top of page

シュガーライフ


 私はその頃、幼い子供であった。

 当時既に世間に名を馳せていた二人の第一子として生を受けた私は、それなりに好奇の目に晒されながらも、それなりに放っておかれたおかげで、すくすくと丈夫に腐らずに育つことができた。私は両親が一生懸命考えてくれたステキな名前が自慢であり、生まれた時から一緒にいる緑と黄色のセキセイインコのぬいぐるみは私にとって生涯の宝物となった。寝る前のわずかな時間に、父の膝の上でゆらゆらと抱かれながらお話を聞くのを愛し、そして世界中で一番安心できる幸福なその場所を何よりも愛した、幼い子供であった。

 幼い私には毎日が真新しく新鮮な世界に映り、森羅万象に対する好奇心でその瞳は常に爛々と輝いていたという。

 大人になった今でも、私は彼らと共に過ごした日々をつい昨日の出来事のように、ありありと思い起こすことができる。


     ○


「会長って、趣味がカワイイですよね」

 隣に座る生徒会役員の女の子は、そう出し抜けに言い出すや否や、口元に手を当てて吹き出していた。何のことかと怪訝に思っていると、彼女はどうやら制服の胸ポケットからのぞくボールペンのことを言っているらしかった。ファンシーショップや土産屋で売っているような、ノックの部分にまるっとしたインコの小さなフィギュアが乗っかっているボールペンであり、私の愛用している品のうちの一つである。

「変かな」私はちらりと視線だけ彼女に投げかけながら小声で返した。

「強いて言えば、これからこの厳かな式典で登壇するというのに、そんなよく見える位置に連れて来ちゃうあたりは、変かもしれませんね」

 その厳かな式典で堂々と私語を投げてくる彼女は、正面を向いてすましている。

 壇上に目を向けると、校長先生による有り難くもタメになるんだかならないんだかわからないお話はまだまだ終わりそうになかった。肩を竦めながら、私は退屈なお話に一生懸命耳を傾けている新一年生たちと、その後ろに並ぶ中継用機材に視線を移す。古くから芸能界に多くの優秀な人材を輩出してきた学院のアイドル、プロデュース科の入学式ともなれば世界中が注目するようで、未来の大スターたちの初々しい姿はテレビで大々的に中継されるのが習わしである。どうやらこの席はカメラの死角にあたるようだ。式典に飽き飽きしていた私は彼女とのおしゃべりに興じることにした。

「鞄にもストラップつけてますよね、インコの」

「ああ、僕のお守りみたいなものだから」

「生徒会でも女子の間で、話題なんですよ。ギャップ萌えだーとかで」

 あんまり意識したことなかったけれど。呟くと、まあたぶん無意識だからいいんでしょうねえ、と彼女ものんびり相槌をうつ。

「だって眉目秀麗、文武両道、おまけに帰国子女とか完璧じゃないですか。それに会長って絵もお上手でしょう。文化祭のポスターとかよく描いてらしてる」

「僕のは下手の横好きだから。父さんの方が僕の倍はうまいよ」

 そうなんですか、と彼女が首を傾げる。

「会長のお父さまって時々話に出てきますけど、全然想像できないんですよねえ。完璧超人って感じ。ああでも、そこから会長が生まれたと思えば納得?」

「実際は完璧でもなんでもない、誰よりも人間らしい人だけどね。怒るとこわいし」

「こわいんですか」

「すごいこわい」

 うーん、と彼女が天井を睨む。

「まったく想像できない」

「世の中にはいろいろな憶測が飛び交ってるみたいだけど」

 意地悪く言ってみると、「確かにありますね」と彼女はあっさり肯定した。「でも私は会長のお話からお父さまの姿を想像する方が、ずっと楽しいですけれどね」

 長いお話がようやく終わると、校長先生は仰々しく舞台から降りて行く。

 起立、一礼、着席。

「生徒会会長より挨拶」

 立ち上がると同時に、新入生一同も再び一斉に立ち上がった。教員から来賓、カメラの向こうのお茶の間の分まで視線が集まり、私の一挙一動を注目している。さっきまで小声でおしゃべりしていた彼女も何事もなかったようにすまして背筋を正しているが、壇上に上がる前に、「がんばってください」と目配せしたのには気がついていた。

 登壇すると、私は眼鏡のレンズを通して、一斉に着席する眼下の新一年生たちを見渡した。

 つい数日前まで中学校に通っていた彼らの体躯はアンバランスであり、その表情にはあどけなさが残っている。彼らの瞳にはこれからの三年間への夢と希望がぎゅうぎゅうに詰まっていて、キラキラと眩く輝いていた。

 きっとこの中の半数は、卒業までに夢に破れることになる。偉大なる功労者たちのおかげで以前ほどではないとはいえ、腐った芸能界の闇を知っていく。今日、この晴れの日と同じ表情をずっと保ち続けることができるのは、この中にはたして何人いるのだろうか。

 私は制服のジャケットから原稿を取り出して広げると、少し考えてから顔を上げた。

 私から、彼らに贈る言葉は決まっていた。その前に息を吸い込んで、お決まりのご挨拶から始める。

「新入生のみなさん、夢ノ咲学院へようこそ」


     ○


 講堂の入り口からぞろぞろと出てくる新入生の波を避けるように、こっそり裏口から出た私は、更に報道記者たちに見つからないよう細心の注意を払いながらガーデンスペースへと向かった。見慣れた後ろ姿に近づくと、私に気付いた敬人は開口一番に「いい挨拶だった」と背中を叩いて労った。

「貴様は俺たちの誇りだ」

「卒業式でもないのに大袈裟だなあ」

 必要以上に褒められてこそばゆい気持ちになり、私は肩を竦めた。

 私たちは道すがら、しばらく二人でゆっくりとガーデンスペースを歩いた。ここを歩く度に、私は何度も自分の知らないその時代に思いを馳せてみていた。今はもう存在しない紅茶部が、かつてここでお茶会を開いていたのだという。

 アイドル、プロデュース科の共学化に伴い、夢ノ咲学院の内部だけでなく外側も大きく変わることとなった。昔ながらの講堂や弓道場などはそのままの形で残されているが、その周囲にはライブハウスや練習場が新しく建てられ、本校舎もまた増築や補修が繰り返されている。人だけでなく、土地もまた移り変わっていく。

「あの人は元気? 最近テレビで見ないけど」

「まあまあ元気に病人をしている。たまには会いに来て安心させろ」

「勘当されてしまった身だからそれは難しいな」

「あいつは昔からケンカをするのが下手なんだ」

「大丈夫、わかっているよ」

「今日も意地を張って来なかったが、どうせどっかで見てるんだろう。そういう奴だ」

 私が最後に英智とまともに会話をしたのは、三年ほど前である。

「君は確かに器用だ」

 進路について病床の父に報告しに行った際、それまで静かに聞いていた彼は徐に立ち上がり、病室の窓を開け放ちながらそんなことを言った。冷たい北風が病室を通りぬけて行く。窓の下を覗きこむと、古くなった鳥の巣の残骸が転がっていた。

「幼い頃からそうだった。同世代の誰よりももの覚えがよく、誰よりも賢かった。君ならアイドルだってソツなくこなせるだろう。だが君のは結局猿真似に過ぎない。いつまでもそれが通用するほど、この世界は甘くはないよ。それでも進むというのなら、僕は君と親子の縁を切らざるを得ない」

 語りながら、英智は終始、ひどく静かな微笑みを浮かべていた。

 音のない雪国のような静けさを湛えた彼の顔を見れば、その胸の内が怒りに震えているのは明らかであった。

「英智は、貴様に絵描きにでもなってもらいたかったんだ」と敬人は言った。知ってるよ、と私は答えた。幼い日、彼の涙を見たときから、当に知っていた。

「だが、貴様は俺じゃない。もちろん英智でもない」

 そうだね、と更に私は答える。

「貴様の人生だ。好きに生きろ」自嘲的に敬人は笑った。「苦労をかけた俺たちが言えることではないがな」

 隣を歩く敬人に目を配りながら、この背丈に追いついたのはいつだったろうかと私は考えた。以前より少しだけ短く切り揃えられた髪は、今の彼によく似合っていた。細くしなやかな一本の幹のように凜と伸びた背筋は、依然として昔のままである。

 思えば二人を通して私が出会ってきた人たちは皆、一様に美しかった。華やかな舞台に立つ彼らは舞台を降りてもなお一生懸命に生き、己が人生に誇りを持っていた。

 私はただ、彼らのようになりたかった。

「僕のことを、親のことを好き勝手に言う輩はたくさんいたよ」視線を正面に戻しながら、私は言った。「僕を厄介払いしたんだと酷いことを言う奴もいた。確かに、寂しい時がなかったかと言えば嘘になる」

 そしてこの不器用な父が、それをずっと気に病んでいることもまた、私は知っている。

「それでも英智が、敬人たちがくれた熱が、ずっと僕の中に灯り続けていたから、僕は大丈夫だった」

 私は、このひどく不器用な人たちを世界中の誰よりも敬愛していた。私にとって、彼らの息子であることは何よりも誇りであった。同時に、彼らもまた私を愛してくれていることも重々承知している。それは成長した今でも変わらないことである。

 ちらりと窺った敬人の横顔からは、うまく表情を読み取ることができない。彼らしくもなく黙っていたが、ようやく「そうか」と一言絞り出すようにして言った。

「心労で老けこまれるのは勘弁してほしいからね」調子を変えて言うと、「やかましい」と敬人は私の頭をぐしゃぐしゃとかき撫でた。「そういうところばかり、本当に英智によく似ている」

 大いに乱された髪型を直してから眼鏡をかけ直すと、ふと雲の無い青い空に何か黒いものが横切ったのが目に入った。

「あ、燕」

「燕?」

 校舎のどこかに、新しい巣でも作ったのだろう。私たち親子はしばらくの間、雛鳥に餌を与えるべく青空を行き来する燕を眺めていた。

 そのうち敬人が破顔すると、私に向き合い肩を叩いた。

「いつでもケンカをふっかけに来い」

「親子ケンカをけしかけてもいいの」

 苦笑しながら尋ねると、当たり前だと敬人はあっさり頷いた。

「ケンカというのは、仲直りをするためにするんだ」


     ○


 生徒会室に戻ってくると、扉の前では顧問である椚先生がお小言を言いたくてたまらない様子で立ちふさぐようにして立っていた。どうやってやり過ごそうか考えているうちに、彼は私の顔を見つけるや否や、一寸の逃げる隙も与えずに、早足で廊下の壁へと追いつめた。

「ばれてたんですか」

「教員席からだとよく見えるんです」眼鏡の奥の目をきつく吊り上げている。「生徒会長ともあろう者が式典では私語とは。まったく、お父上が悲しみますよ」

「別に悲しんでなかったですよ」

 椚先生がじろりと睨んだ。しかし彼は溜息をつくとそれ以上は追求せずに、「客人が待っていますよ」と扉の向こうを指し、また足早に去っていった。

 お小言が短かったのは若干拍子抜けであったが、申し訳ないことに客人の存在をすっかり失念していたことを思い出させてくれた。

 慣れない制服に袖を通し、豪勢な革張りのソファに一人で座らされている心細げな後ろ姿は、ぼんやりと壁沿いのガラス戸の棚を眺めていた。歴代の生徒会長のコレクションが陳列されてきたその棚には、今でも一部、忘れ物が残っていたりする。

「君が転校生だね」

 声をかけると、それまでぼんやりと、しかし熱心に棚の中を覗きこんでいた転校生は、驚いたように振り向き、それから気付いたように慌てて立ち上がった。

「挨拶が遅れてすまない。今日は新入生の卒業式に出ていたんだ。来たばかりで変な話だけれど、君の後輩にあたる子たちだよ。みんな初々しい子たちばかりだったから可愛がってあげてほしい」

 頷くのを確認してから、私がにっこり笑って握手を求めると、転校生はおずおずと微笑み返しながら差し出した手に応えた。

「改めまして、僕が現夢ノ咲学院の生徒会長だ」

 そのとき、開け放たれていた窓から、ふわりと風が通った。春の風だった。どこかから、鳥の囀りが聞こえてくる。

「僕のことを『皇帝』なんて大層な肩書で呼ぶ人もいるけれど、どうか気にせずに仲良くしてほしいな」

Comments


bottom of page