先日、人生ではじめて恋人というものができた。 だからといって何かが変わったわけでもない。恋人と言っても相手は長年一緒にいた幼なじみであり、今更惚れた腫れたをする間柄でもない。 先に今までの関係に変化を求めたのは英智の方からであったが、一応交際という形に落ち着いたことで満足したのか、あれからとくに変わったことはしてこなくなった。 それまで通り、学校で会えば業務の話や世間話はするが、とくに示し合わせて一緒に登下校することもなければ、毎日電話やメッセージで睦言を交わしあうようなこともしない。そもそもお互い忙しくて、そんなことをしている場合でもない。 まったくもっていつも通りであり、敬人にとっては拍子抜けではあったが、幾分気楽であり、ほっと安堵したのも事実だった。 いくらお互い了承して恋人になったからといって、いきなり幼なじみに対しての今までの態度を改め、恋人のように扱えと言われてもそれは無理な相談である。そうでなくても、夏に対等な「友達」になりたいと英智から喧嘩を売られ、新しい関係を模索していたというのに、そこに「恋人」という関係性まで加えられて完全にキャパオーバーである。長年の関係はそう簡単には変わらない。 そういうわけで、特に何もなく何も起こらず多忙な日々を過ごしていたのだが、相手は英智である。いつまでもそのような心の平穏が続くわけもなかった。 土曜日の午前。いつものように生徒会室で業務を続けていると、なんとなくそれにつきあってずるずると残っていた英智は、思いつきのように立ち上がると「そうだ、映画でも観よう」と言った。 ○ おそらくこれはデートというやつなのだろう。 ショッピングセンターの中にある映画館へと向かいながら、敬人は考えた。 昔から二人で遊びに行っていたし、今年に入ってからも一緒にオーケストラを聴きに行ったりしているが、交際をしてから二人で出かけるのは初めてである。 正直なところ、それ以前と以後で何が違うのかと言われればわからない。だが、きっと今回のこれはデートと呼ばれるものなのだろう。 そういえばお互い交際をした経験がないので、世間でいうところの高校生の交際が一体何をするものなのか、いまいちよくわかっていないのは薄々感じていた。 「敬人は今年もクリスマスをやらないんだろう」 少し前を歩く英智が、そんな「わかりきっている」ことを尋ねた。 クリスマスを控えた街はそこいら中が、キラキラした飾りで溢れていた。ショッピングセンター内にある広場にも、大きなモミの木に電飾がぐるぐると巻き付けられてチカチカと輝いている。 お祭り好きの日本人はハロウィンが終わった途端に、街や店内の装いを一気に変え景色も気持ちもクリスマスムード一色となるが、敬人にとってはあまり関係のない行事であった。寺の息子はクリスマスなどしないのだ。年末年始の寺院は一年で一番忙しいと言っても過言ではないので、そんなことをしていられないというのもある。 ただアイドルとしてはそんなことを言っていられない。イベント好きの国民性ということはアイドルもまたその需要に応えなければならず、季節ごとに次から次へと新しい企画が必要となってくる。ただでさえ年末にSSやスタフェスなんていう大きな行事もあるというのに、あちこちでクリスマスライブが行われるのだから完全に人手が足りない。 「クリスマスは学校行事だけでたくさんだな」と敬人は言った。「貴様もこれから色々控えているのだから、あまり他のことで浮かれすぎないようにしておけ」 「言われなくてもわかってるよ」 さほど気にしていないように英智が流したので、敬人はおやっと引っかかりを覚える。普段の英智ならここでムッと機嫌を損ねそうなものだが。 そういえば英智とプライベートで顔を合わせるのは久しぶりである。この時期体調を崩しやすい英智のために、後輩に監視までさせて彼の仕事を請け負っているので、ここ最近はずっと生徒会室に缶詰状態であり、そのまま学校で寝こけて朝になっていたこともある。 もしかすると英智は生徒会室に缶詰の敬人を気遣って、遊びに連れ出したのかもしれなかった。 ふと英智が足を止めた。 「ちょっと見ていこうよ」と言って中に入ろうとするのはゲームセンターエリアであった。 いくつもの筐体からそれぞれ発する音が重なり合い、そこに話し声や笑い声も加わって、いつでもがやがやと騒がしい場所だ。おまけに灰皿が常備されているゲームセンターも未だ多く、奥に行けば行くほど視界が白くなるほどに煙草の煙が充満している。 「そんな肺を患いそうなところ駄目だ」 「まだそんなこと言ってる。ショッピングセンターのゲームセンターだから、いるのは高校生や子供ばっかりだよ」 英智が勝手に中に入っていくので仕方なしに敬人もついていった。 確かに置かれてあるのはクレーンゲームとプリクラ機がほとんどで、その脇に音楽ゲームや子供向けのアーケードカードゲーム機があるくらいだった。 「僕だってクレーンゲームはうまくなったよ」と英智が威張った。「敬人が先に帰った日から練習したからね」 「根に持ちすぎじゃないか」 以前クラスでゲームセンターに行ったとき、一人だけ先に帰ったことをまだ言っているのだ。 「貴様は負けず嫌いに加えて、金にものを言わせるからな」 そりゃあいつかは取れるだろうと言うと、英智が鼻で笑った。 「じゃあ勝負しようか」 「いいだろう」 「シンプルにいこう。交互にプレイして先に落とした方が勝ち」 これでいいや、と英智が適当に指さした筐体の中にはぶさいくな鳥のぬいぐるみが積まれていた。 じゃんけんで先攻後攻を決めると、先攻の敬人の初手は空振りに終わった。クレーンゲームでは、初手は筐体の癖を知ったり、取りやすい位置に対象を動かすのでこれは予想の範囲内である。後攻の英智も同様。 しかし二回目、敬人がメジャーを取り出して、筐体の角度を測りはじめると「あっ、反則だ!」と野次がとんだ。 「クレーンの角度と筐体ごとのタイミングや癖の特徴を知ることだ。癖なら一回目と貴様の二回のプレイを見たことでだいたい掴んだ」 「道具の使用は許可されてないよ。というか、どうしてそんなもの持ち歩いてるんだよ」 「じゃあ今から禁止にしていいぞ」 「もう測り終わってるじゃん」 英智はやんややんやとぶうたれているが、この手口はいつも英智が散々他人にやっていることである。すなわち因果応報。 ほら、と筐体から転がり落ちてきたぶさいくなインコのぬいぐるみを両手に持たせると、英智はぶすっと受け取りながら「これ、先攻の方が有利だよね」と負け惜しみを言った。 ○ 「で、何が見たいんだ」 映画館のロビーにて、券売機の画面にずらりと映った上映作品の一覧を前に敬人は尋ねた。 てっきりアカデミー賞候補のヒューマンドラマか、ミュージカル映画でも観たいのかと思っていたら、英智がすっと指で示したのは、いかにも少女漫画原作の恋愛青春がテーマな邦画であった。 「正気か?」 「敬人、さすがにそれはないよ」 呆れた顔で英智が窘めた。 「いや、すまない。別にこの手のジャンルを蔑んでいるわけではないが、貴様の普段の好みと百八十度違うものが出てきたため気でも狂ったのかと心配になっただけだ」 「僕たちが身を置いているのはアイドル業界だからね。この手の仕事からいつオファーがくるかわからない。何より一定数の需要が確実にあるから、しばらくは衰退しない。知識を得ておくことに越したことはないよ」 正論である。誰か知り合いでも出てるのかと思ったが、ポスターに載っているのは知らない名前ばかりであった。まだ、あまり有名ではないアイドルなのだろう。どこかの学校のアイドル科の生徒なのかもしれない。市場調査というのは間違いないようだ。 クリスマスが近いからなのか、たまたま割引デーが重なったからなのか、映画館は思いのほか混んでおり、何故かカップルが多かった。 ふと視線を動かすと、斜め後方に顔をぴったりゼロセンチに近づけて二人だけの世界に入り浸っているカップルが見えた。ねっとりとした熱愛ぶりをこれでもかというくらいに周囲へ誇示しており、敬人は見なかったことにしてあくまでも自然に視線を戻した。ちらりと英智の様子を窺うと、彼はこれから公開する予定のフライヤーをなんでもないような表情で、それぞれに適当な感想を述べながら眺めているのだが、この短い間に「ヒュー・ジャックマン」という名詞を既に五回は言っている。確実に気づいている。気まずい。罰ゲームだろうか。 売店で飲み物を買いながら、そういえば英智と一緒に映画館に来たのははじめてだと気がついた。なぜなら彼の家には、大きなスクリーンと音響設備の備わった立派なシアターがあるのだ。 英智とはだいたい同じ物を観たり、読んだりして育ってきた。同じ物なのに好みは違うのでまったく感想が異なることもあれば、珍しく一致することもあり面白かった。お互い相手に気負わず思ったことをそのまま言うので、意見が食い違い喧嘩みたいになることは多いが、別に意見を押しつけようというつもりもないので、大抵しばらくするとお互いけろっとしている。一緒に芸術を鑑賞するなら世界一気楽な相手であった。 ああ、と敬人はようやく合点がいった。 だから英智は、新しいジャンルのお供に自分を誘ったのかもしれない。 英智に温かい飲み物を渡してやると、ちょうど開場時間になった。 ぞろぞろと人の流れについていくと、先ほどのカップルが同じシアターに入っていくのが見えた。 隣を歩いている英智は無表情だが、一瞬「まじか」という顔をしたのを見逃さなかった。 やっぱり貴様も気まずいんじゃないか。 ○ 館内はガラガラというほどでもないが、満席御礼というほどでもない。一番後ろの端の方に席を取ったが、中止から円を描くように席が埋まっており、ちょうど周囲には人がいなかった。 予告中、英智は「ああ、この監督の映画は嫌いだな」「エロスと芸術を間違えた自分だけが気持ちいい映画って感じ」「そういえばゴジラを悲哀な生き物だと言う人がいるけれど」「わあ、びっくりした!」などと敬人に耳打ちするように話しかけてきた。そういえば英智は映画やテレビを見ている時独り言が多いし、普通に話しかけてもくる。普段は自宅のスクリーンで二人で見ているからさほど気にしてはいないが、公共の映画館ではまずい。 さすがに本編が始まると静かに画面を見ていたが、しばらくはおもしろいのかおもしろくないのかよくわからない退屈気味なシーンが続いた。 うーん、と敬人は画面を見つめながら唸る。 先ほどからちょいちょい出てくるこの男が相手役なのだろうが、言っては悪いが性格に難があるとしか思えない。ねちねちと細かいことで怒るし、説教は長いし、いちいち眼鏡をあげる仕草も鼻につく。巷で人気だという「ドS男子」を描きたかったのかもしれないが、何か履き違えているようで好感がもてない。 どうにももやもやしながらも、まあ最後まで観てやろうじゃないかと素直に見ていた。 そのうち、手すりの上に投げ出していた右手に、人肌が触れた。 遠慮がちに触れた掌は、握るでもなくただ淑やかにその上に重ねている。 さすがに今回は叫ばない。 だが、なんとなく居心地が悪いような、妙な間があった。 手を握り返すべきなのか悩んでいるうちに、椅子に深く腰掛けていた英智が身体を起こす気配がした。無意識に自分がたじろんだことに気がつき、そのことに驚きもした。 「キスしないの?」 英智は耳元に口を寄せて、囁くように聞いた。 「……口にか?」 「口にだよ」 予想だにしていなかったために間の抜けたな質問をしてしまったが、英智は大真面目に答えた。 「わからないけれど、暗闇の中で恋人に手を握られたら思わず男はキスしたくなるものじゃないの?」 「貴様がわからないなら、俺にもわからん」 「でも実際にしている人たちはいるみたいだよ」 確かに同じ列のずっと向こうに、件のギャルカップルがくっつかなければ死ぬのかというくらいにべたべたに顔を密着をさせてこそこそ囁き合っている。 いや映画観ろよ。 「公共の場だぞ」完全に自分たちのことは棚にあげて敬人は顔をしかめる。 「それに、まがりなりにもアイドルをやっているんだ。どこで撮られているかわかったもんじゃない。一緒にいるくらいならなんとでも返せるが、完全に言い逃れができないリスクをつくるのはだめだ」 「言い逃れね」と英智は言った。「確かにそれはそうだ」 おそらく英智に試されたのだという自覚はあった。 マナーが。倫理観が。アイドルとしてのプロ意識が。英智はそんなものは百も承知であり、今この場でしろと別に本気で望んじゃいないのだ。 おそらく、敬人が未だ迷いがあることを見抜かれている。迷っていることについて、アイドルとしての正論で返したことまで彼にはお見通しだろう。 別に英智は現状に満足していたわけではなかった。彼はずっと待っていて、やがて痺れを切らし、今まさに静かに落胆している。落胆している素振りを見せないのは、彼の高い自尊心が故だ。そもそも自尊心が非常に高い英智が、それを全て投げ打ってまで自分に向かってきた、フレームの外へ連れだそうと手を伸ばしてたあのときが異常だっただけなのだ。 あの日の答えに偽りは一つもない。 だが「じゃあ今から恋人らしくしなさい」といきなり言われたら、それは難題である。 たとえば今まさにスクリーンで繰り広げられている行為が理想の「恋愛」であるならば、自分たちには無理だと思った。今更これをなぞれと言われても、それはただの茶番である。茶番を繰り広げるには、自分たちは長い間共に過ごしすぎている。だからといってどうしたらいいかわからない。スクリーンに映るこの男のように、欲望を通して英智を見ることができない。 きっと、英智もわからないのだろうなと思う。 手すりに置いていた右手が、少し軽くなった。重ねられていた英智の左手は、ゆっくりと掌から順に離れていき、指の腹だけが敬人の右手に触れている。引き留めるべきなのかすらわからない。引き留めない方がいいのかもしれない。指が離れて、代わりに冷たい空気が触れた。 そのとき、シアター内に爆発音が響いた。 はっとスクリーンを注視すれば、事故にあった自動車が轟々と燃え上がっている。 突然の大音量に驚いたのは英智も同じなのか、隣りでびくりと肩を震わせると、思わずといったかたちで一度離した左手で敬人の手首を力強く握った。ぽかん、とも、きょとん、ともつかぬ顔で、唖然としてスクリーンを見ていた。 「びっくりした」 目が合うと、英智はきまり悪そうに眉を下げて、小さな声でそんなことを言って、吹き出した。 手首を捻って英智の手を解かせると、そのまま指を絡めるようにして握った。英智はされるがままになっていたので、上映が終わるまでそうしていようと思った。 きまりが悪いのはこちらである。 もしかすると、それはいたってシンプルなことであり、ずっと前から知っていた感情だったのかもしれない。 こういうときに、人はキスしたくなるのだろう。 ○ まったく期待していなかったが、映画は案外面白かった。 壁ドンをしたり床ドンをしたり机ドンをしたり、「ばきゅん」なるポーズを惜しみなく乱発しまくるのだと思っていたらそんなことはなく、序盤「私、灰崎くんの言いなりになんかならない!」と宣言した主人公は実際まったく言いなりにならず、その誰にも汚されない不屈の精神はやがて出会うロックンロールにて開花し、仲間との衝突、脱退、孤独を乗り越え最終的に渡英し成功をおさめるという熱い青春映画であった。監督もまた製作委員会の言いなりになどならぬという強い信念に溢れていた。ロックについては苦い過去にて少し触れた程度だが後輩の大神あたりにはこの内容が刺さるだろうし、クラスメイトの斎宮あたりはおそらく上映中頭をかきむしって憤死するだろう。偏見は良くないと改めて思う。 話が逸れすぎた。 生徒会室に書類を忘れたと敬人が言い出したのはそんな映画が終わって、カフェで批評会をしながら一服していたときだった。 「明日取りに行けば?」 無添加のサンドイッチをかじりながら英智が言った。確かに敬人は日曜日も関係なく委員会の仕事をしているので、どうせ明日も学校には行く。そこまで重要な書類でもないから見られて困ることもないが、今日遊んでしまった分、帰ってから家で目だけは通しておきたいものだった。 結局学校に取りに戻ると、英智もついてきた。 部活で残っていた生徒もだいぶ帰ったのか、ところどころの教室には明かりがついていたが、廊下などはすっかり電気を落とされている。 廊下の窓から、遠くの町の明かりが見える。クリスマスのイルミネーションがあちこち輝く小さな夜の町は、窓枠の中に閉じこめられているようだった。 生徒会室には誰も残っていなかった。 自席の引き出しを覗いてみたが、目当てのものは見つからない。机の下を覗き込んで、ようやく奥の方に落ちているのを見つけた。 潜り込んで書類を拾っていると、後ろから「敬人」と呼ばれた。 振り向くと、もふっ、とふかふかしたものが口元に押しつけられた。 クレーンゲームで取ったインコのぬいぐるみが、すぐ目の前でふふふと身体を揺らして笑った。 「今日のところはこれで許してあげる」 敬人と同じように後ろにしゃがんでいた英智は、ぬいぐるみが顔の前にくるように両手に持ちながら左右に揺らしている。 手首を掴むと、不思議そうにぬいぐるみをおろした英智の顔が見えた。身を乗り出して、その唇に自身のを押し付けた。 英智は何度か目をぱちぱちと瞬かせると、ぽてっと床にお尻をついて座りこんだ。 それから「はああああ」と長い溜息をつくと、ぎゅうと抱きしめたぬいぐるみに顔を埋め、絞り出すように「敬人の馬鹿」ともごもご呟いた。 「さすがに、そこまで嫌そうにされると傷つくんだが……」 「うるさい、馬鹿。馬鹿敬人。アホメガネ」 「眼鏡を罵倒に使うな」 うっさい、ばか、ばーか。 そのうち英智はぬいぐるみをぎゅうぎゅうと敬人の顔に押し付けはじめながら、普段からは考えられないほど幼稚な罵詈雑言を繰り返した。
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