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鍵のない部屋





 大学に入って二年目の初夏だった。

 コンクリートに囲まれた都会の夏は熱気がこもって、常時サウナの中にいるようにじわじわと体力を削った。それを思うと農学部キャンパスは、草木が多く随所に水場もあるから、息苦しさを覚えるほどの熱が留まることはなかった。

 二年目の期末試験期間は、一年のときと比べると精神的に余裕があった。これは地方から出てきて何もかもはじめてだった一年のときと比べて、ということであり、試験内容はむしろ難しくなっている。

 そんな中、ファウストは引きこもったまま、一向にお気に入りの教室から出てこない。研究室の准教授であるフィガロは「最近はとにかく機嫌が悪いから、向こうから近づいてこないなら引きこもらせておくに限る」と完全に放棄する始末だった。

 レノックスは相変わらず、毎日のように空教室に足を運んでいた。

 理由はいくつかあったが、一つはなんでもいいから彼の役に立ちたかった。もう一つは、とにかく彼が健やかでいるのかどうかが気がかりだった。冷房は効いているはずだから熱中症で倒れていることはないだろうが、やはり心配は心配だ。

 そして最後の一つは、彼ほどの人物が、このまま誰にも関わらず、忘れられていくような現実が耐えられなかった。

 世の中には一人でいるほうが落ち着く人がいることは重々承知はしていた。今のファウストもそうなのだろう。そもそも、彼がひとりぼっちでいることを寂しいと感じること自体が、きっと傲慢以外のなにものでもない。

 それでも、はじめて会ったときの彼は、ひとりぼっちを好むような人には見えなかったのだ。あれから性質が一八〇度変わっていたとしても、どうしても当時の彼の様子が頭から離れない。

 だからこれはすべてレノックスのエゴからの行為だった。

 しかし本格的に試験期間に入り、一つ目の試験が終わったその日の午後は、空き教室の扉をノックをするのを躊躇った。こうも毎日毎日来るのは扉の向こうに不必要なプレッシャーを与えてしまうかもしれないと、今更ながらに不安に思ったのだ。彼にストレスを与えることはレノックスの望みではなかった。

 その場に立ち尽くしたまま悩んでいると、

「レノックス」

 見透かされたように扉の向こうから呼ぶ声に、耳を疑った。

 幻聴かと返事に窮していると、しかしその声は扉のすぐ向こうからまた聞こえてくるのだった。

「そこにいるのか」

「はい」

 そうか、とだけ言って、すぐに声は止んだ。

 バイトの時間が迫るまでしばらく待ってみたが、結局その日に声が聞こえたのはその一度きりだった。

 真意を図りかねた。外に出るときに、ばったりはちあわせたくないから、ただ確認しているのかもしれない。以前のように、彼の口から正面切って「帰れ」と言うことは無くなっていたけれども。

 この問答は、それから毎日続いた。

「レノックス、まだそこにいるのか」

「はい、いますよ」

 次第に教室の扉の前に立つと、決まって先に声がするようになっていた。そしてレノックスが「います」と答えると、それ以上会話が続くことはない。ただ教室を背に廊下で試験勉強やレポートを書いていると、ときどき思い出したようにまた存在を確かめる声がするのである。

「ここにいますよ」

 レノックスの返事もいつも決まっていた。それ以上続けたら、彼がどこか遠くへ逃げてしまうようなそんな気がしていた。

「ちゃんと、ずっとここにいますよ」

 試験の最終日はバイトも入っていなかったから、試験が終わったあとはずっと教室の前にいた。窓の外がすっかり暗くなり、星がチカチカ瞬き始めるのを廊下に座ってぼんやりと見ていた。けたたましく鳴いていた蝉の声がいつの間にか蛙のものに変わると、都会のなかにもこんなに蛙の鳴き声が響く場所があるのかと思った。

 蛙の合唱の中、ドアノブを回す音がやけに耳に響いた。

「本当にいたんだな」

 教室から出てきたファウストは眉を下げながら微笑した。それは困った生徒を見る教師のような顔にも見えたし、どことなく安堵の表情にも見えた。

「ずっといましたよ」

 レノックスも答えた。「ついでなので、家まで送らせていただいてもいいですか」

 その日から、ファウストを家まで送るのがレノックスの新しい日課となった。


     〇


 バイクをマンションの駐輪場に停めてエントランスまで戻ると、先に降ろしたはずのファウストが未だ中に入らず立ち往生したままでいた。

 ファウストはレノックスに気づくと、いささかばつが悪そうな顔をした。

「鍵を家に忘れてきてた」

 一緒に中に入り、部屋まで向かった。

 あっという間に空が暗い色に染まりはじめ、外廊下の電灯が一斉に灯りはじめる。

 部屋の前に来て、上着のポケットに入れていたキーケースをもう一度取り出す。ふとこの一年ですっかり色を変え、肌にしっとりと馴染んだ本革のキーケースに収められた、鈍い銀色の鍵を見下ろした。自分の手にそれがあるのが、妙に不思議な気がした。

「レノ、どうした」

「いえ」

 鍵穴に鍵を差し込み、カチリと回す。扉を開けて、ファウストを先に中に入れると、後ろ手で扉を閉めた。

 パチン、と音がして、室内に暖色の明かりが灯った。



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