僕がかわいく産んであげたのに台無しだからね」

 家の前まで迎えに来てくれた幼稚園バスに相も変わらずむっすりした彼を預けると、そのまま仕事へと向かった。

 敬人が駐車場で車のエンジンをかけていると、遅れて家を出てきた英智が、助手席の窓をコンコンと二度叩き、「スタジオ一緒だから送ってってよ」と乗り込んできた。

「運転代わろうか」

 ほどなくして車が走り始めたところで、欠伸をかみ殺している敬人の横顔を見ながら英智が申し出てみたが、それはすげなく断られた。

「大丈夫だ。貴様が運転しているところを実際に見たことはないしな」

「安心してよ、これでもゴールド免許だから」

 絶対に運転させてはいけないと、敬人は固く誓い直す。

「それにしても大変だったね」

「ほんとにな」と敬人は深いため息をつく。「貴様はずっと笑ってただけだろう」英智を睨みつける。

「まあ寝不足にもなるわけだよ」と英智はしれっと言った。

「あんなに頑固だとは思わなかった。誰に似たんだ」

「誰だろうね」

「誰だろうな」

「古いぬいぐるみだから、いつかは壊れちゃうよ」

 そんなことを言いながら勝手にオーディオをいじっている。

「そういえば」と信号待ちをしながら、敬人がふと考え込んだ。「あのぬいぐるみはいつからうちにあったんだっけな」

 いくら思い返してみても、気がついたときにはすでに家の中にあったような気がする。英智が入院しているときに一緒に連れて行かれて、病院の窓際に置かれていたのも覚えていたが、それより以前の記憶が曖昧だ。

「いつからだっけね」

 オーディオをいじるのをやめ、英智は座席に深くもたれながら窓の外の景色を眺めた。

「あんまり覚えてないな」


     ○


 それからしばらく同じような日々が続いたあと、彼の家にまたしても来客があった。

 エントランスのインターホンに部屋番号を打ち込むと、ほどなくして「はい」という幼い声が対応したが、そのうち「あっ」と声をあげるなり急いで通話は切られてしまった。少し待ってからもう一度呼び出すと、「英智も敬人もいません。ご用件をうかがいます」と声がした。

 紅郎は姿の見えない幼い家の主に向かって、敬人だけ仕事が長引いていて帰りが少し遅くなっている旨を伝えた。代わりに紅郎が彼の様子を見に来たのだが、ついでに頼まれていた治療もその場で仕上げてしまおうと思っていた。

「証拠はありますか」

「もう少しで完治するインコが証拠だ」

 エントランスの扉が開錠された。

 部屋のインターホンを押すと、ゆっくりと扉が開けられて、小さな顔が覗いて来客を確認した。手に持っていた紙袋から治りかけているインコをちらりと見せると、顔の顔がぱっと明るくなってそのまま中に入れてくれた。

「なにか飲む?」と居間に案内してくれながら彼は尋ねた。「おすすめはオレンジジュースなんだけど」

「そう構わなくていい」

 ソファに腰掛けて、治療中のインコを彼に渡すと「すごい、前より元気そう」と彼は喜んだ。中の綿がずいぶんとへたってくたびれていたのですべて新しいものに入れ替え、ついでに肌も綺麗に洗い直したのだ。

 お見逸れしましたとばかりに彼は「ははーっ」と床にべたっとくっついた。

「それどこで覚えたんだ?」と前から思ってたことを聞いてみる。

「テレビの中で敬人がやってたの」

「あれか、年末の時代劇の」

「敬人ね変な髪型してた」

「髷が似合わねえよな、旦那」

「すごい変だったよ」

「すごい変だったな」

 彼が唸りながら首を傾げる。「うん、すごい、変だった」

 紅郎が道具を広げて縫合をはじめると、彼は床に座って食い入るようにその作業を見つめていた。

「覚えてねえだろうけど、もっと小さかったときに何度か会ったことあるんだぜ」紅郎が手を動かしながら話しかけた。

「僕、赤ちゃんのときのことはそんなに覚えてないからなあ」と彼は言った。「でも紅郎くんは顔はこわいけど、小さい子とお話するのが上手だね」

「まあな、妹がいるからな」

「仲良し?」

「どうだかな、仲良くしてえけどな」

「きっと顔がこわいからだよ」と彼が哀れんだ。「でも心がやさしいから大丈夫」

「おまえも父ちゃんとは仲良くしねえとだめだぞ」

 紅郎はついでに言ったつもりだったのだが、彼はあからさまに不機嫌そうになった。唇を尖らせながら足を投げ出して「だって」なんて言っている。

「敬人が捨てようとするから」

「でもちゃんと反省してる」

「英智はもっと怒っていいって言ってたよ」

「天祥院も鬼だな」

 彼がきょとんとしているので、「ああ、おまえも天祥院だったな、紛らわしいな」

「正直言うとね」と彼は言った。「敬人をいじめるのちょっと楽しい蕾が膨らんでる」

「さすがに泣くだろうからやめてやれ」

 ましてや英智の小さい頃に見た目がうり二つだという彼である。あからさまに嫌われるのは、かなり心にきているはずである。

 彼はふくれっ面でしばらく体を揺らしていたが、紅郎が黙って作業を再開しはじめた頃に、ぽつんと「考えておく」と続けた。


     ○


 それから気づけばかなり集中して作業を続けていたらしく、やっと完成して息をついた頃には、時計の針がだいぶ進んでいた。

 彼の様子を確認すると、既に飽きてしまったのかローテーブルに向かってスケッチブックに熱心にお絵かきをしていた。インコと赤い髪のおじさんの絵である。絵についてはよくわからないが、二十四色クレヨンで描かれたイラストは歳のわりにデッサンがしっかりしていて、何よりも鮮やかで綺麗な色使いだと思った。

「上手だな」と素直に褒めると、彼はにっこり得意げに見上げた。

「これね、お礼に紅郎くんにあげるね」

「他の絵も見せてくれるか」

 スケッチブックを借りて、一枚一枚ページをめくっていく。やたらとセキセイインコの絵が多くて、手元にいるインコのぬいぐるみがいかに彼にとって大事な友だちであったかを、紅郎は改めて知った。それ以外はテレビアニメのキャラクターに、動物の絵、人間の絵。寺社のような絵のページになると、「それはおじいちゃんの家に行ったとき」と彼が説明した。「これが、おじいちゃん。おばあちゃん。つるつるのいっぱいの人」

「おじいちゃんこわそうだな」

「おじいちゃんすぐ怒るよ。敬人もすぐ怒るけど」

 それからちょっとだけ考えて「でもね、怒ると英智が一番こわい」と彼は言った。

「そうか」

「すごい、こわい」

 触れてはいけない記憶にでも触れてしまったのか、彼は遠い目をしている。

 スケッチブックのページをめくる。次のページに描かれているのはまたインコだ。たくさんのインコたちが天から伸びる一筋の光を見つめて天啓を待っている様子は、まるでインコ界における宗教画のようだ。なんとなくおもちゃたちが動く映画に出てくる、緑色の宇宙人を思い出した。

「この子はゲームセンターってとこの出身なんだって」と彼はさらに説明する。

 ページをめくるごとに、彼はその絵の背景に纏わる事柄を細かく教えてくれた。ちょうど最後のページに描かれている大海原に暮らす白い鯨の話を聞いていると、玄関先で鍵の音が聞こえてきた。

 どうやら両親が帰ってきたらしい。


     ○


 新品と見まがうばかりに仕上がったぬいぐるみに二人そろって感心した。

「すごいな」

「本当にぬいぐるみ病院でも開院できそうだね」と英智も素直に褒めている。

「斎宮にもいろいろ聞いたんだけどよ、結局中の機械だけはわかんなかったから」と紅郎はインコのお腹をぎゅうっと押してみた。ぷうっと間抜けな音が響く。

「音が鳴るようにだけはしてある」

「それで十分だ」

 一方彼はといえば、帰ってきた英智の足にしがみつくようにして、大人たちのやりとりを見上げるようにして聞いていた。

 敬人は紅郎からぬいぐるみを受け取ると、彼の目線に合わせてしゃがんだ。

 インコのぬいぐるみを、彼の小さな手に握らせた。握らせる際にインコのお腹が鳴ってしまって、その音を聞いて彼がフフと笑った。

「非道いことをして本当に悪かった」と敬人はもう一度謝った。「許してくれるか」

「許してあげる」

「ありがとう」

「いーえ」

「ただ無視はやめてくれ」と敬人は言った。

「悪いことをしたんだから、怒るのはいい。でもおまえに無視されると、俺も傷つく」

「ごめんなさい」と彼はインコのお腹をぷにぷに押しながら謝った。「敬人をいじめるの、ちょっと楽しいの蕾が膨らみかけてたの」

「それは頼むから今すぐ摘んでくれないか」

 いじわるの蕾を摘み取ると、彼は両手を広げて敬人の首に抱きついた。とげとげの茨を払いのけてしまうと途端に寂しくなってしまって、彼は「ごめんなさい」ともう一度言ってから肩口でちょっと鼻をすすった。


     ○


 紅郎を見送りにエントランスの外までついてきた彼は、その後ろ姿が見えなくなるまでずっと長いこと大きく手を振っていた。その姿が完全に見えなくなると、「行っちゃった」と敬人の腕にぶら下がるようにして踵を返した。

「遊んでもらってよかったな」

「うん、お友だちになったよ」

「もう一人の友だちも治してもらえたしな」

「うん、友だちっていうか、これはけいとだからね」

 彼は左手で敬人の手を引きながら、右手でインコのぬいぐるみをぶら下げながら答える。敬人が一瞬立ち止まって考え込んだ。

「それは俺なのか?」

「ちがうよ、敬人じゃなくてけいと」

「哲学か?」

 後ろ手に歩いていた英智が堪えきれずに吹き出している。

「待て、わかるように説明してくれ」

「この子はゲームセンター出身なんだよ」と彼が言う。

「ゲームセンター?」

 ぶつぶつと記憶を探っていた敬人が「あっ」と声をあげた。「思い出した。高校生のときだ」と英智を振り返った。

「三年のとき、一度クラスでゲームセンターに行って俺が先に帰ったことがあったろう。あのあと秋くらいに貴様にリベンジだなんだと連れて行かれたときにクレーンゲームで取ったんだ」

「そうだよ、敬人が取ったんだよ」

「なんだ覚えてるんじゃないか」

「だってあのときの君ったら、アームの角度がどうだとか機体の大きさまでメジャーで計算しはじめて恥ずかしかったんだもの。忘れたくもなるよ」

「そのおかげで一回で取れただろう」

「別にそこまでして欲しいわけじゃないんだよ、こっちは」

「英智の言ってることわかるか?」

 敬人が尋ねると、彼は「わかんない!」と元気に答えた。

「わかんないだろうねえ」

 黄色い街頭の灯りに照らされた英智が笑った。「でも、いずれ君にもわかる日が来るよ」

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