春である。
正確に言えば暦の上ではの話であり、現代ではまだまだマフラー無しの登校では心許ない肌寒い日が続いている。それでも今日のように風が少なく日差しの暖かい日なんかも時折あり、学院のガーデンスペースでもぷっくりとした蕾が咲き誇る準備を始め、春の兆しが見え隠れしていた。
三年の教室を覗きながら廊下を歩いていると、顔なじみの先輩を見つけた。「鬼龍先輩」と声をかけると、窓辺に寄りかかって思案に耽っていた彼は「ああ、衣更か」と顔を上げた。
「蓮巳先輩見ませんでした?」
「なんだタイミングわりぃな。さっきまでユニットの打ち合わせしてたとこだよ。今は生徒会に戻ったんじゃねえかな」
「どもっす」
礼を言って去ろうとする真緒を見ながら「忙しそうだな」と紅郎が労った。
「本当に、ユニット活動ももちろんそうなんですけど、会長たちから卒業までに引き継ぐことがまだまだたくさんあって毎日てんてこ舞いなんですよ」
「さすが次期生徒会長ってか」
「俺なんかまだまだ。これでも副会長が次の世代のためにって業務を減らしてくれたみたいで頭が下がります。あの人知れば知るほどどんだけ一人で仕事受け持ってたんだって感じで、いつ寝てたのか心配になりましたよ」
「その蓮巳なんだが」と紅郎は言いかけて、躊躇った。「どうしたんすか」と尋ねてみても彼は何やら言い淀んでいる。
「様子が微妙に変っつうか」
「あっ、鬼龍先輩も思いました?」
「というと、衣更もか」
真緒は頷いた。今朝会ったときの彼は確かにいつも通りであり、そして少しだけいつも通りとは言い難かった。「こうなんて言うか、微妙に変、というか。あれ、もしかしてちょっと機嫌がいい?、というか」
「微妙に、やたら張り切ってんだよな」
「あ、それです。いつも以上に自信が漲っているみたいな、こう微妙に」
さっきもよ、と紅郎は続けた。次のユニットの仕事にて彼の提示する案は、普段の堅実な彼にしては珍しく大胆なものであり、そしていつも以上に慎重で隙のない緻密な計画であった。これは骨が折れるなと思ったが、しかしやってやれないことはない。その案自体は紅郎も気に入り、颯馬も乗り気であった。二人の承諾を得られると敬人は不敵に笑って見せた。
「共に邁進しようぞ、兄弟」
二人の肩を力強く叩いていったという。
「なんかこう、気持ちわりぃんだよなあ」
「それはだいぶ気持ちわるいっすね」
先週は逆にそわそわしていておかしかったから余計にな、などとぼやいている紅郎の話を聞きながら、真緒は開け放たれている窓に目を向けた。ふわっと入ってくる風はなま暖かい。意識した途端に何やら鼻がむずむずしてきて慌てて窓を閉めると、紅郎がティッシュを差し出していた。
「すみません、俺花粉症で」有り難く受け取るや否や鼻をかませてもらった。「つーことはもう春なんすねえ」
「今日はあったけえからなあ」
「もしかして副会長にも春が来てたりして」
真緒としては冗談のつもりだったのだが、紅郎は一瞬目を見張ると、それから得心したように「あり得る……」と頷いた。
○
春である。
正確に言えば暦の上では春であり、肌に触れる風は未だに冷たい。
しかし敬人には確かに春が来ていた。長い冬の時代を終え、地上を覆っていた雪がようやく融け出したのである。
だからといってそれから何かが変わったかといえば、今のところ特に大きな変化は見当たらない。土曜の朝に出発した小さな旅行は思いがけない地点を通過していったわけだが、その後はお互いに何事も無かったかのように本来の用事を済ませて、日曜の夜には無事に戻ってきたわけである。車の窓から「また学校でね」と手を振る英智に、「無理はせずしっかり休め」と小言を言って迷惑そうな顔をされるまで、まったくいつも通りであった。
しかしなんとなく現実味のないまま、ようやく一人になって落ち着くと、途端に様々な情景が次々とフラッシュバックのように思い起こされ、あまりの羞恥に悶え苦しむ羽目となった。
日頃から白いと思っていた肌も、細い四肢も、何度も触れてきた滑らかな髪も、その瞬間を境にそれまでとはかけ離れた意味を持つようになった。起き抜けの「敬人の寝顔を見れるのは珍しい」と眠そうに微笑みかけた英智の顔も、少し掠れた声もしっかりと脳裏に焼き付いている。これはあまりにも恥ずかしい。世の人々はこのような羞恥を人知れず堪え忍んできたかと思うと畏敬の念を抱かざるを得ない。
だが同時にむくむくとその胸にわき上がってくるのは、受け入れて貰えたことに対する喜びと自信であった。英智に尽くしたこれまでの日々、報いが欲しいと思ったことは一度もないが、応えて貰えるというのはこんなに嬉しいものなのかと改めて痛感した。
その晩、布団の中で敬人は誓った。それまでも何度も誓っていたことだが、固く誓い直した。英智に報いるべく、これまでより一層精進していこうと心に決めた。卒業まで僅かしかないが、紅月はより強固なユニットになることであろう。そして英智と共に愛した夢ノ咲学院がより豊かな土壌となるよう、この身の全力を尽くそう。
気を引き締め直して生徒会室の扉を開けると、中では既に英智が仕事に取りかかっていた。彼は顔をあげ、敬人に気付くと破顔した。
飽きるほどに聞いてきたはずなのに、「敬人」と名前を呼んでくれるその声すらも今は愛おしいと感じる。
「学校に来ていたのか」と放った声は、自分で思ったよりも優しくて、胸焼けしそうな甘ったるいむず痒さを咳払いで誤魔化した。
扉を閉めて一歩踏み出すと、英智は穏やかな微笑みで迎え入れた。ふわりと笑うその顔は、それこそ初春の風のようであった。
「別れよう」
そうきっぱりと英智は告げた。
○
「あれ副会長、今日はえらい機嫌悪いっすね」
ベンチに座って仏頂面で弁当を広げている敬人に、真緒は「お隣失礼します」と勝手に座って鞄から自身も弁当を取り出す。「昨日と打って変わって今日は寒いですね」などと話しかけても、敬人はしばらく無言で弁当のお浸しを咀嚼していたが、そのうちぽつりとこぼした。
「俺は生徒会長が何を考えているのかさっぱりわからん」
「また会長と喧嘩したんすか」
勘弁してくださいよ、と真緒は言った。「会長たちが喧嘩してると俺たちもやりづらくてしょうがないんですから」
「苦労をかけるな」
「まあみんな慣れっこですけどね」よくできた後輩は笑って見せた。「なんなら話聞きますよ」
しかし突然別れ話を切り出されて戸惑っているなんて、後輩に言えるはずもなかった。
昨日一方的に別れを告げてきた英智は、そのまま一つの説明もなく半ば強制的に敬人を生徒会室から追い出したため、彼の真意も理由も未だにわからない。
考えられる理由としては、おそらく気づかないうちに何か彼の癇にさわることをしたのだということである。それならば元を辿って謝れば仲直りする手立てはある。しかし英智は飽きっぽいところがあるので、突然色恋沙汰に興味を失ったというのも大いにあり得た。腹は立つが、そうであればもうどうしようもない。それと考えられるのは──これはあまり考えたくないことだが──敬人がよっぽど下手だったということである。それに思い至ると心が沈んだが、それにしたって説明もなく門前払いというのはあんまりであった。箸を動かしながら、あの夜の英智の嗚咽が胸をよぎった。
「でも会長、昨日の昼に会ったときは楽しそうだったのになあ」
「……楽しそうだったのか」
「にこにこして、顔色も良さそうでしたよ」
姫宮が「会長ご機嫌だね、土日に何かいいことあったの?」みたいなこと聞いて、それに対して会長も「別に何もないよ」ってにこにこ笑いながら姫宮の頭撫でてて。箸をカチカチと慣らしながら、真緒は昨日のことを思い返す。それは確かにとても機嫌がよさそうである。もっとも、既に関係を切る決意をしたからこそ、機嫌がいいとも考えられるが。
「ああ、でもそうだなあ」
魔法瓶からカップに注がれた温かいほうじ茶を受け取りながら、真緒はふっと思い出したように呟いた。
「俺が、そういえば蓮巳先輩も機嫌良さそうですよね、って言ったら途端に不機嫌になったような」
○
ホームルームが終わり、しばらく細い後ろ姿に話しかけるタイミングを見計らっていると、突如振り返った英智と目が合った。彼はそのまま穏やかな顔で微笑みかけたので、これは機嫌が良さそうだと少し安堵して近づくと「やあ、蓮巳くん」とにこやかに挨拶され、あっさりとそんな甘い考えは打ち砕かれた。
「蓮巳くんもこれから委員会に行くのかな」
「おい、どこまで初期化するつもりだ」
「君は副会長なんだよね。奇遇だね、僕は生徒会長なんだ」
「そんなこと学院中知っとるわ」
教室を出ながらそんな会話をしていると、背後で「なんかメガネくんたちがコントしてる」と面白がる薫を、「ちょっとやめなよ、ああいうのは犬も食わない」などと泉が止めているのが聞こえてきた。
そのまま生徒会室に向かう道中、一歩前を歩く英智が「今日は蓮巳くんと縁があるね」と振り返らずに話しかけてきたが、同じ委員会で目的地も一緒なのだから当然である。
他の役員はまだ誰も来ていないようで、鍵を開けて生徒会室に入っても尚、英智は穏やかな態度を一向に崩す気配がない。このままでは埒があかないと「いつまでその茶番は続くんだ」と尋ねれば、「茶番はひどいな」と困ったように笑われた。
近づいて手首を掴むと、彼はようやくその美しい眉を思いっきり寄せて「やめてくれないか!」と振り払った。
「それ以上近づいたら大声を出すよ」
「俺は間男か何かか」
手を引きながら思わず溜息が漏れた。ここまで邪険にされるとさすがに悲しくなってくる。
「何か貴様の癇にさわるようなことをしたなら謝ろう。謝って済むような問題じゃないなら、もうこれ以上この話を蒸し返すのはやめる。俺とて未練がましい男にはなりたくない。ただ理由だけは聞かせてくれ」
英智はしばらく固く口を結んでいた。気まずい静寂に包まれる部屋の中とは裏腹に、廊下を通りすぎていく生徒の楽しそうな話声や、どこかで練習されている調子外れの楽器の音色が聞こえてくる。
「敬人も結局、童貞が卒業できれば誰でもいいんだ」
ようやく口から飛び出してきたのは予想外の返しであった。
「童貞を卒業したら優越感に浸って、偉そうにふんぞり返る男なんだ」
「別にふんぞり返ってはいない」
「よく言うよ。君が浮かれてて気持ち悪いってごまんと苦情がきているんだ」
これほど恥ずかしい状況があるだろうか。
周囲からそのように思われていたことを面と向かって指摘されるというのは、確かに恥以外の何者でもない。羞恥のあまり言葉に詰まっていると、そのうちに「僕だって嬉しかったのに、敬人のせいで台無しだよ」と英智の双眸からぽろぽろと大粒の涙がこぼれはじめたので戸惑った。
「浮かれたあまり恥ずかしいのは俺だけで、貴様がそこまで気に病むことじゃない」
素知らぬ顔をしていればいいと言えば、彼は「敬人は何もわかっていない」と濡れた瞳で睨みつけた。
「二人揃って浮かれてたら、ただのバカップルじゃないか!」
○
やっとのことで口から出てきたのは「懐かしい響きだな」という言葉だった。
「俺とバカップルになりたくないから別れるのか」
「有り体に言えばそうだよ」
スン、と英智は鼻をすすりながら尚も睨みつけてくる。
なんとなく気まずい空気を破るように、敬人は口を開いた。
「俺が第三者から見て相当恥ずかしい奴だったことはわかった」
「相当恥ずかしくて痛くて見ていられない奴だったよ」
「相当恥ずかしくて痛くて見ていられない奴だったことはわかった」
律儀に言い直す。「だが頼むから、そんなことで泣かないでくれ」
「こんな馬鹿みたいなことで泣くわけないだろう!」
「いや泣いてるぞ」
頬を伝い続けている涙を見かねてハンカチで拭ってやる。西洋の人形のように整った顔が涙に濡れているのを見ていると、まるでとんでもない大罪を犯してしまったような気持ちになる。目元に加えて鼻の頭まで赤くなってしまっていて可哀想であった。
「俺も別に貴様と浮かれた関係を築きたいわけじゃないから、指摘された点は気をつけよう。恥ずかしい思いをさせてすまなかった」
どちらにしても、ここまで醜態を指摘されておきながら浮かれていられる精神力は持ち合わせていなかった。
「ただ俺でも我を忘れるほどに嬉しかったとは、その、考えてくれないのか」
それまで俯いていた英智が顔をあげたので、口元を手で覆いながら視線を落とした。
「俺は英智が最初嬉しいと感じていてくれたことに安堵したし、確かに己の行いは恥ではあるが、今もそう悪い気はしていない」
英智は黙っている。英智の白い指が投げ出されるようにしているのが目に入り、そっと触れてみる。今度は振り払われなかった。
「二人揃って浮かれているというのも、どうせ最初だけなんだから、少しぐらいはいいんじゃないだろうか」
「嫌だよ」
「いや、それは俺だって嫌だが」
顔を顰めると、それまで強張った表情で聞いていた英智は、口元をそれとなく手で隠しながら顔を背けた。「笑うな、こっちも必死なんだ」
睨みつけると、我慢できずという風についに吹きだした。「本当に、思ったより必死に言い募ってくるから」とくつくつと身を屈めて笑いを堪えている。
「そもそも最初に焚きつけておいて、今更あっさり無かったことにするのは虫が良すぎるんだ」
「未練がましい男になりたくないんだろ」
「正直言えば未練だらけだ」
「僕と別れたくない?」
「……別れたくない」
大人しく認めると、英智が触れていた指を握り返した。彼は瞼を伏せると、そのまま指を自身の口元まで引き寄せ、唇に押し当てた。その様子を息を詰めながら見守っているうちに、瞼は再び持ち上げられ、長い睫毛の下の青い瞳は逆光を浴びて悪戯っぽく光っていた。
「じゃあ、以前『追々』って言ってたやつの続き教えて」
○
「おい姫宮、何してんだ」
中に入らずに生徒会室の扉に耳をくっつけている桃李を見つけた真緒が声をかけると、桃李はその体勢を崩さないまま、しかしうんざりしたような顔を向けた。
「さっきから生徒会室から恐ろしい声が聞こえるんだけど」
桃李の真似をして耳を扉にくっつけて様子を窺ってみると、中では何やら副会長が愛の告白のようなものを叫ばされており、それに向かって「まだまだ!」「もう一声!」などの合いの手が入れられている。
あー、と言葉に詰まりながら真緒は扉から離れた。
「今は入るのをやめておこう」
「賛成。さすがにあんな恥ずかしい会長は見たくない……」
生徒会室から離れて歩き出す真緒の後ろをついていくと、こっそり真緒が口元に手をあててこっそり破顔しているのに気づいて、「先輩どうしたの?」と桃李は怪訝そうに顔をのぞき込んだ。
「いや会長も副会長もすげえ仕事できて大人でさ、どんだけ超人なんだと思ってたんだけど」
そう言って立ち止まり、生徒会室を振り返る。
「意外に俺たちと同じようなことで、喧嘩したり悩んだりしてんだなあ」
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