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EPILOGUE

 高校三年の秋に、幼なじみにキスをされた。

 それはあまりにも、英智にとって予想外の出来事だった。なぜなら彼は真面目で、堅物で、超がつくほどの心配性で、意外に情に厚く、それなりに思いこみが強く、何より英智に対しては常に潔癖であろうとしていたからだった。

 その時期は日によって寒暖差が激しく、体調管理に関して敬人から口を酸っぱくして言われていたのを覚えている。

 昇降口から外に出ると、まだそう遅くもない時間のはずなのにすっかり日が暮れていた。向かい風が冬のように冷たく肌を刺した。

「天祥院、帰りか」

 背後から声をかけてきたのは紅郎だった。

 そうだけど、と振り返りながら答えると、「じゃあちょうどいい」と紅郎は背負っていたでかい荷物を英智に押しつけるようによこした。

 でかいお荷物の正体は敬人だった。

「生徒会室でぶっ倒れてんのを見つけたから保健室にでも連れてこうと思ったんだが、今から帰りならちょうどいい。送ってってやってくれ」

「俺は大丈夫だ」とお荷物は生意気にも主張したが、よろよろと歩き出せば道の端にしゃがみ込み「英智、こんなに冷えて……」と石碑を撫でながら呼びかけているので、一人で帰るのは確かに不可能だろう。

「自分がこんなになっているくせに、よくもまあ僕にあれだけお小言を言っていたものだよ」

 校門の脇にあるバス停のベンチに座って、家の車を待ちながら英智がぼやいた。

 一世一代の大喧嘩のあと、敬人が何を考えているのか英智にはいまいちわからなかった。

 敬人はどうにも新しい付き合い方が掴めていないようで、最初のうちはわざとらしいほど距離を置かれて寂しい気持ちにもなったものだ。試しに偽の脅迫状を自分に送って敬人の出方を見たところ、どうやら愛情の強さは変わっていないようだったので何よりである。

 それこそ幼い頃は相手が何を考えているのか、手に取るようにわかっていた。たった一人の家族だった。

 しかし本当は当時から何もわかっていなかったのかもしれない。

 わかった気になって幸せでいられたのは、小さな世界に住まう子供の特権だ。

「英智」と隣で依然ぐったりしている敬人が呟いた。

「僕はこっちだよ」

「英智」

「はいはい」

「魂の片割れを失うというのはこういうことなのか」

 敬人はベンチの上でうなだれるようにしていた。熱に浮かされている瞳はぼんやりとしていてどこか定まっていない。彼は人に弱いところを見せたがらないから、こうしてあからさまに消耗している敬人を見られるのは珍しい。

 英智は彼の横顔を見つめながら「敬人」と呼んだ。「僕たちは最初から最後まで、片割れなんかじゃないよ」

 敬人は黙っていた。聞こえていないのかと思われたが、しかししばらくして小さく「そうか」とこぼした。「そうだったんだろうな」

 はあ、と吐いた息が辺りを白く染めた。もうすっかり冬の空気だった。

「英智が一人で生きていけると宣言したことは、あいつにとっても、俺にとっても喜ばしいはずなのに、俺は寂しいと感じてしまう」

「敬人は寂しいんだね」

「俺は寂しい」

「僕も寂しいよ」

 隣に座る敬人の肩にもたれかかる。

 身じろぎをしたので身体を起こすと、敬人と目があった。上から重ねるようにして、手を握られた。

 触れた唇はひどく熱かった。

「敬人、待って」

 ぐっと体重をかけられて、慌てて距離を取ろうと両肩を掴むが、驚きのあまり力が入らない。首筋に息がかかった。

「こんなところで」と言いながらも、もはや捨て鉢の勢いで英智は身を任せた。もう自棄だった。ぎゅっと目を瞑り次のアクションに備えたが、それから一向に音沙汰がない。

 おそるおそる目を開け、耳を澄ますと、穏やかな寝息が聞こえてきた。

 翌日学校を休んだ敬人は、翌々日になると白い大きなマスクと共に登校してきた。

 生徒会室で遅れた仕事を取り戻すべく奮闘していた敬人は、英智の顔を見るなりいつにもまして度し難そうに眉間に皺を寄せ、素直に自己健康管理のふがいなさを詫びた。風邪を移してしまうところだったと長く回りくどく謝罪し今後の課題を掲げ二度と同じことを繰り返さないと誓う敬人の様子はいつも通りである。風邪菌が残っているといけないからと英智を半径三メートル以内に近づけようとしないあたりも、まったくもっていつも通りであった。

 しかし度し難いのはこちらの方である。

 釈然としない気持ちのまま半ば強制的に生徒会室を追い出された英智のもやもやは、時が経てば経つほどに積もっていった。

 一体全体、何なのか。

 あろうことか、敬人は先日の行いを何一つ覚えていなかったのだ。


     ○


 教会の裏手から青い空を背に聳える鐘塔をむっすりと睨みつけている英智を見つけると、敬人が近づきながら声をかけた。

「機嫌が悪いな」

「いろいろ思い出していたんだよ」

「マリッジブルーなら今更だな」と大真面目に言う敬人のわき腹を素知らぬ顔で軽く殴った。

 あれから数年経ったが、結局敬人はあの日のことを覚えておらず、話題にもあがらない。熱に浮かされていたとはいえ一体どういうつもりだったのか、その真意は未だ不明である。ありえない偶然が重なって事故が起きたのかもしれない。

 それにしたって、まるで純情を弄ばれたかのようなこの行き場のない感情をどうしたらいいのか!

 もしかして深層心理にその気があるのかと思いきや生娘のような態度を取られ、ではその気がないのかと思った途端に行動を移してくる。そして意外に調子に乗りやすく、放っておくと色々恥ずかしいことになっている。何故か敬人はこちらが振り回していると思っているようだがところがどっこい。振り回されているこちらの身にもなってほしい。

 ──おや、これはマリッジブルーでは?

 悶々としていると、何か勘違いしたのか敬人は息を吐き「やはり式ぐらい挙げたかったのか」と言った。

「貴様の冠婚葬祭はすべて俺がみる約束だったのにな」

「結婚式に憧れはないから安心して」

 振り向きながら英智が答える。「仕事で何回もしてるしね」

 腑に落ちない様子の敬人は黒の紋付き袴を身に纏っている。かくいう英智も白いタキシード姿である。

 今回の仕事は、最近できたばかりという結婚式場の宣伝に使う写真撮影で、提携している雑誌の取材も含まれていた。新しい結婚式場は和風の庭園の中に独立した西洋の教会と、本格的な神前式のできる会場があるのが売りだそうで、和洋それぞれのイメージモデルに偶然にも二人が選ばれたのだった。休憩のときに抜け出した英智の様子を敬人は見に来たのだ。

 英智は背広の裏から衣装ではない指輪を取り出すと、敬人に握らせた。

「でもせっかくだから、改めて誓ってくれる?」

「いいだろう」

 指輪を受け取ると、英智の左腕を取り、その華奢な薬指にそっと通す。

「いくらでも、何度でも誓ってやる」

 それから自分の指輪を渡すと、英智も同じように薬指に通してやった。

 敬人の贈った指輪は、二つ合わせると一つの形になる。

「貴様は違うと言ったが、やはり俺にとっては貴様は魂の片割れだ。もう一人の俺だ。俺が信じる限り、それは未来永劫変わらない」

「自分自身をここまで愛している敬人はとんだナルシストだよ」

 英智が苦笑いする。「敬人がそう思いたいなら、僕はそれでいいや」

 指輪の上に口づけをする敬人を眺めてたが、そのうち英智は「おや?」と引っかかりを覚える。

「敬人、もしかして」

 そう言い掛けた途端に、金色の鐘が大きく身体を震わせた。

 思わず鐘塔を見上げると、その隙に身体を引かれ、気づくと敬人の腕の中にいた。耳元で囁かれた言葉は鐘の音に負けずにしっかりと聞こえて、背中に腕をまわす。

 頭上でしばらく、鐘の音が鳴り響いていた。

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