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- matsuo
- 2021年6月21日
- 読了時間: 6分
犬も食わない
風呂から上がり、「レノ」と呼ぶと、レノックスは小さな折り畳みテーブルの上で作業していた手をとめて、「ああ、どうぞ」と膝を叩いた。固い膝を枕に寝っ転がると、持ってきた本を開く。レノックスもまた実験の結果をノートパソコンに打ち込み出した。
一年も経つと、この生活にも関係にも随分と慣れに慣れきって、今や数十年連れ添ったかのごとき貫禄がにじんでいる。もともと二人とも恋愛にさほど興味がないし、必要以上に構われたいタイプではなかったので、今の状態が一番自然なのかもしれない。それでもこうしてなんとなく一緒にいると落ち着いたし、何より居心地が良かった。
持ってきていた本を読みふけっていると、ふ、と鼻のあたりがこそばゆくなった。本を閉じて、もぞもぞと体勢を変えると、顔を隠すようにレノックスの腹のあたりに顔をおしつけた。
「……ひくちっ」
レノックスがびくりと体を震わせた。一発で終わらず、くちっ、くちっと繰り返す。鼻を軽くすすってスッキリすると、またもぞもぞ頭を動かして仰向けに戻ると本を開いた。
ん?
さっきまでなかったはずの違和感に、思わず本から目元だけ覗かせて見上げると、レノックスは気まずそうに視線を明後日の方向へ向けている。
「すみません、事故です」
「あ、ああ……」
すぐにおさまるので気にしないでください、とレノックスは反射で見えないレンズを押し上げた。まあ事故はあるよなあ、とファウストも気にしないでやろうと、再び活字を追い始める。が、どうにも活字が滑って頭に入ってこない。その代わりに、最後にそれらしいことをしたのはいつだったろうかとぼんやり考えた。
このままおさまってしまっていいのだろうか。
レノックスのベルトに手をかけた。ぎょっとするレノックスの反応も気にせず、バックルをガチャガチャとさせる。
「僕がしてやる」
バックルのピンを穴から抜こうとしていると、レノックスはえらい慌てようで、ファウストの肩を掴み、勢いよく、しかしできるだけ優しく引きはがしてきた。
「ダメです」
「なんだ、遠慮するな」
「絶対ダメです。今日めちゃくちゃ汗かいてるので」
そういえばファウストは風呂を済ませていたが、レノックスはまだだった。それにしても普段感情のわかりづらいレノックスがこうも慌ててるのは珍しい。なんだ意外にかわいいことを気にするんだな、と笑いを堪えながら、少し反応をみることにした。
「別に僕は気にしないけど」
「そういう問題じゃありません」
再び顔を近づけてこようとするファウストの肩をぐいと、押し戻す。あまりの強情っぷりに、さすがに少しむっとすると、ファウストは身体を起き上がらせて居直った。
「……でもおまえ、僕には同じことしたことあっただろ」
「ファウスト様はいいんです」
レノックスらしからぬ、子供のような理屈である。
「俺とでは汗の分泌量も代謝も、生まれもっての体臭も何もかも違います」
「……それはさすがに気にしすぎじゃないか」
体臭なんて別に今まで気にしたことなかったけど。本心からそう言ったところで、いえ全然違いますとレノックスは一歩も譲らない。そのうちに、
「なんでそこまでしたいんですか」
目を細めて、むっとした表情で視線を逸らした。レノックスがファウストに対してここまで不機嫌を顔に出すのは、これまたかなり珍しかった。
なんでかと言われれば、レノックスのこの態度が珍しかったからにほかならない。彼は滅多に慌てたり不機嫌な態度を見せなかった。ファウストをたしなめるときも、いつも大人の対応をした。正直、かなり早い時点でひとかけらもそんな気分ではなかったのだが、物珍しさでちょっかいをかけているうちにこんなことになってしまったのである。
「とにかくダメです」
そう言うと、急いで机の上を片づけて、脱衣所に消えてしまった。その後ろ姿がどことなくぷりぷりしているように見えたのは気のせいだろうか。
一人残されて、部屋の端に綺麗に畳まれて置かれてある敷布団に、ぼすっと寄りかかる。
最初のうちは呆気に取られていた。それから、どう考えても今日のは自分が悪いことを反省もした。しかし、そのうちに彼が完全に己の行いを棚にあげてることに、だんだん腹も立ってきていた。確かに彼はファウストの嫌がることをしないし、普段から紳士であるし、今の今まですっかり忘れていたほどにたいしたことではないが、まったく無いわけでは無いのである。
「あの頑固眼鏡め」
フン、と吐き捨てると、聞こえていたのか廊下から「口が悪いですよ」とたしなめる声が聞こえた。
ファウストは一切合切すべて無視して、部屋に引きこもってやることに決めた。
〇
思えば、今までレノックスと喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。
意見がぶつかれば普段ならたいていレノックスが折れたし、彼が頑固なところを見せれば、決まって折れるのはファウストだった。レノックスに勝てたのは、この家に呼んだときぐらいか。
二人とも不毛な喧嘩を続けてまで意地を張って、関係を悪くさせる性分ではなかった。お互い頑固ではあるが、意地っぱりではない。自分が折れることができるなら折れてしまうし、どちらも譲らないのなら、割り切ってしまうのである。
それは一見、良好な関係に思える。だが、はたして本当にそうなのかはわからなかった。結局腹に一物あるまま生きることではないのだろうか。どちらかが我慢を強いられた関係が、長く続くとは到底思えない。
自室のベッドの上に寝っ転がりながら、薄い壁の向こうから聞こえるドライヤーの音に耳をすませる。
多分、そのうちレノックスがこの部屋の扉をノックするだろうなとファウストは予想立てる。そして、きっと彼はすぐに謝るだろう。何にたいして謝っているのかわからなくても、自分の意見は曲げなくても、大人らしく彼は必ず謝る。そうして、すぐに許しが得られたらそれで良くて、もしダメなら怒りもおさまっているだろう翌日にもう一度同じことをする。それの繰り返しなのだ。
脱衣所のドライヤーの音が止んだ。廊下の足音が部屋の前を通り過ぎて居間の方へと向かう。しばらく経ってから、また足音が戻ってきた。
「ファウスト様」
扉を二回ノックして、レノックスは話しかけた。
「さっきは、すみませんでした。いろいろ、俺のためにしようとしてくださったのに」
ファウストは黙りこくったままである。絶対に反応してやらないと決めていた。
レノックスも黙っていた。その間も扉の向こうからずっと気配はする。彼は考えているようだった。
聞いてやるつもりはなかった。
それなのに、彼の次の言葉を待っていた。
「仲直りがしたいです」
扉の向こうで、レノックスは言った。
「俺と仲直りしてくれませんか」
扉に背を向けるように、ベッドの上で体勢を変えた。しかししばらくすると、立ち上がり、扉を開けると寝間着姿のレノックスが立っていた。
「例えばだけど」視線を落としたまま、ファウストが言った。「どうやってする?」
口の端を少しだけあげて、レノックスは提案した。
「一緒に考えてくれますか」
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