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04.

幽霊の最悪な一か月

「ああ、彼なら農学部の研究室にこもっていると思うよ」

 入学式のあとの学部のレクリエーションが終わるとすぐに、担当した教員に彼のことを聞いた。名前を出しただけで教員はすぐに思い至ったようで、一学生でありながらさすがだと改めて感服する。教員は彼が入り浸っているという、今は使われていない旧研究棟への行き方を簡単に説明してくれた。

「まあ、会っても無駄だと思うけどね」

 そんな不穏な締めの言葉に引っかかりを覚えないくらいに、心は急いていたのだろう。

 講堂から出て、上級生たちによるサークル勧誘のビラのアーチと、もたもたと上級生に捕まる新一年生たちを分け入って進んだ。冬の日の朝に少年に会った真っ白な大学の並木道は、今は白い雪の代わりに薄紅色の桜の花びらが敷き詰められていた。

 教員に教えてもらったのは、構内の端にある農学部キャンパスの中の、さらに一番端にある古い研究棟の、そのさらに奥にある二階の研究室だった。全体的に昔ながらの古い建物が多い農学部の中でも、さらに古く年季の入った建物だ。

 教室の前まで一呼吸を置いてから、二回ノックをする。反応はない。何度か繰り返すと、ようやく扉が薄く開かれた。

 暗い部屋から出てきたのは痩せた手の甲だった。後を追うように、丸い眼鏡と長い前髪の隙間から覗く青みがかった紫色の瞳が、迷惑そうにこちらをじろりと向いた。

 すぐに、あの子だと思った。

 いざ話しかけようとして、そこでようやくレノックスは、彼に会ったときに何を言おうか、自分がまったく用意してこなかったことに気がついた。時間だけが流れ、無言で扉が閉められそうになってから、慌てて口を開いた。

「あなたの論文を読みました」

 これは事実だった。勉強の傍ら、ネットに落ちていた彼の研究は片っ端から目を通した。その年齢からは考えられないほどの彼の論理的思考能力には脱帽させられたし、彼の理路整然とした文章は真っすぐに伸びた立木のように一本の筋が通っていて美しかった。しかし、それ以上に、彼に会ったら言いたかったことはたくさんあった気がした。

「僕はおまえを知らない。帰ってくれ」

 変わらない表情の裏で焦っているうちに、返ってきたのは冷たい声だった。二の句が継げないまま、彼は扉を閉じようとする。

 待ってください、と押し止めた。

「あなたに会いに来ました」

 勢いあまって口から飛び出た言葉に、一瞬彼はぴくりと反応して、それから眉間に皺を寄せ、扉の隙間から思い切りレノックスを睨みつけた。

 その瞳は深い拒絶の色をしていた。

「帰れ」

 目の前で容赦なく、扉が閉められる。

 そのとき、ようやくレノックスは知った。

 輝かしい栄光に満ち溢れていた優しい猫好きな少年は、わずか一年の間に研究室にこもる「幽霊」に成り果てていたことに。


     〇


 七月に入ってからというもの、ファウストの機嫌はすこぶる悪かった。

 初週には授業が大方終わり、期末試験がはじまった。教授によっては試験をせずにレポート提出で済ませることも多く、学内は次第に閑散としていった。

 ファウストはこの時期、例年そうしているように、誰にも会いたくないと一日のほとんどを旧研究棟に引きこもっていた。人に会いたくないというのは、おそらく自身の不機嫌をぶつけ相手を傷つけたくないからだろうとレノックスは考えていたが、それにしたってこの時期のファウストは、家に帰っても心ここにあらずという状態であり、常にイライラしていて、言葉尻を穿ったとらえ方をし、何に対しても皮肉で返すものだから、レノックス以外の多くは彼を遠巻きにしている。

 スーパーマーケットに寄ったときには、ファウストは滅多に寄り付かない輸入食品コーナーに直行し、ろくに熟考もせずに、何が書かれているのかわからないパッケージのレトルト食品や保存食品をかたっぱしから買い物かごに投げ入れはじめ、レノックスを愕然とさせた。普段のファウストは、財力があるにも関わらず質素に慎ましく暮らしており、とても綺麗な金の使い方をするのでなおのことだ。高くておいしいものも嗜むが、こんな成金バカみたいな買い方はしないのである。

 ファウストが普段なら絶対に買わないだろう、安いワインボトル数本を買い物かごに入れるのを見て、いよいよ慌てたレノックスは口を出した。

「うるさい」

 一蹴である。

「僕の勝手だろ」

 だいたいにおいて、こんな感じである。

 毎年の不機嫌の原因を占めるのは、山のような課題の量であった。どういうわけか特例が認められている彼の引きこもり学生生活は、最低限の授業しかでなくていい代わりに、ほかの学生からは想像できないくらいの課題と試験が課せられている。

 試験から解放されていった学生たちが浮かれながら夏休みに突入していくのに比例して、ファウストの機嫌は日に日に悪化していき、七月の最終週にはついに不機嫌が最高潮に達するのである。

 加えて今年は悩みの種がひとつ増えているのもあった。

「またあいつらか」

 旧研究棟の裏の雑木林を出入りする学生とおぼしき若者たちを、外階段の柵越しに忌々し気に見つめながらファウストがこぼした。若者たちが入っていった雑木林の茂みの中からは、カメラのレンズが陽光に反射してきらりと光っている。

 ここ一か月ほど、このあたりでたむろしている動画撮影グループである。どうやらこの学校の非公認のサークルのようだが、大学に伝わる都市伝説を検証するのを目的に動画配信サイトの更新を続けているのである。旧研究棟の周りにもカメラをセットし、幽霊の正体を探ろうとうろうろしていた。うろうろしているのはともかく、とにかく昼夜関係なく騒がしい連中なので、ファウストのもともと下がっている機嫌は降下する一方だった。

「俺もこの前話しかけられました」

 レノックスはよくこの研究棟に出入りしているので、すぐに目をつけられたようだった。一体なんの用でこの研究棟に来ているのか幽霊を見たことがあるのか、根堀葉堀聞いてくるのもぶしつけだったが、とくに許可もなくカメラを回しているのがひどく感じが悪かった。「注意してみましたが、あんまり聞く耳持ってもらえなかったですね」

「救えない奴らだな」

「無理にでも追い払ってきましょうか」

 腕っぷしに自信があるレノックスが提案すると、ファウストは気だるげにかぶりを振った。

「いい、余計なことをするな。下手したらきみが裁判沙汰になるだろう」

 迷惑行動なので学校側に言えば対処してもらえそうなものだったが、それができないぐらいにはこちらの立場は悪かった。何せファウスト自身が無断で、学校の所有物である旧研究棟の一室を私用に使っているのである。過去に何度も立ち退き要請を煙に巻いてきており、この一件で蒸し返されるのは御免だった。ファウストが求めるのは卒業までの間の平穏なのである。

「まあ、肝試し目的でたむろされるのは今に始まったことじゃないけどな」

 アイスコーヒーのプラスチックカップにストローを差しながら、ファウストが呟く。

「今まではどうしてたんですか」

「一年の頃はいちいち脅かして追い払っていたが、余計に喜ばせるだけだと気づいてからはまったく相手にしていない。何も起こらなければ、普通は飽きて帰っていくんだ。しかしあいつらはとくにしつこいな」

 背後から笑い声がして、レノックスもコンクリートの柵から顔を覗かせる。若者グループは空地にバーベキューグリルを用意しはじめていた。ばれないうちにすっと身を引く。

「そのうち飽きますかね」

「そのうち飽きるにしても、夏の間このままなのは困るな」

 宙を睨みつけながら、ファウストはアイスコーヒーをズッと啜った。


     〇


 ファウストの懸念の通り、動画撮影グループはなかなかしぶとく、旧研究棟の周りから離れなかった。それだけ動画撮影に熱心なのかといえば、どちらかといえばそれに乗じて騒ぎたいだけのように思えた。いつの間にか彼らは雑木林の中にテントを張り、そこを拠点にキャンプ場代わりに使っているようである。人通りが少ないのを良いことに、煙を撒き散らしながらバーベキューはするわ、暗くなれば花火を打ち上げるわとバカ騒ぎも日に日にひどくなりたちが悪いことこのうえない。

「まさかあいつら夏休み中も居座るつもりじゃないだろうな」

 研究室の応接椅子に座り、レノックスのつくってきた弁当を食べながらファウストがぼやいた。

 否定はできなかった。試験が終わりきっていないうちでこれなのだ。本格的に夏休みが始まれば、今以上に居座る可能性は大いにあった。

「このあたりで手を打たないといけないかもな」

「策があるんですか」レノックスが尋ねる。

「きみは首を突っ込むなと言ったろ。まあなんとかなる」

「なんとかなるのかなあ、ほんとに」

 研究室の入口に目を向けると、フィガロが入ってくるところだった。フィガロはファウストの弁当に目を留めると、「レノ、俺の分は?」とその流れでレノックスの顔を見た。

「無いです。俺のを半分食べますか?」

「おい、甘やかすな」

「半分も何ももうほとんど残ってないじゃん」

 そう言いながら、フィガロはファウストの弁当箱からガレットをひとつ、ひょいとつまんだ。あっ、と声をあげる前に、ガレットは既にフィガロの胃に消えてしまっている。食べるのが遅いファウストが最後まで取っておいた好物なのである。

 ファウストの機嫌が、またひとつ悪くなってしまった。

「もういい、さっさと呼び出した理由を言って失せろ」

「失せろって俺の研究室なんだけど」

 怨嗟の視線をかいくぐりながら、フィガロは汚れた指をティッシュでふき取ると、ぽいとゴミ箱に放り込む。

 そもそも珍しくファウストが引きこもっている教室の外でお昼を食べているのは、フィガロに呼び出されたからであった。フィガロは脇に抱えていた大判サイズの封筒をファウストの目の前に置いて見せる。

「おめでとう、これでようやくきみの大事な子供が戻ってきた」

 レノックスも机に置かれた白い封筒に目を向ける。封筒には名前は聞いたことのある、海外の研究機関のロゴが入っていた。訝しげに眉を顰めながら封筒を手に取ったファウストは、一瞬、何かに思い至ったように、目を見開いた。

 だが、すぐに露骨に不機嫌そうに顔をしかめると、ふん、と鼻を鳴らす。

「なんですか、それ」とレノックスは尋ねた。

「なんでもないものだよ」とつまらなそうにファウストは答え、封筒の中身も確認せず、デスクの脇のゴミ箱に乱暴に突っ込んだ。

「ちょっと、これ取り返すのどれだけ大変だったと思ってるのさ」

「誰も頼んでないだろ」

 慌ててフィガロがゴミ箱から封筒を拾いあげるのに目もくれず、ファウストはさっさと荷物を鞄の中に片づけて立ち上がる。これから彼には今期最後の試験が残っていた。

 鞄を肩にかけながら、ファウストはレノックスに声をかけた。

「レノックス、今日は先に帰れ」

「試験が終わったあとも残られるんですか」

 記憶が正しければ次の試験は夕方には終わるはずだった。

「いいから帰れ、いいな」

 ファウストの姿が見えなくなると、拾い上げた封筒についたゴミを払った。

「あーあ、やんなっちゃうよ」

 フィガロは軽くぼやくと、それを改めてデスクの上に放った。「いつも以上にカリカリしていて、例の動画グループは本当に余計なことをしてくれたなあ」

「寝不足もあると思いますよ」

 夜遅くまで、部屋の明かりが扉の隙間から漏れていることを思い出しながらレノックスが口を挟む。「人一倍目をかけてらっしゃるのはわかりますが、フィガロ先生はファウスト様だけに課題を与えすぎです」

 ファウストが研究室に引きこもっているのは、何も彼の陰気な性格のせいだけではない。彼にだけ、常にフィガロから山のように課題が与えられ、それを消化するにはいちいち家に帰っていられないほど必死でやるしかないのだ。

「四年生のテストの内容はみんな一緒だよ。一人だけ変えてたら怒られちゃうもん」

 フィガロはあっけらかんと言ってのけると、視線だけは打ち捨てられた封筒から離さないレノックスに気づき微笑した。

「気になる? それ」

「はい」

「正直でよろしい」

 フィガロは事務椅子に腰を掛けると、足を組んでレノックスに向き合った。そしてひどく軽い調子で、「それね、盗まれて売られたの」と言った。

「おまえも聞いたことあるぐらい有名な外国企業にさ。あの子が幼いころからずっとレポートを取り続けてきて、大学に入ってようやくまとまった研究だ。あの子のものだと証明して、取り返すのに丸三年もかかった」

「……ひどいことをしますね」

 ようやく喉から出てきたのは陳腐な言葉だった。

 夜遅くまで机に向かっているファウストの後ろ姿が浮かんでは、消えた。もともと自由でない言葉が喉につっかえる。封筒を見た瞬間の、ファウストの顔がどうしても気になっていた。あれは単純な驚きの表情ではなかった。見開いた彼の瞳が一瞬大きく揺れたのは紛れもなく怒りの感情からであり、そしてすぐに伏せられた瞼の下に隠されたのは、おそらくそれとはまた違う、別の感情だ。

「ああ、本当にひどいことをしたよ。あいつの幼馴染は」

 笑いながらフィガロが事務椅子の背もたれに体重をかけると、ギィと軋んだ音が鳴った。

「月に呪われた幼馴染は、最後の最後にあの子にも呪いをかけていったんだから」


     〇


 食堂の前を通り過ぎると、壁一面の大きなガラス窓の向こう側にミチルの姿を見かけた。同い年ぐらいの少年と一緒にスマートフォンを覗き込んでいたミチルもまた、窓越しのレノックスに気がついたようで笑顔で手を振ってくる。

 ファウストがネロの勉強を見るようになってから、こうしてミチルを学食で見かけることが多くなった。というのもその授業料は学食の食券で支払われており、食券はフローレス兄弟のもとに横流しされ、そのおかげで給料日前でもミチルは育ち盛りの少年も満足できるボリューミーな食事をしに学食へ来れるようになったのだ。

 自動ドアから学食の中に入ってミチルのもとに向かうと、彼は大きく手を振ってレノックスを呼んだ。

「今、リケに動画を見せようとしていたんです。リケはパソコンもスマートフォンも持っていないから、学校のみんなが見てるような動画が家で見れないんです」

 こんにちは、とミチルの前に座っていた金髪の少年は、固い表情でレノックスに挨拶すると、ミチルに向き直る。

「スマートフォンのような電子機器は人間の脳に良くないと聞きました。それに、ミチルのそれもお兄さんのなのでしょう」

 指摘されたミチルが頬を赤らめた。「兄様が授業の間貸してくれたからいいんです!」

 どうやらミチルは、ルチルが授業が終わるのを学食で待っているようだった。

「ほらレノさんも見てください、猫の動画がかわいいんですよ」

 ミチルがぐいと身を乗り出して、レノックスに小さな画面を見せる。

 再生されたのはもちもちした飼い猫の愛らしい仕草で送るなんてことない日常の動画だった。犬のように飼い主に甘える猫を見て、それまで固い表情だったリケも「かわいい!」とすぐに破顔する。その猫の動画は、ファウストもこっそり見ていることをレノックスも知っていた。レノックスが背後を通りかかると、すぐに隠してしまうけれど。

「猫の動画をたくさん見せたら癒されてくれるだろうか……」

「なんの話ですか?」

 ミチルが首を傾げた。

 短尺の動画はすぐに終わってしまい、AIの選んだ動画のサムネイルが画面にずらりと並ぶ。スクロールしていると同じ猫のサムネイルがいくつも通り過ぎていくなか、ひとつだけ異質なものがあった。薄暗い廃墟のような建物の写真の上に赤いおどろおどろしい字で「噂の心霊スポットを検証してみた」と、ありきたりな文言が書かれている。

「ボク、こういう動画はあんまり……」

 ミチルが口ごもる。しかしリケがその写真を見て、「あっ」と声をあげて身を乗り出した。「この建物、ここに来る前に見かけました。ミチルは覚えてないんですか」

 動画は今朝に投稿されたもののようだった。再生すると、数人の学生たちが建物の周りを歩き回りながら、この建物にまつわる怪談を話し、終わりに今夜の生放送にて建物の内部に侵入すると締めくくられていた。

「この学校で本当にこんなことあったんですか」

 ミチルはその噂の建物の噂の部屋に、まさに今もファウストが引きこもっていることをまだ知らない。

 かわいらしい猫の動画で口直しをしていると、おもむろに三人のテーブルにネロが近づいてきた。

「ああ、いたいた。えーと、後輩くん」

 レノックスのことらしかった。後輩くん、の前には、先生の、がつくのだろう。未だに人と一線を引くネロは、人を肩書で呼ぶ。

 ネロの後ろには、カーキ色の作業着のようなツナギを着た中年の男性がいた。ネロは親指で後ろを指し示すと、レノックスに提案した。

「ちょっと、軽いバイトしないか」


     〇


 雑木林の中で、狭い空を見上げる。もともと光の届かない林のなかは、いつも以上に暗い。今夜は月のない夜だ。

 空を見上げながら、ファウストが守ろうとしている旧研究棟の、教室のことを考えていた。

 彼が引きこもっている、鍵のない教室のことだ。

 鍵の壊れた教室には、本来誰でも押し入ることができる。それを誰もしないのは、幽霊に呪い殺されたくないから。彼に軽蔑されたくないからだ。

 軽蔑されたくない気持ちは、なんとなく理解できた。しかしそれよりも、ファウストがひとりで必死に守ってきたものに、安易に触れたくない気持ちの方が大きかった。多分それは、触れたら最後、原形が留まらないほどにぐちゃぐちゃに崩れ落ちてしまうものだったからだ。それがいいのか、悪いのかはわからない。もしかしたら崩れてしまったほうがいいのかもしれない。

 ただあの場所は彼が大事にしている繊細な場所であると同時に、彼を大切に守っている砦であるのは確かなのだ。

 近くから悲鳴が聞こえた。

 悲鳴は複数に分かれ、いくつも折り重なった。立ち上がって、手に持っていたチェーンソーの電源を入れた。空気をつんざくようなひどい音がして、周りの音を遮断した。

 音がろくに聞こえないまま、ざくざくと土を踏みしめて雑木林から出ると、こちらに気が付いた学生が目と口を大きく開いた。

「ジェイソンだ!」

 おそらくそんなことを叫んだのだろう。学生たちはカメラを抱えたまま一目散に逃げ去っていく。逃げ惑ううちの一人の足がもつれて、その場に転んだ。起き上がらせようと近づくと、ひいっと悲鳴をあげて四つん這いで逃げていく。

 すっかり誰もいなくなると他にカメラが無いか確認だけして、空を見上げた。外階段の踊り場に、黒い影が見えた。

「なんだその恰好」

 レノックスはチェーンソーの電源を切り、フェイスガードを外すと顔を上げた。外階段の踊り場で階下を見ていたファウストが、今はこちらに顔を向けている。

「バイトです。ネロ経由で、用務員の親父さんに雑木林の伐採を頼まれて」

「それでこんな時間までウロウロしてたのか?」

 ファウストは疑わしい目つきでレノックスを一瞥すると、面白くなさそうに息を吐いた。

「余計なことをするなと言ったろう」

「余計なことをさせてください」

 階段下まで近寄った。歩く度に腰に巻いた工具がぶつかって、ガチャガチャと音を鳴らす。ファウストもいつの間にかすぐ下まで降りて来ていた。

「ファウスト様は何をされたんですか」

「別にたいしたことはしてないよ。火の玉だとか大きな影だとか、そういった誰も怖がらないような子供だましを、最も効果的なタイミングで使っただけだ」

 ファウストは腕を組んで、レノックスの姿を上から下まで見下ろした。「まあ、結局は最後のおまえの恰好が一番効いたみたいだけどな」

「また来ますかね」

「あいつらは来なくても、動画を見たやつらは来るかもな」

 顔を背けながら、こともなげにファウストが答える。

「最初は人が集まるかもしれないが、なんてことないただの使っていない研究棟だとわかればただのヤラセだと思うだろうし、次第に飽きられてすぐに誰も来なくなる」

 ファウストが振り向いた。レノックスの顔を見ると、ふっ、と鼻で笑う。

「何か言いたげな顔だな」

「いえ」

「言ったらどうだ。怒らないから」

 レノックスは俯いて、たっぷりと時間をかけて自分の感情を問いただした。

 言葉を探して、そうしてようやく思い浮かんだ言葉の代わりに、手を差し出した。

「帰りましょう。明日から夏休みですよ」

 工具を返すのに用務員室まで先を歩くファウストの後に続きながら、レノックスは旧研究棟を見上げた。

 本当は踊り場に立つ彼のシルエットを見た瞬間、心臓がひやりとして、すぐに言いようのない悲しみが胸をいっぱいに支配した。

 悲しくて、寂しいと思った。

 誰だかに呼ばれた幽霊という肩書に乗っかり、幽霊としてふるまい、地上の人間を軽蔑するファウストは、本当にこの世の者でないように思えた。世界を呪う彼の立ち姿はどこまでも孤高で、恐ろしく、美しく、そして孤独だった。

 あの瞬間だけは、彼はこの世界の誰よりも、ひとりぼっちだったからだ。


     〇


 風呂からあがると、ファウストは未だ晩酌の最中だった。

 やけに暗い空からは、いつの間にか雨が降り始めていた。ソファに腰かけているファウストは傍らの窓は大きく開け、ざあざあと雨粒が叩きつけられる音を聞きながら、グラスを片手に暗い空を眺めていた。フローリングの床は小雨に濡れ、ローテーブルにはいつだかに買った安物のボトルがすでに一本空けられている。

「そこは濡れませんか」

 レノックスが声をかけても、返事はなかった。グラスの中の赤い液体をくるくるとまわしながらぼんやりとしている彼の白い肌は薄紅色に染まっており、だいぶ酩酊しているようだった。

 窓を閉めようと近づくと、ようやくファウストはレノックスに気づいたようで、まだ空いていないボトルを掴むと「レノックス」と呼んだ。「おまえもやれ」

「俺はいいです」

「いいから飲め」

 反論を許さぬ口調に加え、レノックスに向ける視線は睨むように据わっていた。

「じゃあ一杯だけ」

 キッチンからグラスを持ってきて向かいのスツールに座ると、手酌するより先にファウストがボトルを持ち上げてグラスに注いだ。

「すみません、ありがとうございます」

 グラスに口をつけると、注がれた赤く透明な液体を少しずつ、ゆっくりと喉に流し込んだ。ワインの良し悪しがわかるほど舌が肥えているわけではないけれど、いかにも悪酔いしそうな味に、一瞬頭がくらくらした。

 ファウストも自分のグラスに注ぎ足すと、同じようにグラスに口をつけながら、じっと正面のレノックスを見据えている。

 グラスの中のワインを飲み干すまでの間、お互い一言も言葉を発さなかった。

 飲み干すと、レノックスは立ち上がってようやく窓を閉めた。びしゃびしゃのフローリングを踏んで、足元が濡れる。タオルを取ってこようと背中を向けると、ファウストが口を開いた。

「三年前の今日、幼馴染が死んだそうだ」

 誰の、とは聞かず、代わりに、今日が命日ですか、とレノックスは尋ねた。

「人にとってはそう。でも僕にとっては、ただの無意味な日だ」

 トン、と音を立てて、ファウストは空になったグラスを机に置いた。ボトルからグラスに注ごうとするが、半分も入れないうちにレノックスに手首を掴まれて止められる。彼は存外大人しく、ボトルから手を離した。

「飛行機事故だそうだ。彼は、僕の研究を、無断で海外企業に売りはらった。その途中だった。最後に会ったとき、大喧嘩をした。今でもあいつに言われたことを、自分が言ったことを憶えている」

 ぽつぽつと細切れに、思いつくまま話すファウストの声からは、普段の整然とはっきりと物を言う様子は影を潜めていた。

 脱衣所から新しい清潔なタオルを持ってくると、ファウストに手渡した。霧雨に濡れた彼の髪や肌は濡れていて、放っておいたら風邪を引きそうだったのだが、反応は鈍かった。仕方なく代わりに拭いてやっても、されるがままでいて、ひどくぼんやりとしていた。焦点の合っていない瞳はとろんとどこか遠くを見ていて、手元が危なっかしい。レノックスはワイングラスを取り上げると、肩に触れた。

「お休みになるならベッドに行きましょう」

「嫌だ」

 タオルに顔を埋めて、ぐずる声は子供のようだった。「夢に見る」

 しかしレノックスが寝室のベッドのシーツを替えて戻ってきた頃には、ファウストはソファにもたれかかって、小さな寝息を立てていた。

 寝室まで運ぶのに抱きかかえると、その身体は身長に対しておそろしく軽く、何もかも細くて、途端に怖くなる。壊さないように大事にベッドに横たえて布団をかけてやると、ファウストは消え入るような声で名前を呼んだ。

 ベッドに横たえた拍子に前髪が目元に被ってしまったので、眼鏡を外しながら前髪を払った。眼鏡を外した顔は一度苦しそうに顔を歪めると、小さく呻いた。うっすら赤く上気した白い肌に、不似合いな隈が目立ってしまっている。

 呪われたんだよ。

 寝顔を見つめていると、フィガロの声が頭の中でこだました。

 幼馴染に呪われたあの子は、代わりに世界を呪ったけれど、結局自分を呪った相手のことを呪い返せないんだ。

 キッチンに戻って空になったワイングラスを洗いながら、レノックスは考えた。

 この時期になると夢を見ては後悔するほどに、酒の力を借りなければ深く寝付けないほどに、今でもファウストは「アレク」に会いに行きたいのではないかと。




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