あれはまだ高校生の頃のことだ。
英智の部屋に遊びに行っていた帰り、大きなガラス窓から夕暮れが差し込む玄関ホールを抜けようとしたところで、名前を呼ばれて振り返った。
正面の階段からゆるやかに降りてきたのは、英智の母だった。彼女が家にいるのは珍しかった。英智の両親はたいてい家を空けている。
「ご無沙汰しています」と敬人は頭を下げた。
「相変わらず仲がいいのね」
彼女はそう言って微笑んでから、「敬人くん、英智のこと好き?」とおおよそ息子の同級生に尋ねるにはおかしな質問をした。
「今でも仲良くさせていただいています」
自然に、慎重に答えていた。
今ではわきまえてますから。口には出さないが、多分に含めて。
「何も警戒しないで」
彼女は精巧な人形のような、美しい微笑を浮かべたままだった。「貴方は、自分がこの家から疎まれていると思っているのでしょう。まあ私からすれば、あの人がどう考えているかなんて知ったことではないのだけれど」
「何のことか」
「あなたたち二人は小さい頃から悪巧みばっかりしていたから」
見ていなかったくせに。
喉まででかかった言葉は寸でのところで飲み込んだ。いくら英智が湯水のように金を使おうが、気に入らない使用人を辞めさせようが、見ようともしなかったくせに。一人で夜中に泣きながら英智が電話をかけてきても、駆けつけもしなかったくせに。
そんな攻撃的な言葉が、彼らに対して自分の中からわき上がるように出てきたことに驚いた。いつもは英智の罵倒を諫めていた立場だったのに。
敬人は、英智の母が苦手であった。
決して父親の方を好いているわけではないが、それでも母親に比べたら御しやすい類の人間だと思っていた。幼い頃から家に檀家として訪れる人間のことは観察していたが、名家の者にはああいう性質の人間はいくらでもいる。
しかし母親の方は、いったい何を考えているのか見当がつかない。そんな彼女は、自身を現代のマリー・アントワネットと称する。
唐突に彼女は、「いいわよ、あげても」と言った。
面食らった。じわじわとその意味を理解し、こみ上げてきたのは紛れもない怒りの感情だった。
「馬鹿々々しい」
「嫌かしら」
「あいつは物じゃない」
「じゃあいらないのね」
「本人の意思なくして決められるわけがない」
「あーあ、ふられちゃった。英智ったら可哀想」
そこで彼女はつかつかと敬人に歩み寄った。彼女が歩く度、ハイヒールが大理石の床鳴らす。
「貴方たちは小さい頃から何も変わらないのね」目の前で立ち止まった彼女は言った。「ずる賢くて狡猾。それでいて誰よりも弱いの」
トン、と胸に人差し指を当てる。
「遅かれ早かれ、貴方たちは私たちからあの子を取り上げるのよ」
○
晃牙の家に彼を迎えに行くと、扉の前で敬人は絶句することとなった。
そこには両足を抱え、宙づりになっている状態でぶんぶんと振り回され、ジャイアントスイングをかけられている息子の姿があったのだ。
あまりの光景に敬人は「ぎゃあ!」と叫ぶなり、急いで二人の中に割って入っていった。「何をしているんだ貴様は!」
「こいつがこれが好きでよ、会う度にやってくれってせがむんだよ」
彼の小さな両足を掴みあげ、狩った獲物のようにぶらぶらさせながら晃牙はわけもなく言った。
「脱臼するだろう! 頭に血ものぼる!」と宙づりにされている息子をひったくるように抱き抱えながら敬人が叫んだ。
晃牙は口が悪いが根は面倒見が良く、彼のこともなんだかんだ弟のように一緒に遊んでくれている。有り難いことこの上ないが、それとこれとは話は別であった。
「おい心配しすぎだろ。温室で育てた子供なんかろくな大人になんねえよ、モンペかよ」
「モンペって何?」と未だ逆さまにされながら彼が尋ねた。
「PTAをより凶暴にしたやつのことだ」
「晃牙、ピーティーエー嫌いだもんね」
「おうよ、PTAは敵だ。あいつらはロックがわかってねえ」
「モンペがどうこうの前に危険だと言っているんだ。子供の頃の英智だったら腕がすっぽ抜ける前に確実に心臓が止まっていた」と敬人はかみついた。
「俺ばっかりに注意するなよな」
ふてくされたように晃牙は唇を尖らせた。「言っとくけどよ、てめーのとこのデカブツもこの前楽屋でこいつぶんぶんしてんの見たぞ。なあ、ジュニア!」
「紅郎にもやってもらっている」と彼は白状した。「遊園地みたいで楽しいから」
「遊園地なら今度連れて行ってやるから」
彼がこういったことを両親に黙っていたのは、敬人にとって衝撃であった。彼は両親を好いているし、おしゃべりも好きなので、大抵のことはなんでも話していると思っていたのだ。
確かにここ最近は家にあまりいなかったのもあって、彼と遊びらしい遊びをしていなかったかもしれない。今は良くても後々、彼が思春期に入る頃あたりになってから一気にしわ寄せがくるのではないか。こういった問題は今のうちに慎重に対処すべきである。
家に帰ると、敬人は彼を向かい合って座らせた。
「どうして言わなかったんだ。俺たちに怒られると思ったのか」
んん、と彼は俯いた。「でも、敬人と英智じゃできないし」
これは少なからず敬人の自尊心を刺激した。自分の両親でははなからできないと決めつけられていたことにも、それを気を遣って黙っていたことも、何よりも子供の好きなものを知らないでいた事実にも、すべてにである。
「ジャイアントスイングは危険だから今後は一切禁止の方向でいくが、相撲であれば受け身の練習にもなるし、俺がいくらでもとってやる」
そう言って敬人は畳の上に敷いた敷き布団をぽんぽんと叩いた。
「さあかかって来い」
彼はしばらくもじもじしていたが、覚悟を決めたのか「とりゃー」と叫びながら敬人の腹部に頭突きをかました。小さな息子による衝撃は、想像の範囲を遙かに越えていた。これは少しでも気を抜いたら、自分が転がされそうである。この小さな身体にそれだけパワーがあるのだと胸が熱くなるが、しかし感傷に浸っている場合ではない。
なんとか体勢を立て直すと、敬人は「おりゃあ!」と叫ぶなり彼を持ち上げて布団の上に転がした。
「どうだ、勝てただろう」
息を整えながら敬人は見事、勝利の宣言をした。
「うん」と彼は言った。調子が出てきたのか「もう一回!」と叫ぶと、返事を待たずして敬人に突撃し、そのまま二回戦に突入した。
彼は珍しいくらいに聞き分けの良い子であったため、このときまで敬人は本当の意味ではわかっていなかったのだ。
子供の恐ろしさは、リミッターのはずれた無尽蔵な体力であることを。
○
「相撲は一日一回までにしよう」
腰をさすりながら、ついに和平条約が結ばれた。「あと英智との相撲は今後も駄目だ」
「わかった」と彼も頷いた。
「いいか、人はそれぞれ得意分野がある。俺と英智はあまり体力のある遊びはできないが、他の遊びなら一緒に楽しめる。おまえはいつも他にどんな遊びをしているんだ」
彼は自室に戻ると、車輪のついた玩具箱をごろごろと転がして戻ってきた。
「よく遊ぶのはインコごっこ」と彼は言った。「幼稚園の子とか英智ともやってる。敬人もやる?」
「どんな遊びだ」
「最近のブームは、エージェントインコ」玩具箱からインコのぬいぐるみをひとつ取り出しながら彼は説明した。「この子がエージェントインコ。いろんなニンムをする。悪い人をやっつけたり、暗号を解いたりする。ニンムはとても危険」
「海外ドラマみたいだな」
「英智が見てたドラマとかエージェントPとかリスペクトしてる」と彼は言った。「似てるって言われたら、英智がリスペクトだって言いなさいって」
「父さんもその仲間に入れてくれないか」
「いいよ」
しかし「じゃあ敬人はインコのお姉さん役ね」と彼が言うと、敬人は慌てて「待て」と制止をかけた。
「そういった役は今まで築きあげたタレントとしてのイメージ問題に関わる。基本的に事務所NGだと考えてくれ」
「写真でシンデレラの服着てたよ」
「義姉役は学生の頃だし致し方なかったが、できることなら男性的な役で売りたい」
「でも他に役がないからわがまま言わないで」と彼は注意した。
しかたなく敬人は渡されたインコのぬいぐるみを持って、もごもごとそれらしい台詞を言ってみたが、途端に彼が怒りだした。
「どうしてちゃんとやらないの!」
彼は立ち上がって烈火のごとく怒った。「敬人はお仕事じゃないとがんばらないの!」
「そんなことはない」
慌てて弁明したが、彼の怒りは収まらなかった。
「お金にならないとがんばらないの!」彼はまるい顔をリンゴのように真っ赤にさせてぷりぷりしている。「お金にならないことはがんばらなくていいの!」
思いの外のスパルタ演技指導に、敬人は深く自省した。決してそのようなことはなかったのだが、しかし子供の遊びだと甘く見ていたところはあったかもしれない。このままでは大人として、子供に対しても示しがつかない。
「すまない、次はちゃんとやるから父にチャンスをくれないか」
「もう一回だけだよ」と彼はしぶしぶ認めた。
「お取り込み中のところ悪いけど」
英智が帰ってきていた。部屋の入り口で一部始終を見ていたらしい英智の手には白い封筒が握られている。
「君に招待状が届いているよ」
彼は封になっていたインコのシールを剥がし、封筒からカードをとりだすと、書かれている文章を一音一句、たどたどしく声にだして読み出した。
「いっしょに、あそびませんか。たくさんのケーキと、おもちゃをよういして、まっています。おとうさんたちも、いっしょに」
それからカードの裏の送り主の名前を見ると、「マリちゃんだ!」と彼が喜んだ。
「罠か?」と敬人がいぶかしむ。
「罠かもしれない」と英智も頷く。
○
彼が呼ぶ「マリちゃん」というのは英智の母のことである。
気位が高く、また実年齢以上に若々しく今でも美しい少女のように見える彼女は、幼い孫に「おばあちゃん」と呼ばれるのをものすごく嫌がり、結局英智がいつだか呼んだマリー・アントワネットを短くして「マリちゃん」になった。
こうして孫の誕生をきっかけに、表面上は長年の積りに積った不穏な親子関係が徐々に雪解けていくように思えたものの、「若作りが必死で痛々しい」と英智が鼻で笑ったことが先方にバレてしまったために、深層はこれまで以上に険悪な関係へとなり、ますます泥沼化していった。
「言うなれば、いつまで経っても子供なんだよね」と英智は彼女を評した。
敬人が天祥院の屋敷を訪れるのは久方ぶりであった。
夏に今回のような呼び出しを食らって彼と英智は訪れているものの、そのときも敬人は行っていない。幼い頃は頻繁に行き来し、英智が両親と絶縁に近い関係になるまでも何度も訪れている場所であるので、懐かしさはある。
だだっ広い屋敷は記憶よりも静かであり、人が少ない。応接室に通されたはいいものの、先ほど紅茶とお菓子が出された以外は、呼び出した重宝人を含め誰も入ってこなかった。
「お菓子を食べながらスマホをいじるのはやめなさい」
英智が注意すると、口の中をクッキーでいっぱいにしながら屋敷の写真をタブレットで撮っていた彼は素直に頷いた。しかし彼が「英智」と呼んでタブレットのカメラを向けると、にっこり笑ってピースをした。
「撮れた?」
「撮れた」
この携帯タブレットもまた夏に英智の両親が買い与えたものだった。
「君は写真の腕もいいね」
英智が褒めると、彼は得意げになった。
「英智もインコごっこ上手だよね」
「お褒めいただき光栄だよ」
「貴様はなんの役なんだ」
おそらく彼の中でインコごっこ最低ランクにいる敬人が憮然と尋ねると、「悪の数学教授」と英智が答えた。
「ハマり役じゃないか!」
敬人が憤慨したそのとき、扉が勢いよく開け放たれるや否や、大量の黒服の男が部屋の中へなだれ込んできた。
男たちは三人を取り囲むと、一斉に銃を構えた。
「やはり罠だったか」と両手をあげながら敬人が呟いた。
「そんなことだとは思ったんだけどね」と同じく両手をあげながら英智も言う。
真ん中に立っていた、リーダー格らしき男が一歩前に出た。
「今から鬼ごっこをはじめる」と男は言い放った。
○
「鬼ごっこは得意か?」
「捕まったことない」と彼は胸を張った。
敬人は頷くと、彼の両肩に手を置き言い聞かせた。
「ここを出たら、鬼以外の、一番話がわかりそうな人に状況を説明するんだ」
「あい」
「三十分経っても俺たちに会えなかったら、防犯ブザーを引きなさい。セコムが来るから。それから一一〇番もするんだ」
「あい」
元気良く返事をする息子を、敬人は「いい子だな」と頭を撫でた。
「脅しにしてはやたら手が込んでいて、それがまた狂気じみている」
てってと茂みから走りだす息子を送りながら、敬人はため息をついた。
「だが、さすがに自分の家で人は殺すまい」
「証拠隠滅ならお家芸だけどね」
武装した黒づくめの男たちは本当に鬼ごっこをさせるつもりらしく、敷地内ならどこでも逃げて良いと一定時間の猶予を与えた。
勝利条件は、敵側のボスに宝物を持って行くことである。
「持って行くわけないだろう」
敬人は憤然とした。宝物が彼を指しているのは明白であった。
「向こうの目的はあの子だからあの子が殺されることはまずないし、正直僕たちよりすばしっこいから、彼に助けを呼びに行かせたのはいい判断だね」
英智が言い終わるや否や、こちらに向かってくる大勢の足音がする。
「見つかったようだ」と敬人は立ち上がった。
○
一人鬼の手をかいくぐり逃げてきた彼は、屋敷の扉をそーっと開くと、こっそりと中を覗いた。
玄関ホールを通り抜ける使用人の姿があったが、追いかけてくる鬼のように黒いスーツとサングラスは身につけていない。手にはお茶の準備がされた銀のお盆がある。
彼は中に入って近づくと、「マリちゃんどこですか?」と尋ねた。
立ち止まった使用人ははて、と首を傾げた。「奥様なら部屋にいらっしゃるかと」
「お部屋どこ?」
「二階の突き当たりでございます」
使用人は思い出したように続けた。「今お飲物のお代りをお持ちしようとしたところ、部屋に誰もいらっしゃらなかったようで」
「あのね、今みんなで鬼ごっこしてるの」
「ああ、奥様と遊ばれているのですね」
使用人は納得したように頷いた。「それでは冷めてしまいますから、一旦これは戻しましょう」
「マリちゃんが飲むよ。一緒にマリちゃんのとこ行こ」
そうして彼は使用人の手を引いて、のんびりと階段を上がっていった。
○
「君と、あの子と過ごしたこの数年を、人は幸せと呼ぶんだろうね」
敬人の膝の上に横たわる英智は、そう言って微笑んだ。
「僕はもう走れそうにないから、先に行って」
「英智……」と敬人は、自分の頬に触れる白い腕を握った。「英智、まだ数百メートル走っただけだ」
「お菓子食べてすぐ走ったからおなか痛くなっちゃって」
「だからあまり食べるなと言ったろう」
「お荷物なのは変わりないから捨て置いてってよ」
「毎晩枕元に化けて出そうだから嫌だ、ほら立て」
しかしすぐに二人が身を隠していた茂みの中を、眩いライトが照らした。囂々とエンジン音があたりに響く。急いで振り返ると、アーノルド・シュワルツェネッガー風の大男が大型バイクに跨り、こちらに向かっているのが見えた。
「詰んだ……」と英智が呻いた。
○
「写真がたくさんあるね」
彼は廊下に飾られた豪華な額縁の中をふんふんと見てまわった。
「歴代の旦那様です」
「英智の写真ないの?」
「坊ちゃんの写真はすべて片づけられてしまって」
「みんな同じ風に立ってるね」と彼は言った。写真の中の人物たちは、皆似たようなスーツなどの正装に身を包んでいる。
「英智は写真撮るときピースとかするよ。僕の最近のブームは、敬人が寝てるときの写真とか撮る」
「楽しい写真なんですねえ」
「英智もちっちゃい頃いっぱい写真撮ったの?」
「旦那様も奥様も忙しくて、あまり家にいらっしゃいませんでしたから、そういう楽しい写真は撮っていないかもしれませんね」
ふうん、と彼は言った。
「敬人と英智もお仕事忙しいし、すぐ疲れちゃうからあんまり遊ばない。それに、僕も5歳になったし忙しくなったから、前みたいに英智とお菓子食べる時間がないの」
「寂しいですね」
「そう。あとドラえもんの映画一緒に見てても、敬人すぐ寝てるよ」と彼はため息をついた。
「でも毎日寝る前に本を読んでくれるから好き」
「それはいいですね」
「毎日じゃないときもあるけど毎日してくれる。あと一緒にお絵かきしたり、今日何したのってご飯食べながら聞いてくれるのも好き」
「優しいお父さんなんですね」
「うん、英智は怒るとこわいけど」と彼は頷いた。「踊ってって言うと、ようかい体操も踊ってくれるし」
廊下の終わりに、ひときわ大きな扉があった。
「奥様」と使用人が声をかけてノックすると、その扉はギイと音を立てて開いた。
彼は部屋の中を覗いた。
「マリちゃん、宝物持ってきたよ」と彼は部屋の中に声をかけた。
○
「幼かった頃の僕が、君と新人メイドの逢瀬の場を目撃したことを餌に、君に恐喝まがいのことをしていたことを未だに怒っているなら謝るよ」
両腕と両足を縄で縛られ、池の畔に揃って座らされている英智と敬人の眼前には、鋭く光る銃口が向いていた。
「ところで娘さんは元気? 離婚調停中って聞いたけど」
「誰のせいだ」とシュワルツェネッガーまがいの料理長は銃口を震わせた。追いかけてきた黒ずくめの男たちの正体は、全員が天祥院家の使用人たちであった。
「人の家で勝手に盛り上がってたくせに誰のせいだも何も無いよ。自業自得な行為を、ずっと黙ってあげてたじゃないか」
「あろうことかあいつにぺらぺらと喋ったくせに!」
「元はと言えば君の不倫相手が奥さんに垂れこんだんだよ。僕としては質問されれば否定する義理もない」
「いや義理はあるだろう」と話を聞いていた敬人は呆れたが、命がかかっていることを思い出したのか「まあ親権が欲しいならこんなことをしている場合ではないな」と口を合わせた。
「駄目だ、耳を貸すんじゃない!」と使用人たちは声を合わせ、料理長の肩を揺さぶった。
「娘さん、今年中学生だってね。父親が魚だけでなく人間まで捌いていると知ったらどう思うかなあ」
「そのたとえは悪趣味な上に別にうまくないな」
「わかったよ。どうしても僕を撃つなら、先に敬人で試し撃ちしてくれない?」
そのとき、使用人たちが一斉にイヤモニに手を当てた。なにやら指示をされているようだったが、そのうち先ほどのリーダー格であった男が前に出ると、二人の手足を縛っていた縄を解いた。
これにてタイムアップです。そちらの勝利となります。お疲れさまでした。
ロボットのような無機質な台詞とは正反対に、わなわなと震えていた料理長は、「悪魔め!」と叫ぶなり男泣きを始め、他の使用人たちに支えられながらよたよたと屋敷へと戻っていった。
「非道いことを言う。今日は夢見が悪そうだ」
その後ろ姿を見送りながら英智が肩を落とす。
「貴様は一晩くらい悪夢に苦しんだ方が良さそうだな」
「敬人だって一緒に言ってただろ」
「こちらも息子にもう一度会えるかの瀬戸際だったからな、仕方ない」
さらりと言いのけると、飲み物を持った使用人に連れられて走って戻ってきた息子を敬人は抱きとめた。
「鬼ごっこ終わっちゃった?」
「終わったよ。僕たちが勝ったよ」
英智は彼の額にキスすると、首からさげていた携帯タブレットが失くなっていることに気づいて「失くしちゃった?」と尋ねた。
「マリちゃんにあげた」と彼は答えた。「マリちゃんが欲しいって言うから」
「子供から物を取り上げるなんて、ろくでもない人だな!」
「せっかく先週色違い捕まえたのにな」
敬人は彼を抱き上げると、同じく額にキスをした。
「よし、代わりになんでも一つ買ってやる。何が欲しい」
「敬人は子供に甘いなあ」
彼は少し悩むと、「じゃあ、カメラがいい」と言った。
○
「奥様、今日は景色が綺麗に見えますよ」
乳母がバルコニーに続く扉を開き外に出ると、赤子を抱いた婦人もまたその後を続いた。
「本当に」と彼女は海の向こうの遠くの山々を見つめた。空気が澄み渡り、地平線の彼方まで見えるようであった。
腕の中にいる赤子は、大層見目の麗しいたまのような赤子であり、光源氏の再来のようだと持て囃された。
「当然です。私に似てとっても可愛く産んであげたのですから」
その度に母である彼女は胸を張るのだった。
彼女は手すりまで近づくと「ご覧なさい、わたしの赤ちゃん」と腕の中で不思議そうにきょろきょろそわそわと大きな瞳を動かしている息子に話しかけた。
「あそこに小さく見えるのが、あなたの将来通う学校です」
「まだわかりませんよ」と傍らで見ていた乳母が笑うと、「いいえわかります」とツンと言い張ってみせた。「なぜなら私の赤ちゃんですから」
それから彼女はウッドチェアに腰かけ、腕の中で手を伸ばす赤子に指で触れた。
「とっても小さな手でしょう。足だってこんなに小さいの。こんな足で一人で立って生きていけるのかしら」
「大きくなればなんとかなってしまうものですよ」
「いいえ、きっと無理ね。とっても身体も弱いのだから」
遠くの寺で鐘の音が鳴った。規則正しい音が終わると、彼女は山の向こうから視線を腕の中の小さな赤子に戻すと、「まあ」と驚いた声をあげた。
「ほら見て、英智が笑いましたよ」
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