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コール・ミー、ダディ!

 敬人が園門をくぐると、小さな彼はちょうどお友達たちと砂場で丸丸とした泥インコを大量生産しているところだった。彼は園庭を突っ切ってくる敬人の姿を見つけると、「敬人だ!」と立ち上がって喜び、駆け寄った。 「今日も楽しく遊んでたか?」泥まみれの手が服に触れる前に、やんわりと彼の手首を両手で掴みながら敬人が尋ねる。 「楽しかったよ」  彼は掴んだ敬人の手にぶら下がるように、ぶらぶらと身体を脱力させながら説明した。「今日は十三号と十四号と十五号をつくったの。敬人も見て」 「その前に手を洗おう」 「うん」  手洗い場で泥を洗い流していると、「ケイトきてよかったねえ」と幼稚園のお友達が傍まで寄ってきて言った。 「ケイトとエイチのこと大好きだもんね」 「うん」と彼は力強く頷いた。「おばあちゃんも好きだけど敬人がくると嬉しい」  彼は幼稚園バッグからハンカチを取り出して手を拭くと、綺麗になった手を大きく振った。 「バイバーイ」  幼稚園のお友達たちも手を振り返した。 「バイバーイ」 「ケイトもバイバーイ」

     ○

「そろそろ『お父さん』と呼ぶことにしよう」 「なんで?」と彼はそれまで熱心に積み上げていたレゴブロックから顔をあげて、首を傾げた。 「おまえももう五歳になる。常識を身につけるべきだ」 「ちゃんと勉強してるよ」と彼は言ってレゴブロックに再び取りかかろうとする。敬人は彼を抱き上げるとソファに座り直させた。 「あとバイオリンもちゃんとやっててね、今ね曲もつくってるんだよ」 「勉強はもちろんだが、年長者を敬う態度を身につけるべきということだ」 「敬人のこと好きだよ」 「そういうことではなく」敬人は腕を組んだ。「たとえば小学校の面接のときにおまえが両親のことを名前で呼び捨てにしていたら、面接官はおまえを非常識な子供だと思ってびっくりするだろう。おまえのことを知らない人間にとってもそうだ。本当は非常識じゃないのにそう思われるのは父さんとしても悲しい。……こら、ちゃんと話を聞け」  彼は飽きてしまったのか、ソファの背もたれに足を乗っけて寝っ転がりながら、仲良しのインコのぬいぐるみを揉みしだいていた。 「嫌なら嫌だと言うだけでなく、ちゃんと理由を説明しろと常日頃から言っているだろ」 「使い分ければいいよ」とそれまで二人の様子を見ていた英智が口を挟んだ。「できるよ、賢い子だから。ね」 「できる」とひっくりかえりながら彼は言った。 「ほら。無理強いするのは可哀想だよ、パパ」 「おい茶化すな」 「仕方ないよ、だって僕たちが名前で呼んでるんだもん」英智はびしっと敬人の顔に人差し指を突きつけた。「幼稚園生に集団で呼び捨てにされたからって大人げない」 「そうじゃない」  人差し指を払いのけながら敬人がため息をついた。「そういうわけじゃない」

    ○

 彼がこの世にはじめて放った言葉は「ケイト」という、父親を指す三文字の名前だった。それからは、それまでの遅れを取り戻すかのように小さな口から言葉を紡ぐことを覚え、めざましいまでの成長を見せた。そして壁を伝わずともよちよち歩きまでできるようになった頃、敬人は彼に「お父さん」と呼ばせようとしたのだ。 「いいか、おまえも一歳になる。そろそろお父さんと呼ぶべきだ」  一人息子をソファの上に座らせると、敬人はそう言った。「ほら、お父さんと言ってみなさい」  彼はきょとんと首を傾げて敬人の話を聞いていたが、びしっと敬人の顔を指さすと「けいと!」と叫んだ。 「そうだが、違う。お父さんだ」 「けいと!」  彼は執拗に拒んだ。敬人が根気よく教えようとすればするほど「ちがわい、敬人は敬人だい」とでも言うようにすっかりへそを曲げてしまった。敬人も敬人で簡単には引き下がらなかったが、一度彼が癇癪を起こして大泣きした際に、ちょうど家に来ていた父親に咎められたのもあって計画はそのまま座礁し、こうして頑固な親子の根比べは結局は敬人が負けたまま終わっていた。  だが、敬人は完全に諦めてはいなかったのだ。 「しかし、あの頃はまだあいつも理屈のわからない赤ん坊であった。今はもう大人の言う理屈がわかる。言い聞かせていればやがてわかってくれるだろう」 「そう敬人の思い通りにいくかな」  先を歩きながら展望を語る敬人を、後ろから英智が鼻で笑ったのが聞こえた。 「何か言いたげだが、文句があるなら先に帰っていいぞ」 「敬人はすぐ怒るなあ」と英智はため息をつくと、その場にしゃがんで肩を揺らした。「ちょっと休憩」 「だから貴様は下で待っていろと言っただろ」 「まだ予定の時間よりあるでしょ。そこで吐いてきていい?」 「さすがに余所ではやめろ。いいから貴様はそこで待ってろ」  英智を置いてさっさと自分だけ石段を上ろうとすると、「敬人のおこりんぼう、鬼畜眼鏡」と後ろから罵詈雑言が飛んできた。 「そもそも客人に対してこんな山奥の石段を上らせるなんて結構なご挨拶だよね。寺社仏閣ってのはどこも横柄なのかな」 「別に貴様はこなくてもいいと最初から言ってるだろ。そもそも貴様にきた仕事でもない」 「なんだよ、足手まといって言いたいわけ」 「そうは言ってないが、そもそも貴様が来ると余分に仕事が増えるのは確かだからな」と振り向きもせず敬人が言った。 「わかったよ、あとで追いつくから先行って」と英智は石段に腰掛け直してうなだれた。「いつか鐘の文字が不敬だなんだって難癖つけてこの寺燃やして今日の鬱憤を晴らすことにする」 「ろくな死に方しないぞ」  敬人の両親からの依頼で、ある大きな寺でライブを行うことになっていた。今日はその下見兼挨拶である。学生の頃に同じく敬人の家の実家と馴染みのある大きな寺社でライブを行ったが、それがなかなか評判が良かったのだそうで、未だに両親を通してそういった依頼がくる。  敬人の両親からの依頼は基本的には断らないようにしていた。というのも普段いろいろと孫の面倒を見てもらっているので単純に断りづらい。断ったところで大事になったりはしないが、どちらにしても無償で何もかもやってもらうよりはそちらの方が健全であるように思われたし、気が楽だった。  とはいっても、今は本人たちが舞台に立つことはない。いくら観光客がくるような寺社でも、小さな会場ではできることは限られてくるし、ユニットのブランド力を維持するために、ここ数年はもっぱら学院の後輩たちにあたる若いユニットの活躍の場として提供していた。  ようやく気分が落ち着いてくると、英智はすれ違っていく町内会とおぼしきツアー団体に会釈しながら、その健脚ぶりを眺めたりしていた。自分より二、三倍も年を重ねている人たちが元気に山を登っているというのになんとも情けない。 「英智」  頬に冷たいものが触れて振り返ると、敬人が後ろに立ってこちらを見下ろしていた。英智の横に腰掛けると、自販機で買ってきたばかりの冷たいポカリスウェットを手渡した。 「まだ時間ある?」 「あと三十分もある」 「早く来すぎなんだよ敬人は。逆に先方に迷惑だよ」 「誰かさんが途中で休むんだからちょうどいいだろう」  食道をポカリが下っていくのを感じながら、「さっきの話の続きだけど」と思いついたように英智が言った。「子供が親の呼び方を真似するなら、じゃあ僕が敬人のこと『お父さん』って言えばいいわけ」 「それが手っ取り早いだろうな」と敬人も肯定する。 「でもそれだと、僕だけが変えるわけ?」英智が難色を見せた。「敬人はいつも通りで」 「だが二人とも『お父さん』だと紛らわしいだろ」 「僕は別に『お父さん』って呼ばれたいわけじゃないんだけど。それなら『パパ』のがいいな、桃李も両親をそう呼んでたし。可愛いよね」英智は敬人の隣に追いつくとと、顔をのぞき込んだ。「ね、可愛いよね」 「……」 「……」 「……」 「あのさあ、照れると余計に変な感じになるから」 「別に照れているわけではない」敬人が反論した。 「どうして敬人が言うと、僕か敬人のどちらかにそういう性癖があるみたいになっちゃうんだろうね」 「親同士と子供とで呼び方が違う家はたくさんあるだろ」 「それはそうだけど、自分たちが変える気が無いのに、彼だけに押しつけるのはフェアじゃないよ」  敬人は腕を組んで、地面の砂利を見つめていた。怒っているというよりも、一人で考えているようだった。 「敬人は昔から僕の分も、『いいお父さん』になりたいんだもんね」  敬人が立ち上がった。 「敬人」 「十分休んだだろ」 「敬人」 「なんだ」とうんざりしたように振り返ると、にっこり笑っている英智と目が合った。 「僕は敬人の名前呼ぶのも、呼ばれるのも嫌いじゃないよ」  左手を敬人に向けて、すっと伸ばした。敬人はその手を取ると、勢いよく引いて立ち上がらせた。 「敬人もそうだと思ってる」  敬人はしばらく視線を逡巡させ、「そうかもしれない」と答えた。

     ○

「おめーの親父はおめーが生まれる前から父親になるの、はりきってたからな」  ギターのチューニングをしながら晃牙が言った。 「父親になる前もなった後もうぜえくらい会話に混ぜてきて鬱陶しかったけどよ。いい親父になろうと頑張って本とか読んでたから、呼ばれることの憧れが強いんじゃねえか」 「よくわかんない」と彼も同じようにバイオリンの弦を調整しながらむすっとしていた。「呼ばないとだめかなあ」 「別に親を名前で呼んでてもいいと思うけどよ、ロックみてえで」 「ロックなのかあ」 「つーか、どうしてそんな嫌なんだよ」  彼はううんと考え込んでいたが、晃牙の傍まで寄っていくと、両手で包み込むようにして耳元に口をあて「ちょっと恥ずかしいから」と囁いた。 「なんだ、恥ずかしいのかよ」 「ちょっと恥ずかしい」  そう言ってもじもじしながらインコのおなかを揉みしだいた。 「なんだよガキだな!」  ハッと鼻で笑うと、「晃牙も零とか薫のこと名前で呼ぶの恥ずかしくない?」と彼が少しへそを曲げながら言った。 「いや、だってそれはダメだろ」と晃牙が言った。「年上だしな」 「名前で呼ぶのはロックじゃないの?」  腰をひっつかんで逆さにすると、彼がきゃあきゃあと喜んだ。 「よしおめーの言い分はわかったから、その嫌な気持ち弦に込めろよ」  彼は頷くと、バイオリンを持ち上げた。弦に弓を当てると、力任せに弾いた。  晃牙は騒音ともいえるその演奏を珍しく神妙な面もちで聞いていたが、部屋に静寂が戻ると「おいおい、ロックじゃねえか……」と唖然とした声を出した。 「『ディープパープル』くらいすごい?」 「ばっかおめえ、さすがにディープパープルとは並べねえよ。つうか何弾いたんだ」 「シューベルトの鱒」 「まったく原曲残ってねえな。自分で名前つけちまえ」 「これは忙しくなってきたね……」と彼は画用紙を引っ張り出してくると楽譜をつけはじめた。

     ○

 帰り際に挨拶に行くと、ちょうど別の用事で来ていた兄とはち合わせた。  旅行帰りだった兄はおみやげの箱を一つ寄越し、悪ガキたちめ、と兄は笑って帰って行った。小さい頃から英智と二人で遊んでいると、兄は悪ガキと称した。  子供ができたと報告したとき、兄は猛烈に怒っていた。今はもう理解してくれているが、当時は怒鳴られもした。英智のことを少しでも知っている者なら、それは軽率な考えから生まれたものだと思われても仕方がないことだった。  一方で、父は一言「そうか」と答えただけであり、些か拍子抜けであった。もしかしたら驚いた顔ぐらいはしていたのかもしれない。  俺は立派な父親になろうと思う、と敬人は言った。  困難な道だろう、と父は答えた。だが励め。  一番古い記憶を探ろうとすると思い浮かぶのは、経を読む父の背中だった。  兄と並んで、本堂で経を唱える父の背中を眺めていた。物心ついたときには父はよく葬式や法事に連れていった。そうして経を唱え終わると、父は振り返り、説法をした。  父の説法が好きだった。仏教徒でありながら普段から自分の宗教を意識している人は少ない。そういう人にもわかりやすく、そうやっていつも父の説法を聞いている自分は、ほかの子供とは比べものにならないほどに大変賢い子供のような気がしていた。  父さんのようになれるだろうか、と敬人は続けて言った。  そんなもんにはならんでいい、と父は言った。

     ○

 兄から貰った箱を開けてみると、洋酒の入ったチョコレートだった。ツーリングで北海道まで行ったのだろう、有名な店舗の名前が箱に印字されていた。チョコレートは嫌いじゃない。一粒摘んでいると、ガナッシュが溶けてじゅわっと口いっぱいに広がった。  ちょうど居間に入ってきた彼は、ローテーブルに置かれたチョコレートの箱と、ソファに座ってそれを摘んでいる父親を目ざとく見つけ、「チョコ食べてる!」と言った。 「食べるか?」 「食べる」  敬人が彼の口に一粒放り込んでやると、彼は一口噛んだ途端に口を両手で押さえながら、うえっとした。敬人が声をあげて笑った。 「苦くて美味しくない」 「これが大人のチョコだ」 「大人になったら美味しい?」 「まあ人による」  敬人は立ち上がると、「お詫びの口直しにホットミルクでも淹れてやろう」と台所に向かったので、彼も後ろからついていった。 「たくさんはちみつを入れてください」 「あんまり入れても旨くないぞ」  自分の分も淹れようとコーヒー瓶を戸棚から取り出すと、「敬人はまたコーヒー飲むの?」と彼が尋ねるので、思わず苦笑した。「そんなに飲んでないだろ」 「英智が敬人はカフェインチュウドク気味って言ってたよ。コーヒー飲み過ぎって意味?」 「今日はカフェオレだから問題ない」  鍋に残ったミルクをマグカップに注ぐと、持ち上げて彼に見せた。 「ほら、お揃い」 「お揃いだ」  彼がふふと笑った。  ダイニングチェアに腰をかけて一口啜ると、敬人は顔をしかめた。 「ああ、やっぱり甘いな」 「甘いの?」 「おまえには苦いかも」 「カフェオレも敬人のにおいがちょっとするね」  彼も敬人の向かい側に座ると、同じようにマグカップを啜った。「コーヒーとかお茶とかのにおいがするとね、敬人を思い出すよ。英智が紅茶で」 「うん」 「あとね敬人って口で言うと、敬人の顔とか声とか思い出す」  彼は言った。「スペシャルな感じがする。『お父さん』だとわかんない。わかる?」 「わかるよ」  敬人が答えた。「俺もホットミルクや甘いお菓子の匂いを嗅ぐ度に、おまえの名前を口にする度に、おまえの顔を思い出す」 「スペシャルな」 「そうだな、スペシャルでトクベツな感じだな」 「だから、敬人って呼ぶのも、敬人に呼ばれるのも好き」  ダイニングテーブルにマグカップを置くと、彼は足をぶらぶらさせた。 「俺も、おまえに名前を呼ばれるのは好きだ」 「あっ」と彼は思いだしたように目を見開いた。「晃牙と敬人に曲つくったの忘れてた」 「どんな曲だ」 「『ファッキン・ダディ』」彼が立ち上がろうとしながら答えた。「晃牙がいろいろ名前考えてくれたけど長くて忘れちゃった。スケッチブックに書いてあるから今弾ける」 「明日でいい、明日で」  軽く頭痛を覚えながら彼を制し、甘いカフェオレを啜った。 「おまえたちに呼ばれるのなら、本当はなんだっていいんだ」

     ○

「結局根負けしてるじゃない」  いつも通りに戻った親子の姿を見ながら、英智が意地悪く言った。だが敬人はさも気にしていない風情であった。 「あいつのプレゼンがうまかっただけだ。成長に親として誇りに思う」 「親バカだなあ」  飲み物を買いに立ち寄ったコンビニで食玩売場を熱心に覗いていた彼は、小さな箱を手に持って敬人へ駆け寄った。 敬人が園門をくぐると、小さな彼はちょうどお友達たちと砂場で丸丸とした泥インコを大量生産しているところだった。彼は園庭を突っ切ってくる敬人の姿を見つけると、「敬人だ!」と立ち上がって喜び、駆け寄った。

「今日も楽しく遊んでたか?」泥まみれの手が服に触れる前に、やんわりと彼の手首を両手で掴みながら敬人が尋ねる。

「楽しかったよ」

 彼は掴んだ敬人の手にぶら下がるように、ぶらぶらと身体を脱力させながら説明した。「今日は十三号と十四号と十五号をつくったの。敬人も見て」

「その前に手を洗おう」

「うん」

 手洗い場で泥を洗い流していると、「ケイトきてよかったねえ」と幼稚園のお友達が傍まで寄ってきて言った。

「ケイトとエイチのこと大好きだもんね」

「うん」と彼は力強く頷いた。「おばあちゃんも好きだけど敬人がくると嬉しい」

 彼は幼稚園バッグからハンカチを取り出して手を拭くと、綺麗になった手を大きく振った。

「バイバーイ」

 幼稚園のお友達たちも手を振り返した。

「バイバーイ」

「ケイトもバイバーイ」


     ○


「そろそろ『お父さん』と呼ぶことにしよう」

「なんで?」と彼はそれまで熱心に積み上げていたレゴブロックから顔をあげて、首を傾げた。

「おまえももう五歳になる。常識を身につけるべきだ」

「ちゃんと勉強してるよ」と彼は言ってレゴブロックに再び取りかかろうとする。敬人は彼を抱き上げるとソファに座り直させた。

「あとバイオリンもちゃんとやっててね、今ね曲もつくってるんだよ」

「勉強はもちろんだが、年長者を敬う態度を身につけるべきということだ」

「敬人のこと好きだよ」

「そういうことではなく」敬人は腕を組んだ。「たとえば小学校の面接のときにおまえが両親のことを名前で呼び捨てにしていたら、面接官はおまえを非常識な子供だと思ってびっくりするだろう。おまえのことを知らない人間にとってもそうだ。本当は非常識じゃないのにそう思われるのは父さんとしても悲しい。……こら、ちゃんと話を聞け」

 彼は飽きてしまったのか、ソファの背もたれに足を乗っけて寝っ転がりながら、仲良しのインコのぬいぐるみを揉みしだいていた。

「嫌なら嫌だと言うだけでなく、ちゃんと理由を説明しろと常日頃から言っているだろ」

「使い分ければいいよ」とそれまで二人の様子を見ていた英智が口を挟んだ。「できるよ、賢い子だから。ね」

「できる」とひっくりかえりながら彼は言った。

「ほら。無理強いするのは可哀想だよ、パパ」

「おい茶化すな」

「仕方ないよ、だって僕たちが名前で呼んでるんだもん」英智はびしっと敬人の顔に人差し指を突きつけた。「幼稚園生に集団で呼び捨てにされたからって大人げない」

「そうじゃない」

 人差し指を払いのけながら敬人がため息をついた。「そういうわけじゃない」


    ○


 彼がこの世にはじめて放った言葉は「ケイト」という、父親を指す三文字の名前だった。それからは、それまでの遅れを取り戻すかのように小さな口から言葉を紡ぐことを覚え、めざましいまでの成長を見せた。そして壁を伝わずともよちよち歩きまでできるようになった頃、敬人は彼に「お父さん」と呼ばせようとしたのだ。

「いいか、おまえも一歳になる。そろそろお父さんと呼ぶべきだ」

 一人息子をソファの上に座らせると、敬人はそう言った。「ほら、お父さんと言ってみなさい」

 彼はきょとんと首を傾げて敬人の話を聞いていたが、びしっと敬人の顔を指さすと「けいと!」と叫んだ。

「そうだが、違う。お父さんだ」

「けいと!」

 彼は執拗に拒んだ。敬人が根気よく教えようとすればするほど「ちがわい、敬人は敬人だい」とでも言うようにすっかりへそを曲げてしまった。敬人も敬人で簡単には引き下がらなかったが、一度彼が癇癪を起こして大泣きした際に、ちょうど家に来ていた父親に咎められたのもあって計画はそのまま座礁し、こうして頑固な親子の根比べは結局は敬人が負けたまま終わっていた。

 だが、敬人は完全に諦めてはいなかったのだ。

「しかし、あの頃はまだあいつも理屈のわからない赤ん坊であった。今はもう大人の言う理屈がわかる。言い聞かせていればやがてわかってくれるだろう」

「そう敬人の思い通りにいくかな」

 先を歩きながら展望を語る敬人を、後ろから英智が鼻で笑ったのが聞こえた。

「何か言いたげだが、文句があるなら先に帰っていいぞ」

「敬人はすぐ怒るなあ」と英智はため息をつくと、その場にしゃがんで肩を揺らした。「ちょっと休憩」

「だから貴様は下で待っていろと言っただろ」

「まだ予定の時間よりあるでしょ。そこで吐いてきていい?」

「さすがに余所ではやめろ。いいから貴様はそこで待ってろ」

 英智を置いてさっさと自分だけ石段を上ろうとすると、「敬人のおこりんぼう、鬼畜眼鏡」と後ろから罵詈雑言が飛んできた。

「そもそも客人に対してこんな山奥の石段を上らせるなんて結構なご挨拶だよね。寺社仏閣ってのはどこも横柄なのかな」

「別に貴様はこなくてもいいと最初から言ってるだろ。そもそも貴様にきた仕事でもない」

「なんだよ、足手まといって言いたいわけ」

「そうは言ってないが、そもそも貴様が来ると余分に仕事が増えるのは確かだからな」と振り向きもせず敬人が言った。

「わかったよ、あとで追いつくから先行って」と英智は石段に腰掛け直してうなだれた。「いつか鐘の文字が不敬だなんだって難癖つけてこの寺燃やして今日の鬱憤を晴らすことにする」

「ろくな死に方しないぞ」

 敬人の両親からの依頼で、ある大きな寺でライブを行うことになっていた。今日はその下見兼挨拶である。学生の頃に同じく敬人の家の実家と馴染みのある大きな寺社でライブを行ったが、それがなかなか評判が良かったのだそうで、未だに両親を通してそういった依頼がくる。

 敬人の両親からの依頼は基本的には断らないようにしていた。というのも普段いろいろと孫の面倒を見てもらっているので単純に断りづらい。断ったところで大事になったりはしないが、どちらにしても無償で何もかもやってもらうよりはそちらの方が健全であるように思われたし、気が楽だった。

 とはいっても、今は本人たちが舞台に立つことはない。いくら観光客がくるような寺社でも、小さな会場ではできることは限られてくるし、ユニットのブランド力を維持するために、ここ数年はもっぱら学院の後輩たちにあたる若いユニットの活躍の場として提供していた。

 ようやく気分が落ち着いてくると、英智はすれ違っていく町内会とおぼしきツアー団体に会釈しながら、その健脚ぶりを眺めたりしていた。自分より二、三倍も年を重ねている人たちが元気に山を登っているというのになんとも情けない。

「英智」

 頬に冷たいものが触れて振り返ると、敬人が後ろに立ってこちらを見下ろしていた。英智の横に腰掛けると、自販機で買ってきたばかりの冷たいポカリスウェットを手渡した。

「まだ時間ある?」

「あと三十分もある」

「早く来すぎなんだよ敬人は。逆に先方に迷惑だよ」

「誰かさんが途中で休むんだからちょうどいいだろう」

 食道をポカリが下っていくのを感じながら、「さっきの話の続きだけど」と思いついたように英智が言った。「子供が親の呼び方を真似するなら、じゃあ僕が敬人のこと『お父さん』って言えばいいわけ」

「それが手っ取り早いだろうな」と敬人も肯定する。

「でもそれだと、僕だけが変えるわけ?」英智が難色を見せた。「敬人はいつも通りで」

「だが二人とも『お父さん』だと紛らわしいだろ」

「僕は別に『お父さん』って呼ばれたいわけじゃないんだけど。それなら『パパ』のがいいな、桃李も両親をそう呼んでたし。可愛いよね」英智は敬人の隣に追いつくとと、顔をのぞき込んだ。「ね、可愛いよね」

「……」

「……」

「……」

「あのさあ、照れると余計に変な感じになるから」

「別に照れているわけではない」敬人が反論した。

「どうして敬人が言うと、僕か敬人のどちらかにそういう性癖があるみたいになっちゃうんだろうね」

「親同士と子供とで呼び方が違う家はたくさんあるだろ」

「それはそうだけど、自分たちが変える気が無いのに、彼だけに押しつけるのはフェアじゃないよ」

 敬人は腕を組んで、地面の砂利を見つめていた。怒っているというよりも、一人で考えているようだった。

「敬人は昔から僕の分も、『いいお父さん』になりたいんだもんね」

 敬人が立ち上がった。

「敬人」

「十分休んだだろ」

「敬人」

「なんだ」とうんざりしたように振り返ると、にっこり笑っている英智と目が合った。

「僕は敬人の名前呼ぶのも、呼ばれるのも嫌いじゃないよ」

 左手を敬人に向けて、すっと伸ばした。敬人はその手を取ると、勢いよく引いて立ち上がらせた。

「敬人もそうだと思ってる」

 敬人はしばらく視線を逡巡させ、「そうかもしれない」と答えた。


     ○


「おめーの親父はおめーが生まれる前から父親になるの、はりきってたからな」

 ギターのチューニングをしながら晃牙が言った。

「父親になる前もなった後もうぜえくらい会話に混ぜてきて鬱陶しかったけどよ。いい親父になろうと頑張って本とか読んでたから、呼ばれることの憧れが強いんじゃねえか」

「よくわかんない」と彼も同じようにバイオリンの弦を調整しながらむすっとしていた。「呼ばないとだめかなあ」

「別に親を名前で呼んでてもいいと思うけどよ、ロックみてえで」

「ロックなのかあ」

「つーか、どうしてそんな嫌なんだよ」

 彼はううんと考え込んでいたが、晃牙の傍まで寄っていくと、両手で包み込むようにして耳元に口をあて「ちょっと恥ずかしいから」と囁いた。

「なんだ、恥ずかしいのかよ」

「ちょっと恥ずかしい」

 そう言ってもじもじしながらインコのおなかを揉みしだいた。

「なんだよガキだな!」

 ハッと鼻で笑うと、「晃牙も零とか薫のこと名前で呼ぶの恥ずかしくない?」と彼が少しへそを曲げながら言った。

「いや、だってそれはダメだろ」と晃牙が言った。「年上だしな」

「名前で呼ぶのはロックじゃないの?」

 腰をひっつかんで逆さにすると、彼がきゃあきゃあと喜んだ。

「よしおめーの言い分はわかったから、その嫌な気持ち弦に込めろよ」

 彼は頷くと、バイオリンを持ち上げた。弦に弓を当てると、力任せに弾いた。

 晃牙は騒音ともいえるその演奏を珍しく神妙な面もちで聞いていたが、部屋に静寂が戻ると「おいおい、ロックじゃねえか……」と唖然とした声を出した。

「『ディープパープル』くらいすごい?」

「ばっかおめえ、さすがにディープパープルとは並べねえよ。つうか何弾いたんだ」

「シューベルトの鱒」

「まったく原曲残ってねえな。自分で名前つけちまえ」

「これは忙しくなってきたね……」と彼は画用紙を引っ張り出してくると楽譜をつけはじめた。


     ○


 帰り際に挨拶に行くと、ちょうど別の用事で来ていた兄とはち合わせた。

 旅行帰りだった兄はおみやげの箱を一つ寄越し、悪ガキたちめ、と兄は笑って帰って行った。小さい頃から英智と二人で遊んでいると、兄は悪ガキと称した。

 子供ができたと報告したとき、兄は猛烈に怒っていた。今はもう理解してくれているが、当時は怒鳴られもした。英智のことを少しでも知っている者なら、それは軽率な考えから生まれたものだと思われても仕方がないことだった。

 一方で、父は一言「そうか」と答えただけであり、些か拍子抜けであった。もしかしたら驚いた顔ぐらいはしていたのかもしれない。

 俺は立派な父親になろうと思う、と敬人は言った。

 困難な道だろう、と父は答えた。だが励め。

 一番古い記憶を探ろうとすると思い浮かぶのは、経を読む父の背中だった。

 兄と並んで、本堂で経を唱える父の背中を眺めていた。物心ついたときには父はよく葬式や法事に連れていった。そうして経を唱え終わると、父は振り返り、説法をした。

 父の説法が好きだった。仏教徒でありながら普段から自分の宗教を意識している人は少ない。そういう人にもわかりやすく、そうやっていつも父の説法を聞いている自分は、ほかの子供とは比べものにならないほどに大変賢い子供のような気がしていた。

 父さんのようになれるだろうか、と敬人は続けて言った。

 そんなもんにはならんでいい、と父は言った。


     ○


 兄から貰った箱を開けてみると、洋酒の入ったチョコレートだった。ツーリングで北海道まで行ったのだろう、有名な店舗の名前が箱に印字されていた。チョコレートは嫌いじゃない。一粒摘んでいると、ガナッシュが溶けてじゅわっと口いっぱいに広がった。

 ちょうど居間に入ってきた彼は、ローテーブルに置かれたチョコレートの箱と、ソファに座ってそれを摘んでいる父親を目ざとく見つけ、「チョコ食べてる!」と言った。

「食べるか?」

「食べる」

 敬人が彼の口に一粒放り込んでやると、彼は一口噛んだ途端に口を両手で押さえながら、うえっとした。敬人が声をあげて笑った。

「苦くて美味しくない」

「これが大人のチョコだ」

「大人になったら美味しい?」

「まあ人による」

 敬人は立ち上がると、「お詫びの口直しにホットミルクでも淹れてやろう」と台所に向かったので、彼も後ろからついていった。

「たくさんはちみつを入れてください」

「あんまり入れても旨くないぞ」

 自分の分も淹れようとコーヒー瓶を戸棚から取り出すと、「敬人はまたコーヒー飲むの?」と彼が尋ねるので、思わず苦笑した。「そんなに飲んでないだろ」

「英智が敬人はカフェインチュウドク気味って言ってたよ。コーヒー飲み過ぎって意味?」

「今日はカフェオレだから問題ない」

 鍋に残ったミルクをマグカップに注ぐと、持ち上げて彼に見せた。

「ほら、お揃い」

「お揃いだ」

 彼がふふと笑った。

 ダイニングチェアに腰をかけて一口啜ると、敬人は顔をしかめた。

「ああ、やっぱり甘いな」

「甘いの?」

「おまえには苦いかも」

「カフェオレも敬人のにおいがちょっとするね」

 彼も敬人の向かい側に座ると、同じようにマグカップを啜った。「コーヒーとかお茶とかのにおいがするとね、敬人を思い出すよ。英智が紅茶で」

「うん」

「あとね敬人って口で言うと、敬人の顔とか声とか思い出す」

 彼は言った。「スペシャルな感じがする。『お父さん』だとわかんない。わかる?」

「わかるよ」

 敬人が答えた。「俺もホットミルクや甘いお菓子の匂いを嗅ぐ度に、おまえの名前を口にする度に、おまえの顔を思い出す」

「スペシャルな」

「そうだな、スペシャルでトクベツな感じだな」

「だから、敬人って呼ぶのも、敬人に呼ばれるのも好き」

 ダイニングテーブルにマグカップを置くと、彼は足をぶらぶらさせた。

「俺も、おまえに名前を呼ばれるのは好きだ」

「あっ」と彼は思いだしたように目を見開いた。「晃牙と敬人に曲つくったの忘れてた」

「どんな曲だ」

「『ファッキン・ダディ』」彼が立ち上がろうとしながら答えた。「晃牙がいろいろ名前考えてくれたけど長くて忘れちゃった。スケッチブックに書いてあるから今弾ける」

「明日でいい、明日で」

 軽く頭痛を覚えながら彼を制し、甘いカフェオレを啜った。

「おまえたちに呼ばれるのなら、本当はなんだっていいんだ」


     ○


「結局根負けしてるじゃない」

 いつも通りに戻った親子の姿を見ながら、英智が意地悪く言った。だが敬人はさも気にしていない風情であった。

「あいつのプレゼンがうまかっただけだ。成長に親として誇りに思う」

「親バカだなあ」

 飲み物を買いに立ち寄ったコンビニで食玩売場を熱心に覗いていた彼は、小さな箱を手に持って敬人へ駆け寄った。

「新しいインコが欲しいなあ」

「誕生日に買ったばっかりだろう」

「でもこのインコはとてもいいインコだよ」彼は食い下がった。「インコみたいなお菓子の形したおもちゃですごくいいと思う」

「ダメだダメだ、そんなわけのわからないもの」

 敬人はさっさと歩き出してしまった。

 食玩の箱を持ってしょんぼりしている息子に、英智は後ろからそっと寄った。そしてなにやら耳元に囁くと、頷いて、押し出すように彼の背中をぽんと叩いた。

 彼は敬人の足下まで走っていくと、もう一度上着の裾を掴んで、くいと引っ張った。

「お父さん、これ買って」

 敬人は瞬きし、差し出された食玩の箱と息子の顔を見比べ、それから後ろで笑いを堪えている首謀者に気づいてようやく状況を悟った。

「英智!」

 堪えきれずに、英智が吹き出した。 「新しいインコが欲しいなあ」 「誕生日に買ったばっかりだろう」 「でもこのインコはとてもいいインコだよ」彼は食い下がった。「インコみたいなお菓子の形したおもちゃですごくいいと思う」 「ダメだダメだ、そんなわけのわからないもの」  敬人はさっさと歩き出してしまった。  食玩の箱を持ってしょんぼりしている息子に、英智は後ろからそっと寄った。そしてなにやら耳元に囁くと、頷いて、押し出すように彼の背中をぽんと叩いた。  彼は敬人の足下まで走っていくと、もう一度上着の裾を掴んで、くいと引っ張った。 「お父さん、これ買って」  敬人は瞬きし、差し出された食玩の箱と息子の顔を見比べ、それから後ろで笑いを堪えている首謀者に気づいてようやく状況を悟った。 「英智!」  堪えきれずに、英智が吹き出した。

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