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オオカミの住処



 マンションのエレベーターホールで彼は首を傾げていた。いくらボタンを押して待っていても、ちっともエレベーターが降りてこないのである。ドアにはなにやら張り紙が貼られているが、高いところにあるので彼の身長では背伸びをしても何が書いてあるかまで読むことができなかった。

 さてどうしたものか。

 彼が考えこんでいると、ちょうどキャリーバッグを引いたおばあちゃんがホールへと入ってきた。ぽつんと立っている彼に気づくと、「今エレベーターは壊れているから階段を使わないといけないのよ」と優しく教えてくれた。復旧するまではその先にある非常階段を使わなければならないそうである。おばあちゃんは非常階段への扉を先に開けると、ハンドバッグを肩にかけながら、大きなキャリーバッグをよっこいしょと両手で持ち上げて、階段を登り始めていった。その様子を見かねた彼は、駆けて寄っていくと後ろから声をかけた。

「おばあちゃん、手伝ってあげる」

「あら、ありがとうね」とおばあちゃんは、少し息を弾ませながら頭を下げた。「それじゃあ、このハンドバックを持ってもらおうかしら」

 彼はにっこり頷いた。「いいよ!」

 小さなハンドバッグを持った彼が先導して、二人はえっちらおっちらとコンクリートの階段を登っていった。幸いにもおばあちゃんが遊びに来たという孫の部屋は、彼の目指す部屋よりも下の階にあるらしい。彼の動きに合わせて大きく上下に揺れるインコの形を模したリュックを見ながら、おばあちゃんが尋ねた。

「大きな荷物ね。重くないかしら」

「大丈夫だよ、僕力持ちだから」そう言うと、彼はその場でぴょんぴょんと跳ねて見せた。「それに運動会の駆けっこで一番だったの」

「それはすごいわ」

「敬人と英智もすごい褒めてくれたよ」

「あなたはここの子?」

「ううん、今日は遊びにきたの」と彼は語った。「幼稚園は夏休みだし、敬人も英智もおじいちゃんもおばあちゃんもみんなお家にいないから」

「それは大変ね」

「そう大変なんだよ。でも英智と敬人がんばってるから大変なのはしょうがないの」

「あなたはいい子ねえ」とおばあちゃんがにこにこ言うと、「でもいい子じゃないかも」と彼は俯いた。「僕、英智の元気奪っちゃったかもしれない」

 そのとき、向かい側から階段を降りてくる一つの人影が見えた。人影は細身の若い男で、黒いTシャツにダメージジーンズを履いている。男が階段を降りる度に、腕や首に身につけているシルバーのアクセサリーがちゃらちゃらと揺れた。やがて二人の前に立ち止まると、鋭く光る目を細めて見おろした。その顔はひどく不機嫌そうで、怒っているようにも見える。男は彼の横を通り過ぎると、おばあちゃんの持つキャリーバッグの取っ手を掴んだ。おばあちゃんの顔が一瞬強張った。

「ばあちゃん運んでやるよ、何階だ?」

 キャリーバッグを片手で抱えると、彼に向き直った。「おいジュニア、おめーもそのでかいリュックよこしな」



 大神晃牙の住む部屋はいわゆるデザイナーズマンションで、彼の住む部屋とはだいぶ雰囲気が異なる。冷え冷えとした打ち付けの壁は無骨な男のスタイリッシュさがあって晃牙によく似合っていた。

 玄関のドアを閉めながら、「今日は眼鏡たちは仕事か」と晃牙が尋ねると、脱いだ靴をそろえながら彼が頷いた。

「おじいちゃんとおばあちゃんは旅行に行ってる」

「なんだおめー、置いて行かれちまったのかよ」

 けらけら笑うと、彼は晃牙をちらっと見るなり、大きなため息をついた。「あのねえ、そういう簡単な話じゃないの」

「あんだよつまんねえな。いつもなら顔リンゴみたいにして怒ってただろうがよ」

「僕も最近いろいろあるの」

 腑に落ちない様子の晃牙を放っておいて、彼はさっさと我がもの顔で廊下を進んでいった。何度か来たことがあるので家の勝手は知っているのである。居間のソファの横にリュックをおろすと、黒と白を基調とした意外にもスッキリとした部屋をきょろきょろと見渡した。お目当ての物はすぐに見つかった。

「レオン、おいでレオン」

 犬用のクレートの中をのぞき込みながら、床をぱたぱた叩いて呼んでみる。コーギーのレオンはクレートの中で丸くなって眠っていた。名前を呼ばれて彼の方をちらっと見るものの、億劫そうにまた目を瞑ってしまった。

「レオン出てこないよ」

 振り向いて晃牙に訴えると、晃牙はグラスにオレンジジュースを注いでやっているところだった。

「レオンもさすがにもう歳だからよ、夏バテしてんだ。あんま構ってやんな」

 ふうんとつまらなそうに彼はグラスを受け取りながら聞いていたが、仕方が無いので大人しく床に座り込んでリュックの中身を整理することにした。

「つか、おめーまだその不細工な鳥のぬいぐるみ持ってんのかよ」

 彼がぎゅうぎゅうに詰められたインコのぬいぐるみをリュックから引っ張り出しているのを見ながら晃牙が呆れた声を出すと、彼はキッと目をつり上げて晃牙の太股のあたりに勢いよく頭突きをした。咄嗟のことによろけて尻餅をつく晃牙の上に、跨がるように仁王立ちになると「かわいそうでしょ、謝りなさい!」と叱った。「謝りなさい!」

 あまりの気迫に、晃牙は思わずたじろぎながらインコに謝った。

 若干流れる気まずい空気を打ち消そうとテレビの電源をつけると、ちょうどお昼の情報番組がやっていた。イギリスのロックバンドから熱烈なオファーを受けたという日本人が、ヨーロッパでコラボレーションツアーを行っているらしく、そのダイジェスト映像が流れていた。映った顔を見て「あ、零だ」と彼が言うと、晃牙が舌打ちをした。

「零は今外国にいるんだねえ」ソファの上に座ってオレンジジュースをちびちびしながら彼が言うと、ハッ、と晃牙がつまらなそうに吐き捨てた。

「イギリスなんていつも天気わりーし飯はまじーしろくなとこじゃねえよ」

「でも昔に晃牙イギリス行きたいって言ってたよ」

「昔は昔なんだよ」

「薫は今どこにいるの?」

「パリで恋愛映画の撮影だとよ」

「アドニスは?」

「久しぶりのオフだからって母国に帰ってんよ」

「晃牙もみんなに置いていかれちゃったんだね」

「うるっせーよ!」



 彼の生まれたときからの仲良しはインコのぬいぐるみだったが、人間の友だちのうちで一番仲良しなのは、実は晃牙だった。

 それは打って変わって、冬のことである。

 まだ英智が入院していたその頃、全国的に大きな風邪が流行っていて、いつも彼の面倒を見てくれている人たちがみんな寝込んでしまったことがあった。日々の健康管理はしっかり行っている敬人はかかることはなかったのだが、幼稚園が休みのその日、どうしても穴を空けられない仕事が入っていて、彼の預け先にほとほと困っていた。かといってろくに知らないような人に預けるわけにもいかず、かくなる上は天祥院の家に……と車の中で考え始めてたところ、ちょうど県道沿いの牛丼屋に入っていくところの晃牙が目に入ったのだった。

「天祥院のガキの面倒なんて嫌だっつの」

 ふざけんなと声を荒らげながら晃牙は断ったが、他に頼る当てのない敬人は食い下がった。

「貴様は口は悪いが、意外に責任感があるし、わりと面倒見もいい。信頼できる大人がもう貴様しかいないのだ。昔のユニットのよしみとして一つ引き受けれてくれ。頼む」

 見た目によらずついでに人まで良かった晃牙は、普段自尊心の高い敬人にこうも頭を下げられると無碍に断ることもできず、うっかり承諾してしまったのだった。

 敬人を見送った途端に、彼がぐう、と大きなおなかの音を鳴らした。

「牛丼食ったことあるか?」

 ふるふると首を横に振るので、「ねえのかよ、だせえな。まあとりあえず食ってみろよ」と言うと、彼を牛丼屋の中へ連れて行った。それからというものの、ときどき会うたびに背徳的な遊びを教示しているのである。



 眠っているレオンの耳をいじっては嫌がられている彼に「ピザでも食うか?」と晃牙は話しかけた。

「どうせおまえジャンクフードとか食わせてもらってねえんだろ」

 普段ならそこそこ食いつく話題にも関わらず、彼は静かに首を横に振るので、晃牙は思わずまじまじと彼を見つめた。

「おい本当に一体どうしちまったんだよジュニア、いつも一緒に背徳的なことやってきただろうがよ」

「僕はね、悩んでいるの」

「またそれかよ。ちびすけのくせにいっちょまえに悩み事か」

「だから昔みたいに晃牙と遊んでられないの」

「ああそうかよ、じゃあしらねーよ。勝手にしろよ」

 投げやりに言い放って、だんまりを決め込んだ。

 しばらくするとさすがに悪いと思ったのか、彼は晃牙の横に立って「ピザ食べたいなら食べてもいいよ」と気遣った。

 最初はどうなることかと思っていたが、彼は年のわりに物分かりがよく、何よりも物怖じしない子供だったので、晃牙にとって扱いは案外楽であった。大人しい子供だと晃牙の物言いに怯えてしまうし、最悪見た目が怖いからというだけで泣きだしてしまう子もいるのだが、彼はその点は一切平気であった。最初こそ探るように様子を伺っているところがあったが、慣れればそれは解消された。両親が両親だからなのかこの年で既に憎たらしいほど口が達者で、晃牙と喧嘩すればときどき勝ってしまうほどである。人の子ながら将来が心配だ。

 ピザを待っている間に、彼は家から持ってきたものを床に並べて見せてくれた。

「ちびのくせにハイテクなもん持ってんじゃねーか」

 彼がリュックから取り出したのは、液晶の携帯タブレットだった。

「英智のパパたちがくれたの。これでポケモンできるけど、敬人と英智がいるときしかできない」

「本当だ、ネット繋がってねえ」

 子供向けに機能が制限されているとはいえ、さすがにまだタブレットは早すぎたらしい。

 ただし今は主にカメラとして活用されているようで、彼はフォルダの中のさまざまな写真を見せてくれた。被写体はやはりインコが多かったが、英智の写真もあった。同意の上で撮ったようなものもあれば、気付かないうちに撮られたようなものもある。ちょっとファンには見せられないような敬人のオフショットもあって、ネットに流したらなかなかよく燃え上がりそうである。先日部屋を模様替えした際に撮ったという写真を見せながら、彼は思い出話をし始めた。

 写真に映る完成された部屋は、壁も天井も綺麗な空色で、原色を使った色鮮やかな動物や植物たちが一面にたくさん描かれていた。敬人と彼の二人で描いたそうである。北欧風の子供部屋みたいで、かわいらしいわりに大人の目で見てもお洒落である。

「これでもう夜寂しくないよ」と彼が得意気に言った。

「なんだおめー今まで一人で寝れなかったのかよ」とからかうと、彼はあわてて「もう一人で寝れるよ」と付け足した。「でも英智と敬人が寂しいからときどき一緒に寝てあげてるの」

「まだまだ赤ちゃんだな」

「赤ちゃんじゃないもん」と彼は怒った。「晃牙までみんなみたいなこと言う」

 晃牙が彼を見返すと、彼は唇をとがらせて、まるいインコの身体を揉みしだいていた。寂しいときの彼の癖なのである。

 晃牙は少しばつが悪そうに頭を掻きながら、「まあ、おまえもいろいろあるよな」と言った。

「そうだよ、いろいろあるよ」

「親は選べねえもんな」

 彼は少し考えて、「でもね」と言った。「僕はね、自分で英智と敬人を選んできたんだよ」



 生まれる前の彼は、大きな図書館にいたのだという。その図書館には天井までたくさんの絵本がびっしり詰まった本棚が際限なく並べられていて、本棚と本棚の間にあるステンドグラスの細い窓から光が漏れていたという。

 図書館の中には、彼の他にもたくさんの子供がいたそうだ。その子供たちに、この中から一冊選びなさいと、顔も覚えていない神様が言ったという。神様は別に自分のことを神様だとは名乗っていなかったけれど、おそらく神様にあたる人なんだろうと彼は解釈している。

 しかし周りの子たちがみんな元気のいい返事をしているなか、彼はあんまり神様の話を聞いていなかった。無数のステンドグラスを通して落とされた影があまりにもカラフルできらきらとしていて綺麗で、それを見るのに夢中になっていたからである。そうして他の子たちから離れたところをうろうろしていた彼は、ふと、天井からぶら下がる大きなシャンデリアの周りを一羽のインコが飛んでいることに気がついた。インコはぱたぱたと円を描くようにして降りてくると、彼の頭上をくるくると回って、やがて本棚の中の一冊の本の前にとまった。

 彼がその本を取り出してみると、それは緑と黄色のセキセイインコの表紙の絵本だった。

「君に似てる」

 そうインコに言ってから彼がページをめくると、それは怒涛の物語であった。読んでるうちからめまぐるしくどんどんと元々のお話に文字が書き足され、書き直され、また書き込まれていく。猛烈なスピードで変化する物語を、彼は夢中で目で追った。

「ステキ」と彼は呟いた。「この人たちがいい」



 おなかいっぱいになった彼は、いつの間にかソファで丸くなって眠っていたらしい。ポロポロとしたギターのチューニングの音で、彼は目を覚ました。普段エレキギターを掻き鳴らしている晃牙にしては珍しく、今日はアコースティックギターを弾いている。その音を聞きながら小さく身を捩ると、ふかふかしたものが鼻先に当たった。クレートから出てきたレオンが彼にぴったり寄り添って眠っていたのだった。彼は抱き抱えるようにしながら、レオンの首から胴のあたりを何度か撫でた。それから首だけもたげて「レオン死んじゃう?」と晃牙に尋ねた。

「まだそこまでの歳じゃねえよ、今は暑くてちょっとつらいだけだ」

 ギターの弦をいじりながら晃牙が答える。

「レオンはロックな奴だからな。ちびすけがいらん心配してんじゃねえよ」

 そっか、と呟いて、彼は目を瞑るとレオンの背中に顔を埋めた。

 ポロポロと零れていた音は、やがて曲になった。それはやっぱり晃牙にしては珍しい、雨の降る夜みたいな穏やかで、子守唄みたいな曲だった。

「でもね、僕は最近考えるよ」

 その曲を聞きながら、彼はぽつりと言った。

「死んじゃったあとのこととか、死んじゃったらもう一緒に遊べないこととか、そういうことについて考えたりするよ」

 晃牙はしばらく黙ってギターを弾き続けていたが、やがて手をとめると彼の頭を押さえつけるように乱暴にぐしゃぐしゃにした。

 彼がやめてと怒り出すと「いいか、どう生きるかってのがロックなんだ」と彼の目を見ながら言った。「ちびすけにロックはまだはえーんだよ」

 彼は起き上がって髪を直しながら「晃牙はやっぱり子どもだなあ」とため息をついた。

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