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02.

  • 執筆者の写真: matsuo
    matsuo
  • 2021年5月30日
  • 読了時間: 21分

更新日:2022年7月5日

もやしパーティー


 山の中を歩いていた。生い茂った枝葉に月明かりが遮られた山道は懐中電灯の灯りだけが頼りで、ざくざくと土を踏みしめる足音と、道の両脇から何重にも重なる生き物の鳴き声だけが響いていた。

 前を歩く少年は、こわいものなど何一つないような足取りでずんずんと山道を進んでいく。彼の肩には白くて大きな天体望遠鏡が担がれていた。

 ようやく開けたところに出ると、ああ、と先を歩いていた少年が感嘆の声をあげた。あとに続きその景色を目の当たりにして、そんな反応にも納得した。眼前に今にも零れ落ちてきそうなほどの星空が広がっていて、思わず息が漏れる。

「あの月に行きたいなあ」

 空を見上げたまま、少年は荷物をその場に下ろしながら言った。

「あんな何もないところに行ってどうするんだよ」

「あそこでうさぎと暮らすんだよ」

「バカだな、月にうさぎはいないんだよ」

「でも本当にうさぎと暮らせるようになったら楽しいじゃん」

 少年が振り返った。

 そのときの少年の顔を、声色を、今でもはっきりと覚えている。

「なあ、そうしたら、おまえも来るよな」


     〇


 自室のベッドで目が覚めて、しばらく白い天井を凝視したのち、腕で顔を覆うとファウストは長い息をついた。

 非常に不愉快な気分だ。

 カーテンの隙間から射す薄い光から見るにまだ明け方のようだったが、すっかり目が冴えてしまって二度寝する気にもなれない。かといって起き上がる気にもなかなかなれずにいると、廊下で足音がして耳を澄ませた。

 出来る限り静かに、気を配りながら閉じられた玄関の扉の音の主は、先月から家に連れてきたゼミの後輩であり、毎朝日が明けきらないうちに起きて体力づくりに走りに出ているのである。

「あいつは朝から元気だな」

 そう呟きベッドから起き上がると、重いカーテンを勢いよく開けた。


     〇


 先月の悲しい事故で爆発炎上した学生寮では、小さな家畜小屋を所有していた。学生寮に劣らず、おんぼろなその小屋の中では常に何匹か雌鶏が飼われており、その脇にはリードに繋がれた一頭の山羊の寝床が用意されていた。

「火事のときは、一番にこいつらを逃がしました」

 小屋の中から産み立ての卵を拾いあげながら、レノックスはそう語った。

「そうしてたら、自分の荷物がすっかり燃えてしまったんですが。でも小屋とこいつらは焼けなくて本当に良かったです」

 レノックスが拾い上げた卵を後ろで受け取り、かごに入れながらファウストが尋ねる。

「そもそもなんで学生寮が家畜小屋なんか持ってるんだ」

「代々、あそこに住んでるやつらはみんな金が無いですからね。何代にも渡って、こいつらの卵と乳の恩恵を預かってきました。卵を産めなくなったら、絞めて食うんです」

 レノックスの物騒な発言が通じたのか、それまでおとなしくしていた鶏たちは突然鳴き声をあげると、羽をばたつかせてレノックスに向かって威嚇するような行動を取った。腕で顔をかばうように攻撃を受けているレノニックスの表情は、笑っているようにも見えたし、どこか悲しそうにも見える。

 鶏小屋の鍵をしっかりと施錠すると、レノックスはファウストから卵の入った籠を受け取りながら、軽く頭を下げた。

「せっかく学校が休みの日に、付き合わせてしまってすみません」

「別に、僕が勝手に来たんだし」

 レノックスが毎朝ジョギングがてら家畜の面倒を見にこの学生寮の跡地に戻っていると聞いていたので、バスで先回りして待ってみたのである。

 学生寮が無くなった際、やはり問題になったのはこの家畜小屋の存在で、鶏たちを一気に食ってしまおうという話も出たそうだが、結局は当時から一番世話をしていたレノックスが引き続き世話をしているわけだ。

「それで、その卵はどうするんだ」

「これですか。今回は人に渡す用で」

 レノックスが話し終わるより前に、「レノさん!」と彼を呼ぶ声がした。

 声のする方を見れば、綺麗な金色の髪をした青年が、大きく手を振りながらこちらへ歩いてきている。

 青年はファウストを見ると一瞬不思議そうに緑色の目をぱちぱちと瞬かせたが、さほど気にする素振りもなく「おはようございます」と二人に向かってはきはきとした声で挨拶をした。気だての良さそうな子だった。

「おはよう、ルチル。ほら、今朝の分の卵だ」

 レノックスは卵の入った籠をルチルと呼んだ子に渡すと、すぐにファウストに向き直り紹介した。

「ファウスト様、ルチルです。うちの大学の教育学部の生徒で、この裏のアパートに住んでいます。以前から家畜の面倒を一緒に見てくれてるんですよ」

「卵分けてもらえるからありがたいんですよ」

 そう言ってルチルは、人なつっこい笑みを浮かべた。

「ルチル、こちらがファウスト様。この前話した方だ」

「ああ、レノさんの英雄ですね」

 一体どんな説明をしたのか気になったが、隣に立つ無表情の男に尋ねるより先にルチルが「そうそう」と思い出したように手を合わせた。

「月曜日はレノさんの誕生日ですよね」

 ルチルの言葉に、当のレノックスの反応は鈍かった。ルチルに指摘されてから電池の切れたロボットのように固まっていたが、しばらくすると、ああ、と頷いた。どうやら本当に忘れていたようだ。

「今年もケーキでお祝いしたかったんですけど、あいにくバイトの給料日前で……」

「大丈夫だ。気持ちだけでうれしい」

「だから、うちでパーッと、もやしパーティーをしましょう!」

 もやし?

 聞き慣れないパーティー名にファウストが戸惑っている横で、レノックスは慣れた調子で「それはいいな」と笑っている。

「前日祭ということで、日曜日の夕方からどうですか? ミチルも帰ってきますし」

「俺は問題ない」

 どうやらおなじみのパーティーのようである。ついていけないまま話はどんどん進んでいき、若干の居心地の悪さを感じながら二人から少しずつ距離を取っていると、いつの間にかルチルがひょっこりと顔をのぞき込んできていた。

「ファウストさんも来てくださいね」

「は?」

 いきなり話を振られて返事に窮する。しかしルチルはファウストの返事も待たずに、腕時計に目をやると、「いけない、もう行かないと! ミチルが学校間に合わなくなっちゃうので」

 それでは、また!

 そのまま手を振って、アパートへと小走りで戻っていってしまった。

 残された空気は少しばかり気まずかった。

「ファウスト様」

 レノックスの心配そうな声に、ファウストはかぶりを振った。

「僕は行かない」

「はい。わかってます。俺からルチルに断っておきます」

 初対面の人との食事会なんて、ファウストは普段でも絶対に行かない。なんとしてでも辞退するし、それはレノックスもよくわかっている。なのに、当のレノックスにそう言わせることに、罪悪感が植えつけられる。

 二人して無言のまま大学前のバス停まで歩いていると、レノックスがなんでもないようにぽつりと言った。

「でも、来てくださったらうれしいです」

 ベンチに座ってバスを待つ時間が、いつもよりも長く感じた。腕を組みながら、ファウストはもう一度念を押した。

「本当に行かないからな」

「はい、大丈夫です」

 先ほどと何も変わらぬ問答の目の前で、何台もの車が大通りを行きかっている。ぼうっとその様子をレノックスは眺めていたが、隣で俯いているファウストは何かと格闘しているようだった。

「行かないと言ったら、きみの誕生日を祝いたくないみたいじゃないか」

 どこまでも律儀に真面目に捉えているファウストに、少しばかりレノックスは驚いて、それから困ったようにほほえんだ。

「大丈夫です、俺はそうは取りません。もちろん無理もさせたくありません。でも、来てくれたらとてもうれしいのは本当です」

 それでも悩みながら、やってきたバスに乗り込むファウストに、レノックスはさらに続ける。

「それに、俺はもう今年は誕生日プレゼントをいただきましたから」

「まさか先月渡した鍵のことか」

 まだ空いているバスの手すりに掴まりながらファウストが顔をしかめる。

「あんなのは誕生日プレゼントでもなんでもないよ」


     〇


 奇妙なシェアハウスが生まれて数日が経った頃、ファウストから渡された銀色の鍵を、レノックスはしばらく掌の上に乗せて見つめていた。

「それ一本で家の鍵と、エントランスの鍵になるから。いいか、絶対失くすなよ」

 大事なことだからな、とファウストは強めに説明した。「おい、聞いてるか?」

「はい、大事にします。命にかけても」

 レノックスは小さな合鍵を大きな手で握ると、自らの心臓にあてて誓った。

「ほどほどに、本当に大事にしてくれ」ファウストは念を押す。「マンションのエントランスの鍵は失くしたときすごい額払う羽目になるんだ」

 そうは言っても生真面目なレノックスのことなので、鍵を失くすような心配はほとんどしてはいなかった。もともと彼は物の管理が杜撰な人間ではないし、何よりもファウストから貰ったものを雑に扱うことは決してしない。断捨離の気持ちもあってレノックスにまわした古本の専門書まで、彼はとても大事に使った。いつも持ち歩いていたおかげで、先月の火の手からも逃れたのだという。大事にしてくれるのはいいが、レノックスの行き過ぎた忠誠はしばしばファウストを困惑させるのも事実だ。

 レノックスは貰った合鍵を財布につけたようで、その後も暇を見つけては目の前に掲げて眺めているのを見かけた。

 何の変哲もない、よくあるティンプルキーである。一体何がそんなに珍しいのか心から不思議だったので、尋ねてみるとレノックスははにかんだように言った。

「人間として信用された気がしてうれしいんです」

 この答えはファウストを少しだけ呆れさせた。

「信用してなかったら、まず家になんかあげないよ」


     〇


 ルチルが弟と住んでいるというアパートというのは本当に学生寮のあった雑木林の裏にあり、そしてかつての学生寮と負けず劣らずの歴史を感じさせる風格が、建物を下から見上げるファウストを怖気づかせた。

「行きましょう。足下お気をつけて」

 ファウストの分の荷物も持ちながら、ずんずんと錆び付いたアパートの外階段を上っていくレノックスの後ろ姿が、今日はいつもよりもさらに頼もしく見える。

 外階段と同様に錆びついたスチールの玄関の横の表札には、「フローレス」と兄弟の苗字が書かれてある。インターホンを押すとほどなくして扉が開き、昨日の朝に会った青年が顔を出した。彼は二人を見ると嬉しそうに笑って、「こんばんは、どうぞあがってください」と明るい声で出迎えた。

 慣れた様子でレノックスが部屋にあがっていくので、ファウストもそれに続く。荷物を部屋の隅に置いて、テーブルの上に異彩を放つ、こんもりと茹でたもやしの山をまじまじと見つめる。

「ファウスト様、これがもやしパーティーです」

 レノックスが紹介した。「醤油やソース、ケチャップや、焼き肉のタレなど様々な調味料をディップして楽しむパーティーです。考案者はルチルです」

「どうしてパーティーなんだ」

「パーティーにするとなんでも美味しいからだそうです」

「そういうものなのか」

「もうすぐ弟が帰ってくると思うので、くつろいで待っててくださいね」

 キッチンからのルチルの言葉に、ではお言葉に甘えてと腰掛けたちょうどそのとき、カンカンと外階段を上る軽い足音が聞こえ、それからすぐに玄関のドアが開かれた。「あら、話をしてたら帰ってきたみたい」

 玄関に、利発そうな男の子が立っていた。ルチルと同じ鮮やかな緑色の瞳をしている男の子は、しかし楽しそうに輝いているルチルのものと反して、その瞳はどこか暗く陰がかかっていた。

「弟のミチルです」とルチルが紹介した。「ミチル、昨日話したファウストさんだよ。今レノさんがお世話になってるお家の」

 大家さんみたいな説明だなとファウストが黙って聞いていると、ミチルという男の子は兄の声にも上の空で、玄関からまで見えるもやしの山を見るなり、さらに表情を曇らせた。

「兄様、またもやしですか」

「だってもやしは美味しいよ。こんなに美味しくて栄養もあって一袋二十円しないんだからなんて家計に優しいんだろう。それに焼き肉のタレをつけると、ほら! 焼き肉の味がするよ!」

「ボク、もうもやしは嫌です!」

 鞄を玄関に放って、ミチルは叫んだ。「何をつけても、もやしは結局もやしです!」

「あっ、ミチル! 待って!」

 ミチルがそのまま部屋を飛び出すと、即座にレノックスが立ちあがって後を追った。そのあとをルチルも続いていく。

 どうやらこの家の中で、急展開についていけていないのはファウストだけのようである。


     〇


 ミチルは思ったよりもすぐ近くにいた。彼はアパートの階段の下で、一人うずくまって泣いていた。

「ミチル、そこは危ない。おいで」

 レノックスが声をかけると、ミチルは顔を上げ、今にもこぼれ落ちそうな涙を袖で拭うと、唇を噛みしめながらおずおずと階段の下から出てきた。

「戻ろう、ルチルが心配してる」

「ボク、兄様にひどいことを言いました」

 ミチルは大きく鼻を啜った。「本当はあんなこと言うつもりなかったのに」

「腹が減ってると思ってもないことを言うもんだ」

 レノックスはしゃがむと、ミチルのまるい利口そうな頭をぽんぽんとたたいた。

「ミチル!」

 アパートの階段を駆け下りながら、ルチルが叫んだ。

「ミチル、ごめんね。そうだよね、ほんとはお肉食べたいよね。ごめんね」

「兄様ごめんなさい」

 兄の顔を見て緊張の糸が切れたのか、またしてもミチルの大きな両目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれて頬を伝った。「ほんとはバイトの給料日前だからなの、わかってます。だけどなんとか楽しくパーティーしようとしてくれてるのも、ボク、ボクわかってるんです。でも学校で友達の焼肉自慢聞いていたら、悲しくなっちゃったんです。ごめんなさい」

「ミチルは何も悪くないよ。食べ物の自慢はつらいよね」

「レノさんもごめんなさい」とミチルはレノックスの広い肩口に顔を押しつける。「誕生日パーティーなのにこんな態度とってごめんなさい。誕生日なのに、もやししかなくてごめんなさい……!」

「俺は全然かまわない。もやしはうまいからな」

「そうだ、もやしはまったく恥ずべき野菜じゃない」

 聞き慣れない声に、ミチルが顔を上げる。階段を駆け下りて、息を切らしているファウストだ。「もやしは暗所で水につけているだけで一週間程度で簡単に育つだけでなく、発芽する際の化学反応でビタミンやミネラルは増え、安価で低カロリーでありながら高い栄養価を実現させたすごい野菜なんだ」

 ミチルは大きな目をぱちぱちと瞬かせて、兄へ振り返った。「兄様。この人、誰ですか?」

「この方はファウスト様だ」レノックスが嬉しそうに紹介した。

「だからさっき説明したでしょ。レノさんの今の大家さんで、レノさんの英雄の方だよ」

「大家さんでもないし、そもそも英雄ってなんだ」

「どうして『様』って呼ばせてるんですか」

「僕が呼ばせてるわけじゃない!」

 ファウストはうんざりした大きなため息をつくと、今日一日肩から提げていた大きな保冷バッグを掲げた。

「それに、肉なら買ってきてある」


     〇


 じゅうじゅうと音と煙を立てて、大量のもやしと一緒にホットプレートに牛肉が並べられていく。ファウストの買ってきた食材は無事に焼肉と化した。

「兄様、この焼肉いつもと違う味がします!」

「うちの焼肉はいつも豚だものね」

「さっき保冷バッグにケーキも入ってました。夢みたいです」

 肉をほおばりながら、ミチルはうっとりと頬に手をあてる。兄弟は姿勢を正すと、深々とファウストに低頭した。

「ありがとうございます。おかげさまで、我が家の食卓に革命が起こりました」

「本当にやめてくれ」

「さすが革命の英雄ですね」

 レノックスはタレの入った小皿に肉ともやしをたっぷり盛りつけると、ミチルとファウストにそれぞれ手渡した。

「だからその変な呼び方、本当になんなんだ」

「どうぞ、ファウスト様。いっぱい食べてください」

「僕が買ってきた肉だけど……」

 肉を口に含むと、その様子をじっと見つめてくるフローレス兄弟に気づき、さっと顔を逸らす。しかし一向に注がれている視線が逸らされる気配がない。

「まあ、美味いな。たまに食べると」

 しぶしぶ感想を述べると、フローレス兄弟は揃ってにっこりした。

「あ、そうだ」ルチルは水の入ったグラスを手に持ち掲げた。

「改めてレノさん、お誕生日おめでとうございます!」

「おめでとうございます!」

「ありがとう、ルチル。ミチル」

 乾杯、とグラスを合わせる。「ファウストさんも!」とミチルが身を乗り出してグラスを突き出した。ためらいながらも、こちらも少しだけ身を乗り出して、グラスを合わせる。カチン、と小気味よい音が鳴った。ルチルのグラスとも合わせる。カチン。

 隣でレノックスが、グラスを持って待っていた。

「おめでとう、レノ」

「ありがとうございます」

 カチン。

 そこにアパートのインターホンが鳴り、ルチルが玄関へ応対に立ち上がった。

「あれっ、もう始めちゃってんの?」

 ルチルと共に部屋へ入ってきたのはフィガロであった。

「げっ」

「げって何よ」

 ファウストは隠そうともせず、図ったのかと思わずレノックスを見る。ちょうど肉を口に詰めていたレノックスは、無言で首を横に振り無実を訴えた。

「フィガロ先生見てください、ファウストさんが食卓に革命を起こしてくれたんですよ!」

 ミチルは野菜と肉がこんもり盛られた取り皿を持ち上げると、フィガロに見せびらかした。

「えー革命なら俺だっていつもしてるじゃない」

「えーっと、フィガロ先生のは小革命って感じです」

 フィガロは上着を脱ぐと、ミチルとレノックスの間によっこらせと座り、すっかり仏頂面で水をちびちびしているファウストを見やって、あからさまに溜息をついてみせた。

「はー、やらしいな! いきなり現れて、手みやげでポイント稼ぐなんてさ」

「僕はただ、呼ばれたからには手みやげの一つや二つ持って行かないと失礼になると思っただけだ」

 それに、とじと目で睨む。「そもそも、なんでおまえがここにいるんだ」

「俺はおまえらよりずーっと前から二人と仲良くしてるの。ね、ルチル」

「はい! フィガロ先生は本当に良くしてくれて、親戚のおじさんの一人って感じです」

 ルチルは無邪気にふふと笑った。「そういえばフィガロ先生は今日もお仕事だったんですか」

「いや、今日はサークルの飲み会の帰り。だからレノの誕生日プレゼント忘れてきちゃった。明日渡すからごめんね」

「いえ、お気遣いなく。ありがとうございます」

 口の中の肉を飲み込んでから、レノックスが頭を下げた。

「でもサークルかあ。楽しそうでいいですよね」

 フィガロに取り皿を渡しながらため息をついたのはルチルだった。「私、サークルにも入っていないし、教育学部はゼミも三年生からだし、大学の友達と旅行とか行ったことないんです」

「じゃあ、ルチルもテニサー来る? 合宿とかあって楽しいよ」

 フィガロは大学のソフトテニスサークルの顧問をしていた。しかしフィガロの気軽な誘いに、「こんなに気のやさしい子まで誘うのか!」とファウストは激怒した。「おまえに人間の心は無いのか!」

「なんでよ。楽しいからおいでって言ってるだけだよ」

「テニサーの顧問なんてしてる奴の言うことは、甚だ信用ならない」とファウストは偏見を丸出しにする。

「テニス楽しいじゃないですか!」とルチルは無邪気に手を合わせた。

「本当にテニスをしてるならな」

「いや、俺のとこは数あるテニサーのなかでもかなりまじめな方だよ! ちゃんと学校が公認してるとこだからね。健全なラリーしかしてないから」

「何番目にまじめなんですか?」とレノックスが尋ねてみた。

「五番目くらいかな」


     〇


「あの、レノさん」

 先ほどまで元気いっぱいだったのに、気が付くと妙にそわそわと落ち着きなく食事をしていたミチルは、食器をテーブルの上に置くとおずおずと口を開いた。

「誕生日プレゼントなんですけど、もうちょっとだけ待っててください。あの、今月のお小遣い使っちゃってて」

 フィガロの誕生日プレゼントの話題に触発されたらしい。

 聞けばここ最近、ミチルはロケット甲子園を目指す学校の友達たちと、科学の本に載っていた自作ロケットを少ないお小遣いを持ち寄って作っているそうで、何度も発射実験を重ねているそうだ。「一番仲のいい友達には理解してもらえないんですけど、でも一回ぐらい成功させたくて」

 ファウストはへえ、と感心した。

「ロケットか、懐かしいな」

「つくったことあるんですか?」

「昔、同じような物をバカみたいにつくってるやつがそばにいたからな」

「その人は宇宙まであげていましたか?」

「宇宙まではさすがに予算内じゃ無理だったが、成功したよ。なんだかの記録を塗り替えてた」

 ミチルの類がみるみる紅潮した。「あの、うまくいかないとこ今度見てもらってもいいですか。フィガロ先生はロケットについては見てくれないんです」

「見てやればいいだろ」

 ファウストが咎めると、フィガロは涼しい顔で「物理も工学も専門外だからね」と缶ビールのプルタブを開けた。

「フィガロ先生ならたいていのことはわかりそうですけどね」とレノックスも意外そうに言った。

「無理無理。それに俺としては、ミチルには今までみたいに薬学や生物学に興味持って進んでほしいんだけどなあ」

「有望な若者の将来を狭めるな」

 どうして急にロケットなんだとレノックスが尋ねると、ミチルは俯いてはにかんでいたが、やがて人差し指を立てると、天井の蛍光灯に向けて高く、高く掲げた。

「ボク、月に飛ばしたいんです」


     〇


 兄弟の家から帰宅して、ベッドに入ってもどうにも寝付けない夜だった。

 仕方なくベッドの上で本を読んで過ごしていると、いつの間にか時計の針は零時を回っている。アルコールでも入れようかと考えながらファウストは活字に視線を戻したが、不意に思いついたように起き上がるとデスクの引き出しを開けた。

 リビングの電気は消えていたが、仕切りが開け放たれている右の部屋から涼しい風とともに、薄い青白い光が差し込んでいてぼんやりとした明るさを保っていた。部屋の中を覗くと、風にカーテンがはためき、海底のように床を月明りがゆらゆらと照らしている。

 ベランダにレノックスはいた。

「今夜は月が大きいので夜風を浴びながら見ていました」

 ファウストに気が付くと、振り向きながらレノックスが言った。隣に並んで同じように空を見上げると、ビルの隙間から昇る月は、確かに大きなオレンジの実のように色濃く輝いていた。

「スーパーフラワームーンか」

 レノックスがきょとんと見つめてくるので説明する。

「フラワームーンは五月の満月のことだよ。毎月名前がついてるんだ。今年はそれにスーパームーンと皆既月食が重なったんだな」

「ああ、そうなんですね。月に名前があるとは知りませんでした」

 頷いてから、再び空を見上げる。「そういえばうちの大学の校章も月でしたね」

「創設者が月に魅了されていたと聞く」

 魅了ですか、とレノックスが呟く。

「すべての学問に精通していたそうだが、晩年もっとも力を入れていたのは天文学だったそうだ。理学部のなかにわざわざ天文学科が独立している大学自体珍しいから、それを目当てに入学する生徒も多いんだ」

「じゃあミチルはそっちに進むのかな」

 月に行きたいと語るミチルの姿を思い出す。自然とフローレス兄弟についてレノックスに尋ねていた。「俺もたまたま近所だっただけで、詳しくは知らないんです」とレノックスは話した。

「フィガロ先生とは両親が知り合いだったそうで、今でも気にかけて様子を見に行っているそうです。他にも面倒を見てくれてる人がいるそうですが、俺は会ったことはないですね。基本的には、二人でなんとかやっていっているようです」

 両親のことは、詳しく聞かなかった。花瓶と共に部屋の隅に大事に置かれた小さな写真立てを見れば、おおよその察しはつく。

「そういえば、何か用があって来られたんではないんですか」

 レノックスに促されてようやく本来の用事を思い出すと、ファウストは咳払いをひとつして、話題を変えた。

「誕生日おめでとう」

 レノックスは少しだけ目を丸くしてから、ああ、と納得したように笑った。

「日付が変わってから、わざわざ来てくださったんですね」

「なかなか寝付けなかったからな」

 手に持っていた小さな包み紙を手渡すと、「気を遣わせてしまってすみません」とレノックスは恐縮しながら受け取った。しかしいつもはわかりづらい彼の表情も嬉しそうで、その様子にひとまずファウストは胸をなでおろす。

「開けてもいいですか」

「どうぞ」

 綺麗な包装紙が丁寧に剥がされていくのを見守るのは、どうにもむずがゆい気持ちになる。

 実を言えばプレゼント選びは難航を極めた。高価すぎても気を遣わせるし、安価にも限度がある。使用用途がわからないようなものを贈っても仕方がないし、あまりに生活感がありすぎるような日用品を贈るのも躊躇われた。レノックスは何を贈っても大事にしてくれそうだが、それゆえに下手なものを贈れないプレッシャーもあった。

 そうやって色々考えた挙句、ちょっといい酒くらいが気を遣わせなくていいかもしれないと決めかけていたところに思いついたのが、今まさにレノックスが開けた箱の中身である。レノックスは箱の中に恭しくおさまっている本革のキーケースを見ると、きょとんと目を丸くした。

「まあ、家の鍵を失くされたら困るからな」

 思わず言い訳じみた言葉が出てくるが、聞こえているのかいないのか、レノックスは箱の中身を見つめたまま動かなかった。少し経ってようやく絞り出された声は、困惑したものだった。

「これは、その、俺には分不相応な品なのではないでしょうか」

「そんなことはない」

 はっきりと言い切ると、レノックスが顔をあげた。彼の様子から少し高すぎたかと焦っていたが、そこだけは間違えてはいけなかった。

 レノックスはキーケースをしばらく見つめていたが、やがて革の表面をそっと撫でた。まだ人の手に馴染んでいない革は薄くなめらかな色をしているが、毎日使い込まれるうちに彼に合わせた色に変わっていくだろう。

「ありがとうございます。この品に見合った人間になれるよう、これからも精進します」

「別にそれ以上、精進しなくてもいいよ」

 いつも通りの生真面目な回答に苦笑していると、くしゅん、と小さなくしゃみをした。

「やっぱり夜は冷えますね」

 レノックスは羽織っていたパーカーをファウストの肩にかけると、部屋の中に入るよう促した。

「ここまでしてくれなくていいよ」

「いいえ、だめです」

 いつもより力強い声に、これは大人しく言うことを聞いた方が早そうだ。

「ルチルから今日、誕生日プレゼントにお茶を貰ったんです。確か寝付きが良くなる効能もあったと思うんで、一緒にいかがですか」

 ソファに座り、作ってもらったあったかい紅茶をファウストが啜る目の前で、レノックスは早速キーケースに鍵を移し替え、未だに一体何がいいのかわからないけれども、うれしそうにそれを眺めていた。わからないけれども、今は彼がうれしいならそれでいい気もした。

「ファウスト様、今日は本当にありがとうございました」

 部屋に戻ろうと立ち上がると、レノックスが声をかけた。

「とても、いい誕生日になりました。おやすみなさい」

「おやすみ、レノックス。いい一日を」

 すっかりあたたまった身体でベッドに入るとすぐに睡魔が襲ってきて、そうして一度眠ると、その日は朝まで夢を見ることはなかった。





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