「どうしていつも我が物顔で人の寝床に入ってるんだ」
寝っ転がりながら読んでいた本から英智が顔をあげると、部屋の主がベッドの脇に仁王立ちになり見下ろすようにしていた。
「せっかく寝床を別にしたのに意味がない」
「一人寝は寂しかろうと」
「寂しい前に狭いな」
しかし退かすつもりはないらしく、詰めろとでも言うように手で奥へと追いやる仕草をしている。
布団に入ると、敬人は枕元に置いてあったリモコンで部屋の明かりを消してしまったので、「あっ、本読んでたのに」と文句を言うと布団の中へと身体を沈めながら「文句があるなら自分の部屋で読め」と至極正論が返ってきた。
「明日休みなのにもう寝るの?」
「休みだからといって昼まで寝てられるか」
仕方なしに本を枕元に置いてから、しずしずと口元まで毛布をかぶると、敬人はそれで話を終わりにするかのようにさっさと背を向けていた。
目を瞑ってみるが、カチカチと響く時計の音がいつまでも気になる。ちらっと隣の様子を窺うと、敬人は身じろぎ一つせずにその体勢を維持していた。
戯れに「えいっ」と脇腹をつついてみると、「うひゃあ」とも「ひゃんっ」ともつかぬ声が上がった。
「……敬人は随分とかわいい声で鳴くね」
「ええい、やめろ」
「ほら、耳まで真っ赤だよ」
「暗くて見えないだろ。さっさと寝ろ、追い出すぞ」
敬人が背を向けたまま顔半分が隠れるまで布団の中へ潜り僅かばかりでも抵抗の意思を見せると、英智は彼の身体の上に上半身を乗り上げ、布団から覗く耳に口を寄せて、ふうっと息を吹きかけた。
「英智!」
思わず耳を押さえながら身体を勢いよく起こしてにらみつけると、英智はけたけたと笑いながら布団の中に逃げるように潜りこんだ。
しばらくその体勢のまま英智の次の出方を窺っていたが、満足したのか英智は長いこと布団の中に潜ったまま出てこなかった。釈然としないままもう一度横たわる。
英智があの手この手で敬人を寝かさないようにちょっかいをかけるのは、幼い頃より続く歴史ある攻防戦である。幼い頃は本気で抵抗してそのうち二人とも疲れて寝てしまっていたが、最近は英智の好きにさせてしまっていることが多い。甚だ不本意。
長い間敬人自身でも忘れていたが、負けず嫌いは性分である。このままやられっぱなしでフェードアウトするのもおもしろくない。ここは一回だけでも反撃してやろうと、同じように背を向けていた英智の脇腹のあたりを、寝間着を下からたくしあげるよう素肌にそろっと触れると、その瞬間こぼれるような甘く高い声が空気を震わせた。
慌てて手を引っ込めながら「変な声をだすな!」と叫んだ。
「自分でしといて驚かないでくれる?」
「そんな空気でも無かっただろ」
「敬人の触り方がいやらしいからだよ」
「普通に触っただけだ」
「別にはじめてでもないくせに何を今更照れてるんだよ」
「腹をくすぐるな!」
英智が後ろから抱きしめるように手をまわして脇腹に一点集中攻撃をするので、逃げようと身をよじる。首筋に英智の細い髪がさらさらと触れて、くすぐったいことこの上ない。
両腕をひっぺがえそうとすると、逆に抵抗した英智の片足が両足の間に入り込んでもつれた。なんとか腕を離すとそのまま足を挟み込んで体をひねり、手首をベッドに押しつけてマウントを取る。
若干上がった息を整えてから顔をあげると、鼻先がくっつきそうなほど近くに英智の顔があった。透き通った青い瞳から逸らすように目を伏せると、下唇を甘噛みされた。
噛んだところを舌でなぞられ、思わず喉が鳴る。ふっと吐息と共に小さく開いた唇から舌を差し込むと、すんなりと受け入れられた。英智の手首を解放すると、細く長い指は敬人の後頭部を支えるように触れ、そのままつうっと首筋に指を這わせる。鼻にかかった低い声が漏れ、舌を強く吸いあげる。
だが身をよじった際に足の付け根を太股でこすりあげると、敬人は身体を起こしてしまった。
「しないの?」
「しない」
「どうして?」
「少し熱がある」
「いつものことだよ」
「いつもよりも少し高い」
身体を退かせると、顔に陰を落とす前髪をはらうように英智の髪に触れた。「おい、拗ねるな。何かあったらじゃ遅いだろう」
「拗ねないよ。子供じゃあるまいし」
髪を耳にかけてやりながらこめかみに口づけると、「子供にするみたいにしないで」と英智はしばらく目を伏せてむっすりしていた。
それから顔をあげ、敬人の目をまっすぐ捉えると「本当はしたい?」と尋ねた。
敬人は少し言い淀んでいるようだった。「ああ」
ふうん、と疑るような眼差しを向けていたが、敬人が布団の中で抱き寄せるとおとなしく肩口に顔を埋めた。
「寝るまで背中とんとんして」
「子供扱いされたくないんじゃないのか」
「いい」
英智が眠りにつくまで、幼い子にするように敬人は何度も背中をさすっていた。
○
未だに、幼い頃の夢を見る。
具合の悪い日だとか、人に嫌なことをした日だとかに特に多い。幼い頃の夢には必ず敬人が出てくる。夢の中の敬人は今よりもちんちくりんで、今よりももっと融通が利かなくて、もっと怒ると恐かった。
鐘の音が聞こえて、顔をあげた。青銅が鈍く震えるその音は、規則正しく等間隔に、時を刻んでいた。
またあの日の夢だと思った。
幼い頃、どこかの葬式で寺の中を迷った記憶。
梵鐘の音の聞こえる方へと歩みを進めているうちに、視界がチカチカと白くなりだしていた。遮るものが何もない太陽は、真夏でもないのに容赦なくじりじりと脳天を焦がし、帽子を忘れてきたことを後悔した。
英智を取り囲むようにそこにある背の高い生け垣は、出口のない迷路のようであった。
その場に座り込むと、首ごと地面に落ちた椿の花が目の前にあった。突然飛び込んできた鮮やかな赤に吐き気がして、英智はぎゅっと目を瞑ると、じっとしてそれが通りすぎるのを待っていた。いつの間にか鐘の音は止んでいた。
どれだけそうしていたかわからない。
目を開くと、腕の隙間から小さな足が見えた。
足の主は英智と同じようにしゃがむと、両手を伸ばして英智の両頬に触れる。小さな手はひんやり冷たくて、死神のようだった。
彼は英智を背中におぶろうとしたが、それらしく形を保って歩きだそうとした途端に大きくよろけた。
自分と同じくらいのひょろひょろの手足はそれでもなんとか体勢を立て直して、一歩一歩と地面を踏みしめていき、最後の方は結局足をひきずっていたが無事に日陰へと運んだ。
「このまま死んでしまうのかと思った」
大きな木の下に横たわった英智が呟くと「そんなわけがない」と小さな死神は用意していたペットボトルの水の蓋を開けてやりながら言った。
「貴様の冠婚葬祭の面倒はすべて俺が見てやるのだから、俺のいないところでそれはありえない」
昔から敬人は度々そんなことを言った。
度々そんなことを言いながら、彼は英智の具合が悪くなれば走ってでも駆けつけてきた。いつまでも目を覚まさないときは今でも枕元に立って、起き抜けの英智に寝坊助と怒る。
木陰に遮られた向こうの青い空を見ながら、彼はいつまでこうしてくれるのだろうかと思った。
○
胸のあたりがずしりと重くて、目が覚めた。
ついにポンコツの心臓が止まったかと思ったらそうではなくて、胸の上にまるい後頭部が、重石をするかのように乗っかっていたからであった。
きれいに切り揃えられた髪に指を滑らせると、「起こしたか」といつもより低くはっきりしない声が言った。
敬人は枕にするように、胸の真ん中のあたりに方耳をぴったりとくっつけている。
「敬人、昔からそれ好きだね」今にもまた閉じそうな瞼をしぱしぱさせながら英智が言った。「僕が生きてるか確かめるの」
「貴様が一日健やかであれば、俺も健やかにいられる」
「僕は重いんだけど」
「俺の特権だから我慢しろ」
「ちなみに今日の僕の調子はどう?」
「心拍は問題ない。しかし依然として少し熱っぽい。夜は気温が下がるから身体を冷やさないようにな」
「口うるさい主治医には逆らわないようにしておこう」
カーテンから洩れる朝の光を浴びながら小さく欠伸をする。猫にしてやるみたいに耳の後ろあたりをかりかりとかいてやると、小さく身じろぎしたがそれ以上は嫌がらなかった。シーツの上に投げ出された手持ちぶさたの腕を見つけると、どちらともなく指を絡める。
十年以上もの年月を、毎日自分が生きているだけで心から喜んで安堵している奇特な人間はきっと彼ぐらいなものだろう。
ぐるぐると子猫が喉をならすような音がして、人の胸の上で押し殺すようにくつくつと笑ってる男を軽くはたきながら、「朝ごはんにしようよ」と言った。
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