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OVER THE NIGHT.

「最近のラブホテルというのはすごいんだね」

 生徒会室の柔らかいソファに腰を落とし、大きく足を組みながらノートパソコンに目を向けていた英智が出し抜けに言った。

 また何か突拍子もないことを言い出したぞと、あからさまに無視を決め込んで書類に目を通していたのだが、英智はお構いなしに話を続ける。彼は先ほどからノートパソコンでネットサーフィンをしながら「すごい」とか「わあ」とか「これは……」などと発していたのだが、一体学院のネット回線を使って生徒会長が何を調べているのか。

「僕はこれまでこういったホテルというのは行為をするための場所をリーズナブルに提供するだけの存在として認識していたんだけれど、さすが一つの目的に特化しているだけのことはあるね。ほら、すごく面白そうだよ。お風呂から泡が出て、ベッドが回って、部屋がピンクになるんだよ。回るベッドに一体なんの意味が」とひとしきり感想を述べたあと「ねえ敬人、ちょっとかっこよくラブホまでエスコートしてよ」と無理難題を吹っかけてきた。

「貴様の家の風呂の方が広いし泡も出るし、ピンクの部屋でベッドが回ったら気持ち悪くなるだろう」と冷静に答えると、英智はきょとんとしてから「それもそうだね」と調べものに戻った。

 しかししばらくすると「でもほら、コスプレ衣装にスタジオ風の部屋も用意してあって、こんなにも安易に非日常を味わえるんだよ」とノートパソコンを持って見せに来るので、敬人は手を止めてさすがに苦言を呈した。

「英智」

「敬人はセーラー服とナースだったらどっちがいい?」

「おい、こっちは引き継ぎの仕事が終わらなくて、こうして残ってやってるんだぞ」と睨みつけた。「それに貴様のセーラー服姿もナース服もバニーガールも見たくない」

「だって敬人が仕事をさせてくれないんじゃないか」

 仕方なしに書類の束を一山渡すと、彼は満足そうにそれを抱えて生徒会室の自席に戻って行き、そこで「ああ、そうだ」と思い出したように振り向いた。どうも本当の用件は別にあったようだ。「敬人、金曜はユニットの練習ないよね」

「生徒会の事務仕事は残っているが、まあずらせないというわけでもないな」

 訝しみながら答えると、「お世話になっている家に挨拶に行くから、敬人も来なよ」と誘われた。

「変わり者のおじさんで、やたら交通の便の悪いとこに住んでいるんだけれど、うちとは切っても切れない大事な縁のあるお家でね。年始に挨拶できなかったから、こちらから今回わざわざ伺うことにしたんだけど、それだけでどういった関係かはわかるだろう。学校休むことになるけど、これからうちの家業を本格的に手伝うのなら君も挨拶しておいたほうがいい」

 承諾すると彼はにっこり笑って、書類に目を落とした。

 そんな英智の様子を確認してから、敬人は彼に見つからないようこっそりと息をついた。

 以前から際どい話を吹っかけては反応を面白がってくるところがあったが、それをプレッシャーに感じるようになったのはわりと最近のことである。

 一応正式に交際を始めることになってから数カ月経った頃、「敬人、そろそろ」と英智は俯きがちに、先ほどまで触れあっていたばかりの唇を軽く噛みながら言ったのだった。

 そろそろとは、と聞き返してから、さらに俯く英智の表情を見て察した。つまり、そういうことである。彼は次のステップをお望みなのだ。

「まさか校則違反とか言わないよね」

「貴様の身体に無理を強いるわけにはいかない」

「敬人はしたくないんだ」

「そういう問題じゃない」

「どういう問題なのか言って」

 考え抜いた結果「段階的にまだ早い」と端的にまとめて言えば「十年近く一緒にいて、これ以上なんの親睦を深めるというんだ」と返ってきて、確かにそれもそうであった。

「とにかく、こういうのは段階を踏んで、万全の準備を施し、体調を考慮し問題ないと判断できた、しかるべき日にするものだ」

「それ四年に一度とかになるよ」

 オリンピックだよオリンピック、と英智は呆れた顔をした。

 さすがに極端すぎるが、むしろそれぐらいの気持ちでいても構わないんじゃないだろうかと考えていると、英智に睨まれたので「オリンピックはまずいな」と頷いて体裁を保った。

「次、いつできるかもわからないのに」

これだけ体調が整っているのは今日が最後かもしれない、そう言いたいのだと思われた。掠れた小さな声でそう言われてしまうと、きつく締め付けられるように心が痛む。

更に「敬人はその気が無いのに、僕ばっかりエッチみたいじゃないか」と続いてしまえば、こんなことまで言わせてしまった情けなさに、しょんぼりしている細い身体を抱きしめ、「もう少しだけ時間をくれ」と囁くほか無かった。この期に及んでまだ時間稼ぎをしているが、そこは大目に見てほしい。

 あくまで誤解無きよう、誤解をおそれずに言えば、性欲はある。詳細は省くがそれは確かである。それに一度受け入れてしまえば、そちらの方面での愛情もまた日に日に増すばかりであった。「こんなにじじくさくなっちゃって」などと英智に度々可哀想がられるものの、やはりここは健全な男子高校生であるので、あんまりそういう雰囲気にあれよあれよと流されればこのままなし崩しにしてしまおうかと思ってしまうことも一度ならずあったが、その度に万里の長城が如き悠久たる理性の壁が己を保たせていた。

 英智の身体のことはやはり問題であった。何をしたって第一に優先しなければならない課題であったが、しかしあんまり恐れていては何もできやしない。二人で対等な関係の元、共に生きると決めたのだ。決めた以上は逃げるつもりはない。英智の負担をいかに減らせるか、それが己の力量を見せどころであった。

 しかしそれこそが問題であった。

 現時点で、英智の体調に関してを抜けば、一番の難問だったのだ。

 つまるところ。

 セックスの仕方が、よくわからなかったのだ。


     ○


 この世に生物として生を受けた以上、よほどの事情や信念がない限り避けては通れない重要な事柄であるというにも関わらず、学校で教えるのはそのわずか一端である。教科書に載っているのは「ホモサピエンスの生殖行為は勃起したペニスを膣の中に入れての射精である」という細部の省略に省略を重ねた当たり障りのない説明だけであった。

 そんなもん知っているわ。

 こちらが本当に知りたい知識とは「上手にエスコートする方法」や「相手に負荷がかからない方法」などであって、「蛙の排卵は水中で行われます」と同等の知識を教えてもらっても、ここではなんの役にも立たない。アダルトビデオや雑誌は男の欲望による誇張が激しすぎてもはやフィクションの世界の絵空事であり、リアリティに欠ける。ではどうすればいいかというと、結局は真偽性の不確かなネットの情報に頼るほかないということである。これはどうなのだと日本の性教育に怒りすら湧いてくるが、こんなところでむっつり怒っていたってしょうがない。

 こういうとき常日頃から猥談で盛り上がれる友人でもいれば別だったろうが、幸か不幸かそんな友人は敬人にはいなかった。デリケートな話題である故に、クラスメイトに聞くのもはばかれる。なぜならさすがにそこまでは仲良くない。

 考え抜いた挙げ句、敬人は颯馬や鉄虎がいない瞬間を見計らって、紅郎にそれとなく尋ねてみた。お天気の話題から始め、次回のドリフェスや定期テストなどの話題に移り、ついには時勢についての話題を混ぜながらとても回りくどくぼやかして聞いてみたところ、「は?」と答えられた。無理もない。自分も紅郎に同じように質問されても「は?」と返すことだろう。そのまま紅郎とは「学院の為、明日も共に邁進しよう」と言って笑顔で別れた。

 いっそのこと英智に身を委ねてしまえたらどんなに楽だろうかと考えた。「ふふ、敬人は身を任せてくれていいよ」などと囁かれながら、「あっ、ちょっ、待て英智、ああ……」と歳の数だけ守ってきた純情を奪われ、あっという間に男にしてもらう様を想像のするのはあまりにも容易かった。というか、常日頃だいたいそんな感じである。しかしそれでは英智にだけ頑張らせるようで、どうしても選択肢には入れられなかった。

 そうして悶々としているうちに日ばかりが過ぎて行く。

 土曜か。

 壁にかかったカレンダーを見ながら敬人は腕を組んだ。

 心配事はあるものの、それは一旦区切りである。どういう縁にあたるのか英智の説明ではいまいちよくわからなかったが、英智がわざわざついてきてほしいと言うのだから、ついていくほかない。彼が能動的に敬人を頼ろうとするのはここ最近ではあまり無かったため、それは少し嬉しかった。

 部屋を暗くして布団に潜りこんでから、そういえばキスも何もかも、はじめたのは英智からであることに思い至った。昔こそ英智を導いていたのは自分であったはずなのに、いつの間に逆になってしまったのか。できれば対等でありたいものである。


     ○


 土曜の朝、迎えに来た天祥院家の車で数時間ほど揺られて連れて来られたのは、海みたいに大きな湖の畔にある町だった。

 そのお世話になっている人物というのは、湖の真ん中の孤島に豪邸を建てて静かに暮らしているというのだが、その島まで架かる橋は無く、船で渡る以外の手段はないのだという。

 予定より早く着いたので、船を用意している間に近くの土産屋や神社などを見て回ることにした。

「寺の息子は入っていいんだっけ」と尋ねられたので、「仏の慈悲は神をも救う」と堂々と鳥居をくぐった。

 それなりに格式のある神社のようであったが、他の参拝客の姿はちらほらと見える程度である。ナントカという地元では有名な彫り師によって装飾を施されたという立派な拝殿にて参拝してから、たまにはとおみくじを引き、お互いの結果にああだこうだと言いながら木の枝に結びつけたりしていると、手水舎の横に小さな木戸があることに気がついた。

 木戸の先には庭園が広がっていた。ひと気のない順路に沿って植えられている庭木には、紅い椿の花がぽつぽつと彩りを添えている。

「昔、君と一度だけこういった和風のお庭に行ったことがあったね」

「そうだったか」

「どこかの家の法事に行くからってついていったんだっけ。目を盗んで抜けだした僕は迷子になって、ふと見た足元には首の堕ちた椿の花が散らばっていた。僕はひとりぼっちで、ああ、そうだ。あのとき、僕はとてもこわかった……」

 そのまま進んでいくと、道は水たまりみたいな川を渡る飛び石へと続いた。石が濡れていたので先に渡ってから手を差し出すと、英智は躊躇いもなくそれを取りかけてから、はたと気がついたように渋い顔をした。

「もし俺だけ落ちたら嫌だから道ずれだ」

「陰湿だなあ! いつもは風邪引くからって怒るくせに」

 腕の中に迎え入れた際に一度だけバランスを崩しかけたが、二人して川に落ちるようなことはなかった。そのまま手を握って庭園を見て回り、その間に何度か肩が軽くぶつかった。こうして並んで歩くのは久しぶりな気がした。いつの間にかどちらかが一歩下がって歩くのが常になっていた。

「見て、もう梅が咲いてる」

 手を引きながら、英智がほほえんだ。

 ああ、なるほど。

 確かにこういうのは、悪くない。

 四季の草花に囲まれた小径を抜けると、突然それまでの景色が一気に晴れた。眼前に広がるのは堂々とそびえ立つ真っ赤な鳥居と、四角く切り取られた海のような湖面であり、確かにその先に島のようなものが見えた。鳥居の向こう側の空には、それまでカラッと晴れていたのが嘘のように、薄ら黒い雨雲が浮かんでいる。

 そのとき「ああ、駄目駄目」と箒を持っていたおじいさんが手を振りながら追いかけてきた。神職というよりは庭師のように見えた。

「入ってはいけなかったんですか」

 敬人が尋ねると、いいや、とおじいさんは首を振った。

「ここの神さんは嫉妬深いから、境内でいちゃいちゃしてっと祟られるって言われてんだよ」

 おやまあ、と英智が目を丸くした。


     ○


 たっぷり水分を含んだ黒い雨雲はみるみる大きくなり、そのうちに風まで強く吹き始め、車に戻ったときには湖面は大きく荒れ狂うように波立ちとても船を出せるような状況ではなくなってしまった。天祥院家の財力を駆使すればなんとか行けないこともないだろうが、無理をさせるべきではないと判断し、急遽近場のリゾートホテルに部屋を借りることになった。

「このへんは天気が変わりやすいんですよ。まるで神様が怒ってるみたいで」とホテルのフロントはルームキーを渡しながら申し訳なさそうに頭を下げるのだった。

 部屋で落ち着いてからも、窓の外の雨音は激しさを増していた。強風に煽られた雨粒は窓枠を叩き、滝の如く轟々と音を立てて雨樋の中を下っていった。通されたツインルームは露天風呂がついており、晴れた日であれば雄大な景色を一望できたことだろうが、残念ながらこの天気では外で目を開けていることすらままならない。

 シャワーを浴びてきた英智が窓の外を見ながらため息をついた。

「入りたかったのか」

「そういうわけでもないけど。僕は結局修学旅行とか行ったことないから」

 英智はカーテンを閉めると、ベッドの端に腰掛けて作業している敬人の手元をのぞき込んで「うわっ、こんなとこでも仕事してる」と呆れた顔をした。「ご苦労様です」

 そのまま隣にちょこんと座ると、敬人の肩にもたれかかった。

「疲れたか?」

「少し」

「さっさと休んだ方がいい、俺ももうやめるから」

「そのままで構わないよ」

 そうして目を瞑ってじっとしていたが、しばらくすると「雨やまないね」とぽつりと呟いた。

「敬人は雨嫌い?」

「嫌いと言うほどでもないな」

「そう」

「雨の音がうるさいな」というと、英智は少し顔をもたげて窓を見やったが「そうでもないよ」と言った。

 そうだろうか。首筋に触れている金色の柔らかい髪が揺れる度にふわふわとした言い難い香りが漂ってきて、わずかに顔を背けると、英智は途端におもちゃを与えられた子供のように口の端をあげ、顔をのぞき込んできた。

「敬人、恐い顔してるよ」

「別にしていない」

「なんで怒ってるの」

「怒ってもいない」

「そっか、眉間の皺は生まれつきだったね」

 吹き出すや否や、「えいっ」とやたら可愛らしい掛け声とともに、英智は顔を首元に押しつけるように抱きついて、勢いのままベッドに倒れ込んだ。二人分の重さで柔らかなベッドが大きく軋む。「敬人は可愛いね」と言う声もまたふわふわしていて、優しく少し垂れた目を細めるとクスクスと笑った。

 英智が何か続けているのに、更に激しさを増していく雨音が気になってうまく聞き取ることができない。それなのに彼の声だけはしっかりと鼓膜をくすぐり、大きく木々を揺らす風の音と合わさって、心をかき乱した。脳裏に焼きついた少しだけ泣きそうな英智の声が、表情がよぎる。

 気がつくと、組み敷かれた彼を見下ろしていた。

「してもいいか」と尋ねると、英智はぱちぱちと何度か瞬きをして、そして何故か「はい」と敬語で答えた。

 そろそろと彼の白い肌の上を滑らせるように触れながら、必死で次の一手を考えていた。蓄積してきた知識を一同に集め、現状における最善策を組み立ててはばらし、また組み立て、次はどうしたらいいのか、何が正解なのかを講じ続けた。次は何をすればいい。何をしてはいけない。ひどくうるさい、雨音。ザアザアと耳のすぐ近くで鳴り続ける雨音はラジオのノイズのようで、ぶつぶつと思考が途切れさせられて気持ちが悪い。雨音。ノイズ。考えがまとまらない。

 ああ、雨がうるさい。

 ふと触れた英智の指先が、ひどく冷えていて、一瞬心臓が止まりかけるほどに驚いた。ずっと雨に濡れ続けていたみたいに白く冷たくなっていた指先を慌てて握りこむ。

 英智は枕に顔を押しつけて、必死で息を殺していた。

 先ほどまでが鳴り立っていた雨音は嘘のように止んでいた。その代わりにまるで水の中にいるみたいに、空気がどこまでも重くのしかかり、うまく息が出来ない。英智、と呼んだ自分の声が遠くに聞こえた。

 英智。もう一度名前を呼ぶと、英智は枕の端から顔を覗かせた。

「ねえ違うよ、びっくりしただけだよ」

 そんな必要は無いのに、彼は弁明した。「びっくりしただけだから」

 なぜ失念していたのか。英智もまた初めてするはずであるのに、肉体的負荷ばかり気を取られて精神にまで気が回っていなかった。

「俺が悪かった、やめよう」

「僕は大丈夫だよ」

「大丈夫じゃないから言っているんだ」

「大丈夫じゃないのは君の方なのに、僕のせいにするのはやめてくれ」

 彼は敬人の腕を掴むと、その掌を両手で勢いよく挟むように叩いた。じんじんと痛む指先に血が巡りはじめて、ようやく自分の指先も彼のと同じぐらい冷えていたことに気がついた。

 ああ、と嘆息した瞬間、どっと肩の力が抜けるのを感じた。自分は物事を考えすぎる、と今度は冴えた頭で分析した。間違えたくないと考えに考え抜いた挙げ句、また見落としてしまった。おそらくい十人中十人が意気地なしで身勝手な童貞と笑うことだろう。幼い頃より臆病で泣き虫だった英智が決死のかぎりで「えいや!」と飛び込んでくれているというのに、なんと情けないことか。こちらもさっさと心を決めて「えいや!」と飛び込むべきだったのだ。

 英智の両掌を包むように握り直すと、息を吐きかけ、何度もさすった。

「俺はこういうのは不慣れだ」

「はじめてなことぐらい知ってるよ」

「痛くなくしてやりたいのに、やはり少し痛いかもしれない」

「痛くしてくれていいんだよ」

「そういうわけにはいかない」必死に指をさすりながら言った。「俺は、英智が痛い思いをするのだけは嫌なんだ」

 自分は物事を考えすぎる。仕方がない。それが性分なのだ。もう間違えたくはなかった。もう考えを止めることは許されない。大事なものを守るには、どうしたって慎重にならざるを得ない。

「君だからいいんだよ」

 いつの間にか白い掌は椿のように紅みがかり、熱を持ちはじめていた。

「敬人だから我慢したいんだよ」


     ○


 いつの間にか散々悩ませた外の大嵐は、しとしとと静かな雨音に変わっていた。

 思えば随分遠くまで来たようで、最初からずっとそこにいたような気もした。

 ずっと熱にうかされているようだった。頭がしびれ、熱く溶け出すような感覚に、それまでの自分たちがどうしようもなく他人であったことを思い知った。それがなんだか嬉しかった。他人が一つの人間になれるはずなんてなかったのだ。

「どうだった?」と毛布にくるまりながら英智は尋ねた。

 しかしこれほど返答に窮した質問は、おそらくこの先の人生でも無いだろう。

 それは呆気ないものだったかもしれなかった。そして当たり前なのだが、やはり少しだけフィクションとは違った。理性のタカが外れすぎることもなく、別に気を失ったりすることもなく、終われば風邪を引かれたら困るのですぐにシャワーを浴びせ、髪を乾かし、きちんと服に着替えさせる余裕まであった。

 かといってただ呆気ないだけかと言えば勿論そんなことは無く、宇宙的規模に広がるこの抽象的概念を、我が庭と同等ともいえる言葉の大海からさえ、探しだして言語化することは困難を極めた。

 つまるところ、「ん?」と目の前で答えを待っている英智の顔を見ていると「幼なじみが超カワイイ」「すごいカワイくてウレシイ」といった、普段なら鼻で笑ってしまうような愚の骨頂的表現しか浮かばなかったのだ。

 あれだけ普段から膨大な辞書を自分の中に作り上げておきながら、今の感情を言語化できる語彙を持ち合わせていないことに心底呆れたが、その間も英智は胸のあたりを指でつついて、答えをせっついてくる。

 仕方なく、敬人は言葉を捨てた。代わりに強く抱きしめた。

 腕の中で、英智は驚いたように目を見開いた。それから「ふへへ」と身体を揺らして、ふにゃふにゃと笑った。そのうち英智が顔を押しつけた肩のあたりに、じんわりと温かいものが広がっていくのを感じた。彼は泣いているのだった。

 彼の涙の理由がわからず、漏れ始めた小さな嗚咽を聞きながら少なからず動揺した。やはり痛かったのかとか、思ったよりいいものじゃなかったとか、後悔しているのかなど、そういった思いがめまぐるしく頭を駆け抜けていったが、英智はそのどれにも黙って首を横に振るのだった。気づけば己の双眸からもまた、同じように温かいものが溢れていた。わけがわからないまま腕の力を強めると、英智もまた応えるように抱きしめ返した。彼が涙するその理由が、自分とそう変わらなければいいのに、と思った。

 そうして静かな雨の降る闇の中で、声を押し殺して、子供みたいに泣いた。

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