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12.

また春が来て僕らは



 上京したときの荷物は、バックパックが一つと、布団が一式、それから小さなダンボールがたったの数個だけだった。

 先に学生寮に送るのにまとめられた荷物を見て、顔馴染みの宅配業者は驚いた顔をしていた。そうは言うものの、どうせ持って行ったところで小さな学生寮には入りきらない。だから家具はすべて置いていった。結局がらんどうになった生家は、遠く離れた所に住む兄が管理することになったという。

 身の回りのものだけ詰めたバックパックを背負って、バイクに跨った。十九のときに給与を溜めて買った二五〇CCを処分するには忍びなく、持っていくことにしたのだ。

 敷地を出るときに一度だけ生家を振り返った。

 十何年もの間繰り返し通った道はやがて見知らぬ道に変化していき、スマートフォンのナビに沿って港へと向かうと、バイクと共にフェリーに乗りこんだ。十時間以上の船旅を揺れる大部屋で雑魚寝をして過ごすのは決して心地がいいとはいえないが、寝ようと思えばどこででも寝れる性質なのでそれほど苦ではない。それに、狭い車内に閉じ込められる深夜バスに比べればよほど良かった。

 それでも夜中に一度大きく揺れると目が覚めて、甲板へと上がると既に先客がいた。

 この田舎発のフェリーには不似合いな、都会の匂いをさせた男だった。すらりとした肢体は手すりにもたれかかりながら、いなせに煙管を吸っている。

「こんばんは」

 レノックスに気づいた男は声をかけてきた。

「あなたも夜風を浴びに来たのですか」

「まあ、そんなところだ」

 男から少し距離を置いて手すりを掴み、夜の海の向こうを見る。星の光よりも明るい人の灯りが地平線の向こうからぐるりと船を囲んでいた。

「皮肉なものでしょう。海の上でも、今は偽の星空の方が明るいのですよ。本当の星空は変わらずそこにいるのに、霞んで誰の目にも映らない」

「不思議だな」空を見上げながらレノックスは呟いた。「山ではあんなにはっきりと澄んで見えたのに」

「おや、山育ちですか。海ははじめて?」

「山ならよく知っている。海ははじめてというわけじゃないが、でも山と比べると少しこわいな。海に大切なものを落としてしまったら、一生見つからない気がする」

 そう言ってレノックスは男の方へ振り向いた。星灯りの下では男の顔まではよく見えなかった。

「そういうあんたは普段フェリーなんか使わなそうだが」

「ええ。普段は都心で酒場を営んでいます。屋台に使っているリヤカーが壊れたので、新しいものを港の知人から購入した帰りなんですよ」

「そうか。向こうに着いたら一度伺いたいな」

 レノックスが言うと、ふふ、と男は笑った。

「あなたがもし本当に求めたら、そのときは自然とあなたの前に現れることでしょう」

 朝になって港に着くと、車両甲板で昨夜の男に会った。男は車両の助手席から、紙袋に詰め込まれたオレンジを手渡した。

「知人からのいただきものです。カクテルに使おうと思ったのですが、この出会いに感謝して」

「ありがとう。本当にいいのか」

「ええ、くれぐれも海に落とさないように」

 男は妖艶に笑った。

 フェリーを降りると、またバイクに乗った。港からしばらく海沿いを道なりに進んでいく。朝の日の光が水面に反射してひどく眩しかった。高速道路は使わずに、一般道を通って都心部へ向かう。

 途中でガソリンが残り少なくなって、スタンドに立ち寄った。眠そうな店員が一人しかいないレジで料金を払って、ついでにガムと紙の地図を買った。スマートフォンの地図は目的地までの最短の道のりが示されてとても便利だけれど、大きな紙の地図を見てみたくなったのだ。

 広げた地図は両手を広げてやっとの大きさで、端っこに書かれた現在地から見て反対側の端っこに、目的地が書かれていた。目的地までには無数の道が伸びていて、当たり前だけれどそのどれにもスマートフォンの地図のように青いルートは描かれていない。そしてどの道を選んでも、どれだけ遠回りしても、必ず目的地につながっていた。

 海を離れて、景色は次第に青深くなっていった。地元のあたりではまだ冷たかった風も、ここでは肌のあたりもやわらかい。風に乗った桃色の花弁が目の前を横切った。山を上るにつれて目の前を舞う花弁が増え、車道の端に積み上げられている。

 出発したときは一刻も早く目的地へと向かいたかったのに、いつの間にか少し寄り道をしたい気持ちが出てきていた。中腹を過ぎたあたりで木々で遮られていた景観が開けて、レノックスは路肩にバイクを停めた。

 その瞬間、強い風が吹いた。思わず瞑った瞼を開くと、見渡す限りの山の斜面が眼下まで薄紅色に染まり、薄い青色の空に花弁が舞い上がっている。

 その年はじめての桜を見て、レノックスはようやく自分が息ができていることに気がついた。


     〇


「受かったぞ、ファウスト」

 大学内の桜が咲き始め三月も終わりを迎えようとした頃、研究室に入ると客人用のソファに座る見慣れない若い先客たちがファウストを出迎えた。客人は客人と思えぬ態度でソファの上に偉そうにふんぞり返っていて、ファウストの言葉を待っている。

「それはおめでとう」

 褒めろと言わんばかりに胸を張っているシノを、ファウストがとりあえず祝うと、シノはそれで満足したのかにやりと口元を歪めて、応接室のローテーブルに出されたクッキーを一つ摘まんで口に放った。

「ファウスト先生も、院へのご進学おめでとうございます」

 シノの隣に、こちらは対照的にかしこまった様子で座っているヒースクリフが祝辞を述べた。

 ヒースクリフは一体何が気に入ったのか、大学祭での一件からファウストに懐いている様子で、受験の際にメールで相談などを持ちかけるようになっていた。ファウストもファウストで、心配性の受験生の悩みを一蹴することもできず真面目に相談を受けていたため、律儀な彼は今日は報告も兼ねてお礼に来たのだという。

「それならもう知ってると思うけど、僕は先生じゃないよ」

「俺たちずっと先生だと思ってました。だからさっきフィガロ先生に教えてもらってびっくりして」

「そういうことだ。ただの一生徒なんだから、僕なんかに気を遣ったっていいことなんかないよ」

「うーん」相変わらずつっけんどんなファウストの言い回しにヒースクリフは少し困ったように眉を下げた。「でも、俺たちにとってはやっぱり先生って感じなんです。だからこれからも呼ばせてほしいなと思って」

 そう言ってヒースクリフはおずおずとお伺いを立てた。

 無垢な瞳から逃げるように、思わず俯いてしまう。こうやって純粋に慕ってくる相手は今でも苦手だった。無下に追い返そうとする度に、どうしたって罪悪感を持ってしまう。打算を持って近づいてくる人間の方がどんなに楽なことか。

「で、そんなことを言いに大学までわざわざ来たのか」

 はぐらかして尋ねると、気づいていない様子のヒースクリフは「いえ」と答えた。

「今日は学部のオリエンテーションだったんです」

 そういえば春休みに入って閑散としていた大学構内は、ここ数日はいやに賑やかだった。思い出せば今から四年前、自分も四月の入学式の前に何度も大学へ足を運んでいた。

「この大学は工学部にも優秀な教授は多いと聞く。きっときみたちの身になることだろう」

 しかしシノは組んだ足をつまらなそうにぶらぶらさせている。

「教授の挨拶、話が長いだけでつまらなかった」

「授業も始まってないんだからそんなものだろう」

「ファウストが教えろ」

「教えられるわけないだろ、工学なんか」

 呆れるファウストに、シノはなおも食い下がった。

「ファウストの話は興味が無くても面白かった。おまえが工学を勉強してオレたちに教えればいい」

「無茶を言うな」

「教えてあげればいいのに」と通りすがりに無責任に言いのけるフィガロを睨みつける。

「まあいいや」シノは立ち上がると、「そろそろ行こうぜ」と出された紅茶をゆっくり飲んでいたヒースクリフを急かした。

「ヒースもオレもサークル選びに忙しいんだ。大学祭から有名人だからな。歩いてるだけでひっきりなしに声をかけてくるから邪魔くさい」

「よく言うよ、大威張りで歩いてるくせに」

「当たり前だろ。いずれ学校を制する男が入学したんだ、みんなに見せてやらないとな。それにヒースは少し『大学デビュー』をした方がいい」

「それ、ちゃんと意味わかってないだろ」

「わかってる。いろんな奴とデートしたりすることだ」

「おい、早速大学に入った意味を見失うなよ」

 ファウストが苦言を呈すると、シノはふふんと鼻で笑った。

「どうせファウストはデートなんかしたことないんだろ」

「こら、シノ!」ヒースクリフは慌ててシノを窘めると、おそるおそるファウストの顔色を窺った。また機嫌を損ねさせたのではないかと危惧したのだが、ファウストは意にも介さず穏やかに紅茶を嗜んでいる。

「生憎、デートの経験くらいある」

 ヒースクリフはぽかんと口を開け、シノは信じられないとばかりに、眉を寄せた。

 ファウストは腕時計で時間を確認すると、ティーカップを机の上に戻した。

「なんせ、これからデートだ」


     〇


 農学部の裏門近くの二輪用駐車場にバイクを停めて待っていると、学部棟の影から少し早歩きで待ち人が現れて、レノックスは顔を綻ばせた。

「ごめん、遅くなった」

「俺も今来たばかりです。二人は元気でしたか」

「心配になるくらい元気そうなのは一人いたな」

「それは良かったです。では行きましょうか」

 飲み物の詰まった大きなクーラーボックスを肩に提げると、二人は歩いて河川敷に向かった。

 この日空いているか。ファウストがレノックスにそう予定を尋ねてきたのは数日前のことだった。話を聞くと、ミチルたちがつくっていたモデルロケットが賞を獲り、そのお祝いを花見がてら行おうとルチルが呼びかけているのだという。知人の影響でそれなりの知識があったファウストは少しばかりミチルたちの面倒も見ていたので、先にファウストに話がきたのだろう。レノックスはすぐに快諾すると、手帳のカレンダーに印をつけて楽しみにしていたのだ。

 夏に屋台がずらりと立ち並んでいた堤防の上の並木道は、今は一斉に桃色の桜の花をつけ、風に乗せて花びらをはらはらと落としている。枝の隙間から覗く空は青く透き通っていた。

「天気に恵まれて良かったですね」

「そうだな」

「でもお誘いいただいたときは、少し驚きました」

「どうして?」

「いえ、恥ずかしいんですが、デートのお誘いかと勘違いしたんです」

 レノックスに予定を聞いてきたファウストは普段よりもそわそわと落ち着きが無いように見えた。それもあって冗談のつもりで言うと、急にレノックスの隣を歩く紺色の鍔付き帽を被った頭が一瞬視界から消えて見えなくなった。立ち止まって振り返ると、何もない道の真ん中で躓いている。

「大丈夫ですか」

「大丈夫だ」

 帽子の鍔を下げて深く被りなおすと、ファウストは何事も無かったようにそそくさと歩き出した。

 木漏れ日の中を当たり障りのない会話をしながら横並びに歩いていると、昔のことが思い出された。白い雪の世界で会ったときから、ずっと春が待ち遠しかった。一人で見ていた景色を、彼にも見せたいと思うようになった。何度も繰り返し巡ってきた景色のなかに、いつの間にか当たり前のように彼がいる。当たり前のようにこうして桜並木を一緒に歩いているのは、なんだか不思議な気がした。

 あの、と声に出した瞬間、先ほどのことがよぎり、口を噤む。

 ファウストがこちらを見上げた。

「いえ、手を繋ぎたいと思ったんですが、外なのでやっぱり我慢します」

 ファウストはぱちぱちと目を瞬かせる。

「こんにちは」と散歩をしている老夫婦がすれ違いざまに声をかけた。そのときほんの一瞬、あたりを窺うようにファウストの視線が彷徨った。あたたかくなってきたのもあって川沿いの桜並木は人通りが多く、あちこちで花見をしているグループも見かける。

 ひゅっと勢いよく何か塊が飛んできて、無意識に片手でファウストを庇いながら、もう片手で掴むとそれはサッカーボールだった。土手下の河川敷から、「すみませーん」と少年の間延びした声がした。「ボール投げてくださーい!」

 河川敷のグラウンドではスポーツクラブの子供たちが練習試合をしていた。グラウンドに向けてボールを投げている間に、ファウストは先へ歩いていってしまう。思いのほか強く投げてしまったようで、とんでもない方向へ飛んでいくサッカーボールを少年たちが一斉に追いかけて行った。

 先へ進む幾分速くなった歩調に、怒らせてしまったのかと一瞬思ったけれど、おそらく違うことはなんとなくわかっていた。

「すみません、さっき言ったことは忘れてください」

 追いかけながらレノックスが弁明した。「俺は一緒に歩いてるだけで楽しくて、幸せなんです」

「僕も楽しいよ」

 するりと出た言葉に、今度はレノックスが面食らう番だった。

「なんで意外そうな顔をする」

「いえ、意外というわけでは無いんですが」

 なんと説明したらいいのかわからず言い淀む。ファウストが立ち止まって、ふっと息をついた。

「きみが珍しく緊張してるから、こっちにまで移って来た」

「緊張してるように見えますか」

「してるよ。さっきからずっとロボットみたい」

 言われてみれば確かにずっと緊張していたように思えて、自覚した途端嘘のように体の力が抜けていくのを感じた。不思議だった。どうしてこの人はいつも、自分でもわからないようなことが先にわかるのだろう。尋ねると、ファウストは当たり前のような顔で答えた。

「きみが僕を見ていたように、僕も一緒にいてきみを見ていたからわかる」

 春のぬるい風が首筋を通り抜けていった。

「ファウスト様」

「なに?」

「やはり手を繋いでもいいでしょうか」

「いいよ」

 差し出された手に触れて、細い指をなぞるように握りこむ。力を込めれば今にも折れてしまいそうなのに、指先まで芯が通っているようにしっかりと握り返されて、少しだけ驚いた。

 そのまま横並びに歩いていると、両親に手を引かれた小さな女の子がすれ違いざまに指をさして、「なかよし!」と力強く叫んだ。

 否定した方がいいのかレノックスが逡巡していると、代わりに「仲良しだよ」とファウストが答えた。

「きみが思ってるより、きみのことが好きだよ」

 親子から離れてしばらくすると、ぶっきらぼうにファウストが言った。


     〇


「それじゃあいきますよー!」

 川向こうからミチルが大きく手を振りながら合図をする。「がんばれー!」とルチルが声をかけ、「落ち着いてやってごらん」とフィガロも穏やかに諭す。小さなバーベキューグリルで料理をするネロをはじめ、レノックスやファウスト、たまたま研究室にいて面白そうだからと見学に来た双子先生たち大人は対岸から、子供たちを見守ることになっていた。

 ロケットの発射台の周りには、最後まで調整をしている子や、何やら記録を取っていた子たちが群がっており、ミチルの合図と共に一人を残して一斉に離れていく。

「3、2」

 子供たちのカウントが河川敷に響き渡る。

「1!」

 大きな音と共に勢いよく発射した小さなロケットは、青い空に向かって白い線を描きながら高く、高く上っていく。

「あがれ!」とミチルが叫んだ。

「あがれ、あがれ!」とリケも願うように叫ぶ。

「宇宙まで行っちゃえ!」とルチルも楽しそうに叫んだ。

 一瞬で雲の中まで突き進んでいったロケットは、本当に宇宙まで飛んでいって月に到着するのではないかと思えた。

「素敵な青春よのう」と小さな子供にしか見えない双子先生も楽し気に呟いた。

 ふと隣を盗み見ると、ファウストは思ったよりもずっと穏やかで、すっきりとした顔をしていた。彼は空高く上がるロケットを眩しそうに目を細めながら見上げていた。

 もちろん小さなモデルロケットが宇宙まで行くはずもない。一瞬で空高く上り詰めたロケットは降りてくるのも一瞬だった。外装を引き離したロケットからパラシュートが発射され、ゆらゆらとゆっくり地上へと戻って来た。

 無事に着地したロケットに子供たちから歓声がわき、対岸の大人たちからは拍手が起こった。

「すごい、すごい! みんなよく頑張ったね」

 川向こうから戻って来た子供たちにルチルは元気よく労いの言葉をかけると、ぎゅうとミチルを抱きしめた。いつもなら友達の前で兄からのスキンシップを嫌がる素振りを見せるミチルも、今日ばかりはほんの少し誇らしげに笑っている。

「僕も少しお手伝いしたんですよ」

 ミチルの隣でリケも胸を張った。

「リケは最初ロケットなんて興味ないって言ってたじゃないですか!」

「ロケットには興味はありません。でも友達と一緒に何かを作るのは楽しかったです」

「そうだね、俺も結局は楽しむのが一番大事だと思うよ」

 にこにことミチルとリケの頭を撫でるフィガロは、急にファウストへと視線を向けた。

「じゃあ、先生から総括をどうぞ」

「誰が先生だ」

 突然茶化すように話を振られてファウストは顔を顰めてみせたが、軽く咳払いをするとミチルに問いかけた。

「どうする、改良しようと思えばできるが、まだするか?」

「いえ、ロケットはもういいです。卒業です」

 顔を綻ばせながらもきっぱりと断る姿に彼の友達の中には失望の声をあげる者もいたが、ミチル自身ずっと前から決めていたことのようだった。「ボクもはじめてのことで楽しかったけれど……やっぱりボクはフィガロ先生から植物や生き物について教わることのほうが好きみたいです」

「そうか、それもいいな」

 答えるファウストは優しい顔をしていた。「今から自分の可能性を狭める必要もない」

「じゃあ一区切りついたところで、飯にしようぜ」

 ネロが湯気の立ったスキレットをキャンピングテーブルの上に置くと、あたりにおいしそうな匂いが立ち込めた。リケが、やったと小さく飛び跳ねた。

「ロケットより、ネロのごはんが好きです」

「そりゃ、ありがとさん。先生も食うだろ」

「もちろん食べる」

「うわあ、すごくおいしそうな匂い」

「ボクもお腹が空いちゃいました」

 料理を紙皿にとりわけていると、おーい、と土手の上から声がした。「ファウスト先生ー!」

 見上げれば、歩道から手を振っているヒースクリフとシノがいた。ヒースクリフはみんなの視線が一斉に集中すると、気恥ずかしそうに手をおろした。

「俺が呼んだんだよ、用事が終わったらどうぞって」

 フィガロが先に説明すると、「降りておいで」と二人を手招いた。

「ほら見ろ、やっぱりデートじゃないじゃないか」

 石の階段から土手を降りながら、シノはファウストを指して、鬼の首でも取ったようにヒースクリフに言った。「デート?」と、レノックスが怪訝そうにファウストの顔を見た。


     〇


 持ち寄った食料が底をつき始めた頃、フィガロが立ち上がって「みんなで記念に写真を撮ろう」と提案した。

「俺が撮ります」

 レノックスが申し出て、フィガロから自前の一眼レフカメラを受け取った。

「ファウストさんも撮りましょうよ」

 カメラの画角に入るようそれぞれが位置調整する中、その輪から外れるように静かに距離を取っていたファウストに気がついたルチルがすかさず声をかける。

「僕はいい。写りたい奴らでお好きにどうぞ」

「俺もパス。このへん片づけしとくから撮ってろよ」

 ファウストに便乗してネロも辞退しようと席を立ったが、フィガロは逃さなかった。

「そうはいかないよ。ほらみんな、二人が逃げないように押さえて」

「はい!」

 元気な返事と共に、ミチルとリケががっちりとそれぞれの両腕を抱え込むようにして押さえ込んだ。さすがのファウストたちも純粋無垢な子供たち相手には分が悪いようだ。納得はしていないが、しぶしぶといった表情でされるがままになっている。

「先生、お隣いいですか」とヒースクリフが尋ねた。

「ああ、もう好きにしなさい」

「ネロも逃げちゃダメですよ」

「わかった、わかったから」

「オレは真ん中がいい」

「ちょっと、シノさん押しのけないでください!」

「ミチル、もうちょっとこっちにおいで」

「ちゃんとかわいく撮ってね」

「ちゃんとかっこよく撮ってね」

 それぞれが口々に言いたいことを言い合っていて、いつまで経っても落ち着く様子がない。

「撮ります」と宣言してレノックスがカメラのレンズを覗き込んだその刹那、その日一番強い風が河川敷に吹き込んだ。レジャーシートがばたばたと揺れ、レンズ越しの視界が塞がれるほどに桜の花びらが舞い上がる。ようやく落ち着いた後、レノックスはシャッターを切らずにカメラを降ろした。

 レンズの向こうでは、「桜だらけになっちゃった!」とルチルが言って、みんなで笑い合っている。

 それは小さな四角いフレームにおさめてしまうには、あまりにもったいない景色だった。

 ずっと見たかった、ずっと願っていた景色だ。ひとりぼっちのときに彼に出会ってから、ひとりぼっちになった彼に再び会ったときからずっと。

 欲を持てと人は口を揃えて言うけれど、どこを切り取っても残りを切り捨てるのが惜しいと思ってしまう自分はやっぱり欲張りなのだろうと、レノックスは改めて思う。

 ファウスト様、と呼ぶと、自然と周りの視線が一点に向かう。逃げないようにミチルとヒースクリフに捕まっているファウストはきょとんとしながら、なに、と聞き返した。


「好きです」


 突然の告白に、ミチルとヒースクリフは驚いたように顔を赤らめ、

 ネロとシノは、おお、と何故か感心しており、

 ルチルは、まあ、と目を輝かせ、

 フィガロは、居心地の悪そうな失笑を浮かべ、

 リケが、「どういうことですか?」と怪訝そうに尋ねると、

 小さな双子たちが「青春ってやつよのう!」とはしゃいだ声で答えた。

 ファウストはというと、ぽかんと呆気にとられた顔をしていて、それがみるみる赤く染まったと思ったと同時に下を向いてしまった。これはもしかすると、家に帰ってもしばらく口を利いてもらえないかもしれない。口を利いてもらえないのは悲しいが、何故かそれでもいい気がした。彼が笑っている顔が好きなはずなのに、もっといろんな顔が見てみたいと思うのは不思議だ。

「変なレノさん」

 ミチルがびっくりしたように、それから吹き出しながら言った。「一人で笑いすぎですよ!」

 今年も夏が来て、秋が来て、冬を迎えて。そのどれもが今まで迎えた季節のどれとも違うのだろう。

 また春が巡ってきたとき、そのとき一体どんな景色が見られるのか、とても楽しみだと思った。



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