「思うにさ、こうして一緒に暮らしているなら、いっそ籍でも入れたらどうだろうか」
食卓の上の湯沸かし器がコトコトと揺れた。英智はそれを持ち上げると、沸かしたての湯をティーポットに注ぎ移す。敬人は読んでいた新聞から視線を上げて、なにやらまたしても突拍子のないことを言い始めた幼なじみの顔をまじまじと見つめた。
「仕事に影響が出ないか?」
「もちろん回避できるところは回避するつもりだけれど、多少はあるだろうね」
なんてことない調子で英智は言い、「でもさあ」と続けた。
「スキャンダルに繋がるリスクが高まる可能性があるにしても、こうして既に一緒に暮らしているんだから、それは今更じゃない?」
「確かに今更だな」
敬人も頷く。よくよく考えればその通りであった。「しかしそうなると余計に、俺と貴様では籍を入れたとして税金が控除されるわけでもないし、今の生活を維持するのなら入れても入れなくても、さして変わらないんじゃないか」
英智の物言いたげな視線を感じたのか、そこまで言ったところで軽く咳払いをした。「まあだからといって、入れない理由もないが」
「どっちなのさ」
「貴様が入れたいのなら入れる方向で進めよう」
そう言うなり、敬人は空いた食器を下げに立ちあがった。自分から言い出したにも関わらず、英智は敬人の返答に、ふうんと興味なさげに淹れたての紅茶を啜っている。
食洗機に食器をセットしながら、敬人は努めて冷静に、この状況を分析しようと試みていた。
昨晩までの英智の様子を顧みても、一体何故そのような考えに至ったのかてんでわからなかった。勿論結婚を拒む理由など無かった。嫌なわけがない。しかし、どれだけ突飛と思われる英智の行動にも、必ず彼なりの理由があることを長年の付き合いで熟していた故に、理由がわからないままことを進めていくのはだいぶ不気味ではあった。
食卓に戻ると、待ちかまえていたように英智は「はい」と左手を差し出した。突然のことに、自らに差し出された空の掌を見つめる。「なんだ?」
「結婚するには必要なものがあるだろう」
「婚姻届けか? さすがに俺とてそんなもの家に用意していないぞ」言葉に出しながら考えを巡らす。「ああ違う、指輪のことか。すぐにでも必要ならどちらも帰りに用意してくるが」
「それよりもっと前提のものだよ。プロポーズさ」
一瞬間を置いた後、敬人は眉間の皺を深くさせた。
「待て、俺の思い違いか? 今結婚するという方向に話がまとまったと思ったんだが」
「でもそれは僕からしたわけで、それに君は承諾した。今度は敬人からして、僕が承諾する番だよ」
「そんな話聞いたこともない。詭弁だ詭弁」
「円満な結婚生活というのはね、一番初めこそが肝心なんだよ敬人」
「何を知った風に。俺は仕事に行くからな」
呆れたように言い放つと、敬人は椅子にかけていたジャケットと鞄を掴んだ。
「ちゃんと言わないと、結婚してあげないよ!」と英智が部屋を出ようとする背中に声をかけたが、そんなものは無視してドアノブに手をかけたところで、敬人は一瞬動きを止めて振り返った。
「英智、俺と結婚してくれるか?」
「全然ダメ」
それは想像以上に素気無い返事であった。
「そら、さっさと仕事へ行っておいでよ」
○
「そろそろ結婚しないか、英智」
「ありきたりだね」
「幸せな家庭を築こう」
「僕にあまり家庭は求めないで欲しいな」
「結婚してくれたら苦労はさせない」
「そこまで君の世話になるつもりはないよ」
「……毎日、俺に味噌汁をつくってくれ」
「それは無理な相談だね」
こうして火蓋が切られたどこまでも不毛で理不尽な求婚合戦(主に一方的)から、一週間が経とうとしていた。戦線は日に日に敬人にとって不利な状況へと追い込まれていった。
そもそも始まりの時点でフェアプレーではないのである。古今東西のありとあらゆる知識を駆使し、知力の尽くす限りプロポーズをしてみても、英智は頑なに首を縦には振らないどころか、情け容赦なくばっさりとダメだしを食らわせ、こちらの心をバキバキに折ってくるのだった。
そうして時間だけが過ぎていったあるとき、ついに敬人の堪忍袋の緒が切れた。
「一体何が望みなんだ!」
大人げなく声を荒げると、「情熱だよ、君には情熱が足りないんだ」と英智は世界の終末でも告げる預言者のごとく憂いた顔でかぶりを振った。「孔雀やフラミンゴの求婚の方がよっぽど情熱的だよ」
「じゃあフラミンゴにダンスでもしてもらえ。俺はつきあいきれん」
踵を返して部屋を出て行くと、しばらくしないうちに早足で戻ってきた。そのまま膝をつき、ジャケットの裏から指輪を取り出すと、英智に差し出した。
「英智、愛している。結婚してくれ!」
「勢いは良かったけど、三文芝居感が拭えないな」求婚相手は冷静に批評をした。「指輪はまだ受け取らないから、次もがんばって」
○
「わからない、いつだって……英智が何を考えているのか」
楽屋で頭を抱えてうなだれている敬人を、「常に冷静沈着で聡明な蓮巳殿をここまで情けない姿を晒させる程度に振り回すとは……」と颯馬も思わず息を呑んで見守っていた。
「案外何も考えてないのでは。蓮巳殿が振り回されてあたふたしているところを見て面白がっているだけかもしれぬ」
「いや確かにそういう面があるのは否めないが、あいつはあいつで常に理由があって行動している。今回も何か理由があるはずだ」
よぎるのは小野小町の百夜通いである。そうなれば否応なく長期戦を覚悟しなければなるまい。しかし自分から言い出しておいて、人の心を試すも何もあるのだろうか。とりあえず今にも刀を抜きそうなユニットメンバーでもある後輩を、やんわりと制しながら敬人は更に思考を巡らせた。
「しかし意外だよな」
それまで少し離れたところから黙って二人の会話を聞いていた紅郎が話に入ると、敬人と颯馬が揃って振り返った。
「旦那はあまりそういうのにはこだわらなそうだからよ。籍入れたかったんだな」
「……いや?」
しかし返ってきた予想外の返答に、二人は思わず顔を見合わせた。
「じゃあなんでプロポーズしてんだ?」
「正直、俺としてはどちらでもいいというのが本音だ。籍を入れようが入れまいが、俺にとってこれまでと何ら変わらん。変わらず英智についていくだけだ。しかし英智が結婚を望むならそれに付き従うのみ」
さすが蓮巳殿、凡人には理解できぬ境地、と颯馬はしきりに感心しているが、満足げにそんなことを言っている男に、紅郎はなんとなくこの不毛な問題の原因が見え隠れしている気がした。
ちょうどそのとき、敬人の携帯タブレットが短く振動した。断りを入れてから、液晶画面を確認する。
「ヤケクソでプロポーズ用の花束を各種ダースで贈っておいたんだが、どうやら無事向こうに届いたようだ」
「それはもう求婚というより嫌がらせに近いのでは……」
颯馬が目を丸くしている傍ら、紅郎は溜息をついた。
「なんつーか、やっぱり長く一緒にいると似てくるもんなんだな」
○
「ちょっと、この花の山何なのー!」
楽屋に入ろうと扉を開けた瞬間、雪崩のように溢れてきた花束の下敷きになった桃李の悲鳴がスタジオに響き渡った。
「足の踏み場もないし楽屋中すんごい匂いだし! ちゃんと片づけといてよね、ロン毛!」
「おや、それは私の仕業ではありませんよ」
いつの間にか雪崩に巻き込まれている桃李を見下ろすようにして背後に立っていた渉は、犯人扱いされて心外とばかりに大きな溜息をつきながらも、桃李を抱き起こした。それから落ちていた花束の一つを拾い上げると、ほう、と顎に手をあてる。
「薔薇にガーベラ、スズラン、マーガレット、アネモネ……ふむ、送り主は誰かに熱烈なプロポーズをしているようですね」
「ああ、ごめん。それたぶん僕宛」
ひょっこり楽屋に顔を出した英智は机の上に置かれていたカードを確認する。「やっぱり敬人からだ」
「副会長からあ?」
あからさまにげんなりした顔をする桃李に対して、渉はヒュウ、と口笛を吹いた。「妬けますねえ!」
「まだまだ、こんなんじゃ結婚してあげられないよ」
「愛の為せる技です」
「でも、だんだん雑になってきてるなあ」
袖口を引っ張られて英智が視線を下げると、それまでとは打って変わってしおらしい様子で立っている桃李に気づいた。屈むとひどく心細げな顔が英智を見つめた。
「英智様、結婚しちゃうの?」
桃李は英智の袖を引きながら尋ねた。彼がその呼び方をするのは、ひどく久しいことだった。
「まだわからないよ。決めかねてるところ」と英智は静かに答えた。「桃李は僕が結婚したら嫌かな」
「完全に蓮巳先輩に取られちゃうのは寂しいよ」
桃李は言葉を選ぶようにしながら伝える。「でも英智様がそれがいいなら、僕たちお祝いするよ」
「桃李は優しい子だね」
まるい頭を撫でると、桃李ははにかむように微笑んだ。それから「さっさと片づけをしてもらわなきゃ」と、弓弦を探しに廊下を駆けて行く。
桃李を見送ると、入れ替わるようにして渉がにまにまと笑いながら隣へ立ってきた。
「いつまで先延ばすつもりなんですか?」
「いつまでだろう」
「私も無理難題をふっかけられておろおろと奔走する敬人くんは見てみたい!」
「君たちはもうすっかり仲良しだねえ」
「おや、嫌われてると思いました」
渉は悪戯っ子のように声をあげて笑うと、今度は調子を変えて尋ねた。
「また思春期に逆戻りですか?」
思わず目を見張ってから、一瞬意地悪く光ったアメジストのような瞳を思わず見つめ返すと、英智は吹き出した。「君たちにはもう何も隠し事はできないね」
「安心してください。貴方たちはもうどんなに望んだって、『二人ぼっち』には戻れませんよ」
渉はひどく愉快そうに笑う。「私が保証します!」
好き勝手に言いたいだけ言い放つと、渉は戻ってこない弓弦と桃李を探しに自分も楽屋を出て行った。一人残された英智は、足下に散らばる花束を持ち上げる。
「君たちはやっぱり魔法使いだね」
花束に挟んであったカードを見て、小さく笑うと、英智はそれを衣装の胸ポケットに仕舞った。
「いつだって、僕に大事なものを思い出させてくれる」
○
家に帰って郵便受けを確認すると、ダイレクトメールに紛れて、中学時代のクラスメイトから簡易的な結婚報告の葉書が届いていた。
こうした葉書は年とともにたびたび届くようになり、届かずとも風の噂で顔もよく覚えていない誰それの近況を聞くこともあった。今やすっかり疎遠になってしまったが、当時はアイドルなんて関係のない世界で、クラスや部活の仲間とは「それなり」に良好な関係を保っていたと思う。葉書には結婚式の写真や、既に生まれた新しい命の写真が添えられていることもあり、そこに写っている彼らはとても幸せそうに見えた。彼らには彼らの幸せがあるのだろう。
結婚なんて考えたこともなかった。
結婚は人生の墓場だと言う男もいるが、そのように思ったことは一度もなかった。むしろそれは心から喜ばしいことであるとさえ思う。ただ幼い時分より英智を支えることに終始していた自分にはそれはひどく遠く、無縁な世界であった。
そもそも一緒に暮らしているのも、お互いの利益が一致したからである。自立心の強い英智が実家から出るのに唯一許されたのが、敬人との同居であった。ただでさえ身体が弱いのに一人暮らしなんて言語道断、しかし敬人くんと一緒なら安心ということらしい。敬人自身、離れていても一緒に暮らすでも結局英智を気遣うのだから、一緒に暮らしていた方が自分の目で毎日の健康を確認できて安心ではあった。しかしこうして共に暮らしていると、はたして結婚する意味とは何かと、疑問には思う。
だが、それは英智も同じことだと思っていた。まるでフィクションのような境遇の彼にとっては尚更、結婚に願望や羨望などあるようには見えなかった。彼にはやるべきことがあり、一分一秒でもこぼすのが惜しい彼の美しい人生において、そんなものに目をくれている暇など無いように思われた。
居間に入ると、当の英智がソファに座ってすやすやと眠りこけていた。
夢の世界に旅立っている寝顔は、幼い子供のそれと変わらない。風邪を引くからと起こそうとしたところで、ふと手に握られている雑誌を見て、敬人は眉をひそめた。手元にあるのは呆れたことに有名な結婚情報誌に、旅行誌である。付箋が貼られまくっているのを見るからに、どうやらかなり読み込まれているようだ。散々振り回しておいて、本人はその気満々なのである。なのに、これほどまでに答えを引っ張っているのは何故なのか。
「貴様は一体何を考えているんだろうな」
英智の前にしゃがみこむと、柔らかい白い頬を、むにと摘んだ。
常に突拍子のないことを言い始めては、人を困らせる。よくもまあ次から次へと思いつくものだ。困らせられる側の立場にもなってほしい。しかしその立場を誰かに譲る気は毛頭ない。
何を考えているかわからない。
わからないから、面白いのだ。
○
「まったく、ほっぺが痛いよ」
英智は目を覚ますなり、頬をさすっては文句を言った。「起こすならもっと優しく起こして。乱暴なんだから」
「うるさい、風邪引いてもしらんぞ」
ぶうたれている幼なじみをいつもの調子で睨みつけると、しかめていた表情をふと崩して、英智の前に腰を下ろした。
「貴様の考えを探るばかりで、俺の考えをちゃんと話してなかったな」
言い聞かせるように英智の左手を取ると、その細く白い指を握った。英智は首を傾げながら、その言葉の続きを待った。
「俺はそれこそとうの昔に、貴様とともに歩むことを決めていたから、今更だと思ったんだ。いくら関係の名前が変わろうと、それだけは変わらない。俺さえ間違えなければいいと思ったんだが、やはり貴様は違ったんだな」
「名前がないままに消えてしまうのは、あまりにも寂しいと、思ったんだよ」
それまで敬人の顔をじっと見下ろしながら聞いていた英智は、ふいと視線をそらした。
「でもわざわざ名前をつけて、法で拘束したら、せっかく返せると思った君の人生をまた奪ってしまうことになるんじゃないかな」
「まだそんなことを気にしていたのか」
少しだけ驚いたが、英智の性格をよくよく考えれば納得できることだった。
我が儘で傲慢であり、子供のように残酷に邪気がない。そのくせ変なところで自分に自信がなく、幼なじみの人生を奪ったと勝手に気負っていたりと慈悲深かったりする。その生き様がどれだけ輝かしく映ったことか。一世一代の大喧嘩で伝えたと思ったが、それが未だに英智にはいまいちちゃんとは伝わっていないらしい。
「そんなに気になるようなら、貴様に俺の人生はやらん」
一瞬、英智が口の端を上げた気がした。それが気に入らなかった。
「代わりに貴様の人生を、俺にくれないか」
「君に何かをねだられたのは初めてだ」
ゆっくりと、瞼の下の青く美しい惑星のような双眸が露わにされた。
「あげたら、敬人はどうしてくれるの」
「貴様以上に、貴様の人生を尊ぼう。それができるのは俺以外にいない」
「それならいいや、全部あげるよ」
次の瞬間には伏せられた睫毛が影を落とすと、英智は囁くように微笑んだ。「君のよりもうんと短くて、交換にもならないかもしれないけれど」
敬人は上着から一度は突き返された指輪を取り出すと、恭しく左の薬指にはめてやった。線の細いゴールドは、英智の華奢な白い指によく似合っている。
掌を太陽に翳すようにすると、英智は指に真新しく輝くそれを見つめた。
「でも敬人、それは結局、根本は変わってないんじゃないかな。詭弁だよ」
「詭弁上等だ、何が悪い」
語気を強めて言うと、英智はきょとんとした後「むちゃくちゃ言うなあ」と声をあげて笑った。
「俺は貴様が堪らなく欲しい。それでいいだろう」
「君はホモサピエンス史上もっとも欲のない男なのかと疑ってたよ」
「それは貴様が見誤ったな。寺の息子が呆れるほどに、俺は欲深いんだ。何も得られずに人生なんてかけられるか」
「敬人が意外にスケベだったのはわかったよ」
そもそも、どれもこれも今更なのだ。
そんなことは英智がはじめて熱に触れようとした日から。いや、きっとそのずっと前から、とっくに決めていた。
恋人として肌に触れてから幾夜が過ぎた。別れ話の危機を乗り越え、共に学院を卒業し、ほぼ英智の独断で同棲がはじまり、バカバカしいことで後輩を巻き込んだ喧嘩をふっかけられ、それら全てに全力で向き合ってきた。それらの日々は常に、英智が主人公にまわるコメディであり、そしてラブストーリーであった。どれもこれも荒唐無稽で、お騒がせな主演は脚本家の言うことなんて聞きやしない。しまいには紙と筆を投げ捨て、おまえも舞台にあがれと言う。
お手をどうぞ。スポットライトを浴びた舞台の上から英智が手を差し出す。
手を取らない愚か者がどこにいよう。
主人公と人生単位のアドリブ劇なんて、最高の贅沢にも程がある。
英智は変なツボにでも入ったのか、身体を折り曲げてくつくつと笑っていた。そういうスケベな話ではないのだが、英智が気に入っているのならいいだろう、と若干の気恥ずかしさを納得させた。
英智ひとしきり笑ったあと、目尻にたまった涙を拭いながら「でも、まだ足りないものがあるよ」と笑いをかみ殺しながら言った。
「もちろん。プロポーズのあとは優しくキスして、そのあとは」
そのあとは。それから言葉が続くことはなかった。身を乗り出して英智の唇を塞ぐと、そのまま押し倒すようにソファの上に乗りあがる。
そのあとは?
呆気に取られたように見上げてくる英智は、何度かぱちぱちと瞬かせたが、やがて吹き出すとしがみつくようにして敬人の首に腕をまわした。
「そのあとは、たまには君が教えて」
Comments