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ハングリー・ホリデー



「敬人、あまり僕を見くびらないでほしい」

 うんざりしたようにため息をつくと、敬人を半ば家から追い出すようにしながら英智は言った。

「確かに僕は同年代の男子に比べて家のことを何もさせられずに育ってきたけれども、あの実家に住んでいた高校生の頃ならまだしも、今なら僕だって掃除や洗濯程度の家事ぐらいなら問題なくこなせるつもりだよ。それに洗濯機をまわすぐらいじゃさすがに倒れたりなんかしないから、安心してよ」

 そうは言っても敬人はまだ心配なのか、渋い顔をしながら何か言いかけては口を噤んだ。こういうときの英智は何を言っても無駄なことは重々承知をしているので、結局はかぶりを振って「本当に大丈夫だな」と念押しだけした。

「任せてよ」

「それなら任せよう」

 ドアノブに手をかけたが、しかしすぐさま振り向いて「ただ無理はするなよ」と続けた。「ただでさえ退院したてなのだから、もし何かあったらすぐに連絡をしろ」

 敬人、と制するように呼ぶ声には若干怒気が含まれていた。「さすがにくどいよ」

 後ろ髪引かれるようにしながらもようやく閉められたドアに向かって、いってらっしゃいと彼は手を振った。彼が英智の服の裾を引っ張りながら顔を上げ「英智、洗濯できるんだね」と言うと、「そんなもの、できるわけないじゃないか」とあまりにも開き直った答えが返ってきた。

「見栄だよ見栄。あいつ僕が何もできないと思ってて、腹が立つんだもん」

 それから彼に向かって「まあ、敬人ができるなら、僕だって調べればできるさ」とにっこりしてから、のんびり脱衣所へと向かった。

 こいつは大変だ、と慌てて彼も後を追う。


     ○


 英智が生まれたときから身に置かれた環境ゆえ、家事や雑事の一切ができないことは周知の事実であるが、大人になり実家を離れた今でも基本的にそれは変わらない。

 御曹司であるという立場に加えて病弱であったことから、どんな些細なことでも世話を焼かれてきた。自尊心の高い英智にとって、それはコンプレックスとしていつまでも残っているようだった。しかし同時に脈々と受け継がれてきた、生まれながらに頂点に立つものとしての誇りもまた、簡単に消え去るわけでもない。そうした二つの自尊心が幼い頃より英智の中で複雑にドロドロと絡み合っている。

 それにしたって敬人は酷い。

 幼い敬人は英智に対して散々何もできないと言い、何でも自分でしろと叱ってきた。それが今になってはもう何もしなくていいと言う。さすがに理不尽が過ぎるのではないか。彼自身が大人になり英智の体調を気遣えるようになったのわかるが、なんだか子供扱いされているようで業腹である。一人だけ大人になったつもりにならないでいただきたい。

 そもそも英智は人より物覚えが早かった。一度見聞きしたことはたいてい覚えているし、たいていのことは一回でできる。経験が極端に少ないだけなのだ。ゆえに、その経験さえ補えれば、いつの間にやらすっかり所帯染みてしまった敬人を追い越すことも可能なのである。

「しかし、これは早速の難関だね」

 洗面台下の戸棚を開けると、中にはプラスチックのボトルが籠にずらっと並べて入れられていた。液体洗剤、おしゃれ着洗剤、柔軟剤、衣類用漂白剤とボトルに書かれた字を読みあげていく。洗濯機の使い方さえ危ういというのに、早速危機的状況に陥っている。

「まず、この『おしゃれ着』の定義が曖昧だよ」と英智はぼやいた。「人それぞれの趣味、思考、価値観によっておしゃれな場所、目的、それにふさわしい格好というのは異なるだろう。一体何をもっておしゃれとするんだい。それならば勝負下着はおしゃれ着なのか、という問題にも発展するじゃないか」

「勝負下着ってなに?」と彼が訊ねた。

「敬人をムラムラさせる下着のことだよ」

「ムラムラ?」

「食欲、睡眠欲に並ぶ人間の三大欲求の一つだよ」

「英智も持ってるの?」

「別に敬人をムラムラさせてもしょうがないから僕は持ってないよ」

 英智は口元に手をおいてしばし考えていたが「これは弓弦に訊いた方が早い」と早々に見切りをつけると、ポケットからスマートフォンを取り出した。あわよくば家に来てもらおうという算段であったが、英智が電話帳を開いている間に彼は戸棚の中に小さな頭を突っ込んだ。

「これがTシャツとかパンツとか洗うときに入れるやつで、こっちが入れるとふわふわになるやつ」と指でひとつひとつ言って見せる。

「もしかして覚えている?」

 スマートフォンをまたポケットに戻しながら英智が尋ねると、彼は大きく頷いた。

「みんながやってるの、いつも見てるからね」

「ほう」

「あのね、ひっかかっちゃいそうな服はこういう網の中に入れるといいんだよ」

「へえ」

「落ちない汚れはね、石鹸つかって手でごしごしするんだよ」

「なるほど」

「教えてあげよっか」

「せっかくだからご教示いただこうかな」


     ○


衣類と洗剤を洗濯機の中に詰め込みボタンを押すと、じょぼじょぼと水が洗濯機の中へ流れ込んでいく音がするようになった。「あとは終わるの待つだけ」と彼が言った。「いつもは外で乾かしてるけど、英智が疲れちゃうから今日は乾かすまで洗濯機にやってもらお」

「やってみればなんてことないね」と英智が答えた。「もう洗濯は完璧だよ。衣類用表示というのを見ればいいのもわかったし」

 洗濯機が仕事を頑張っている間、掃除でもしながら待つことにした。

「意外かもしれないけれど、掃除なら僕もできるんだよ」

 英智はフフフと笑いながら収納戸の扉を開けた。「見てごらん、これがクイックルワイパーさ」

「敬人も使ってる」と彼が言った。

「これならとても軽くて掃除も楽々できる。シートを変えるだけで乾拭きから水拭きまで対応できる。まさに文明の利器だね」

 英智はリビングルームのフローリングの床をクイックルワイパーを片手に拭き拭き歩いた。ちょうど一周もすると、腰に手をあてて、ふうと息をつく。

「しかしどんなに素晴らしい道具でも欠点はある」

 彼を見下ろすと、「君はとても小さいね」と出し抜けに言った。

「僕のように背が高いと、端っこの小さなゴミを見落としてしまうことが多い。その点、君みたいに床に視線が近いと、僕では見つけられないような隙間の小さなゴミまで見つけることができるだろう」

「そうかも」と彼は目を見張った。

「それでは君にこの文明の利器を与えるので、他の部屋のゴミを掃き取る任務を与えよう。君にしかできないことだよ」

 両手にクイックルワイパーを握らされた彼は、英智を見上げて尋ねた。

「英智は何をするの?」

「僕はお茶の支度でもしていよう」


     ○


 彼が自分の背丈よりも長い柄を、壁や棚などそこいらにぶつけながらもせっせと動かしている間、英智はキッチンに入ると、湯沸かし器でお湯を沸かし始めた。それから小鍋を取り出すと、今度はゆっくり牛乳を温める。

 戸棚から赤いお菓子の缶を取り出して、クッキーを皿の上に移していると「おいしいにおいがする」と、ひととおり掃除を終えたらしい彼がよちよちと寄ってきた。

「それではご褒美に君専用のマグカップをプレゼントしよう」

 彼に二組のマグカップを差し出した。前にケーキ屋で買ったプリンが入れられていた、小さめの動物マグカップである。それぞれイラストテイストのまるまるとしたライオンとインコの形を模している。「どっちがいいかな?」

「こっちのがステキ」と彼は案の定インコの方を指した。

 英智はマグカップにココアの粉と砂糖を入れると、ちょっぴりのお湯でよく練り合わせる。それから温めた牛乳を淹れてまたくるくるスプーンで混ぜてから、彼に渡した。

「はいどうぞ」

「もっとステキになった」と彼は受け取って、マグカップにふうふうと息を吹きかける。「これココア?」

「そうだよ」

「英智のは何が入ってるの?」

「ミルクティーだよ」

「おいしい?」

「飲んでみるかい」

 ミルクティーに口をつけると、彼はフムと考え込んだ。もう一口飲み込むと、またフム、と考え込む。

「君にはまだ早いかな」

「わるくはないね」と彼は言った。「しかしよそうだにしない味」

 お菓子と飲み物を持ってクッションの上に座り、お茶会とした。

 彼は一口ココアを飲むとフフと笑った。

「英智はココアとかつくるのすごく上手だね」

「それはまるで僕がお茶を淹れる以外できないみたいだね」

 正直な彼は「んー」とクッキーを頬張りながら足をぱたぱたさせた。

 ティーカップをソーサーに置いて一息つくと、英智は時計を見やった。「ご飯はいつもどうしてたんだい」と彼に尋ねた。彼はおばあちゃんが作り置きしてくれていることや、家事代行サービスに頼んでいることも教えてくれて、「あとね敬人もつくるよ」と付け足した。

「敬人のご飯おいしい?」

「ふつう!」

「わかる、ふつうだよね」

 敬人のつくるものは栄養価のバランスは良いのだが、如何せん子供好みの味とは言い難い。それでも元々器用で合理的なのか、一度家事に手を出せば飲み込みも早く、彩りを工夫したり、子供でも食べやすいようレシピを改良したりと凝り性な面が早くも見え隠れしつつあった。あれだけ多忙な身でありながらめきめき腕は上げているのはさすがといったところであり、英智もドン引きするほどである。

「そうだな、ここで僕が夕飯の準備をしておいたら敬人は腰を抜かすほど驚くんじゃないかな」

 英智が提案してみると、「いいとおもうな」と彼も賛同した。

 早速お茶のセットを一旦流し台に片づけると、英智は冷蔵庫の中身を確認した。タマネギやジャガイモといった野菜類に、調味料、豚肉、その他もろもろ。

「この真新しいハンバーグヘルパーは一体誰が買ってきたのかな」

 英智が笑いをかみ殺しながら尋ねると、「敬人だよ」と彼が無邪気に答えた。「敬人ね、この前はじめてハンバーグつくったけど、真っ黒になって失敗してた」

「ふうん」

「だからはじめてコンビニのご飯食べたの」

「へえ、いいね」

「敬人、ハンバーグ食べたかったのかな」

「そうかもね」

「英智はなにが食べたい?」

「真っ黒なハンバーグ以外かな」

 炊飯器には既に研いだお米とタイマーがセットされてあった。仕事に向かう前に敬人が用意したのだろう。

「さて、この材料で何がつくれるかな」

 尋ねてみると、彼が一生懸命考えはじめた。


     ○


 当時の彼よりも、英智がもう少し大きい歳のことだった。それは出会ってから何回目かの敬人の誕生日を祝ったときのことである。

 毎年英智は夏の暑さに体調を崩していて、そのまま秋までずるずる体調が戻らないことも多かった。だから夏の終わりにある敬人の誕生日の時期というのは大体ずっと入院していて、ちゃんと祝えた記憶がほとんどない。

 その年は珍しく、例年よりも身体の調子が良かった。八月の終わりには無事に退院できて、今年こそは幼なじみの誕生日を祝ってやろうと息まいた。息まいたはいいが、一体何をしたらいいのかわからず早速計画は暗礁に乗り上げようとしていた。

 お金はいっぱいあった。敬人が欲しいものなら多分何だって買えるが、残念なことに敬人が何が欲しいのかなんて検討もつかなかった。それに何故かは知らないが、親のお金で何を買ってあげたとしても、敬人は怒って受け取ってくれない気がした。英智の幼なじみは大層頑固で気難しい怒りん坊で、ときどき何を考えているのかわからないのだ。

 だからあのとき、二人だけのティーパーティーを開いた。

 当日まで用意周到に、一人で準備をした。お茶の淹れ方も使用人のやり方を見て学んだ。

 それというのも、それとなく誕生日のことを敬人に尋ねたときに、あんまり英智がなんにもできないと言うので腹が立ったのだった。もう意地だった。

 頑固で気難しい怒りん坊の幼なじみは、用意されたお茶会のセットを前に、驚いて口を半開きにポカンとしていた。滅多に見せない表情が新鮮で面白くて、英智は口の中で頑張って笑いをかみ殺そうとしていた。

「貴様が一人で用意したのか」

「そうだよ」

 どうだすごいでしょう、と英智は胸を張ったが、最初敬人はいつもの調子で「身体に障るだろう」と怒った。しばらく口を一文字にむっすりしていたが、しかしそれもたいして保たずに、そのうち破顔して英智の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

 驚いたのは英智の番だった。両親以外に頭なんて撫でられたことはなかったし、撫でさせたこともなかった。それも今までのは、髪を優しく撫でつけて宥めるような、心ここにあらずなおざなりなものばかりだった。

「それもう一回して」

 改めて頼まれると気恥ずかしいのか、ちょっと俯きながら、でもぐしゃぐしゃと頭を乱暴にかき撫でてくれた。

「ねえもう一回」

 さすがに三回目はしてくれなかった。

 思い出すのも小っ恥ずかしくてずっと仕舞いこんでいた、かけがえのない思い出だ。


     ○


 帰ってくるなり家中に漂うカレーの臭いに、敬人は案の定ポカンと間の抜けた顔をしていた。早々に食卓につかされ、目の前に綺麗に用意された夕飯を指しながら、彼に尋ねた。

「誰かに家に来てやってもらったのか?」

「君も大概失礼だよね」

「すまん、あまりにも驚いたものだから……あっ、こらっ。大丈夫だ。自分で食べられる」

 いいからさっさと食べろと痺れを切らした彼がスプーンで掬って口に運んであげようとするのを敬人はしばらく抵抗していたが、英智が加勢したのもあって結局諦めてされるがままになっていた。

「うん、悪くない」と一口飲み込んでから敬人が言うと、「そういうときは、ちゃんとおいしいって言うんだよ」とすぐさま英智が注意した。「じゃないと彼が間違えて覚える」

 敬人は少し驚いた顔をしたが、すぐに取り消して謝罪した。

「ほんとにおいしい?」と彼が尋ねる。

「ほんとにおいしい」と敬人が答える。「そうだな、今まで食ったものの中で一番旨いと言っても過言じゃない。これは偽りなく本当だぞ」

 そう言うと、敬人は彼を抱き上げて膝の上に乗せ、髪を撫でつけるように小さなまるい頭を優しく撫でた。

「包丁は危ないからね、英智が切ったんだよ」

「そうか、凄いな」

「僕もお鍋混ぜたよ」

「お手伝いしたんだな、偉いな」

 途中で「冷めないうちに君も食べなさい」などと口を挟みながらも、英智はその様子を額縁の中の景色のような心地で眺めつつ、自身もカレーに手をつけてみていた。カレーを食べる機会は、これまでの人生でそうなかった。ましてや幼い彼の舌に合わせて、甘口の固形のルーと蜂蜜とリンゴとチョコレートを一緒に甘く煮詰めたようなものは、今まで食べてきたどれとも違う。

 そのうち敬人が彼になにやら耳打ちしはじめたので何事かと注視していると、彼がちょいちょいと小さな手で英智を招く。軽く食卓に身を乗り出すと、その小さな手が英智の頭をよしよしと撫でた。

「英智、よくできました」

 思わず幼なじみの顔を見ると、そいつは何事もなかったように澄ました顔でスプーンを口元に運んでいる。

「英智がんばったからご褒美だよ」と言って、小さい彼は笑った。

 ――ああ、そうだ。昔からいつもこうなのだ。この頑固で気むずかしい幼なじみは。

 口の中を甘いカレーの味が広がるのを噛みしめながら、英智は目を伏せた。「そうしたら、今度は真っ黒じゃないハンバーグでもつくってもらおうかな」と言うと、きっと今頃目の前で不意をつかれたような顔をしているに違いない幼なじみを想像して、こっそり満足した。

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