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ナンバーコール



「いやだよ、そんな名前」

 病室のベッドの上で、読み上げられる候補の羅列に英智は静かに首を横に振った。

「僕だったらそんな名前つけられた暁には、この世に絶望してその日のうちに命を絶つ」

「何もそこまで言わなくたっていいだろう」

 敬人が眉間に皺を寄せながら手帳を閉じた。

「じゃあ、貴様ならなんとつける」

 言い返すと、僕だったらそうだなあと、英智はのんびりと病室の窓から外の世界を眺めた。晴れやかな青い空に浮かぶぽかぽかした太陽が病院の中庭を照らし、青々とした葉を茂らす草木がすっきりした風にそよいでいた。

 ひとつ、気に入った音がよぎって、それを声に出してみた。

 敬人が手帳を取り出してそれを書き留めるのを見て漢字と、こめた意味も教える。手帳に書かれた名前を眺めながら、敬人が首を傾げた。

「少し壮大すぎないか?」

「いいんだよ、君と僕の子なんだから」

 生まれる前から親バカだなと敬人が笑うと、英智がきょとんと見返す。

 そして彼が生まれてくる日を、考えた。

 きっと彼の生まれる日は、春の日差しが雪解けを促すようなあたたかい日だ。すっきりとした気持ちのいい風が窓から入ってくる昼下がりに、彼の産声が響きわたるのだ。

 真っ白い清潔な毛布に包まれた彼を手渡される敬人は、おそるおそるその腕に抱いて真っ赤な小さな顔を覗きこむだろう。敬人はいつもの仏頂面を情けないくらいに歪めて、今にも泣き出しそうな顔で、笑うに違いない。

 その顔を見て、きっと心底ホッとするだろう。痛くて苦しくて怖くて、今にも死にそうだけれど、その顔を見ただけできっと、ああ、悪くない、と思うのだ。

 敬人ははじめて空気を吸った彼に、なんて声かけるだろうか。

 彼は名前を呼んだら、どんな顔をして、笑ってくれるだろうか。

 彼の笑い声は、どんなだろう。


     ○


「今日は何を描いてるのかな」

 ローテーブルに向かって熱心にお絵かきをしている彼に、それまで作業していた手をとめて英智が尋ねると、「これはね、予定表」と彼はクレヨンをぐりぐり動かしながら説明した。「年長さんになったら忙しくなるから、予定をたてる練習をしておきなさいって敬人が言ってたからね」

 これで仕上げとばかりにクレヨンを勢いよくスケッチブックから離すと、彼はスケッチブックの両端を摘んで持ち上げると、満足そうに眺めた。「うん、いいデキだ」

「会心の出来かな」

「そう、これはカイシンのデキ」

 彼は英智の横に座ると、見やすいようにとスケッチブックを傾けた。手描きのカレンダーには、カラフルで楽しげな予定がぎっしりと書かれていた。

「この日はね、遠足の日で、この日はおじいちゃんと水族館行く日。で、この日は英智と遊ぶ日」一つ一つ指差して教えてくれる。

「その日はちょっと難しいなあ」と英智が困ったように笑う。

「じゃあ、別の日にするね」

 彼は予定表を直しに戻りかけて、振り返った。「英智どっか行くの?」

 英智は機内サイズの小さなスーツケースを開いて、中に着替えを詰めているところだった。

「あれ、言ってなかったかな」と英智はのんびりシャツを掴むと、畳んで詰めながら言った。「僕、明後日から一年かけた世界ツアーがはじまるんだ」

 英智の言葉に、彼はきょとんとしている。「それなに?」

「世界中旅をしながら、コンサートをするみたいなことだよ」

「英智だけ?」

「君も連れて行きたいところだけれど、君は幼稚園があるし、それに日本で敬人がひとりぼっちになっちゃうからね」

 彼の瞳が不安そうに揺れるのを見て、英智は言い聞かせるように彼の頭を撫でた。

「大丈夫、ずっと行きっぱなしってわけじゃないから。一ヶ月後には一度帰ってくるよ」

「一ヶ月ってどれくらいだっけ」

「だいたい三十日だから、三十回寝たらすぐだよ」

 彼は自分の両の手を見つめた。「手じゃ数えられない……」

「たくさんおみやげ買ってくるからね。何がいいかな」

 最後に常備薬を入れてスーツケースを閉じると、その上から行かせまいとするように、彼がスーツケースに覆い被さるようにして倒れ込んできた。

「やだ」と彼は自分と同じくらいの大きさのスーツケースにしがみつきながら喉の奥を震わせた。「おみやげいらない」

 眉を下げながら英智が彼を見つめる。

「入院していた頃、二週間ぐらい会わないときもあっただろう。それよりちょっとだけ長くなるだけだよ。あっという間だから」

「やだよ」と彼はもう一度言った。

「行かないで、英智」


     ○


「だいたいの経緯はわかった」

 帰ってくるなり涙ながらに彼に訴えられた敬人はため息をついた。

 ひとしきり敬人にひっついて駄々をこねた彼は、さすがに泣き疲れたのか、抱いて背中をさすっているうちにうとうととし始め、今はソファで丸まって眠ってしまっている。

 しかし問題はまた別にもある。

「で、どうして貴様まで拗ねているんだ」

 電気も点いていない寝室を覗くと、ベッドの上で簀巻きのように毛布にぐるぐる巻きになっている英智がいた。

「もう知らない」と簀巻き芋虫はくぐもった声で言った。「あんなに頑固だとは思わなかった」

「貴様の子だからな」

「それは僕にだけ原因があるように聞こえる」

「そういうことを言ってるんじゃない」

「そもそも君が説明する約束だったんじゃないか」

「すっかり忘れてたんだ。だがそれくらいのことを子供を言い聞かせられなくてどうする」

「それくらいのことってなんだよ」と苛々とした声が喚いた。「バカ敬人、嘘つき、クソメガネ」

「いい加減大人になれ」宥めるような声で言うと、「うるさいうるさい」と英智の入った毛布の芋虫がうごうご動いた。「離婚だ離婚」

「なんでそうなる」

「さようなら敬人。この先僕たちは別々の道を歩み、二度と人生が交じりあうことはないだろう」

「もう知るか。勝手にしろ」

 わけのわからないことばかり言う芋虫なんぞ構ってられないと、そのまま暗い部屋に放っておくことにして、敬人は眠っている彼を抱き上げて家を出た。

 彼を車に乗せて走り出したはいいが、勿論とくに行く当てもなかった。なんとなく国道を流していると、途中後部座席の彼が目を覚ましたので腹が減っているかと尋ねた。ぼんやりした彼が小さく頷くのを確認すると、そのまま国道沿いのファミレスに入ることにした。

 夕飯時から経っているのもあって、ファミレスの中は客の入りがまばらであった。四人席に通されると、彼は目をこすりながら「英智は?」と尋ねた。「敬人、英智とケンカしたの?」

 そうだと空返事しながら、運ばれてきたお冷を受け取った。案内したウエイトレスは先ほどからちらちらとこちらの顔を伺っていたが、気に止めずにいるとそのまま何も言わずに立ち去った。

 さっきまで泣いて眠ってと忙しかった彼はしばらくぼんやりしていたが、冷たいお冷やをすするととつとつと話始めた。

「ほんとに英智いなくなっちゃうの?」

「それがあいつの仕事だからな」と敬人は答えた。「英智とは夏休みの間たくさん遊んだろう」

「でも、もっと遊びたかったな」と彼は呟いた。「英智はお仕事好きなの知ってるからね、ちゃんと我慢してたよ。それくらいなら我慢できるんだよ。僕、ちゃんとわかってるんだよ」

 敬人は彼の前にカラフルなメニュー表を広げた。「今日は特別だから何を頼んでもいいぞ」

「ほんとになんでも食べていいの? ほんとに?」

「ああ、これでもいいぞ。肉と芋しかない。身体に悪そうだ」

「でも英智、お腹空いてると思うよ」と彼が俯きがちに呟いた。「料理つくるの上手じゃないもん……」

「大丈夫だ、金があるからあいつはなんでも買える。それに米も炊いてあるし、冷蔵庫には朝食の残りも入っているから、温めればすぐ食べられるしな」最後の方は、半ば言い聞かせるようである。しかし彼は「英智、電子レンジ使えるのかな……」とさらに心配そうにした。

 彼の前にお子さまハンバーグプレートとオレンジジュースが運ばれると、「敬人は食べないの?」とほかほかしているハンバーグにフォークを刺しながら彼が尋ねた。敬人の前には薄味のドリップコーヒー一杯だけである。

「俺はそんなに減っていないからいい」

 言いながら彼の皿からポテトを一つつまんで頂戴した。久々に食べたポテトはやけに塩辛く感じる。


     ○


 二人とも我が強いから、小さい頃からこの程度の口論は日常的に繰り返されていた。高校生の頃には、はじめてちゃんとした喧嘩をした。それ以後は必要とあらば意見の対立を気が済むまで行ってきた。ねじ伏せ、ねじ伏せられ、全身で英智を受け止めてきた。だから、こんなのは喧嘩のうちには入らないのだ。

 駐車場に車を停めたたまま、敬人は後部座席を振り返った。お腹が膨れた彼は車に戻ると、チャイルドシートの上でまたすぐに小さな寝息を立て始めていた。彼の寝顔を眺めていると、出会った頃の英智を思い出した。あのときのなんでも与えられてきた英智は、本当に欲しかったものは何一つ持っていなかった。目の前ですやすや寝息を立てている彼よりもずっと我が儘で傲慢で癇癪持ちで、そして臆病だった。死ぬのが怖いと言った、臆病な小さな神様の大きな青い瞳を、今でもはっきりと覚えている。

 顔を埋めるようにハンドルを抱えて寄りかかった。

 無性に、英智に会いたかった。

 できるだけ静かに車を動かすと、敬人は来た道を戻り、実家へ向かった。眠っている彼を起こさないように抱き上げて車から降ろすと、すでに寝る準備をはじめていた両親を起こして無理に預かってもらう。

 それからやっと一人で家に戻ると、毛布の芋虫は数時間前とまったく同じ形でベッドの上に横たわっていた。敬人は芋虫の傍らに腰掛けると、「さっきは言い過ぎた」と謝った。「ちゃんとおまえの話を聞いてやらなかったのも謝る。すまなかった」

 芋虫の反応はない。知らんぷりを決めこんでいるのか、ふて寝してしまっているのかはわからないが、なんとなく前者のような気がした。

「せめて顔だけでも見せてくれ。さすがに不安になる」

 よっぽど情けない声色でもしていたのか、ようやく芋虫はもぞもぞと起きあがると、ベッドの上で敬人と向かいあって座るような形になった。頭まで覆っていた毛布が肩までずり落ちると、目尻と鼻の先がちょっとだけ赤くなってる英智が顔を出した。今朝会ったはずなのにもう長いこと会っていなかったような気がして、もう一度出会えたことに心底安堵したのと同時に、どうしてだか間に合って良かったと感じた。

 英智が気まずそうに敬人を見返した。

「だって君がもうとっくに彼に説明してると思ったから、僕びっくりしちゃったんだよ」

「悲しがるのがわかっていたから、なかなか言い出せなかったんだ。それは俺の落ち度だ。悪かった」

 面と向かって頭を下げると、英智は見おろした先の敬人の旋毛を人差し指でつつくようにさすった。「いいよ、許してあげる」

 それから敬人の方に倒れ込むようにして身体を預けたので、敬人は受け止めるようにもこもことした毛布ごとその身体を抱きしめた。ふわっとした髪が頬に当たって少しくすぐったい。

「でも頼むから簡単に別れるとか言わないでくれ」

「敬人は僕のこと大好きだものね」

「まったくその通りだからもう勘弁してほしい」

「素直な君は少し気持ち悪いな」

「素直ついでに言わせてもらえば、貴様はケンカをするのが下手すぎる」

「しょうがないよ。桃李より小さい子に接したことなんてないし、どうやって怒ったらいいかわからないんだ」

「それで芋虫なのか」

「僕なりの精一杯の譲歩だよ」

 そう言うと少し距離を取るように小さく身じろぎしたので、敬人はそれまで抱きしめていた腕を身体から離した。英智は肩にかけていた毛布をマントのように広げると、自身と敬人を一緒に包むようにかけなおした。毛布を介さない英智の身体はあたたかく、彼を象るすべてが一層に細く思えた。繋がった箇所から伝わってくる英智を動かす小鳥のような心臓の鼓動が、何よりも愛おしかった。

「子供想いの優しい母親や父親であれば、きっとここで行くのをやめるんだろうな」英智は顔を伏せた。「僕はなれそうもない」

「そんなものにならなくていい」

 額をこすり合わせながら断言すると、上目遣いで窺う英智の青い瞳が不思議そうに揺らいだ。

「天祥院英智は、天祥院英智の好きなように生きればいいんだ」

「君は鬼だな」

 やっと英智が笑ったので、少し赤くなっている鼻にキスをした。そこへ「グウ」とどちらの音ともわからない腹の虫が鳴ったので、二人して思わず顔を見合わせる。夕飯にしようと英智の手を引いて立ち上がった。

「あの子はどこ」居間に入るなり英智が彼を探した。

「実家に頼んできた」

「また君の家に迷惑をかけてしまったな」

「心配するな、貴様の家からそれだけの施しは受けてたんだ」

「僕、ついにあの子に嫌われたかな」

「あいつは貴様に似て賢いから、わかってくれる」

「君に似て優しくて芯が強いしね」スンと鼻をすすった。「そうだといいな」

 飯をよそっていると、突然インターホンが鳴った。夜分遅くに誰かとモニターの前で敬人が訝しんでいると、思い出したように英智が声をあげた。

「家財道具の引き取りを業者に頼んでたの忘れてた」

「なんでいつも貴様はそう極端なんだ」


     ○


 それは遡ること数年前、彼がまだあたたかい大海原にたゆたっていた頃のことである。

 病室に遠慮がちなノックが響き、その音に入るよう促すと、一人の女性が大きなトートバッグを手に、やはり遠慮がちに扉を開けた。

「高校生の頃ならまだしも、今や敏腕プロデューサーの君にこんなことを頼んでしまって申し訳ない」

 彼女は首を小さく横に振ってから微笑んだ。打ち合わせのついでですから。その顔はまだ幼さが残っているものの、こつこつと積んだ経験と実績から嫌みなところのない自信が溢れており、ステキな大人の女性へと変わり始めていた。しかしこういったすぐに人の世話を焼いてしまうところは、学生の頃から何一つ変わっていない。

「家に着替えを取りに行きたかったんだけど、家の者たちはみんなバタバタしていてどうにも頼みづらくて。ほら、何せ僕が今こんな調子だからね。本当にありがとう、頼まれてくれて」

 英智は彼女からトートバックを受け取ると、中身を覗いて、それから小さく吹き出した。

「ああ、そうだ。これも頼んでいたんだった」

 バッグからインコのぬいぐるみを取り出すと、彼女に見せるようにして持ち上げてみせた。「不細工なぬいぐるみだろう? 宝物なんだ」

 目を細めながら英智はぬいぐるみを何度か撫でていたが、ふと顔をあげると「ところでどうだろう、もう少しだけ君には時間があるかな」と彼女に問いかけた。

 彼女は不思議そうに見返していたが、すぐに頷いた。

 少しだけでいいんだ、と英智は申し訳なさそうに言った。どうか僕の退屈凌ぎに付き合ってほしい。病院というところはどうしたって退屈な場所なんだ。

 言ってください、なんでも。

 彼女は椅子に腰掛け直すと、英智を促した。

「僕が生まれた日はね、その年で一番酷い天気だったそうなんだ」

 予定日よりもずいぶん早く生まれた英智は体重が他の赤ん坊の半分もない低出生体重児であった。同時に今まで英智を生かしていたはずのへその緒が首に絡まってしまい、生まれた瞬間に彼を殺しかけたという。病院の外は真っ黒な雨雲が厚く立ちこめていて、バケツをひっくり返したような雨がアスファルトを叩き続け、風が病院の窓をガタガタと揺らしていた。

「まるで世界が僕の誕生を憂いているかのように思われたそうだよ」

 歌うように軽やかな調子で、英智はそんなことを言った。

「それからどうやって生きてきたかはご覧の通りだ。不思議だね、こんなに世界に拒絶されてるのに、未だに僕はこんな生にしがみついている」

 生きるのに許可はいりませんよ、と彼女は静かに言った。みんな誰かを許して、許されて、ときには許さなかったり、一生懸命生きている。

 彼女の言葉に英智はにこりと笑った。耳にかかっていた髪がはらりと落ちる。日の光を浴びた碧眼が何かを試すように光った気がした。

「君は僕たちのことを無謀だと思うかい」

 いいえ。

「本当のところを教えてほしい」

 まあ、少しは。

「バカなことをしていると」

 とても、考え抜かれたことだと思っています。

「敬人もはじめ反対したよ。当たり前だ。常人の体力ならともかく、僕ならただの自殺行為としか思えない。散々長々と説かれたよ。口論も繰り返した」

 それでもわかってくれたんですね。

「わかってくれた。わかったように、無理して自分を偽っているだけかもしれないけれど。あいつは結局甘いんだ」

 大事にされている。

「ああ、大事にされている。さすがにそれを否定はしない」そう言って英智は笑った。「結局のところ敬人が一番恐れているのは、子供が僕を殺し、僕が子供を殺すことなんだ」

 彼女は英智の顔を見つめ、その先の言葉を待った。

「僕は怖いんだ」と英智は目を伏せた。

「僕は昔からとても、とても臆病なんだ。それはこうした大人になった今でも変わらない。そう、すべてを望んだのは僕だけれど、僕は彼に会うのが怖い。それが自分を媒体にしているというのだから尚更だ。今だって恐ろしくて、本当は逃げ出したくてたまらない。僕が幾度となく恐怖に震えて真夜中に目を覚ますのを、敬人は知らないだろうね」

 言わないんですか、敬人さんにそのことを。彼女は尋ねた。

「それだけはこの命を投げ出したって言わないよ」

 どうして。

「君だったら、言うかな。毎日途方もない時間をこのベッドの上で、これから生まれてくる僕にソックリの見た目の彼が、僕に似て寿命何ヶ月だなんて医師に診断されて、僕みたいに自暴自棄になって。そして結局、僕は、僕がしてきたように、彼に殺される。そんなことを考えていることを」

 そこまで思っているのになんで。

「理由は一つに、僕がいなくなったあとの世界に何かを残したかった、というのがある。僕の忘れ形見というわけだ。これはまた敬人を縛っていることになるかな」

 縛られてるなんて言いませんよ。

「確かに、言わないだろうね」

 顔をあげると、彼女はひどく身体を強ばらせて、英智の碧眼をじいっと見つめていた。

 死ぬつもり、なんですか。彼女は言った。

「そんな顔をしないでほしい」

 困ったように笑うと、身体から力が抜けていくのを感じて、彼女と同じように自分もまた緊張していたことに気がついた。

 たとえすべてがうまくいっても、彼とこれからどれだけの時間を一緒に過ごせるかわからない。きっと僕はいい父親にはなれないだろうから。でもね、彼には敬人がいるから大丈夫だよ。敬人は、彼のことを愛してくれる。

 彼女はしばらく顔を伏せて逡巡していたが、やがて口元に笑みをつくると、たぶんですけど、と話始めた。きっとこれから英智さんによく似たかわいい赤ちゃんがくるんですよ。その子は敬人さんに似て、とても絵が上手かもしれません。お二人のことが大好きで、いつも一緒にいられることを願っている。

「そうだったら、きっとかわいいな」と英智は顔を綻ばせた。「でも、ただずっと一緒にいて可愛がればいいわけじゃない。どう接したらいいのかわからないよ」

 お話、してあげてください。

 できるだけたくさん、一緒にいられないときも寂しくないように。

「何を話せばいいのかな」

 なんだっていいんです。子供の頃のことでも、高校生の頃のことでも、今のことでも。これからのことでも、なんだって。

「それなら、いつも一緒にいられない僕らの代わりに、このおしゃべりなインコが彼の話相手になってくれるというのはどうだろう」

 録音機を入れて、そこにたくさん声を吹き込もう。敬人の話を、僕と敬人の話を、彼がうんざりしてイヤになるくらいにたくさん聞かせよう。そうしてたくさんの言葉を覚えたら、今度は僕に、自分の話もたくさんしてほしい。

 彼女はその考えににっこり笑うと、裁縫道具とか買ってきます、と慌ただしく病室を出ていった。

 その後ろ姿を見送ると、英智は手に持っていたぬいぐるみを改めて見つめた。縫合の問題かインコの視線は定まっていないように見えて「やっぱり変な顔だなあ」と呟いて笑った。ひとしきり笑うと、倒れ込むように膝の上のぬいぐるみに顔を埋めた。慈しむように、祈るように、ぬいぐるみを抱きしめた。

 ああ。これから出会う、あったかもしれない人生を生きることになる、もう一人の僕たち。

「早く君に会いたいな」


     ○


 「fine」の世界ツアーコンサートは東京から始まり、その後欧州やアジアの各都市をゆっくり一年間かけて回る予定である。その東京公演初日は快晴に恵まれ、会場である屋外スタジアムの上空は雲一つない澄んだ青空が広がることとなった。

 敬人は彼を連れて関係者席へ足を運んでいた。家のテレビで昔のコンサート映像や出演している番組を散々見てはいたが、アイドルとしての天祥院英智の姿を、彼がその目で直に見るのはその日が初めてのことだった。旅立つ前に、どうしても英智の生きる世界を彼に見せておきたかった。

 しかしあの日から彼はむっすりと元気がない。話しかければぽつぽつと答えが返ってはくるものの、ずっと部屋の中でひとりぼっちでお絵かきしていることが多かった。それは道中の車内でも同じで、彼は終始だんまりのままずっと窓の外の景色を眺めていた。いつもより気が弱くなっているのか、席についても彼は敬人から少しでも離れるのを嫌がってぐずり、結局は膝の上で抱っこする形のまま舞台を見ることとなった。

 次第に埋まる関係者席では知り合いの顔がぽつぽつと見え、中には「リトル天祥院が大きくなっている」と笑いながら、ぐずっている彼の頭を撫でていく者もいた。

 おーいリトル天祥院、起きないともうすぐコンサートはじまっちゃうぞ。

 こら小さい子をあんまりいじめるんじゃない。

 なんだよジュニア、今日はご機嫌斜めか。

 はは、副会長、やっぱパパっぷりが様になってるっすね。

 ていうかグッズ超高くない? あんなバカ高いチケットで回収できないなんてどんだけ演出に金かけてんの。

 あら、ブランド力も大事よ。でもまあ、確かにこれは高すぎかしら。

 これだと新規ファンの獲得は難航するだろうな!

 ちょっと見辛いですけど、安い席も用意してくれてるから僕みたいにお金ない子は助かってると思います。

 でもこっちのファンの女の子はやっぱお嬢様系が多いよねえ。まあうちのファンの子が一番なんだけど。

 いやあ、あの変態仮面の仮面型ペンライト買ってくれるんだから優しいファンですよね。あ、ファンも変態なのかな……。

 やっぱり斎宮たちは来ねえってよ、まああいつのことだからどっかで見てるかもしれねえが。

 それにしても三時間も英智君、身体の方は大丈夫なんですかねえ。

「さあ、かつての皇帝陛下の凱旋公演を見せてもらおうか」と誰かが言った。

 英智の揃った四人でのコンサートライブは極めて希少であるため、チケット代は同期のユニットのものより高額であるのは有名だ。しかしその価値に見合った派手で豪華な演出の数々は圧巻の限りであり、普段スポーツ観戦の熱気で溢れている大きなスタジアムでさえも一瞬でカラフルな夢の国へと変えてしまう。次はどんな夢を見せてくれるのかと、観客の胸は常に期待で大きく高鳴ることとなるのだ。

 三時間に及ぶコンサートは念入りに計算されたスケジュールから大きく逸れることなく、滞りなく進んでいった。晴れ渡っていた青空は次第に滲んでいき、あっという間に瞬く星空の下でサイリウムの海がチカチカと輝き始めるようになった。

 アンコールの曲さえも終わると、舞台の両端から巨大なパーティーのクラッカーのように勢いよく銀テープが吐き出され、上空から客席へ天使の羽根のように舞い落ちていく。ライトに照らされ夜空に輝く花火と、終わりのない割れんばかりの拍手と歓声が、会場を包みこんだ。

 会場を一周するゴンドラから降りると、英智が客席に手を振った。舞台を照らすライトの元で前髪が額に張り付くほど汗をびっしょりかいている英智は、きっと今にも倒れそうに違いなく、そしてそんな様子は充実感に満たされた笑顔の奥にしまってあって客席から知ることはできない。

 英智は両腕を広げ、歓声を、音楽を、その一身に受けていた。

「愛しているよ」

 夜空を見上げる英智は目を閉じると、唇でその言葉を象った。

 敬人は膝の上の幼い彼の様子をこっそりと窺った。いつの間にか彼は敬人の胸に顔を押しつけるのをやめて、瞬きするのを惜しむほどに、舞台を、英智の姿を脳裏に焼き付けようとするように一心不乱に見つめていた。

 幼い彼がそのとき、何を思ったのかは知ることはできない。しかし彼の幼い眼差しが捉えたその日、星空が会場に落ちてきたその一夜、英智は純粋に世界を愛し、確かに世界に愛されていた。

 その瞬間だけは、世界が英智の生を心から祝福していた。

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