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03.


ともだちになった日


 早朝の冬の匂いを、未だに憶えている。

 大学受験のために地方都市の最寄り駅から窮屈な夜行バスに長時間揺られた身体は、ようやく降りることができてからしばらくしても、ぎしぎしと軋んでいるようだった。

 夜の間に雪が積もった首都は、朝になっても土の混じった雪が路面に残っていた。ざくざくと一歩一歩踏みしめながら歩いていくと、大学までの道筋で何台かの除雪車と、歩道の雪かきをする人たちとすれ違った。

 大学構内は、まだかなり雪が残っていた。なんとか順路の雪だけは路肩に避けられているものの、ぽつぽつと前を歩く、同じ受験生と思しき学生たちのつるつると滑る姿が目に入った。

 並木道をしばらく進んで、足を止めた。

 道の端に、ダッフルコートを着ている少年が立っていた。少年は、通路脇に植えられた立木に向かって、両手をあげて何やら呟いている。

「どうしたんだ」

 声をかけると、少年がこちらを向いた。はあ、と少年が息をするごとに、彼の周りの空気が白く染まった。鮮やかな紫色の瞳をした少年だった。雪に覆われた色の無い世界で、その紫だけが、銀河に浮かぶ北極星のようにちかちかと輝いていた。

「猫が」と少年は上を向いた。「猫が降りられなくなってる」

 レノックスも少年の視線の先を辿って、すぐに理解した。太い枝の上に、成猫が身をちぢこませるようにしてじっと動けないでいる。

「屋根の上にいて、雪と一緒に滑り落ちたのかもしれない」

 じっとしているのを見ても、もしかしたら怪我をして動けないでいるのかもしれなかった。

「わかった」

 それだけ言うと、レノックスは背負っていたバックパックを地面に置いて、できるだけ太くて立派そうな低い枝を掴んだ。懸垂の要領で体を引き上げると、もう片方の手を猫のいる枝まで伸ばす。

「ほら」

 大人しく腕の中におさまった猫を少年に手渡すと、レノックスは枝を離して着地した。反動で枝が大きく揺れる。と思うや否や、木に積もっていた雪が勢いよくどさどさとレノックスの上に降りかかった。

「お、おい大丈夫か」

 真っ白になったレノックスに少年が慌てて駆け寄る。犬のように頭を振って雪を落とし、身体についた残りの雪を手で払っていると、レノックスは、む、と顔をしかめた。

「……背中に雪が入った」

 少年は紫の瞳を丸くさせて、それから声をあげて笑った。

「ごめん」と謝りながらも肩を揺らしてくすくす笑う少年を、レノックスは不思議な面持ちで見つめた。この子は困ったような顔をしながら笑うのだなと、背中にひんやりしたものを感じながらぼんやり思った。

 小刻みに揺れる体が抱かれ心地として悪かったのか、少年の腕のなかにいた猫はするりと抜けると、地面に降り立った。そのまま真っすぐレノックスのバックパックに向かい、前足でカリカリとする。

 レノックスはしゃがんでバックパックから、朝食用に買った魚肉ソーセージを取り出すと、パッケージを剥いて猫に与えた。

「なんだ腹を空かせていただけか」

 勢いよく食べ始める猫を見ながら、少年も膝を抱えるようにしゃがんで、ふふと笑った。「そんなに食い意地を張ってると、また降りられなくなるぞ」

「受験生か」

 見たところ、まだ在学生ではないだろう。レノックスが尋ねると、「いや、僕はもう推薦で決まってるんだよ」と少年は説明した。「今日は推薦してくれた教授に挨拶に来ただけだ」

 不思議な子だなと思った。少なくとも、レノックスがこれまで出会ったことのない雰囲気の子だった。

 年上に対しても物怖じしない態度は、偉そうというわけでもなく、不快感を誘わなかった。しなやかに伸びた背筋や薄い色をしたふわふわの猫っ毛は、高貴な猫を連想させて彼をとても品良く見せたし、何より強い意思を宿したような紫の瞳にはなぜだか自然と視線が吸いつけられた。

「猫のことありがとう」

 少年は言った。「改めてお礼をしたいんだけど、学部はどこだ?」

 明らかに年上であるレノックスを在学生だと思うのも無理のないことであった。

 受験生だと告げると、少年は一瞬気まずそうな顔をした。

 しかし試験の時間が迫ってきているレノックスが立ち上がると、同じように立ち上がって下からレノックスの顔を覗き込んだ。形のいい唇がいたずらっぽく笑った。紫の瞳が、またちらりと光った、ような気がした。

「じゃあ、また春に」


     〇


 ネロ・ターナーの朝は早い。

 農学部学生食堂に出勤すると、まず食器を用意するところから彼の仕事は始まる。その日の分の大量の生野菜を洗い、カットし下ごしらえを終える。副菜、汁物、主菜と調理に入るとあっという間に学生が押し寄せる昼になる。調理器具を片づけ、明日の仕込みを行い、最後に調理台を綺麗に掃除し終える頃にはすっかり夕方になっており、ここでようやく帰宅となる。

 昼過ぎに学生たちが授業に戻って一息ついてからが、ようやくネロの昼休みだった。

 その日もまかないを片手にネロは勝手口から外に出ると、ゴミ捨て場に捨ててあったパイプ椅子に腰かけた。片手でまかないを食べながら、持ってきていた数学の参考書とノートを開いた。

 ふと、ごみ捨て場の向こう側に、きょろきょろと念入りにあたりを見渡している男の影が見えた。ここ最近、このあたりで見かける男だ。何をしているのかはわからないが、必要以上に人目を気にした様子で、いつもこそこそと物陰に隠れていくのである。怪しい容姿から薬の密売でもしているのではないかとこっそり疑っているが、どちらにせよ関わりあいたくはなかった。幸いにもごみ山の影に隠れて、ネロの姿は向こうからは見えない。

 男のことは頭から忘れて、ネロは再び参考書と向かい合った。昨日から、ずっとわからない問題があった。巻末についている答えを見ても、なぜその答えになるのかが一向にわからないのである。ペンでノートをトントンと叩き、足をゆする。

 しばらくそうしていると、突然、みゃあ、と猫の鳴き声がした。

 思わずあたりを見渡してから、また視線を参考書に戻す。もう一度、みゃあ、と鳴き声がした。みゃあ、みゃあ。にゃあ。

 にゃあ?

「にゃあにゃあ」

 ゴミ袋の山の向こう側から、猫の声に混じって、明らかに人間の声がする。

 なぜ、よりにもよって、そのときに限って好奇心を出してしまったのかはわからない。そろりと、首だけ伸ばして山の向こう側をのぞくと、陰に隠れるようにしゃがんだ人影が見えた。

「ふふ……おまえらは本当にかわいいにゃあ……」

 数匹の猫に囲まれた成人男性が、情けなく破顔しながら膝の上に乗せた猫に顔をうずめ、猫なで声を出しながらうりうりとしていた。

 薬の密売よりも、見てはいけないものを見てしまったかもしれない。

 ネロはまたそろりと、音を立てずに首を引っ込めた。変な好奇心を出してしまった後悔と、絶対に関わりたくない思いから、一刻も早くこの場から見つからないように立ち去ろうと、腰を浮かせる。その拍子に、膝からずり落ちた参考書が、地面の上でぱさりと音を立てた。

「やべっ」

 思わず漏れた言葉に口を覆って、よせばいいのに人影に視線を動かしてしまう。

 無慈悲にも、男と目が合ってしまった。

 目を丸くしてぽかんと口を開けていた男の顔は、みるみるうちに湯気が出るほど真っ赤に染まっていったかと思うと、次の瞬間にはわなわなとどす黒く変化していった。猫を抱いたまま立ち上がると、早足で逆方向へ立ち去って行った。

 なんだったんだ。

 問題の続きを解く気にもならず、そのまま食堂に戻ろうと踵を返した。と、そのとき構外の道路からパトカーのサイレンの音が聞こえる。何台も続くサイレンはけたたましくあたりに響いた。

「また窃盗団か……」

 苦虫をつぶしたような顔でサイレンの音を聞いていたネロは、重い溜息をついた。

「最近調子乗りすぎなんだよ、あいつ」


     〇


 本格的に梅雨入りした空は毎日薄暗く、じとじとと止まない雨を降らせ始めた。晴れた空の色を忘れ始めた頃、レノックスの周りにもちょっとした事件が起こった。

 洗濯機の、乾燥機能が壊れてしまったのである。

 晴れた夏の日ならともかくとして、外で乾かすことすらできないこの季節には、これは致命的な問題だった。しばらくはコインランドリーで凌ぐとして、その間に修理を呼ぶにも在宅の時間と調整しなければならず、さてどうしたものかと考えを巡らせながらレノックスが帰路についていると、軽快な音とともにスマートフォンにメッセージが届いた。

「服借りるぞ」

 先に家に戻ったはずのファウストからである。状況はよくわからなかったが、とくに迷いもなく了承した。貸して困るものは何もなかったし、ファウストであれば貯金通帳でさえ預けても問題ないほどの信用があった。

 帰ると家のなかは廊下まで明かりがついていたが、リビングにはファウストの姿は見当たらなかった。開けっ放しのカーテンの外はだいぶ暗くなっていたので、閉じようと窓に近づいて、ふと隅のほうに目をやるとガラスに張り付く小さな白い腹が見えた。白い腹は長い手足を使ってうごうごと場所を移動して喉を震わすと、また足を畳んで小さく丸まった。

 最近このベランダに住み着いたらしいカエルである。いつの間にかベランダの室外機の上を居住区としたこのカエルは、夜になると窓に張り付いて、部屋から漏れた光に集まった小さな虫を食事にしているようであった。

 コンクリートに囲まれた都会のマンションで見かけること自体珍しかったが、何より珍しいのはその体の色だった。普段は青々とした緑色をしているそのカエルは、月の光を浴びたときだけ美しいラベンダー色に変色するのである。カエルは保護色で周囲の色と同化できるが、月の光に反応するというのは聞いたことがなかった。

 ペットとして飼育していた外来種を誰かが野に放ったのではないかとファウストは腹を立てていたが、行政に連絡するのはしばらく様子見してからということになった。昼間はただのアマガエルにしか見えなかったからだ。

 カーテンを閉じて、振り返るとリビングにファウストが入ってきていた。シャワーを浴びたばかりなのか髪は少し湿っていて、彼の体格には幾分大きなスウェットを着ている。見覚えのある服装にレノックスが言葉を失っていると、洗ったばかりの濡れた衣服が山になっている洗濯かごを抱えたファウストは「見ての通りだよ」と、かごを少し上に持ち上げて見せた。

「シャワーを浴びている間に溜まっていた洗濯ものを全部洗ったんだが、乾燥機が壊れていたのをすっかり忘れていて着るものがなくなったんだ」

 そのため除湿のエアコンの前に干したら少しははやく乾くかと思いリビングに洗濯かごとピンチハンガーを持ってきたのだが、そんな説明ももはや頭に何も入ってこないレノックスは無言で玄関へと向かった。バイクに乗り、大学裏のアパートへ向かい、すぐにまた家へと戻ってくる。

 ソファに座って読んでいた本から顔を上げ、訝し気に眉を寄せているファウストに紙袋を手渡した。

「ルチルから学生時代のジャージを借りてきました。これを着てください」

 紙袋の中を覗いたファウストの顔がいよいよ曇った。

「今すぐ……?」

「今すぐです」

 有無を言わせぬ圧力にファウストは溜息をついて本を脇に置くと、立ち上がってスウェットのボトムスを脱ごうと腰に手をかけた。と、途端に制止が入った。

「下から脱がないでください」

「どうして」

「どうしてもです」

 まったく納得ができないまま、しかたなくトップスを脱ごうと胸の高さまでたくしあげると、またレノックスから制止が入る。「待ってください」

「今度はなんだ」

「上からもダメです」

「おまえ本当に着替えさせる気があるのか」

 度重なるわけのわからぬ要求に苛立ちながらファウストが問うと、レノックスはしばし考えこんでから大真面目に返答した。

「よく考えたら俺が部屋の外へ出ていればいい話でした」

 ファウストは真っすぐリビングの扉を指さした。

「なら、はやく出ろ」

 リビングから追い出されたついでにトイレ掃除をしていると、しばらくしてから「これで文句ないだろ」と見せにきたファウストの姿にレノックスはとても満足した。

「いいですね。とてもよくお似合いです」

「芋ジャーだろ、これ」

「でも健康的でとてもいいです」

「それに、この手首と足首がきゅっとしている感じが、どうにも落ち着かないんだが」

「それがいいんです。動きやすいですよ」

 それまで着ていたスウェットを受け取るや否や洗濯機に放り込んで電源を入れると、ファウストは複雑そうな顔を見せたが、それには気がついていないレノックスである。

 夕食にしてようやく一息つくと、袖のあたりをいじりながら(どうにも手首のゴムが気になるようであった)ファウストが口を開いた。

「そういえば、今日、学食の裏で気になることを言っている男がいたな」

「気になることですか」レノックスが問い返す。「それにしても、なぜ学食の裏なんかに?」

「そんなことはどうでもいい」咳払いをしてファウストが遮った。

「学食で働いている男のようだったが、窃盗団について何か知ってそうだった」

 それが学生寮を爆発させた連中のことだと、頭の中でつなげるのに時間がかかった。

 ここ数年のうちに急に現れ、盗みを働き続けている彼らの犯行手口は実に大胆であり、放っておいてもそのうち捕まるものと思っていたが、一向にその気配はなく勢いは増すばかりのようであった。

「どうする、会ってみるか」

 レノックスは少し考えた。

「俺自身は、今更犯人を捕まえようとは思っていないんです」

 気に入っていた場所を忘れたわけではないけれど、犯人捜しをしても意味がない気がして、それまで動いてこなかったのである。今更目の前に情報が来たとしても、それは同じだった。

 ただ、と彼は続けた。

「今日学生寮で一緒だった男に久しぶりに会いました」

「学生寮で?」

 はい、とレノックスは頷いた。

「当時はあまり関わりがありませんでしたが、コリンという西から来た男です」


     〇


 今にも一雨きそうな空模様の下、コリンを見かけたのは学食のテラス席だった。農学部でないコリンがなぜこんなところにいるのだろうと声をかけると、彼もすぐに同じ寮だったレノックスに気が付いて、軽い世間話を交わしたのである。

「なんだか前に元気がないように見えるな」

 そう言うと、コリンは力なく笑った。

 ご近所だったとはいえ、コリンとはとくに親しかったわけではない。当時コリンはレノックスの部屋の下の階に住んでいたが、授業のない日は彼はたいてい部屋にこもっていたからだ。それでも元来彼は明るい男のようで、すれ違えば気さくに挨拶をしたし、たまに道端でおしゃべりなんかもした。

 ただ、彼にはいつも何かをそわそわと隠しているような、そんな浮足立った気配があった。本当はみんなに見せびらかしたいのだけれど、誰にも見せたくない、大事な宝物を隠しているような、そんな気配だ。

 彼の態度を快く思っていない学生もいたようだが、レノックスは嫌いではなかった。誰にだって、一人で大事にしたい宝物はあるはずだ。

 しかし今のコリンからは当時の浮かれた様子は一切感じられず、ただただ気を落として一人項垂れている。

「今は休学して、友だちをさがしているんだ」

 重い表情で、コリンは説明した。

「クローロスというんだ。僕の友だちで、僕のすべてなんだよ」

 コリンから、「友だち」の話を聞くのは初めてだった。

 なんでも彼とクローロスは、この大学のオープンキャンパスの日に出会ったそうである。コリンはクローロスを一目見た瞬間、ともだちになりたいと思い、この大学への入学を決意したそうである。

 レノックスは、彼が雨上がりの月夜になると、軽やかな足取りで外に出かけていることを知っていた。どこへ出かけているのだろうと不思議だったが、ようやく合点がいった。彼は、クローロスに会いに行っていたのである。

 クローロスとの思い出を話しているコリンは、それはそれはとてもうれしそうに顔を綻ばせていたが、時折苦しそうに顔を曇らせた。彼とクローロスの思い出は、ある日を境に突如更新されなくなってしまったからである。

「学生寮が燃えた日、あの大変な騒ぎに乗じて、僕の元からいなくなってしまったんだ」


     〇


 翌日の分の仕込みまですべて終え、ネロが退勤した頃には日が傾き始めていた。学食の近くの駐輪場まで向かっていると、建物の影からひょいと現れた青年に声をかけられた。

「こんにちは」

 柔らかな物腰の金色の髪を持った青年は、にこにこと愛想よくネロに話しかけた。

「ちょっとお話を聞かせていただいてもいいですか」

「すいません、今ちょっと急いでるんで」

 青年と目を合わせないように、早足でやり過ごしながらネロが答える。彼の経験上、道端で丁寧にこんなことを話しかけてくる男は、十中八九、詐欺かカルト宗教への勧誘だと相場が決まっている。

 しかし青年はめげずに追いかけてきた。

「あっ、怪しいものじゃありませんよ。私はルチルといいます。この大学の教育学部の学生です」

「ああそう。教育学部の学生が俺みたいのになんの用だって」

「窃盗団についてお話を伺いたいんです」

 思いもよらない単語に肝が冷えた。なぜこの青年が、窃盗団について自分に尋ねてくるのかネロにはわからなかった。しかしそれを悟られないように、努めて冷静に駐輪場に停めていたバイクのエンジンをかけると、警戒しながら青年を見据える。

「悪いけど、話すことは何も無いよ」

 ヘルメットをかぶって、そのまま車道へ走り出した。

 交通量の多い都市部の道路に出てはそう簡単には追いかけて来れないだろうが、なぜ関係性がばれたのかという疑念がいつまでもネロの心のなかでもやもやと燻っていた。

 あの青年はまた明日も来るのだろうか。

 職場がばれているのは痛かった。最悪職場を変えなければならない可能性を考えると、気が重くなる。

 ネロが憂鬱な面もちでバックミラーに視線をやると、後方から走ってくる中型バイクの姿が見えた。車の隙間を縫うように進んでくるバイクは、想像していない速度であっという間にネロのすぐ後ろまで追い上げてくる。

「待ってくださーい!」

 先ほどの青年が、バイクに跨ってとんでもないスピードで追いかけてきたのである。

 ぎょっとして、追いつかれないように慌てて速度を上げる。かつて相棒と共に数々の峠を制してきたネロもスピードには自信がある方だったが、猛追してくる青年の運転はひどくエキセントリックで危なっかしく、常識が通じそうにないほど怖いもの知らずだ。常識が通じないものほど怖いものはない。

 なんとか撒こうと住宅街に続く路地に入ると、バックミラーから後続のバイクは姿を消した。迷路のようにくねくねと道の入り乱れた路地は、こちらのスピードも落ちるが一度見失えば探し出すのは困難だ。

 しばらく追手が来ないのを確認して、ようやく一息ついたその瞬間、横道から急に背の高い男が車道に飛び出してきた。慌てて避けようとハンドルを切るが、男の方は真っすぐこちらに突撃してきた。フロントを両手で掴むと、アクセルのかかったバイクを力任せに押し返す。

 無茶苦茶だ!

「もう、待ってくださいよ」

 学校から追ってきたバイクも遅れて到着した。ヘルメットを脱ぐと、やはり先ほどの気の良さそうな青年が現れて、板挟みになったネロはここでようやく観念した。バイクと力比べをした背の高い男の方にいたっては終始支引き攣ったような邪悪な笑みを浮かべていて、下手に刺激しない方がいいと判断したのもある。こんな顔をしているのはカタギではないと相場が決まっている。

「手伝ってくれてありがとう、ルチル」

「私も久しぶりにバイクに乗れて楽しかったです」

 ルチルがにこにことした。

「久しぶりに乗ると楽しくて、このまま速度制限なんて無くなっちゃえばいいのに!、って思っちゃいました」

 はじめて速度制限のありがたみを身をもって感じた。

「もう好きにしてくれ……」

「それは助かる」

 男はひょいとネロのバイクを担ぐと、すたすたと先を歩き始めた。信じられない光景に絶句するネロに向かって、思い出したように振り返る。

「それじゃ、場所を移動するか」


     〇


 結局大学の食堂に戻ると先客がいた。隅の席でぶすっとしているが、いつだかの猫男である。先方も気づいたようで、気まずそうに顔を逸らした。

「言っとくけど、あんたらが期待しているような情報は持ってないと思うよ」

 少し離れた席に腰かけながら、ネロが言う。

「そもそも、なんで窃盗団なんかのこと知りたいんだ」

「四月に、レノックスさんの住んでいた寮がその方たちに燃やされたんですよ」

 ルチルが代わりに答えた。

 学生寮の爆発の噂はネロも耳にしていた。さすがに大学の建造物に対してやりすぎたと思ったのか、炎上後しばらく彼らが大人しくしていたことも。

「それは……災難だったな」

「別に犯人探しがしたいわけじゃない」

 後を引き取るようにレノックスが続けて、ネロは思わず身を固めた。先ほどからずっと凶悪な面を貼り付けていてこわいのである。

「そのとき、寮に住んでいた奴の友達が一人いなくなったから、なんでもいいから情報が欲しい」

「いなくなった?」

「逃げるときの騒ぎに乗じて行方不明になったそうだ」

 聞いた話では、軽症者はいたというものの、寮生は全員無事だということだった。行方不明者が出たというのは初耳だ。

「そいつには気の毒だけど、俺もよくは知らねえんだよ」

 事実だった。いつの間にか少しずつ大きくなっていった組織の末端のまでは、ボスもすべては知らないのではないだろうか。「あいつらが人攫いだとかそういうことをしてるかは、俺は聞いたことがない。それに窃盗というと聞こえは悪いが、普段はどちらかっつーと義賊的なやつらみたいだよ」

「へえ、現代のアルセーヌ・ルパンなんですね」

 ルチルの感心した声に、ふんとファウストが鼻を鳴らした。

「無関係の人間の住居まで燃やしていて義賊か」

「まあそれはそうなんだけど、ブラッドは普段はそこまで悪いやつじゃないというか」

「ブラッド?」

 三人に声を揃えて聞き返されて、ネロは片手で顔を覆った。

「窃盗グループの名前か?」

「まあ……俺はよくわかんねえけど……」

「『血』ですか……物騒ですね……」

 勘弁してくれと叫びだしたい気持ちを抑え、ネロは椅子の背もたれに寄りかかると天井を仰いだ。

「忙しいところわざわざ時間を取らせて悪かった」

 ネロから聞き出せる情報はこれくらいだと切をつけたのだろう。ファウストは時計を見ると、荷物を片づけ始めた。

「別に。どうせ家で寝るだけだから」

「でも家でも勉強するんだろ」

 ぎょっとして身を起こす。ファウストはネロのそんな様子も気に留めず、鞄の中身を整理している。

「毎日食堂の勝手口のとこでしてるだろ。雨の日は室内の方が良くないか」

「なんか、恥ずかしいんだよ。俺みたいのが勉強してるなんて」

「この学校じゃ浪人も社会人入学も別に珍しくもなんともない。レノもそうだしな」

 話を振ってからファウストはレノックスの顔を見て、ふっと笑った。

「それにしても、おまえはいつまでその顔をしているんだ」

 レノックスは先ほどからずっと引き攣ったような凶悪な顔をしたままだった。

「笑顔の方が相手を怯えさせないとルチルに言われまして」

 どう考えても逆効果だろうというファウストの真っ当な指摘に、レノックスは厳めしい顔のまま頬を片手でぐりぐりとほぐした。「明日、筋肉痛になりそうです」

「大丈夫ですよ。レノックスさんは顔はちょっと恐いですけど、すごく優しい人なので」

 ネロに気を遣ったのか、ルチルのフォローに、はあ、と生返事する。

「それにすごいんですよ、ディズニープリンセスなんですから」

「プリンセス……?」

 まったく予想だにしていなかった単語の登場に困惑していると、お構いなしにルチルは「レノさん見せてあげてください!」と、肩を叩いてレノックスを促した。

 レノックスは食堂の窓を開けると、すっと片手を空に向かって差し出す。するとたったそれだけで数羽の雀が彼の腕に留まったのである。レノックスが腕を引いても逃げる様子もない。雀を一羽、もう片方の人差し指に移すと、残りは空に返してファウストの元へ戻った。

「ファウスト様、どうぞ」

「かわいい……」とファウストは雀を両手に乗せた。

「ほら、こんな芸当ができるのはディズニープリンセスだけですよね」

 どちらかというとジブリ映画のロボット兵みたいだな、とネロは思った。


     〇


 この奇妙な出会いから時が経って数週間後、日常にいくつか変化が起こっていた。

 まず一つ目に、壊れた洗濯乾燥機は翌日には業者を呼んで修理をしてもらった。まだまだ現役で活躍してもらおうと満足げに撫でてやると、無機質な機体が少しだけ張り切っているように感じた。

 二つ目には、ベランダのカエルがいなくなった。中旬に来た台風の前日のことである。少しばかり心配になって寝床にしているベランダの室外機のあたりを念入りに探してみたが見当たらず、台風が過ぎ去ってしばらくしてもカエルは姿を見せなかった。風で飛ばされたのか、鳥に食われたか、それともより暮らしやすい場所を求めて引っ越したのだろうか。

 それから三つ目。いつの間にか、学食の隅に現れる奇妙な二人組の姿を見かけるようになった。

 一人はここの学食で働くコックであり、もう一人は滅多に外でお目にかかれる機会のなかった引きこもりの大学生である。あのあと、二人の間でどういう会話がなされたのかは知らないが、ファウストはネロの受験勉強を見ることになったようであった。

 もちろんタダというわけにいかない、とファウストが言い訳じみた口調で説明することには、授業料は学食の食券で支払われることになっているという。ちなみにこの食券は、成長期の弟のいる兄弟のもとへ横流しされていることをレノックスは知っている。

 そうして日々が過ぎていく中、学内でコリンを見かける機会はなかなか巡って来なかった。休学しているという彼が、再びベンチに座って重たい灰色の空をぼんやりと眺めているのを見つけた時には、既に月の終わりになっていた。

 レノックスはコリンに一部始終を話した。

「いいんだよ。わざわざありがとう、レノックス」

 怒るでも取り乱すでもなく、穏やかに話を聞いていたコリンはそう礼を言った。

「ねえ、代わりと言っちゃなんだけど、少しだけ僕の話に付き合ってくれるかい」

 レノックスが頷いて隣に座ると、遠くの空がごろごろと不穏な音を立て始めた。空と対照的に、コリンは静かに話し始めた。

「オープンキャンパスの日、僕ははじめてクローロスに会ったんだ。今でもあのときのことは、空気のにおいまで思い出すことができる。幻想的で美しい彼の姿を一目見た瞬間、まるで世界から彼以外の色が消えてしまったように思えたんだ。僕はどうしても彼と友達になりたくて、この学校に来たんだ。こんな理由で学校を選ぶなんて、呆れられるかもしれないけれど」

「呆れないよ」

 力強く肯定するレノックスに、コリンはほほえんだ。

「僕がこの学校に来た時、実験に使われていた彼はとても弱っていたんだ。ぐったりとした彼の姿を見た時ほど、自分の鈍くささを呪ったことはないよ。はじめて会ったときに、彼を連れ出してしまえば良かったと何度も後悔した」

 何度も、何度も。とつとつと語るコリンの組まれた拳は小さく震えていた。「だから僕は、すっかり遅くなってしまったけれど彼をこっそり連れて逃げ出した。研究室は大騒ぎになったけど知ったこっちゃない。それからはこっそり彼を匿って、あの寮で一緒に暮らしていたんだ」

 それはとても素晴らしく、楽しくて幸せな毎日だったんだよ。そう語るコリンの暮らしは、なんとなくレノックスにも想像がつく気がした。実際に、あのときのコリンは宝物を隠した子供のようだった。

「でもクローロスはいなくなってしまった」

 ぽつぽつと、足元の地面に雫が落ちて、コンクリートを濡らした。乾く間もなく丸い染みは増えて広がっていき、あっという間に地面の色をすっかり変えてしまった。

 目の前を滝のようにざあざあと屋根を伝って落ちていく雨水を、しばらく二人は黙って見ていた。

「ねえ、レノックス」

 コリンの最後の質問に、レノックスは終ぞ答えることはできなかった。

「僕は結局、彼の役に立つことができたのかな」


     〇


 二階にある自室の窓から見える遠くの山がぽつぽつと桃色に染まった頃、レノックスが大学のサイトを開いてみると、ニュースが一件更新されているのに気がついた。

 今年度の入学式の様子についてのレポートのようだった。なんとなくリンクをクリックして、自分が行けなかった入学式の様子をこうして確認するのは未練たらしいのかもしれない、とちらと考える。

 リンク先を見て、大きな大学の入学式はスポーツ観戦するようなドームで行われることがあるのだと、レノックスははじめて知った。引きの写真に写る学生たちは群衆に過ぎず、この規模のこの人数だと、一人の人間を探し出すのは不可能に近い。

 少しばかり落胆しながら、ページをスクロールして学校長の祝辞やら、理事長のエキセントリックなお言葉などを読み飛ばしていくと、新入生代表挨拶をつとめた学生の名前とその挨拶の全文、それから小さな写真が載っていた。

 受験日の朝に会った彼だった。

 彼は農学部の新入生だった。名前に見覚えがあって、検索したらすぐにヒットした。高校生の研究が実現場に大きな功績を残したことで表彰されたニュースは見たことがある。ずらずらと出てくる彼の経歴は、田舎で育ったレノックスの知らない世界だった。

 スマートフォンの画面を閉じて、ベッドの上にあおむけに寝転がる。自室の低い天井を見つめてから、目を瞑った。瞼の裏にちかちかと星空が広がって、それから雪に覆われた大学の小道が浮かぶ。つんとした、冬の朝の匂いを思い出した。

 壇上で挨拶をする彼を、その場で見てみたかったと、心の底から思った。






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