さよなら魔法舎
都心にある私立大学には、まことしやかに囁かれている奇怪な噂がある。それは長い年月をかけて少しずつ細かな背景が変わったり、人物が加わったり、設定が変化していったが大筋はいつの時代も変わらない。
全ての学問を修めたというこの大学の創設者は不老の魔法使いで、実は現理事長でもあるというし、深夜に構内に現れると噂の神出鬼没の屋台バーは翌朝には跡形もなく姿を消している。北キャンパスの時計塔の下には誘拐された国内の要人の息子の骨が埋められてるといわれ、夜な夜な校門の前でタクシーを拾う女性は裏手の墓地の前を通ると必ず車内で消えてしまう。活動内容も一切不明なのに大学公認サークルとして名前だけ掲載されている謎のサークルでは猫の違法売買が行われているといわれ、大学の裏にある古い学生寮では毎月中庭でその猫の肉を使った鍋を囲むのだとか。
「あとは農学部の幽霊」
「幽霊?」
午前の授業が終わったばかりの購買は学生で溢れかえっていた。その喧噪に負けないように新入生は聞き返すと、その先輩とおぼしき男は「十数年前に死んだうちの学生の幽霊なんだって」と説明する。
この大学の農学部キャンパスの片隅には、ひときわ古い研究棟がある。今は使われていないはずのその建物を、月の明るい日に真下から見上げると、二階の奥の窓に青白くやせ細った引きこもりの幽霊が浮かび上がって見えるのだという。
自身の研究を盗まれた挙句殺されてしまった学生の幽霊が、今も人間を恨み、あの教室で通りすぎる学生を呪い殺そうと窓から品定めしているのだそうだ。
「嘘くさいなあ」と新入生は笑い飛ばした。
「でも大学の都市伝説なんてどこもこういうもんでしょ」
「その話って妖怪じゃなかったっけ」と別の学生が話に加わった。「深夜に教室のドアを三回ノックすると、手が伸びてきて教室の中に引きずりこまれるっていう」
「で、うちのサークルは新歓のあとに、そこに肝試しに行くのが毎年の恒例行事なわけ」
「えっ、まじで行くんですか」
打って変わって顔色を変えた新入生が聞き返した。
「あの」
「なんだ、嘘くさいとか言いながらこわがってんじゃん」
「ちょっと」
「まあ毎年何も起こってないから安心しな」
「悪いが退いてくれないか」
通路の真ん中で雑談を繰り広げていた学生たちは、上から降ってきた低い声にようやく気づいて振り返ると、途端に表情をこわばらせた。何しろ彼らのすぐ後ろに、二メートル近くは背丈があるだろう大男が見下ろすように立っていたのだ。ずっと高い位置にある陽光に反射した眼鏡の奥の表情はこちらからは読めそうになく、彼らにひどく不気味な印象を与えた。
「前を通りたいんだが」
「あっ、はい。どうぞ……」
そそくさと道をつくると、大男は「どうも」と愛想のない礼を言って、狭い通路を身体を小さくしてレジへと向かっていく。
「何あれ、どこの運動部?」
「ガタイいいなあ」
去り際の背中を見送りながらこそこそと話していると、そのうち一人が思い出したように「あっ」と声をあげた。一年のときに、第二外国語の授業が一緒でなんとなく覚えていたのだという。いつも教室の一番後ろの席に座っていたその男は、はじっこにいるのにも関わらずよく目立っていた。
「あいつ、『魔法舎のレノックス』だ」
「魔法舎って、さっきの話の学生寮の名前じゃ」
新入生がそう言って、三人は顔を見合わせる。そして揃って大男の去っていった方へと顔を向けてみたが、もうあの大きな後ろ姿は見えなかった。
〇
文系の学部のある中央キャンパスから見て南東に流れている川を隔てた先に、農学部のキャンパスはあった。だだ広い土地に圃場や温室、研究センターを構える自然豊かなキャンパスは、橋を一つ渡っただけだというのに学生たちの喧噪から離れ、別世界のように閑静だ。
購買で買ったビニール袋を提げて、レノックスはさらにその奥にひっそりと建つ旧研究棟へと向かっていた。長く授業で使われていない鉄筋コンクリートの建物はあちこちヒビ割れていて、そう遠くない未来に建て直される予定だそうである。
コンクリートの外階段を上り、長い廊下の一番奥に位置する教室の前まで行くと、扉をノックする。
「ファウスト様、お昼にしませんか」
返事はない。
「少し休憩された方がいいですよ」
やはり扉の奥から反応はなかった。
耳を澄ますと、教室の中からゴオゴオと風の音が聞こえてくる。授業で使われていない建物であるが、今日も冷房は現役で活動している。
レノックスはしゃがみ、ビニール袋をドアの前に置くと、めげずに更に声をかけた。
「購買でたまごパンを買ってきました」
しばらくすると、扉がうっすらと開き、暗闇の中から病的に青白く光る細い腕が伸ばされた。腕は何度か空を切り、ビニール袋を掴むや否や、さっと扉の奥に引っ込められた。
「あったかいコーヒーもありますよ」
もう一度扉が開き、さっきよりも慎重に床を這っている指に、レノックスは優しく紙コップを持たせてやる。コップを掴んだ腕は、また暗闇へそろそろと戻っていった。
満足してレノックスが立ち上がると、扉の奥から「あつっ」と小さな悲鳴が聞こえてきた。どうやら幽霊は猫舌のようである。
〇
教員の研究室のある四号館は旧研究棟のすぐ隣にあり、渡り廊下でつながっている。レノックスは渡り廊下から入ってすぐにある、研究室の扉を開いた。
扉には「フィガロ・ガルシア准教授」のプレートが提げられている。
マグカップに注がれたコーヒーを啜りながら窓際に立っていたプレートの名の部屋の主は、レノックスに気づくと愛想のいい笑顔で声をかけた。
「どうだった、幽霊の様子は」
「その呼び方はやめてあげてください。集中されてましたよ」
レノックスが机の上に置いたビニール袋の中身を見て、フィガロはおっと驚いた顔をする。
「たまごパンじゃん。中央生協にしかないやつ」
「学生センターまで行ったのでついでに買ってきました。先生もどうぞ」
ありがたく受け取りながら、フィガロはギイギイと軋む古い事務椅子に腰かけた。レノックスも端のデスクに適当に座ると、バックパックから取り出した分厚い書籍を取り出して、自分の分のパンをかじりながらページを捲る。
そうして没頭していると、「それにしても」と何となしに呟いたであろうフィガロの声にも最初は気づかず、少し遅れてようやくレノックスは本から顔をあげた。
「世間は新歓コンパでバカ騒ぎだっていうのにうちの生徒ときたら。ちなみにうちのゼミ、他の三年生たちは親睦を深めるのにフィールドワークで牧場でも行こうかって話してるんだけど」
「牧場ですか」レノックスは聞き返す。「農場じゃなくて?」
「だって牧場のが楽しいもん」けろりとフィガロが返す。「馬とか乗れるし、小さい遊園地もあるし、うさぎとかモルモットとかかわいい動物もいて楽しいよ。で、おまえらは行くの?」
「ファウスト様が行かれるならお供します」
「うわあ、うまい逃げ口上」
「別に逃げては」
首を傾げるレノックスに、フィガロはたたみかけた。
「じゃあさ、あいつに行くようにレノから頼み込んでみてよ。レノが言えばちっとは聞くでしょ」
「そうだとは思えませんが」
「僕がそんなとこにチャラチャラ遊びに行くように見えるか?」
振り返ると、扉の外に白衣姿の男が立っていた。ろくに日光が当たっていないようでひどく不健康的な白い肌をした男は、丸い眼鏡の奥から不機嫌そうにこちらを、主にフィガロのことを睨んでいた。目つきの悪い瞼の下にうっすらと隈が浮かんでいるのは、機嫌が悪いだけでなく、またろくに寝ていないからだろうとレノックスは察した。「ファウスト様、もういいんですか」
「一区切りついた。シャワー浴びたい。帰る」
レノックスの問いに農学部の幽霊は白衣を脱ぎながら返した。「そうだ、パンとコーヒーありがとう」
「どういたしまして。家まで送ります」
「頼む」
白衣をハンガーにかける後ろ姿は、一本の芯が通ったようにすっと伸びていて、噂にされている人物像とはほど遠いとレノックスは改めて思う。
ファウストは二つ年下であるが、レノックスは社会人枠で大学に入学しているので、高校卒業後ストレートで入学したファウストは一つ先輩の四年生である。研究室に入る以前よりファウストを慕っていたレノックスは入学してすぐから何かと彼の世話を焼きたがり、そのたびに煙たがれてきたが、ここ一年ほどはそれもだいぶ許されてきた自負がある。通学の送迎もそのうちの一つである。
鞄を背負いながら、ファウストはついでとばかりにまたもフィガロを睨みつけた。
「というか、レノックスをおまえの破廉恥な計画に巻き込むな」
「牧場で破廉恥って何よ……」
「去年、文学部の学生たちをレノックスで釣って海に行こうとしただろ」
「いやいや、今回はまじでただのゼミ旅行だから」
フィガロは大げさに肩をすくめてみせる。
「あのねえ、俺は何も自分の欲望のために言ってるわけじゃないよ。心配で言ってるわけ。だって若い男が二人そろって日がな一日、暗い部屋に籠もって菌増やしてニヤニヤしてんだもん。おまえたちの青春、それでいいわけ?」
「何か問題が?」
「青春という歳でもないですし」
ほぼ同時に重なった声に、何を言っても無駄と諦めたのか、フィガロはやれやれとかぶりを振ると、残っていたパンをかじった。
大きな黒いバックパックを背負い、ファウストのあとに続いて研究室を出る間際、「そういえば」とレノックスは振り返った。
「しばらくこの研究室で寝泊まりしてもいいですか」
「構わないけど」とパンを呑み込んで、フィガロは答える。「別に追い込みの時期でもないだろ。何、寮のトイレでも水漏れした?」
レノックスは大学の裏にある学生寮に住んでいる。トイレは共同、風呂無し四畳半の部屋であることを差し引いても、水道、光熱費込みの家賃がたった月三千円と、常人であれば怯えて逃げ出すほどにリーズナブルであった。長い年月を雨風に晒され続けてきた学生寮は、破格の家賃に見合うほどに痛みまくり、常にどこか壊れて異常をきたしていた。
しかしフィガロのまっとうな推測に、レノックスは真顔で首を横に振った。
「いえ、昨日、爆発事故で全焼しました」
〇
大学創設当時に建てられたという、大学構内の端にある雑木林の中に建てられた築百年の一応伝統ある学生寮は、生徒たちの間でいつの時代からか「魔法舎」と呼ばれるようになっていた。正式名称は別にあるらしいが、建物にかけられた看板は長い年月によって削られていき、解読不能の域にまで達してしまったため誰もわからないのである。誰もちゃんと知ろうとしなかった、というのもある。それだけその学生寮はごく一般的な華やかな大学生活から隔離されて存在していた。
そしてこの現代において、いくら安かろうがこれだけ古く怪しげな環境に住む寮生というのは、だいたい金はなく、いつも食うものに困っている。そうした現状からか、草木が覆い茂る中庭に大鍋を用意し、それぞれが持ち込んだ具材をぶちこみ、月明かりの下で食べることが百年の歴史のなかで寮の習わしとなっていた。いつの時代か、仕込み担当がケケケと薄気味悪い笑みを浮かべながら大鍋の中身をかき混ぜいてたところ、うっかり目撃してしまった可哀想な学生が腰を抜かしながらも逃げ帰ったことで、あそこは異界だ、闇の儀式をしていた、あそこに住んでいるのは魔法使いだとたちまち尾ひれのついた噂話が一人歩きしはじめたことが「魔法舎」と呼ばれるようになった由縁であり、もともと色眼鏡で見られていた寮生がさらに濃い色眼鏡で見られだすきっかけだったという。
レノックスの隣に住んでいる学生は、一年の中期から授業に出なくなったギャンブル狂であったという。気が付けばあちこちから借金をし、首が回らなくなりすぎて怪しい窃盗グループにまで片足をつっこみ、さらにそこから金までくすねたという不穏な噂まで聞こえてきていた。
その日の夜、魔法舎の周りはいかつい格好をしたゴロツキたちによってぐるりと囲まれていた。ゴロツキたちは「出てこいやあ」と荒々しく叫び、手に持った鉄パイプを振り回していた。
「組織の金をくすねておいて、タダで済むとは思ってねえだろうなあ」
人だかりの中から一歩前に出た男がいた。四月であるのにファーのついた上等そうなロングコートを着たその男は、妙に貫禄のある態度からも周りとは明らかに異質であり、どうやら窃盗グループの首領のようであった。煙草をふかしている彼のもう片方の手には、太い木の枝のようなものが握られていた。
「おい、あいつをこれ以上匿っているようなら、家に火をつけるぞ!」
そうは言われても、誰も匿っているつもりはなかった。なんなら真っ先につまみ出そうと寮中を探し回ったが、見つからなかったそうである。
お構いなしに首領は手に持っていた松明に火をつけたようだった。おそらく脅しのつもりだったのだろう。
だが運の悪いことに、その日は寮の周りに化学部の学生たちが夜な夜な怪しい実験を行うのに使っていたなんだかよくわからない、しかし火を近づけたら確実にまずそうな液体だとかであふれていたのである。
爆発音と同時に、どす黒い煙が建物を覆い尽くすのは一瞬だった。
そういうわけで、百年の歴史ある由緒正しい木造建築は、あまりに呆気なく灰燼に帰してしまったのだ。
〇
ちょうどその場に居合わせていなかったレノックスは、帰ってきて燃え盛る学生寮を目にする羽目になり、これらはすべてあとから生存者に聞いた話である。
「けが人が誰もいなかったのが奇跡でした」
「本当になんで、それだけの事故で全員無傷で生還しているんだ」
少しだけ呆れたファウストの声に、悪運が強いような人間しか住んでいませんでしたからね、とレノックスは冷静に答える。
ファウストを家まで送る前に立ち寄った学生寮の跡地は、あたり一帯を黄色い立ち入り禁止テープでぐるりと囲まれていた。昨日まで確かに住んでいたはずのその場所は、小さなぼろい寮を覆い隠すように鬱蒼と生えていた周りの木々までも巻き込んで、炭のような瓦礫だけを残して焼け野原となっている。
「それで犯人は捕まったのか」
「いえ、騒ぎに乗じて逃げてしまったようです。俺も顔は見ていません」
窃盗グループだというから、そのうち別の事件で捕まった際に余罪として見つかるかもしれない。しかし正直なところ、捕まろうがこのまま逃げおおせようが、犯人についてはレノックスはあまり興味が無かった。
レノックスは立ち入り禁止テープの前にしゃがむと、大きな両の手のひらを合わせて静かに目を閉じた。百年もの間、貧乏学生たちを雨風から守ってくれた古くて小さな寮を静かに悼む。
ふと気配を感じて顔を上げると、レノックスの隣で同じようにしゃがんで、合掌をしているファウストがいた。少し驚いてその横顔を見つめていると、視線に気づいた紫色の瞳と目が合った。気恥ずかしいのか、彼は「きみがしていたから」と言い訳じみたことをこぼしながらすぐに立ち上がってしまう。
「ありがとうございます」
レノックスも立ち上がって礼を言うと、自分よりも背の低いその人は「別に」とそっけなく返すだけだったが、これだけの事故があったにも関わらず噂にもならないこの小さな寮を一緒に悼んでくれたのは、レノックスにとってただ純粋にうれしいことだった。
「おい、レノックス」
少し離れたところに停めた自身の二五〇CCバイクの元へ向かっていると、後ろから声をかけられてレノックスは振り向いた。
「うちに来ないか」
少し緊張した顔で、ファウストが言った。
彼は誰よりも優しい人だ。
人間嫌いで大学に引きこもっているせいで幽霊なんて不名誉な怪談と化してしまっているが、本当は面倒見が良くて優しい人であることをレノックスは知っている。だから、三年前から誰にも心を開かなくなってしまった彼が、こうして少しの勇気と覚悟を持って自分に声をかけてくれたことに驚きはあっても、意外性はなかった。胸にあたたかいものが広がるのを感じながら、レノックスは答える。
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
にべもなく断った。
「研究室で寝ていいとフィガロ先生も言ってくれましたし」
「研究室なんかじゃ全然身体が休まらないだろ」
「俺は最悪、野宿でも大丈夫なので」
「おい、そんな簡単に基本的人権を放棄するな」
さすがに呆れてファウストはため息をついた。「いいから来い。今晩だけでも」
「いえ、ご迷惑をおかけするわけにはいきません」
ファウストが優しい人であることを知っているからこそ、彼に気を遣わせ、迷惑をかけたくはなかった。彼には家の中だけでも、心穏やかに暮らしてほしかったのだ。
レノックスは温厚に見えて、頑固な男である。そして相当に気の長い男でもあり、相手と主張がぶつかれば、何日どころか何か月でも「話し合い」を続けられる自信があった。別に我慢比べをしているつもりはないが、大概は途中で相手が根負けして折れてしまうのである。
そしてそれなりの付き合いのなかでレノックスの性質を知っているファウストは、それゆえにそれ以上は踏み込んでこず、結局その日はバイクでファウストを家まで送り届けると、レノックスはそのまま大学へ引き返した。
〇
午前の授業が終わり、レノックスがいつものように研究室に顔を出そうとすると扉に鍵がかけられている。フィガロは外出中のようだ。
仕方なく旧研究棟の外階段に腰かけて、購買で買ってきたパンの袋を開ける。外階段の脇に植えられた桜から、ひらひらと舞い落ちる薄桃色の花びらが足元に溜まっていった。一週間前に満開を迎えた桜はだいぶ葉が多くなり、あと数日もすれば散り切ってしまいそうだった。
パンを齧りながら、膝の上のバイト情報誌を眺めていると、急に雑誌に暗い影が落ち、背後を振り返る。
ファウストが後ろから見下ろすように立っていた。明るい時間に陽の光の下に出てくるのは珍しいので、少しだけうれしくなる。
彼は先ほど差し入れしたホットコーヒーの紙コップを手に持ち、「おまえ桜だらけになってるじゃないか」と気づかぬ間に頭の上に積もっていた桜の花びらを払い落としてくれると、レノックスが見ていたバイト情報誌を覗き込んだ。
「なんだ、バイトを増やすのか」
ファウストは眉を顰めた。普段からレノックスは短期のバイトをいくつか掛け持ちしており、その多くが工事現場や交通誘導などの肉体労働系である。レノックスとしては身体を動かしている方が楽なのだが、ファウストは日頃から過労による体調などを気にかけていた。
「今までタダ同然だった家賃がかなり上がるので、家を探す前にバイトを増やしたほうがいいと思って」
「学業が疎かになるんじゃないか」
「なんとかなると思います」
ふうん、と気のない返事をしながらも、彼の目はさらに何か言いたげであった。
「荷物はそれだけ」
レノックスの横に置かれている、昨日も背負っていたアウトドアブランドの黒いバックパックに目線をやる。
「そうです。パソコンや教科書をこれに入れて学校に持って行っていたので、それは不幸中の幸いでした。あとは大方焼けました。元々そんなに荷物はなかったんですけれど」
「そうか」
それきり黙ってしまったファウストは、しかしやはりまだ何か言いたげにその場に残っていた。
「一緒にお昼どうですか」
隣を空けて誘うと、ファウストはいつものように断ろうと口を開きかけたものの、思い直したのかこれまた珍しく大人しく隣に座った。
「昨日は結局研究室で寝たの」
「はい、応接室のソファを貸してもらったので」
「あれじゃあ、きみには小さいんじゃない」
「確かにはみ出ましたけど、床で寝るよりはいいです」
「そう」
好きにすればいいけど、とでもいうようにむっすりした顔でコーヒーを啜っている。
桜の花びらと共に流れる生暖かい春の風と、すぐ隣で小さく座っている人の体温が心地よくて、家が無くなってしまって途方に暮れていることを除けば悪くない時間だった。決して話が弾むわけではないけれど、ファウストといる時間がレノックスは好きだった。
「あ、猫」
ぽつりと呟かれたファウストの言葉に、同じ方向へ視線を向ける。外階段のすぐ脇に植えられた桜の枝の上に、小さな子猫が丸くなっていた。
「降りられないのか」
木登りに慣れていない子猫はずいずいと登ってはいけるものの、降り方がわからず取り残されてしまうことがある。近くに親猫も見当たらないから、はぐれてしまっているようだった。
枝から階段までジャンプすれば届きそうだが、怯えている子猫の足は竦んでしまっているようだ。
ファウストは太い木の枝で小さくなっている子猫に向かって、腕を伸ばした。「おいで」
四年前、雪に埋もれた並木道で似たような光景を見たことを思い出していた。当時の彼は今よりも少しだけ背が低くて、眼鏡もかけていなかった顔はもっと幼かったように思う。あのとき、じっと立ちすくんだまま木の上を見つめる鮮やかな紫の瞳が、こちらに気がついて向けられたのだ。
高所に震えていた子猫は、伸ばされた腕に向かって勢いよく飛び移った。そこまではよかった。勢いあまって腕を蹴り上げ、胸のあたりに頭突きをするように飛び込む子猫を抱きかかえようとすると、ファウストがバランスを崩す。後ろに足をつこうとして、階段を大きく踏み外した。
「ファウスト様」
腕を掴んで引き寄せると、なんとか体勢を立て直せた。ほっと息をついて、腕の中の子猫に目を向けると、こちらも無事なようだが未だ動揺していて、腕から逃れようとうなぎのようにもがいている。
未だレノックスの腕に掴まったままのファウストは左足を地面に降ろした途端、顔を歪めた。
〇
ファウストは大学から一駅先にある背の高いマンションに住んでいる。送り届けるときに何度も外観は見ていたが、中に入るのは初めてだった。
エレベーターに乗り込んで見晴らしのいい外廊下を進んでいくと、肩を貸していたファウストは角部屋の前で立ち止まった。ごそごそと荷物の中からキーケースを取り出すと鍵穴に差し込んだ。
玄関から廊下を真っすぐ進み、奥の扉を開くとリビングダイニングのようであった。左手にすぐカウンターキッチンがあり、その奥には二人掛け用のダイニングテーブルが置かれているが書類やらファイルやら大型の本やらがこちらも積み重なっており、本来の用途以外の使い方をされているのは明らかだ。右手にはもう一つ部屋があるようだったが引き戸がぴっちりと閉められ、奥のベランダに続く南向きの大きな窓もまた重い色の遮光カーテンによって日の光を遮っていた。
レノックスはファウストをそのソファに座らせると、自身は床に膝をついて、ファウストの痛めた左足首に触れた。
「かなり痛みますか」
「湿布のおかげでさっきよりはマシだけど」
医務室で処置された白い湿布が痛々しい。ただの捻挫ということで、安静にしていればじきに良くなるとのことだったが、数日でもまともに歩けないのはかなり不便なはずだ。
「カーテンを開けてもいいですか」
頷くのを確認して遮光カーテンを開けると、部屋の中に午後の陽光が射し、床のあたりを漂っていた小さなほこりの粒が輝いた。
「ついでに水取ってくれないか」
冷蔵庫にあるから、と家人の言う通りに二リットルのミネラルウォーターのペットボトルを冷蔵庫から取り出し、水切りラックに置かれてあったグラスに注ぐ。片付いているが、それなりに使われているキッチンのようで、ところどころ自炊をしている様子が見える。レノックスはこっそりカウンターの中から部屋を見渡した。
とにかく物が、そのなかでもとりわけ本の多い家だ。整然とはしていないが雑然ともしておらず、基本的にあるべきところにきっちり仕舞われた部屋のものたちは家人の几帳面さをうかがわせた。入りきらないから仕方なく床に積まれているだけで、部屋全体がシックな色にまとまっているからか、それもむしろアンティークな印象を与えた。
「昨日の話ですが」
グラスを渡して先ほどと同じように自身は床に座りながら切り出すと、ファウストは面白くなそうに鼻を鳴らした。
「今日のことに責任を感じてるのならお門違いだ」先回りしてファウストが遮った。「責任を取って世話をしようとしなくていい」
「もちろんそれもあるにはあるんですが」
「それならダメ」
有無を言わせずぴしゃりと跳ねのけるも、ファウスト自身まだ迷ってるようだった。昨日自分が誘った手前もあるし、放っておけない気持ちがあるのは変わらないのだろう。ただ自分の世話を理由にさせたくないのだ。
レノックスは湿布の貼られた、自分のものよりも小さな白い足を見下ろす。彼の役に立ちたくて、放っておけない気持ちはこちらも同じであり、しかしそれを口に出してしまえばファウストがまた気を悪くするだろうこともわかっていた。
しばらく考えこんだすえ、言葉を選びながらレノックスはゆっくり口を開いた。
「迷惑をおかけしたくはないんです。でも家にお邪魔するのはどうしたって迷惑になると思うんです」
「それはそうだな」
あっさり肯定すると、ファウストは口元に手を当てながら考え込んだ。
「なら条件を出そう」
ひとつ。人差し指を突き立ててみせる。「まず家賃と光熱費は払え。今までと同じ額でいいから毎月僕に納めろ。タダで住まわせてやるほど僕はお人好しじゃないからな」
「わかりました」たとえ学生寮と同じ額を払ったところで、値段に関してはひとつもフェアじゃないことはお互いに触れなかった。
ふたつ、と今度は中指も立ててみせる。「それから必要最低限の家事は自分でやってくれ。こっちも客人として扱わないから」
「たとえば俺が二人分の家事をするのは構わないですか」
じろりと鋭い眼光がレノックスを射抜く。そういう気遣いはしなくていいと、無言の命令だったが、負けじと無言でじっと待っているレノックスの視線に根負けしたのか、やがてため息をついた。
「好きにしろ」
ありがとうございます、と低頭する。「条件はそれだけですか」
「あとは考えておく」
ファウストはソファの背もたれから身を乗り出すと、後ろにある引き戸に手をかけた。扉の隙間から見える部屋は一面を大きな本棚に覆われ、床には本らしきものがぎっしり詰まったダンボールやスーツケースが無造作に置かれている。クローゼットの扉に立てかけられているスティック型の掃除機が妙に生活感を醸し出していた。
「この部屋、物置代わりに使ってるけど、少し片づければ使えるようになるし、クローゼットの中に客用布団が入ってるから勝手に干して使って」
「はい」
「あと、使ってないスーツケースがあるから、物が増えたらそこに入れてくれたらいいから」
「ありがとうございます」
フローリングの上で膝に両手を付いて頭を下げるレノックスを、ソファに座って腕を組みながらファウストはじっと見つめていた。
「三つ目の条件だけど」腕を組んだまま、ファウストはソファの横に置かれたスツールに目線をやる。
「僕がソファに座るときは、おまえも床じゃないところに座れ」
言われるがままにスツールに座ると、それ以上会話が続くこともなく、こそばゆい沈黙が流れた。「えーと」考えたのち、軽く会釈してみる。
「では、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ」
〇
キッチンから漂う香ばしい焼いたパンの匂いで目を覚ますと、ファウストは寝返りを打ってしばらく毛布の中でじっとしていた。部屋の外の物音に耳を澄ませながら少しずつ覚醒していく意識の中で、思い出したようにベッドの上で足首を動かしてみる。痛みを感じないことを確認すると、起き上がってそのままゆっくりと床に降ろしてみる。ひんやりしたフローリングにつま先から踵まで順番につけていって、最後に体重をかけてみた。これならしっかり歩けそうだ。
自室を出てキッチンへ向かうと、テーブルに食器を並べていたレノックスが振り返った。
「もう足首は大丈夫ですか」
実は怪我が完治したことを知らせれば、その足でレノックスは荷造りして出ていってしまうのではないかと危惧していたのだが、頷くファウストにレノックスは「良かったです」とほほえむだけだった。
彼が並べていた皿の上には、トーストと目玉焼きがそれぞれ一枚ずつ載せられており、端にグリーンサラダが添えられている。簡単なものだが、朝食には十分だ。
「こうも毎朝、気を遣ってわざわざ朝食を作らなくてもいい」
「いえ、居候をさせてもらっている立場なのでこれくらいは」
相変わらず愛想のない顔でレノックスは答える。
ファウストもたいがい早起きだが、レノックスはそれよりも早く起き、日課のジョギングをたっぷり済ませたあとに、毎朝こうして朝食を用意しているのである。
「それに、どうせ自分の分もつくるので、ついでです」
「寮でも自炊していたのか」
ポットに入っていたお湯でインスタントコーヒーをつくりながら尋ねると、レノックスは、「まあ」と肯定とも否定とも取れる微妙な返事をした。
「部屋に備え付きのキッチンはお湯くらいしか沸かせませんでしたから、たいしたものは」
「話に聞く限り壮絶な環境で生きてきたんだな」
「確かにトイレも部屋の外だし、風呂もわざわざ銭湯に行っていたので、今思うとすごく住みづらい部屋でしたね」
ふうん、と適当に相槌を打ちながらテーブルに戻ると、残ったお湯を粉末の入ったスープマグに注いで、スプーンでくるくるとかき混ぜながら、レノックスはわずかにほほえんでいた。
「汚かったしネズミと同居してたし、あちこちから異臭がしましたけれど、俺は好きでした。無くなってしまうのは寂しいですね」
コーヒーを持ってダイニングテーブルにつくと、目の前につくったばかりのスープの入ったマグが置かれた。あたたかい食事のにおいが、空っぽの腹を刺激する。
結局、レノックスを家に連れてきたのが正解だったのかはわからない。逆に気を遣わせてしまっているような気もしたし、実際にここ数日だけ見ても、こうして家事の大半を彼が引き受けていて、まるで後輩をていのいいお手伝いさんとして扱っているようにも思える。そもそもどうしてレノックスを家に呼んだのかも、未だ自分の中でうまく答えは出ていないのだ。
おそらくは、うっすらと肌寒さが残るこの季節に、学業によく励んでいるまじめな後輩を家無しのまま放り出しておけるほど非情にはなれなかったのだろう。それに学校で寝泊りしてアルバイトを増やして身を削るよりも、こうして家に置いた方がよっぽど彼にとっていいと、あのときはそう思ったのだ。
食事に祈りをささげてから、ちらりと向かいを見やると、レノックスはまだ伏し目がちに、食事に向かって両手を合わせていた。自然と、焼け跡で同じように手を合わせていた彼の姿を重ねる。
だが今度は少しだけその姿に満足しながら、彼の作ったインスタントスープに口をつけた。
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