top of page

デンキネズミは夢を見る

 


 読んでいた文庫本から目をあげて病室の壁に掛かる時計を確認すると、英智は静かにベッドから降りて、病室を出た。病棟の最上階に位置する、滅多に入院患者を受け入れることのない個室の並ぶ廊下は、いつも静まりかえっている。

 廊下の窓から外を見おろすと、ちょうど正門から子供用のマウンテンバイクが乗り込んでくるところだった。幼馴染の家に遊びに行くと、このマウンテンバイクが境内に立てかけてあるのを何度か見かけたことがあった。その後ろに二台、やはり同じような自転車が後ろについて入ってくる。

 三人は窓の下の駐輪場に自転車を止めた。先頭に立っていた眼鏡の男の子がさっさと別れて病棟に向かおうとすると、そのうちの一人が引き留めた。自転車の籠に突っ込んでいた鞄からゲーム機を取り出している。やろうぜと誘っているようだ。

「おまえいつも稽古とかで忙しいじゃん」

「そのうえ病人のお守りなんて大変だよな」

 そんなところかな、と呟いてみる。

 眼鏡の男の子の表情はこちらからではよく見えない。そんなことはない、といつもの明瞭な声で否定しているかもしれないし、あーとか、うん、とか適当に返事をしているかもしれない。どちらにしたって、英智にとってはどうでもいい。男の子は駐輪場に戻って停めている自転車のサドルに跨ると、同じようなゲーム機をリュックから取り出して、同じような姿勢で小さな機械のボタンをポチポチと押し始めた。おそらく十年以上続いているシリーズのゲームだ。最近新作が出たことは、いつも病室にいる英智でもテレビのニュースになっているから知っている。そのアニメも何度か見たことがあるが、子供向けのストーリーに特別おもしろさは感じなかった。

 そのうち男の子が腕時計を気にしはじめた。あれはもっと見たことがある。誕生日だかなんだかに父親から貰ったのだと言っていた、大人用の腕時計だ。育ちきっていない細い腕には少し大きくて緩いが、とても気に入っているらしくていつも身につけていた。

 英智はそこで窓際を離れて、病室のベッドの中へゆっくりと戻った。文庫本を開いて続きを読み始めると、ちょうどページを二回ほどめくったところで、大人のものにしては軽い足音が規則正しく廊下を鳴らして、行儀正しく病室のドアをノックした。入るように促すと、引き戸を開けて少年が入ってくる。

「寝てないとダメだろう」

 遊びにくるくせに、何故か敬人は英智が起きているとすぐに怒った。不思議なやつなのだ。

 敬人は慣れた様子で来客用の丸椅子を引き寄せてその上に座ると、背負っていたリュックをおろした。リュックの口から筆箱や大判の本に混じって小型のゲーム機もチラリと覗いたが、それには触れずにその横のスケッチブックを取り出した。

「悪いが、もう少しで終わるからここで仕上げるぞ」

「いいよ、待ってるよ」

 君が筆を動かしてるの見るの好きなんだと言うと、敬人はちょっと俯いて、そうかとだけ言った。

 スケッチブックの真っ白なページを開くと、敬人は少し悩んでから、一気に筆を走らせた。きっと敬人の中には明確な物語がちゃんとあって、あとはそれをスケッチブックの中に落とし込むだけなのだ。

 英智はしばらくその様子を眺め、それから読んでいた文庫本に目を落とした。開け放たれた病室の窓から、初夏の柔らかい風が舞い込んで、白いカーテンを揺らした。

 音のない病室に、ページをめくる音と、ペンの走る音だけが響いていた。


     ○


「今日はクリスマスか、それか誰かの誕生日だったかな」

 リビングに小高い山のように積み上げられているぬいぐるみを見上げていると、そのうち山の中から黄色い頭が息継ぎをするようにプハッと顔をだした。「ああ、僕の小鳥ちゃんがここにいた。ぬいぐるみみたいで気づかなかったよ」

「さっき黒い服のおじさんたちが持ってきてくれたんだよ」

 山の中から這い出てきながら、彼が教えてくれた。「でもこんなにたくさんあるのに、インコはいなかった」

「選んだやつはセンスがないね」

 そこでやっと英智は、彼の手に薄型の携帯タブレットが握られていることに気がついた。「おや、それはなんだい?」

「これでゲームできるの」と彼は液晶画面を見せつけた。「家のなかでポケモン捕まえられる」

 画面に表示されているのは、位置情報を利用した携帯タブレット用のゲームアプリだった。米国での流行からはじまり、日本でも話題になっているあのゲームである。

「贈り主はセンスがない上に非常識とみた」

「貴様の両親からだぞ」

 床中に転がるぬいぐるみを踏んづけないように避けながら入ってきた敬人が伝えると、英智はうんざりしたように頭を振った。

「どうせ、そんなことだろうと思ったよ。世界一の非常識と言っても過言ではない家だ」

「受け取れないと断ったが無理にと置いていってしまった。そろそろ孫の顔を見せに来いと言っているそうだ」

「興味なんてひとつもないくせにね」

 もし興味があるとするならば「一族の血を受け継ぐ身体の丈夫な孫」にだろう、と英智は考えていた。常に死にかけているどころか親に噛みついた反抗的な息子なんかよりも、そちらの方がよっぽど次期跡継ぎとして有望に違いない。

「しかしさすがにこれは困ったな」

 携帯タブレットを持って部屋の中をうろうろしている息子を見ながら、敬人は腕を組んで唸っている。小学校にもあがっていない子供に、個人用のタブレットを持たせるのは時期尚早と言いたいのだろう。

「もう全部売っ払って、そのお金で美味しいものでも食べようか」

「待って! 敬人の上にコイキングがいる!」

 それまでタブレットを両手に掲げて家の中をうろうろしていた彼が、液晶の画面越しから叫んだ。「動かないで!」

「いい加減にしろ」と敬人は叱りながらも、なんだかんだ彼の用事が済むまで動かずにじっとしている。「捕まえたか?」

「捕まえた」

「記念にケイトって名前つけなよ」と英智が割って入る。

「なんでもかんでも俺の名前をつけるんじゃない」

「ケイトよわいからハカセに送る」

 捕らえられたばかりのケイトは地面の上をびったんびったんと哀れに跳ね回るだけ跳ね回って、ハカセの元へと送られてしまった。

 思うところがあったのか、乱獲は良くない、と小さな息子に敬人は静かに諭した。いたずらに捕獲するのは生き物にとっても良くない。それに必要なだけ捕まえるようにしていかないと、いずれ生態系も狂ってしまう。

「敬人、ポケモンはね、ほんとはいないんだよ」と優しく彼も諭し返した。「画面にいるように映ってるだけ」

「ほらみろ」と敬人が言った。「貴様に似てずいぶんひねくれてしまった」

「いやはや」と英智も言った。「君に似て大層頭がカチコチだ」

「それ、わるい子ってこと?」

「まさか」と英智が答えて彼を抱き上げた。「遥か昔から偉い人っていうのはね、たいていひねくれ者か、頭がカチコチかの、どちらかの人種かって決まってるんだ」

 彼を抱っこしたまま英智はおもちゃの山の中から、一つ黄色いぬいぐるみを取り上げた。ピカチュウが進化する前の姿の、小さいデンキネズミのぬいぐるみだった。ピチューという。

「君に似てる」と言ってフフと笑うと、彼は「もうそんなに赤ちゃんじゃないよ」と怒った。この頃の彼はちょっとだけ怒りん坊である。彼がほっぺをリンゴみたいに赤く膨らましていると、「そうそう、その顔が似ている」とさらに煽りながら、リンゴみたいなほっぺたをつついた。


     ○


 だが天祥院家からの数年分のお誕生日プレゼントをいっぺんにまとめたような豪勢な贈り物はそれ以後も続き、二人を悩ませた。山のようなぬいぐるみの他には海外のボードゲームや絵本、レゴブロック、トミカにプラレールと様々なものが贈られた。中には補助輪付きの子供用自転車もあった。

「でもやっぱりインコはなかった」と初めての自転車で庭をぐるぐる回りながら彼は不満を漏らした。

 しかしそうして何度か使者と接していくうちに、だんだんと向こうの要求も見えてきたのである。

「日時を指定してきたよ。僕の生家に、彼一人で来いとのことだ」

 黒服の男が手渡してきた箔押しの上等な封筒をひらひらとさせながら英智が溜息をついた。

「一人でか」

「そのまま攫われるかもしれない」

 重々しく考え込む英智に、敬人は「まさかそこまではしないだろう」と否定はしたものの、いつものような自信はないようだった。「貴様からかなり手痛いしっぺ返しを食らったんだ。きっと他意はないだろう」

 この話し合いはしばらく平行線が続き、「全部無視してしまえばいい」と頑なに実家との関係を絶とうとする英智の態度は、「そうそう無碍にもできるか」と敬人を困らせた。

「君はあの人たちと懇意にしてたものね」

「おい、俺に当たるな。表面上付き合ってこなかったとはいえ、家の名は十分使ってきたんだ。その点に置いて引け目がないと言えば嘘になる」

 たとえば幼稚園なんかもそうである。彼の通う私立幼稚園は芸能界の子息が多く通っており、セキュリティ対策が万全であるのはもちろんのこと、一般的な幼稚園ではありえないほど保護者のプライバシーが尊重されている。それというのもすべて天祥院家が出資しているからなのである。

「ところであいつはどこに行ったんだ」

 先ほどから姿の見えない彼を探して敬人があたりを見回すと、英智はバルコ二ーに降りて階下を指さした。同じマンションに住む年上の女の子たちが彼の面倒を見てくれていた。手にはまたタブレットが握られている。

「それに僕、あのゲームきらいなんだよね」と構わずに英智が言った。「仲間だ友達だと称し、戦わせて勝敗を競う。各地域のリーダーを一人ずつ屈服させるのは侵略と同じだ」

「まったく違うと思うがな」

 相変わらずの極端な物言いに若干辟易しながらも、敬人もまた中庭で遊んでもらっている息子の姿を見おろした。

「まあしかし、逃げ続けるのもそろそろ潮時かもしれないな」


     ○


 そういうわけで、英智は彼と共に車に揺られながら生家へと向かっていた。

 最初は敬人が自分が連れて行くと申し出たのだが、向こうが指定してきた日程はどうしてもはずせない仕事が入っていた。また別の日に改めてもらおうとしたのを英智が制したのだ。英智としては一刻でも早く済ませてしまいたい行事だった。

 後部座席の隣に座る当の彼は、車内でもタブレットの画面をいじって、ポケモンマスターになるべく図鑑の補完に勤しんでいる。

「これから僕が昔住んでた家に行くよ」と英智が話しかけると気のない返事がされた。

「外に出るときは、歩きながら画面を見ちゃだめだからね」

「うん」

「見ていいのは僕と手をつないでるときだけ」

「わかってるよー」

 画面から目を離さずに彼が答えるので英智は肩を竦めた。この頃、彼はちょっとだけ怒りん坊で、ちょっとだけ生意気な態度もとるようになってきていた。

 やがて車は大きな門の前に停車した。外壁だけでもその溢れんばかりの財力と権力を誇示することを厭わないのが十二分に伺えるが、その向こう側のちょっと歩いた先にそびえ立つ洋館を思えばまだまだ可愛いものである。門の前には、父親の秘書を勤めている男が待ちかまえるようにして立っていた。彼だけを車外に降ろして、「あの人についていきなさい、いいね」と示した。

「僕は帰るけど、夕方には迎えにくるよ」

「帰るの?」

 お屋敷と英智を見比べながら、彼はそれまでとは打って変わって不安そうな色を見せた。「なんで?」

「仕事に戻る準備があるんだよ」

「何時にくるの?」

「六時には迎えに来れるようにするよ」

「針がまっすぐになったときだね」と彼が神妙な顔で頷いた。「今何時?」

「一時半だね」と彼にアナログ盤の腕時計を見せてやると、「ずっと長い……」と絶句している。

 今生の別れとばかりにひしと英智に抱きつく小さな背中をあやし、二人はしばしの別離を惜しんだ。

 しかしタブレットが振動しその画面を確認するや否や、彼は目を輝かせながら英智の手をぐいぐい引っ張った。

「すごい、すごい英智、ここミュウとミュウツーがいる」

 よくわからないが、めちゃくちゃレアなポケモンとやらが天祥院家に住んでいるらしい。

 ポケモンに夢中な彼がむっすりとした父親の秘書の手に引かれて、屋敷の敷地へと進んでいくのを見えなくなるまで見送ると英智はゆっくりと走車を出した。

「僕は非道い親だな、弓弦」

 それまでずっと黙っていた運転席に向かって話しかけると、バックミラーからチラリといたずらっぽい目配せが送られた。

「さあ、私には子供がいませんからなんとも」

 そう言って何食わぬ顔で弓弦はハンドルを切る。これから「fine」のツアーの打ち合わせをするのに家まで迎えに来てくれていて、その途中の彼との用事にまで付き合ってくれたのだった。

「私から見れば、お二人とも立派に親の務めを果たされていると思いますがね」

 弓弦の言葉に、車外の景色に目を向けながら英智は曖昧に笑った。

 車はちょうど児童公園の前を通りすぎるところだった。小学生くらいの男の子たちが広場に自転車を乗り捨てて、ブランコを囲うようにしてやっぱりゲームをしていた。それもわずか一瞬で、次の瞬間には木立に阻まれて見えなくなった。

 そういえば英智は自転車に乗れない。おそらく少し練習すれば乗れるようになるが、きっとすごく疲れてしまうし、小さい彼と一緒になって練習するのはちょっとイヤだった。新しい自転車を手に入れたばかりの彼は、そのうち補助輪を外して乗るようになり、どこまでも先へ先へと進んでいくようになるのだろう。

 ただ、と出し抜けに弓弦は話を戻した。「僭越ながら坊ちゃまの面倒をずっと見てきた私から申し上げますと、お二人とも親孝行ならすでに十分に果たされていますよ」

「それだけはないよ。僕は親を殺したんだ」と英智は冬の風みたいに笑った。

 そうでしょうか、とバックミラー越しで弓弦が首を傾げる。

「まあ、親の心は子供にはわからないものですからね」


     ○


 その日はスッキリとした気持ちのいい青い空が広がっていて、小児科病棟の子どもたちが中庭で遊んでいる声が、病棟の最上階にある英智の病室にまで届いていた。

 いつものように真っ白い殺風景な病室に篭もっている英智は、いつものように同年代の子どもの笑い声を聞き流していたが、その日ばかりは彼にとっての非日常な物体が握られていた。彼の手に馴染まない新品のゲーム機を外箱から取り出してカセットを差し込み電源を入れると、液晶画面がふわっと光った。

 説明書はもう、何度も繰り返し読んだ。起動するのは初めてだが、使い方も、ゲームの進め方もすべて頭にたたき込んであった。体力の消耗を抑えるために、必要な知識は前もって繰り返し読むことで自分のものにするのは、幼い時分に身につけたこの世界で生き抜いていくための知恵だった。

 ゲームのストーリーもシステムも読みこんである。

 主人公に課せられた旅の目的は、その世界に生きる生物の図鑑の完成らしく、その目的のついでに力試しとして各地域のリーダーを征していくことになるようだ。各地域を制圧し終えたら、国のトップとの一騎打ちとなり、勝利の暁には国を征することとなる。ここで一度ゲームのエンディングを迎えるそうなので、図鑑の完成よりもこちらがシナリオの本筋なのだろう。ファンタジーな世界観の上に成り立っているが国盗りゲームに近い。

 攻略の鍵となるのは、いかに効率よく自身の陣営の火力をあげていくかになる。火力をあげるには、鍛えてレベルをあげるのが定石だが、生き物たちの元々の能力も重要だ。弱者がどれだけレベルをあげたところで、生まれつきの強者には敵わないのは人間の世界と一緒である。レベルをあげるには、ひたすら戦うしかない。特に序盤は強い個体には出会えないため尚更単調だ。面倒くさいところは使用人に頼んでしまえば楽だが、ふと幼馴染の顔が浮かんで、やめた。

 なんてことのないゲームだ。敬人がこのゲームを心からおもしろがっているとは思えなかった。彼の作り上げるものの方がよっぽどおもしろくて心が躍る。敬人も別に好きでやっているわけじゃないのかもしれない。ゲーム機は兄のお古かもしれない。学校の知り合いの付き合いで、話のネタ程度にやっているだけかもしれない。そもそもそんなにおもしろいと思ってないかも。

 敬人が、筆を動かしているのを見るのが好きだった。その指が、その口が、次に一体何を紡いでくれるのかと心待ちにしている時間が、何よりも好きだった。彼が紡ぐ物語は、殺風景な病室を色鮮やかに塗り替えた。

 そのとき突然ノックもなしに病室のドアが開けられた。いつもの時間よりも早くに敬人が来たのかと思い、英智は急いで毛布の下にゲーム機を隠したが、入ってきたのは敬人よりもずっと背丈の高い大人の男だった。

 男はずかずかと病室に踏み入りながら、具合はどうかといったことを、英智に尋ねた。

「こんなところに来るなんて珍しい」

「父親が息子の見舞いに来るのは当然だ」

 父親は枕元に立つと、ベッドの中にいる我が子を見下ろした。

「そろそろ退院できるんだろう」

「僕が今ここで自分の境遇に絶望して命を絶たなければね」

「退院したら今までの遅れを取り戻さないと。なに、おまえは誰よりも覚えが早いから何も問題はないよ」

 英智の都合などお構いなしに一方的に話される今後のスケジュールを、英智はただ黙って聞いていた。言葉の一つ一つが鉛のように重く英智の上にのしかかった。理由のわからない息苦しさに、押しつぶされそうになる。

 早々に用件を済ませた父親は腕時計で時間を確認すると、事務的に英智のやわらかい頭を撫でて別れの挨拶を済ませた。

 ふと去り際に、普段英智の言動なんて気にも留めたことのない父親は、「おまえがそういったものに興味を示すなんて珍しいね」と言った。毛布の端から覗いていたゲーム機に気付いたのだった。

「若年層を中心に流行っているって」

「流行から世間のニーズを学ぼうとしたわけだね。立派な心がけだ。民衆が何を求めているのか、何を与えればいいのかを、我々は常に研究していかなければならない立場だからね。だが、何も民衆と同じようにそれに入れ込む必要はない。必要なものだけ取り込んだら一線を引くことだ。ほどほどにしておきなさい」

「はい」

 横柄な足音が病室から遠ざかっていくのを聞き届けると、英智は部屋の隅の小さなゴミ箱に、怒りに任せてゲーム機を突っ込んだ。そうしてベッドの中に戻ると頭まで毛布を被り、胎児のように丸まってじっと耐えた。ただただ、無性に憤っていた。そのときの英智はまだ、この苛立ちを、怒りを、一体どこに向けたらいいのかがわからなかった。

 そして、ただ無性に悲しくもあった。


     ○


 結局予定よりもだいぶ打ち合わせは長引いてしまい、彼を迎えに行けたのは七時近くのことだった。

 実家に着くと、小さな彼は大きな玄関の前で執事らしき男の人と並んで立ちながら、英智のことを待っていた。走って迎えてくれる彼を抱きとめていると、彼の後ろからついてきた執事は、旦那様は途中でお仕事が入ってしまい、となにやらもごもごと言い訳をした。結局呼び出すだけ呼び出しておいたくせして、途中からは執事さんたちに遊んで貰っていたらしい。

 ふと懐かしい屋敷を見上げると、大きな窓にかかるカーテンが勢いよく閉められるところだった。

「僕のマリーアントワネットには会ったかな」窓を見上げたまま英智は彼に尋ねた。

「まり?」

「我が儘な王妃様だよ。パンが食べられなければケーキを食べればいいって言って殺されたので有名な人」

「それはなんか英智っぽい」

 長居は無用とばかりに、英智は彼の手を握ると、踵を返してその場からさっさと離れることにした。ばいばい、と彼が執事さんに手を振ると、執事さんもばいばいと手を振り返している。

「あのね、僕ちゃんと英智のパパとママにおもちゃのお礼言ったよ」

「そんなの言わなくたっていいのに」

「ありがとう、でも僕はインコが好きだから、次はインコがいいですって言った」

「君もなかなか図々しいね」と英智は笑った。「あの人たちは気に障ってたかな」

「二人とも笑ってたよ」

「へえ、意外だね」

「言っちゃだめだった?」

「まさか、さすが僕の息子だ」

 敷地の奥にある屋敷から、門の前に留めてあるタクシーまでの石畳の道のりを二人で手を繋いで歩いた。彼はしばらく繋いだ手を大きく振りながらふんふんと鼻歌を歌っていたが、ふと思いついたように「英智はポケモンきらい?」と尋ねた。

「きらいだな」

「なんで?」

「僕の場合は、たのしくなかったからだよ」

「ふうん、変なの」

「変かな」

「変だと思う」

「でもね」と英智は彼の手を少しばかり、強めに握る。「たのしいと感じられることは、わりと特別なことなんだよ」

 夏の空は七時近くになっても、まだ十分すぎるほどに明るかった。それでも西の空の端っこの方は、うっすらとオレンジがかり始めている。もう少ししたら、きっとあっという間にオレンジ色が紺色に染めあがって、夜がやってくる。

 そのときブウン、という振動音が夏の空気を裂いた。彼は「ポケモンかな?」とタブレットを確認しているが、残念ながらメールの着信だ。立ち止まって心配性な送り主からのメッセージを確認していると、彼が背伸びしてなんとか画面をのぞき込もうとがんばっていた。

「ポケモンじゃないよ」と英智は笑って彼の頭を撫でた。

 それから少し考えて、「もう少し自転車に慣れたら、補助輪を外す練習をしようか」と、彼に提案してみた。

Comments


bottom of page