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コタツと猫とみかんと





 農学部の旧研究棟は今はほとんど物置として使われており、用が無ければたいていの教員や学生は近寄ろうとすらしない。そのうちの二階の一室は大昔に学生が亡くなったという怪談が長い年月まことしやかに囁かれているが、本当のところは誰もわからない。わかっているのはその怪談をいいことに、現在は引きこもりの大学院生が自室同然に使っているということだ。

 しつこい夏が終わり、ようやく肌寒さを感じるようになった秋の日、ファウストは教室の暖房をつけようとクーラーのリモコンをいじって首をひねった。いくら操作しても吹き出し口から出るのは冷気だけで、一向に暖かい風が出てこないのである。

「ついに壊れたか……」

 いつかこんな日が来るだろうとは思っていたが、いざその日が来ると困ってしまった。ほとんど使っておらず、取り壊しの話も出ているくらいの建物だ。修理してもらえるとは思えない。ほかの教室のクーラーが壊れていないならそちらに引っ越そうかとちらと考えたが、すでに私物に溢れたこの教室から引っ越すのは考えただけで億劫だった。

「仕方がない、ヒーターでも用意するか」

 そんなことを考えていると、いつの間にか廊下がどうも騒々しい。ガタガタと壁に何かがぶつかるような音と、学生の言い争うような声がだんだんと近づいてきて、部屋の前で止まった。思わず耳を澄ます。打って変わってシンと静まり返ると、控えめなノックが室内に響いた。

 立ち退きか、とファウストの頭によぎる。すでに何度も経験してきたが、立ち退きならば一切応じるつもりはない。

 訪問者を完全に無視することに決め込むと、「あれ、留守かな」と扉の向こうから聞き覚えのある声がした。

「ほらシノ、留守みたいだしやっぱり帰ろう」

 声の主は今年入学した工学部の生徒であるヒースクリフと、彼の幼馴染であるシノのようだった。ヒースクリフは学部が違うにも関わらずファウストを先生と呼んで慕っている(ファウストはそう呼ばれるのを好んではいないのだが)、とても素直な子である。

 とはいえ、こちらも暖房が壊れたばかりの取り込み中である。客人をもてなしている場合でも、そんな気分でもない。何か用があって来たのならなおさらだ。申し訳ないけれど、居留守を続行することに決め込んだ。

 鍵が壊れたこの教室は、ファウストが引きこもってからの四年間、彼以外誰も足を踏み入れたことがない、完全な聖域だった。ここへの来訪者はこちらが許さない限り決して扉を開けることはない。それが扉一枚隔てた間で交わされる、暗黙の了解であった。

「邪魔するぞ」

 突如、荒々しく扉が開けられると、ローテーブルを担いだシノがずかずかと教室の中へと入ってくる。

 その瞬間、四年間に及ぶ聖域の歴史はあまりに呆気なく幕を閉じた。

「なんだいるじゃないか」

「シノ、勝手に入るなよ! すみません、ファウスト先生」

 シノの後に続いて慌てて入ってきたヒースクリフは、呆然としているファウストを見ると急いで頭を下げる。彼の両腕には畳まれた布団が抱えられていた。

 シノはぐるりと室内を見渡すと、「もっと陰気くさいと思ったがそうでもないな」と感想を述べて、部屋の隅の方に敷いてあるラグの上にもともと置いてあったローテーブルを退かすと、代わりに運んできたテーブルをどっかりと置いた。

「なんだそれ」

「ファウストもコタツを知らないのか。意外と無知だな」

「それぐらいは知ってる。そんなものをどこから持ってきたと聞いてる」

 シノが担いで持ってきたのは、一人暮らし向けサイズのコタツテーブルであった。綺麗に掃除はされているが、あちこち傷がついていてだいぶ使い古されたもののようだ。脚組の上にヒースクリフが抱えていた布団をかけて、その上にさらにコタツの天板を載せながら、シノはこともなげに答える。

「ごみ捨て場に落ちてたから拾った」

「それは回収してもらうためにごみ捨て場に置いてあるんだ。落ちてるんじゃない」

「ごみだと思ったから捨てたんだろ。いらないなら欲しいやつが持っていても別に構わないはずだ」

 シノは答えながら、電源コードを持って壁沿いをうろうろと彷徨っている。「おいファウスト、コンセントどこだ」

「そういう問題じゃない。それに、なんで当たり前のように僕の部屋に勝手に設置してるんだ」

「逆にこんなの学校のどこに置くんだよ」

 少なくともこの教室ではないはずだ。

「シノ、やっぱり持って帰ろう。先生困ってるだろ」

「ちょっと部屋を借りるだけだ。ファウストも入ったことないならちょうどいいだろ」コンセントを探しながらシノはファウストにちらりと視線をやると説明した。「ヒースはコタツに入ったことないんだ。こいつの家、ほとんど城だからな。坊ちゃんには縁が無いんだ」

「シノはあるのかよ」むっとした顔でヒースクリフが尋ねる。

「オレはある。園長とか用務員の部屋に置いてあったからな」

 シノは施設育ちなのだ。ようやく見つけたコンセントに電源を差し込むと彼は立ち上がる。

「だからオレはほかの奴らよりコタツに詳しい。コタツといえばみかんと猫だ」

 そう言って彼は背負っていた大きなバックパックの外ポケットから小粒のみかんを取り出して、どさどさと積み上げる。「それから猫だ」

 バックパックのジッパーを開けると、茶虎の猫が勢いよくぴょんと顔を出した。猫はこれ幸いとバックパックから大慌てで逃げ出すと、一目散にコタツの中に飛び込んでいく。

「ああ、かわいそうに……」

 コタツ布団をめくって中を覗き込むと、猫は真ん中できゅっと身を固くして丸くなっている。見覚えがある。ファウストが世話をしている構内の野良猫の一匹だ。人懐こく鈍くさいところがあるから、シノにやすやすと捕まってしまったのだろう。

「これで完成だな」

 満足気なのはこの部屋の中でシノ一人だけである。

「本当にすみません、ご迷惑をかけて」

 部屋に入ってきてからというものの、礼儀正しいヒースクリフは恐縮しきりだ。確かに迷惑な話ではあると素直に伝えると、ヒースクリフはさらに身を小さくした。

「別にきみが謝ることじゃない。それにシノも、ただ純粋にきみに何か教えることができるのがうれしいんだろ」

 ファウストは腕を組むと、シノに向かい合う。

「僕は一切もてなさないからな」

「別にいい。ファウストの出す菓子は用務員のじいちゃんの戸棚みたいだからな」

 シノには二度と菓子を出してやらないことに決めた。

 そんな決意も知らず、シノはさっさとコタツに入ると「ちゃんと温かくなってきたな」と顔を綻ばせた。それから未だ突っ立ったままの二人を呼ぶ。

「ほらヒースもファウストもさっさと入れよ。遠慮するな」

 ファウストは溜息をつくとヒースクリフを促して先に入らせ、自分もあとに続く。冷えた身体に熱が巡って、ほう、と息をついた。


     〇


 いつものように旧研究棟のファウストが引きこもっている教室に向かうと、普段は固く閉じられている扉が全開になっていた。

 来る途中に合流したネロと顔を見合わせてから教室の中を覗くと、隅の方でコタツに入りながらみかんを食べていたシノとヒースクリフがこちらを向いた。「なんだレノックスもいるのか」シノが言った。

「定員はあと一人だ。おまえらどっちが入るかじゃんけんしろ」

「いや、そこまでして入りたくないんだけど」

「俺も別に」

 二人に向かって遠慮するなと言うシノは、自身が退く気はさらさらないようだった。レノックスはネロの肩越しに教室の中を見渡す。「ファウスト様は……」

 ざっと室内を見渡しても、それらしき人影はない。するとシノがコタツの奥側を指さした。教室の中に入っていって、覗き込む。

 ファウストはコタツ布団の中で丸まるように眠っていた。

「文句言ってたくせに、コタツに入ったら一瞬で寝たな」

「きっとお疲れなんだよ。忙しいって言ってたし」

 コタツの天板にいつもの眼鏡が置かれているから、おそらくヒースクリフが気を利かせて外してくれたのだろう。人前で常に気を張っている彼がこうも無防備に寝顔を見せているのは珍しかった。

「ネロ、アイスつくってきたか?」思い出したようにシノが尋ねる。そもそもメッセージでネロを呼んだのはシノだそうだ。「コタツといえば猫とみかんとアイスなんだろ」

「アイスなんか凍らせなきゃいけないんだから、そんなにすぐにつくれないっつの。奢ってやるから購買で買ってくれ」

 やった、とシノがガッツポーズを取った。「ヒース、行こうぜ。自分で選びたい」

「ファウスト先生何が好きかな」

「レノックス、留守の間はコタツに入っててもいいぞ」

 シノから許しを得てレノックスは頷いた。三人がばたばたと教室を出ていく後ろ姿を見送ってからファウストに近づくと、しゃがんで声をかけた。

「ファウスト様、起きてください」

 それでもまったく起きる気配がないので、肩に触れて少しだけ揺すってみた。

「コタツで寝ると風邪を引いてしまいますよ」

 ようやく開けられた眼は、しばらくぼんやりと一点を見つめたまま動かずにいた。そのうちレノックスを認めると、今度は身体をねじって視線をさまよわせる。

「二人ならネロと一緒にアイスを買いに行きましたよ」

「ふうん」

 相槌ともつかない声を出すと、もぞもぞと深く布団に潜ろうと丸まる。

「だめですよ、寝ちゃ」

「じゃあ、おまえも入れ」

 何がじゃあなのかまったくわからなかったが、上着の裾をくいくいと掴んでくるので、大人しく靴を脱いでコタツに足を入れる。なおも引っ張るので、こてんと敷物の上に横になった。コタツの中はぬくぬくとしていて、外気に冷えた身体がじんわりとあたたかくなるだけで、少しだけ幸福な気持ちになる。レノックスに向き直るように体勢を変えたファウストの紫眼が改めて見つめられた。はらりとやわらかい前髪が落ちる。

「なかなかいいだろう」

「そうですね」

 寝起きの声は乾燥して少しかさついていた。まだ眠いのかぼんやりとした双眸は今にも再び閉じられそうで、身体があたたまっているからか薄い白い肌はほんのり赤く火照っている。

 じろじろと見てはいけない気がして、内装に視線をやった。教室と呼ぶには異質な空間だ。もちろんかつて教室として使っていたのだから、備え付けの長机が綺麗に並べられ、ガラス戸の戸棚には放置された実験器具が取り残されており、かつての面影は残っている。机の上にはファウストの私物と思われる本が山のように積まれ、部屋の隅にある流し台の横には洗われたマグカップが乾かされている。なぜかその隣の棚にはカセットコンロが置かれ、小さな冷蔵庫や、足の高い革張りのソファまである。数日くらいならなかなか快適に暮らせそうだった。

「この裏のごみ捨て場や雑木林の中は、よく家電や家具が落ちてるんだ」

 悪びれてもいない様子で小さくあくびをしながら、ファウストが言った。

「使えそうなものを少しずつ拾っていったら、いつの間にかこうなった。シノのおかげでさらに快適になったな。これ、シノには言うなよ」

「秘密にしておきます」

 まったくたくましい人だ。

 細い体躯からは想像がつかないほどに、彼の芯は猫のように柔軟で、折れても何度でも根を張れる力強さがあった。一人で生きていけるだけの強さを持った人で、だからこそ傍にいさせてほしいと強く願う。どれだけ一人で立ち直れるとしても、傷つけられれば痛いし、傷は残る。悲しい思いも痛い思いもしてほしくはない。

 そう決意を新たにし、できるだけ考え事に集中させているのにはわけがあった。

 そうでなければ、どうにも先ほどから下腹部のあたりをぐいぐいと押し付けてくるものに意識が向かってしまうのである。

「あのファウスト様、そこに足を当てられるのはちょっと」

 狭いコタツの中なので、どこかしら身体の部位が触れてしまうのは仕方がないにしても。素直に伝えると、ファウストはきょとんと見返した。

「は?」

「え?」

 コタツ布団をめくって中を覗くと、二つの点がきらりと光った。次の瞬間、勢いよくコタツの中から飛び出した塊は、コタツの天板の上に飛び乗るとそのまま開けられていた扉の外へと走り去っていく。

 二人してぽかんと飛び出した猫を目で追っていたが、やがて顔を見合わせた。

 ファウストの口の端が上がる。

「すけべ」

 平謝ることしかできないレノックスをよそに、ファウストは何故だか急に気を良くした様子だった。

 それまでふわふわと夢の世界とを行き来していたのが噓のように機嫌よく起き上がると、体の節々を伸ばしながら「喉が乾いたな」と呟いた。

「何か買ってきましょうか」

「いい。ネロたちにメッセージ送る」

 そう言いながらスマートフォンではなく、コタツの天板に鎮座しているみかんに手を伸ばした。

 レノックスも起き上がるも妙に気まずく、首筋のあたりをぽりぽりと掻く。この空気に気づいていないはずのないファウストは、まったく気にする素振りも見せず澄ました顔でみかんの皮を剥き始めている。

「それにしたって、どう考えても僕があんなことするわけないのにな」

「まったくもってその通りです」

 申し訳ないやら恥ずかしいやらで、レノックスが謝罪を繰り返す。

「まあ、まったくしないというわけでもないけど」

 首筋に触れていた手を離し、ファウストの横顔をまじまじと見つめ返した。相変わらずの澄ました涼しい顔で、白く長い指を器用に使って機械的にみかんの皮を剥いている。

「ファウスト様」

「ん?」

「まだ寝ぼけてますか?」

 んー、と含みを持たせながら、ファウストは剥き終わったみかんから一房を指でつまむと、レノックスの唇にそれを押し当てた。

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