マーマレードの夢

今朝は日が明け切らないうちからファウストの様子が妙であった。
隣室からの短い叫び声で目が覚めたレノックスが駆け付けたときには、ベッドの上で枕に突っ伏すように蹲っているファウストの姿があった。さっと血の気が引く思いでレノックスが部屋に押し入ろうとすると、彼は青い顔でレノックスを認めるや否や、「来るな」と叫んだ。そして慌てて立ち上がると、レノックスを部屋から締め出したのだった。
それからは攻防戦だった。悲鳴が上がるなんてよっぽどのことに違いないのに、ファウストは「なんでもない」の一点張りで扉を開けようとしてくれない。鍵をかけられたのは初めてだった。
仕方なくその場は引いたものの、彼に何かが起きているのは明らかだった。旧学生寮の家畜の世話をルチルに代わってもらうと、朝食を作ってファウストが起きてくるのを待ってみたが、普段ならとうに起きている時間になっても一向にファウストは部屋から出てこなかった。
家を出なければならない時間になってもう一度部屋を訪ねると、ようやくむっすりした顔が薄く扉を開けた。寝巻きから着替えてはいたが、鞄は持っていなかった。
「先に行っていろ。調べものが終わらないんだ」
「俺も待っていましょうか」
とっくに春休みに入っていたから研究室の集まりはあるものの、授業自体は無い。フィガロに話せば多少の融通は利くはずだった。しかしレノックスの申し出に、ファウストは視線を合わせないまま断った。
「いいよ、バスで行く」
「バスだと遠回りで時間がかかりませんか。どれぐらいに終わるか教えていただければ戻ってきます」
「気を遣わせたくないし、気を遣いたくもないんだ」
あからさまに苛立っている口調で、ファウストは扉を人差し指でトントンと叩いてみせる。不機嫌をぶつけられるのには慣れているので動じずにいると、トントンと扉を叩く音はだんだんと速くなっていった。彼の真意を汲み取ろうとじっと様子をうかがっていると、焦れたように人差し指の動きが止まった。「腹も痛いし」
「腹痛ですか」
レノックスはさっと表情を変えた。「食あたりですか、神経性のものですか、薬はもう飲まれていますか」
「うるさいな、たかが腹痛だぞ」
「たかが腹痛でも侮れないです。盲腸やもっと大きな病気の場合だってあるんですから」
「おまえより医術の心得はある。自分の体調ぐらい管理できる」
説得力に欠けるセリフだ。
誰よりも真面目すぎる彼が寝食を忘れて何かに没頭しているところは、これまでの付き合いの中で嫌というほど見てきていた。あらゆる可能性が頭の中に浮かび上がっては消えていく。思わず肩に触れようとすると、ファウストはぎょっとしたように身を引き、伸ばされた腕をはたき落とした。
「子供じゃないんだ、いちいち口を出すな」
行き場を失った手を引っ込めると、流石に言い過ぎたと思ったのか、ファウストはさっと俯いて唇を噛んだ。そんなに噛んだらもともと薄い唇が荒れてしまうと別の心配事が増えていると、彼は絞り出すような声で「……寝ている間に冷えただけだよ」と弁明するように言った。
「薬出しといてくれれば飲むから」
「本当ですか」
頷くのを確認して、レノックスはすっと身を引くと低頭した。
「テーブルの上に腹巻きと薬を置いておくので、必要だったら使ってください。フィガロ先生にそれとなく話してもおきますので、何かあったら先生に連絡してください。出過ぎた真似をして申し訳ありません」
結局ファウストを置いて家を出ると、レノックスはマンションの下から上階の窓を見上げた。
心配なのは依然として変わらない。ただ強固に人を追い出そうとするあの態度を見ると、彼に付きっ切りでいるのが必ずしも得策ではないかもしれないと思ったのだ。もしかすると心配のあまりものすごく彼に対してデリカシーのないことをして傷つけてしまったのではないだろうか。
息をつくと、ファウストの腹痛が良くなることを祈りながら、レノックスはバイクを走らせた。
〇
洗濯機の電源を入れると、ごぼごぼと水が溜まっていく洗濯槽をじっと眺めていたファウストは、重い溜息とともに項垂れた。
今朝は本当にひどい夢を見た。
夢見が悪いのなんて慣れっこだった。昔の嫌な記憶は幾度となく夢に現れてきた。何度も何度も、飽きることなく同じような夢を繰り返し見ている。ここ数年、心から安心して眠れたことなんて数えるほどしかなくて、今更取り乱すほどのことでもない。業火の炎に身を焼かれるような思いをして、毎日目が覚めるのだ。
それが今日になって、はじめて様子が変わった。
同じような登場人物しか出てこなかった夢の中に、はじめて後輩であり、現同居人の男が現れた。
問題なのは、それが説明するのも憚れるほどに、めちゃくちゃにいやらしい夢だったことである。
頭の下でゴウン、ゴウン、とけたたましい音を立てながら洗剤とかき混ぜられている洗濯物のように、起きてからずっと思考も情緒も何もかもがぐちゃぐちゃに掻き乱されていた。有り体に言えばパニックに陥っていた。
「それもこれも、卒論のストレスが溜まっていたからに違いない」
自分に言い聞かせるように声に出してみると、本当にそうであるような気がしてきた。確かにここ数日は卒論の発表の準備で精神をすり減らすような日を過ごしてきた。そうだ、卒論のせいでいろんなものを溜め込んでしまったせいなのだ。
「そうでなければ、あんな夢を見るはずがない」
あー……。
ぐうう……。
うああああ……。
口に出した瞬間、夢の内容がまたしてもよぎって、大きく揺れ動く洗濯機に頭を打ちつけて、頭痛と羞恥と後悔と自己嫌悪に悶え苦しんだ。
きっと、すべて欲求不満なのが良くない。
普段からそういった欲求が強い方ではなかったし、今もよくわからなかったが、だからこそ今回とんでもない暴発をしてしまったのだろう。そんな自分の欲求不満の捌け口に、何よりもレノックスを巻き込んでしまったことがただただ申し訳なく、彼に合わせる顔がなかった。自分で意図したことではないとはいえ、深層心理で良いようにレノックスを利用したことになる。
万が一にもばれてしまったら彼もきっといい気分はしないだろう。こんなあさましい夢を見たことなんて、死んでも気がつかれたくなかった。もしも夢の内容が外に漏れていたら、とありえない想像をするだけで身震いする。思考が外に漏れてしまう人間のフィクションを聞いたことがあるが、夢が漏れる人間も大概煉獄の苦しみを味わっているに違いない。
ああ、本当に。
本当に、夢が漏れなくて良かった!
〇
カチカチ、カチカチカチカチ。
先ほどから延々と鳴り止まない高い音に焦れたネロは、音の主に気づかれないようちらりと視線だけやって様子を窺う。
カチカチカチカチ。
音の出どころは向かいの席で不機嫌そうに頬杖をつきながら、ボールペンのノックを何度も押しては、ペン先の出し入れを繰り返していた。ネロは視線を手元のノートに戻しながら、そっと息をついた。
ファウストは月に何度か学食の片隅でこうして勉強を見てくれるが、今日はずっと心ここにあらずといった風に、何やら考えことをしながらこうしてボールペンをいじっている。親の仇でも見るようにテーブルの上の参考書の文字を睨みつけていたと思えば、ぼーっと宙を眺めているときもあり、かと思えば急にぱっと顔を赤らめ、次の瞬間には何かを打ち消すよう顰め面をしながらボールペンをカチカチカチカチと勢いよく鳴らした。しかし「こりゃ今日は使い物にならないぞ」などと考えていると、こちらが間違えている問題をしっかり見つけて指摘してきたりする。やりづらいったらありゃしない。
機嫌が悪いなら断ったっていいのに、律儀に顔を出しては一応見てくれるのは、彼の生粋の生真面目さと捨てきれない面倒見の良さからだろう。今日ばかりは本当に断ってくれた方がありがたかったが、そこはネロもいい大人であり、できる限り相手の地雷を避けながら、普段通りにやり過ごす処世術は身につけていた。
「なに、やらしい夢でも見た顔してるけど」
妙に明るい能天気な声で気まずい空気を破りながら、ファウストの隣に腰かけると、フィガロは長い足を優雅に組んで見せた。テーブルに肘をかけ、身を乗り出すように頬杖をついてくる男に、ファウストはぎょっとしたように身を引いて、目を白黒させながら「バカなことを言うな」と怒鳴った。
彼は年齢のわりに初心なところがあり、下ネタに対する耐性が極端に低いことにも、ネロは短い付き合いのなかで気がついていた。それにしたって今の反応は普段のファウストらしくないけれども。とはいえ、これ以上機嫌が悪くなられては困るので、それならばと話題をこちらで引き取ろうとネロは茶化すように口を挟んだ。
「やらしい夢って、そんな高校生じゃねえんだからさ」
「あはは、盛りのついた中高生でもなきゃ見ないよねえ」
場違いなほど明るい笑い声が食堂に響いた。
普段のファウストなら、ここで完全にしれっと無視を決め込むか、ぶつぶつと小言を垂れてから話が終わるものだが、今の彼は黙り込んだまま、まるで世界の終わりを前にしたような青い顔をして俯いている。
これはいよいよ具合でも悪いのではないかとネロが慌て始めていると、「フィガロ先生」と聞き覚えのあるゆっくりとした低い声が降って来た。
フィガロの背後に現れた大きな体躯にネロとフィガロが視線を向ける傍ら、ファウストは身を固くすると、慌ててネロのノートをひったくって採点をはじめた。
「スノウ様とホワイト様がお呼びでしたよ」
「ああ、わかった。すぐ行くよ」
フィガロがレノックスの後について立ち上がる素振りを見せると、ファウストは一瞬気を緩めたように息をつく。しかしフィガロは思い直したように椅子に腰かけ直した。
「そうだ、その前にレノにも聞きたいんだけど」
「レノに聞くのはやめろ──ッ!」
「うわっ、急に腹から声出してどうしたんだ」
突然大声を出してフィガロの肩に掴みかかんとばかりの勢いのファウストに、ネロばかりでなくレノックスもまた困惑していた。フィガロはそんな状況も意に介さず、立場に困ってファウストとフィガロの間を視線を往復させているレノックスに、「ほら、えっちな夢を見たことあるかって話」とにこにこしながら促した。「レノもあるでしょ?」
「フィガロ先生、セクハラはちょっと……」
「まあまあ、いいから」
俺はいいですけれど、他の方に聞くのはやめたほうが。俯いたまま一向に顔をあげないファウストの後頭部にちらりと視線をやりながら、レノックスが釘を刺す。「でもそりゃあ、ありますよ」
意外にもすんなりと正直に答えた。そういったことにまったく興味のなさそうな涼しい顔をしているので、へえと少しばかり驚きながらネロは視線を動かすと、手元を凝視しながらも手を止め、しっかりと耳を傾けているファウストの姿が目に入った。こっちもこっちで意外にもめちゃくちゃ興味があるようだ。
「まあ、高校生でもないので、頻繁には見ないですけれど」
そう口に出してから彼ははたと何かに思い至ったように、何故か一瞬にして絶望した面持ちに変わったファウストに向かって、どこまでも誠実に力強く拳を握って見せた。
「安心してください、ここ数年、俺は一回も見たことはありません」
「なんで先生に向かって言ってるんだ」
ネロの疑問に答えてくれる者はついぞその場に現れなかった。
フィガロがレノックスを連れだって研究室へ戻る間際、レノックスは二人に向かって「申し訳ありません」と謝った。「三人で楽しくお話されていたところを、割って入ってしまって」
最後までファウストを慮るように視線を向けるレノックスは、ファウストがレノックスを話題に入れたがらなかったことを気にしているらしい。
彼らが食堂から出ていくのを見届けてからネロが正面に向き直ると、突如ファウストは勢いよく頭を抱えて机に突っ伏した。
「うおおおおおおおおおおおあああああああああああ」
「先生! どうしたんだ! 先生!」
〇
レノックスに変態だと思われてしまった。
いつもの教室で、いつものように引きこもりながら、ファウストは机の上に突っ伏しながら自己嫌悪に悶えていた。確実にレノックスに昼間から公共の場で猥談を楽しみ、おまけに後輩を仲間外れにしようとする浅ましく陰気な男だと思われたに違いない。他人にどう思われてもいいつもりで生きてきたが、ここまで失うものしかない不名誉はさすがに嫌である。余計なことをしたフィガロに苛立つものの、しかし結局のところ諸悪の根源は今朝の己にある。
これではいけない。
今朝から何もかも集中できていない気がして、本日数度目の重い溜息が口から漏れた。これではせっかく大学院が受かったのに卒業できなければ元も子もない。
ようやく重い体を奮起させて机に向かうと、幸いにも調子さえ戻れば卒論作業は夢の内容を一時的に頭から追い出してしまうのに最適だった。次第に集中力が戻り、今朝のことも綺麗さっぱり忘れていると、教室の扉がノックされる。ノックの音に気づかず意図せず無視していると、もう一度力強く二回叩かれて、ようやく顔をあげた。
「ファウスト様、俺はこれからバイトなので先に失礼します」
扉の向こうにいる声は、律儀に帰る前に挨拶にきたのだった。レノックスは短期のバイトをいくつか掛け持ちしており、今日はこれから日付が変わるまで道路工事の現場で交通誘導をするそうである。
せっかく頭から追い出すことに成功していたのが一瞬で水泡に帰した。
為すすべもなく頭を抱えていたが、ふと彼に伝えることがあったことも思い出し、少し悩んでから立ち上がる。
「わかった、僕はしばらくこっちで寝泊りするから、待たないで先に寝ていてくれ」
扉を薄く開けて伝えると、レノックスは驚いた顔をした。
「あとは発表用のスライドをつくるだけですよね。家でされないんですか」
「家だと集中できないし」
適当な言い訳で取り繕いながらさっさと扉を閉めようとすると、隙間に大きな掌が差し込まれドア枠を掴まれる。いつだかの記憶が脳裏によぎった。
「すみません、体調はもう大丈夫ですか」
「もうすっかり平気だよ」
「そうですか」そう言いつつもレノックスは扉を閉めさせる気はないのか、その場から動かない。顔をあげられないまま、扉を閉めようと力を入れてみるが案の定びくともしなかった。
「ファウスト様」
「まだあるのか」
「俺はあなたを傷つけるようなことをしてしまいましたか」
押しても引いてもびくともしない扉と格闘していたファウストは、淡々と上から降ってきた声に驚いて手を止めた。「どうしてそう思う」
「いえ、勘違いだったらいいんですが、今日一度もまともに目を合わせていただけてない気がしていて、避けられているのかと」
呆気にとられながら、ようやく顔を上げる。思いつめたように眉根を寄せているレノックスの顔を見つめた。今日一日、彼がずっとそんな顔をしていたことに今まで気がつかなかった。
「集中できないのが俺のせいなら、気にせずおっしゃってください。俺はそれで気を悪くしたりしませんし、ちゃんとすぐに家からも出ていきます」
「そうじゃない」
答えている間も、胸がざわついていた。「そうじゃない、レノ。ただきりがいいところまで、やっていきたかっただけだ」
言葉に詰まって俯くと、レノックスのメッセンジャーバッグにつけられた、もこもこした羊のぬいぐるみのキーホルダーが目に入った。牧場に行ったときにレノックスが羊をいたく気に入っていたようだから、帰り際に土産屋で勧めたキーホルダーである。間の抜けた顔をじっと見ていると、視線に気づいたレノックスはおもむろに鞄からキーホルダーを外し、ファウストに持たせた。
「どうぞ」
「は?」
「いえ、見られていたので、癒しが欲しいのかと思って」
そんな意図はなかったが、もこもこした丸いぬいぐるみは手に持っているだけで問答無用で心のくさくさしたところを癒してきそうだった。
半ば押し付けられたぬいぐるみを、言われるがままその場でもにもにと撫でているとレノックスが小さく笑った。そこでやっと、今まで胸の中をもやもやざわざわしていたものが霧散していくのを感じた。
「さっきの話だけど、全く違うからな」
「俺の勘違いなら良かったです」
「あとさっきの食堂のも違うから」
「わかっています。フィガロ先生はからかうのがお好きですから」
レノックスがバイトへ向かうと、教室の扉を閉めるのも忘れて、席に戻りながら持たされたぬいぐるみの羊を見つめた。やっぱり間の抜けた顔をしているけれど、とても気のよさそうな羊に見えた。
今朝からレノックスが自身の行動をどう受け取っていたかなんて、考えもしなかった。
それから羊を机の上に置いて、しばらく作業の続きをした。肩が凝り始めたあたりで、急にぱっと教室の電気が消され、顔を上げる。パソコンの液晶に映る時計はギリギリ日付が変わらない時刻を指していた。
「消灯の時間だよ」
明かりがついたままの廊下に、フィガロが立っていた。
「いい子は家に帰りなさい。送って行ってあげるから」
〇
教員用駐車場の端にぽつんと停めてある青の四角いミニバンに乗り込みながら、ファウストは訝しんだ。
「前の車はどうした。あの成金が好みそうな趣味の悪い車だ」
「とっくに売っちゃったよ。あれで喜ぶ子って結局俺の顔と金と地位と顔しか興味ないみたい。しかも准教授なんてたいした収入でもないのがわかった途端見切りつけてくるし」
「その前はやけにクラシックなやつ乗っていただろ」
「あれは気に入ってたなあ。外国の旧車を修理して乗ってたんだよ。かわいいから生徒ウケも良かったしね。ただ冷房がどうにも効かなくて夏は地獄だったな。今は誠実だけど薄給の素朴イケメン大学准教授路線だね」
「そんなセリフが出てくる時点で人間性の底が知れるな」
後部座席にちらと視線をやると、実験道具の詰まった段ボールが無造作に積まれてある。その隣に置かれた紙袋からは、中高生向けのやさしい化学の本の表紙が覗いている。
「まあ実際こっちの方がずっと便利だね。ミチルたち連れて海とか山とか行けるからさ。今の俺にはちょうどいいよ」
信号待ちしている間、フィガロはオーディオプレイヤーのタッチパネルをいじりだした。
「何がいい? お好みのものをどうぞ」
「なんでもいい」
心底どうでもよさそうに吐き捨てると、フィガロは気に留めた様子もなく「今の子ってラジオ聞かないよね」と言った。
まったく馴染みのない流行の音楽を聞き流しながら、未だ夜空に浮かぶ星屑のように明かりの灯ったビル群を眺めていて、ファウストはそこでようやく車が自宅と反対方向へ向かって走っていることに気がついた。
「おい、道が全然違うだろ」
「遠回りしようかと思って。家に帰りたくないみたいだったから」
「帰れと言って無理やり車に乗せたのはおまえだろ。わけがわからない」
不機嫌な溜息をつくと、ぶすくれながら窓の外を見やるファウストに、フィガロは相変わらず明るい声で話しかけた。
「たまには先生らしいことでもしてあげようかと思って」
「課題を出すだけ出してあとは放置だったくせに、今更教師気取りか」
「正直あのときは面倒くさかったからね。俺は心療内科医じゃない。変につついて死なれても困るじゃない」
ファウストは鼻で笑った。
「後追いでもすると? あいつのために、僕が死んでやる義理もない」
「そうなんだろうね。ファウスト・ラウィーニアは俺が思うよりずっと強くて図太かったらしい」
フィガロも朗らかに笑う。
「でも俺はあのとき、おまえが死ぬと思ったよ」
オフィス街を通る高架下の国道は昼の喧騒が嘘のように、ずっと静かだった。時折高速道路を走るトラックの振動に、ラジオから流れるDJの声と、妙に明るいジングルだけがうすら寒く響いている。
「あの日からずっと死について考えていたのは確かだ」
窓の外に映る光の流線から目を離さずに、ファウストが言った。
「死にたかったわけじゃない。ただ漠然と、このろくでもない世界でこの先ずっと惰性で続く生に心底うんざりしていて、生きる活力だけが死んでいた。跡形もなく、この世から消えたかった」
幾千もの光の流線は夏に見た流星群を想起させた。この星に落ちる前に燃え尽きる無数の塵も、ここでは偽物の星の明かりに隠れて誰にも気づかれずに死んでいく。
「誰にも会いたくなかったし、誰も来なくなった。そうしたら幽霊とあだ名がついていた。自分にお似合いだと思ったよ。なんでまだ生きているのかすら、わからなかったから」
「そうしたら、あいつが来た」鞄の中からのぞいているキーホルダーに一瞬視線をやりながら、フィガロが言った。「あいつに救われた?」
「いや、まったくそういうことはない」
にべもない否定に、ああそう、と運転席で苦笑が起きる。「なんだかんだ言って、今の僕は一人でいるのが本当に気楽なんだ。今まで散々身の丈に合わないものを求められていたから、正直忘れ去られたことで肩の荷が降りたのも事実だよ。だけどあいつはまた舞台に立たせようとするから、少し煩わしいときもある」
従順なようでたいして言うことを聞かないし、変なところで強情だし、何を考えているかわからないときもあるし、癒し方は下手だし。つらつらとあげつらうとキリがなかったが、膝の上の鞄の中でキーホルダーを指でいじりながら、「でも、まあそうだな」と続けた。
「別に関係はないけれど、だんだんそういうことを考える時間は減った」
「そう」
「最近は結構楽しいことも考える」
「へえ、どんなこと?」
「おまえには言わない」
相変わらず愛想のない返事に、フィガロは慣れた調子ではいはいと相槌を打つ。
「この世界は本当にどうしようもなくて、生きていると面倒くさいことばっかりだ。でも明日が少しでも楽しみなのは、いいなと思った」
車が止まって顔をあげると、助手席の窓から見慣れたエントランスが見えた。シートベルトを外しながら、ファウストが呟いた。
「だからこの先、だましだましなら、生きていけるかもしれない」
「だましだましでも生きていけたら、その人生は御の字だよ」
〇
できるだけ音を立てないように玄関を開けると、家の中の明かりはすっかり消されていた。扉を開ける際に月明りに照らされた玄関の靴を見るに、同居人は先に帰ってきているようである。
明かりをつけないままリビングダイニングまで向かって、奥の部屋の引き戸を開けた。小さな音だったが、眠りの浅いレノックスを起こすのには十分だったようで、毛布の中の大きな塊はもぞもぞと起き上がろうとした。
「動くな」
強盗みたいな台詞を吐けば、レノックスは大人しく従った。
隣に寝転がって大きな背中に額をあてると、毛布の中の体が小さく身じろぎしたのが伝わった。
「ごめん、起こしたか」
「いえ……ちょうど起きました」
嘘をつきなれていないレノックスの嘘はへたくそだ。
「どうしたんですか」と尋ねるレノックスの声はまだ夢うつつのようでぼそぼそとしている。
「なんの夢を見てた?」
「夢……見ていたような気がするけど、覚えてないです」
「そうか」
「はい」
「レノ」
「はい」
「僕もきみが好きだ」
一息に言い切って、反応を待った。しばらくの間、大きな後ろ姿は身動き一つ見せない。もしかして寝ているのではないかと疑い始めた頃にようやく、
「うれしいです。ありがとうございます」
と冷静な声が返ってきた。
「本当に?」
「はい」
それきり、また沈黙が流れた。カチカチと居間の壁にかかった時計の音だけが妙に耳に触って落ち着かない。レノックスは黙ってしまったきりだ。
「レノ、今なにを考えてる」
ファウストが尋ねると、やっぱり返事はなかなか返ってこず、少し間を開けてから、
「マーマレードの夢を見ていたことを思い出しました」
「マーマレード?」
はい、と答える声はやはりまだ眠いのか、いつもよりふわふわと芯がない。
「地元に住んでいたとき、近所にいつもマーマレードジャムをくれる人がいたんです。とてもおいしいんですけれど、あんまりたくさんくれるもんだから、一人じゃとても食べきれなくて、そのことを思い出したのか夢に見ていました」
「それなら」とファウストは言った。「次は僕も一緒に食べたいな」
「はい、是非」とレノックスも答えた。「フィガロ先生やミチルたちにも食べてもらいたいです」
レノックスの大きな背中は毛布越しでも熱を放ってあたたかく、くっついているとだんだんとまどろんでくる。なんで彼が幸せそうでいると安心して、でもときどき落ち着かなくなるときもあるのかを、本当は考えるまでもなく答えが出ていた。彼を家に呼んだときから、ずっと答えは出ていたのだ。
「ファウスト様、寒くはないですか」とレノックスが尋ねた。
「ちょっと寒いな」
「俺はもう振り向いてもいいでしょうか」
いいよ、と答えると、レノックスはもぞもぞと体の向きを変えた。
「どうぞ」と毛布を持ち上げて中に入れてくれる。毛布の中はレノックスの体温でぬくぬくとしていた。眼鏡をしていない顔をこうして至近距離でまじまじと見るのは、そういえばはじめてかもしれない。
手に持っていた羊のぬいぐるみをレノックスの鼻先に差し出す。
「これ、ありがとう」
「こいつは少しはお役に立ちましたか」
「この子のおかげで少しだけ手があたたかった」
「それなら良かったです」
ぬいぐるみごとファウストの手を取ると、そのまま大きな手で包み込んでさすった。冷えた指先にじわじわとあたたかい血が流れていく。
れの、と呼んだ。「まだ夢のことを考えてる?」
レノックスが伏せていた目をゆっくりと上げた。瞼の奥の瞳が細められる。静かな夜の森の奥でぱちぱちと爆ぜる焚火のように、穏やかで情熱的な赤色だ。
さすられていた手が、ぎゅうと握られた。
「いえ、しあわせだなあ、と考えていました」
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