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05.

何かが変わりそうな夜だ


「ハグの日を制定しましょう」

 起き抜けの頭にそんなことを言う居候の顔を、ファウストはぼんやり見つめ返して、居間の壁にかかった時計の方へ目をやる。平日ならそろそろ一限が始まる時間で、寝ぼけているわけではなさそうだ。もう一度レノックスに向き合って、それから「ハグ」の意味を考えた。剥ぐの日。接ぐの日。バグの日?

「すまない、言っている意味がわからない」

「ルチルに教わりました。ハグ、つまり抱擁ですが、リラックス効果やストレスの軽減が期待できるそうです。なので、週に一度同居人とハグをする日を決めるといいんだそうです。おすすめは火曜日だそうで」

「なんで火曜日なんだ」

「わかりませんが、火曜日がいいそうです」

 レノックスが両腕を広げた。

「一度、ものの試しで」

 うっ、と詰まりながらも、ファウストにはこの頓珍漢な方向へ向かっている善意を断りづらい負い目があった。

 先月は期末の課題で忙しかった上に、礼儀をわきまえない動画配信者が旧研究棟の周りをうろうろしていたことで機嫌が悪かったから、レノックスなりにファウストを元気づけようとしてくれているのだろう。絶対におかしな方向へ向かっているけれど。

 半ば八つ当たりのような態度を取っていたことも後から思い出すと申し訳が立たなかったが、そんなのはまだいい方で、月末には酔いつぶれてレノックスに介抱までさせてしまったというのである。そのときの記憶はなかったが、記憶がないのが何よりの証拠であった。そういうわけで、この大失態の借りを未だレノックスに返せていないのである。

「わかった。そこまで言うなら一度くらいは試そう」

「お願いします」とレノックスが一礼した。

「……じゃあ、僕から行く」

 すっかりレノックスの体躯にも慣れたものの、こうも改めて無表情のまま両腕を広げてじりじりと近寄られると、本能的に思わず後ろに引いて身構えてしまった。受け身でいるよりも自分からいってしまったほうが気持ち的に楽な気がしたのだが、これは誤算だった。いざ対面すると上からの妙な威圧感に気圧されてしまい、なかなか一歩が踏み出せない。

「では、俺は屈みましょうか」

「ああ、それは助かる」

 ほっとしたようにファウストは提案を受け入れた。

 レノックスは大股を開くと、両膝に手をつき、ぐっと腰を下ろした。

「どうぞ」

「やっぱり、普通に立っててくれ」

 四股を踏んでいる相手とハグをしたら、それは完全に相撲である。

 勝てる見込みのない相手に夏場所を申し込むつもりは毛頭ない。はあ、と長い息をついて、ファウストは自分を奮起させた。ハグなんて文化によっては別になんてことない、ただの挨拶だ。いつまでもうじうじとしているから、変な空気になるのだ。

 ようやく本当に腹を決めると、今度はファウストが中腰になった。

「僕が今から飛び込むから、うまい感じにキャッチしてくれ」

「わかりました」

「いくぞ」

「はい」

 ええいままよと目を瞑ったまま、勢いよくレノックスの胸板に飛び込む。と、次の瞬間には顔面に衝撃が走っていた。「ふぐっ」

「大丈夫ですか」

「大丈夫だ……」

 思い切り鼻をぶつけていたようである。眼鏡は大丈夫ではないかもしれなかったが、涙目で鼻をさすると、ヤケクソ気味に「ふんっ」と目の前の大きな体をぎゅうと抱きしめた。気分としては、大木にしがみついているようである。

 すると上から背中に腕を回され、こちらもぎゅうと力を込められた。ぎょっとして、一瞬、心臓が大きく跳ねた。自然と体勢が正され、身を屈めたレノックスの肩に顎を乗せている格好となった。

「どうですか」

「先ほどよりも心拍数も脈拍も確実にあがっているし、どうにも居心地が悪い。寿命が縮まりそうな気さえする。どう考えたって健康に良くはない」

「なるほど」と相槌を打つレノックスの低い声が耳を震わせて、さらに不健康になった。「ちなみに、俺も今そんな感じです」

「リラックス効果は期待できそうにないな」

「そうですね、これはやめておきましょう」

 どちらからともなくおずおずと身体を離すと、視線を合わせずにずれた眼鏡を直した。幸いにも眼鏡は無事であった。

「それでは次の提案ですが」

「まだあるのか……」

 すでに心身をだいぶ消耗しているファウストは、さすがにげんなりした。

「今日の花火大会にミチルたちに誘われています。ファウスト様も気分転換にいかがですか」

 この近くの川沿いで行われる大規模な花火大会だ。ローカルテレビで中継もされるほど有名なこの花火大会は、かなりの数の露店も立ち並び、地元民のみならず多くの観光客でひしめきあっている。子供の頃は毎年幼馴染と遊びに行ったものだが、今は好き好んで人ごみに揉まれる気は起きなかった。

「……わかりました」

 丁重な断りに、素直に頷くレノックスの表情は相変わらずわかりづらいものの、少しだけ寂しそうにしているように見えた。

 留守番させられる大きな犬のようで思わず、ふ、と息を吐く。

「僕のことは気にせず、行っておいで」


     〇


「ということで、ハグの日はあまり効果がなかったみたいだ」

「そうですか、残念」

「何か他にリラックスや癒しになりそうなものはないだろうか」

 スマートフォンを取り出してレノックスが尋ねると、ルチルは手を顎に置いて考え込んだ。

「そうですねえ、ねこカフェとかどうですか? かわいいねこがたくさんいて癒されますよ」

「ねこカフェ」とスマートフォンのメモアプリに打ち込んだ。「あの方は猫がお好きだからこれはいいな」

「でも、ねこカフェの猫はビジネスライクみたいでイヤ! って人もいるらしいですが」

「ファウスト様の派閥はわからないが、提案だけはしてみよう」

 スマートフォンを閉じてカーゴパンツのポケットに突っ込む。

 今月に入ってから、レノックスはルチルに会うたびに相談を重ねていた。もちろんその相談内容は、決まって気難しい同居人についてである。気難しい彼が少しでも心安らかな時が過ごせるように願っているものの、自分一人ではどうしたらいいか途方に暮れてしまい、アドバイスを貰っていたのである。

 ルチルは嫌な顔もせず、喜んで次々に案を出してくれた。中には突飛なものもあったが、こういう発想はレノックスから出てこなかったから、なんでもありがたかった。

「兄様、レノさん、早く行きましょうよ!」

 前を歩くミチルが振り向いて二人を急かした。

 ルチルとミチルの家で合流してから、歩いて花火大会の会場へ向かっていた。花火が打ち上がるのは川の下流だが、上流からすでにずらりとたくさんの露店が立ち並んでおり、暗くなる前から既に多くの人たちでにぎわっている。早くしないといい席が取られてしまうと、ミチルは焦っているのだ。

「ところで、レノさんってやっぱりそうなんですか」

 少し足を速めてミチルの後を追っていると、隣からやけに熱い視線を感じた。顔を向けてみれば、ルチルが何か聞きたそうにそわそわとこちらを凝視している。「そう、とは」

「恋してるんですか、ってことですよ」

「こい……」

「魚じゃないですよ」ルチルが先回りした。「好きってことの恋です」

「誰に?」

「もう、この流れだと決まってるじゃないですか!」

 ぺちんとルチルが背中を叩く。流れと言われてもすぐにはピンとこない。それまでの会話を思い出してみて、特定の名前が一人しか出てこなかったことに行きつく。

「とても人間として尊敬していて好いてはいるけれど、恋ではないと思う」

 馴染みのない単語をぐるぐるまわしながら、レノックスは頭をひねった。「いろいろなことでとてもお疲れのようだから、できるだけ癒されてほしいし、あの人にはずっと笑っていてほしいと思ってるけれど」

 はじめて会ったときの、無邪気に声をあげて笑った彼の顔を思い出していた。普段から大人びているけれど、あのときだけは年相応に見えた。

 ファウストが苦しんだり、悲しんだりする表情を見るのがレノックスは苦手だった。彼が苦しそうにしていると、自分のこと以上に胸がぎりぎりと痛む。

 またあのときのように、何にも捉われず、笑っていてほしいのだ。

 しかしルチルには別の意味で捉えられたらしく、彼は大きな瞳をきらきら輝かせて、レノックスを見つめていた。「レノさん、それはもう、完全に恋ですよ!」

「もう、兄様! 何でもかんでも恋愛とかに結びつけないでください」

 怒ったような声に振り返ると、それまで先を歩いていたミチルが両手を腰にあてて、二人を見上げていた。ずっと黙って話を聞いていたらしい。「それに、そういう話、あんまり好きじゃない人とかもいると思います」

「そう?」とルチルは首を傾げる。「実際に恋しててもしてなくても、それだけキラキラしていて楽しいし、心が若返る気がするし、私は恋バナ好きだけどなあ」

 レノックスはまたスマートフォンを取り出してメモを開くと、「ねこカフェ」と書いた下に、「こいばな」と追記した。

「ファウストさん、そういうのは好きかな……」

 レノックスのメモを覗き込みながら、ミチルが心配そうにつぶやいた。


     〇


 どういう方だったんですか。

 ジイジイと蝉の声に囲まれた研究室で、ごみ箱に捨てられた封筒の皺を伸ばしながら尋ねると、空気を入れ替えようと窓辺に寄っていたフィガロが振り返った。

「理学部の学生だったんだよ。天文学科のね」

 フィガロが窓を開けると、冷房が外に逃げ、代わりにもわっとした熱された空気と、裏の雑木林からのけたたましい蝉の鳴き声が部屋の中へ流れ込んだ。

「明朗快活っていうのかな。賢くて、すごくカリスマ性のある子だったけど、少し子供みたいなところもあってね。違う学部だったけど、よくここまで走って乗り込んできてたね」

「仲が良かったんですね」

「そりゃもう。幼い頃からずっと一緒だったみたいで、はたから見たら兄弟みたいだった」

 どうしてその方は研究を盗んだのでしょうか。

 一番気になっていた質問は、声にするとなんだか間の抜けた風に聞こえた。そしてその返事もまた、「知らない」と拍子抜けするほどにあっさりしたものだった。

 縁に寄りかかるように手をかけながらフィガロが言った。

「これがフィクションなら、死んだあとになって、彼にはやむを得ない事情があっただとか、実はどうしようもない極悪人だっただとか、良くも悪くも、とにかく何かしらスッキリさせる事実が明らかになるかもしれないね。でも、現実はこうして何も出てこなかった。今でも結局、誰一人何もわからないままだ。それは、この先もずっとね」

 陽炎が立つ屋外は目が痛くなるほどにまばゆくて、薄暗い一階の研究室と別世界に感じた。

「最後にもう一つだけいいですか」

 帰り支度をして立ち上がりながら、レノックスは尋ねた。

「呪われたって、どういう意味ですか」

「そのまんまだよ」

 今日のフィガロの声は終始機嫌が良さそうで、笑っているようにも聞こえたが、その表情は逆光でよく見えなかった。

「一番に気を許していた幼馴染が、自分を裏切って、弁解もせずに死んだんだ。わかるだろ。もうあの子はどこにも行けない。最後にとびっきりの強大な呪いをかけていったんだよ」

 研究室をあとに外に出ると、蒸れた空気がゆらゆらと景色を歪ませ、痛いほどの日の光が肌に触れた。照り返すアスファルトを歩いていくと、学生の落とし物か半液体状になったバニラアイスクリームがどろりと地面を濡らしていた。アイスクリームには大量の蟻が群がり、巣穴まで長い行列ができている。一列に並ぶ働き蟻たちは、一心不乱にせっせとアイスクリームを巣穴へと運び続けていた。

 蟻たちを見ながら、三年前の夏にそのとき自分は何をしていたのだろうと、ふと考えた。そしてそれが、己の中に生まれた浅はかで莫迦な考えによるものだと気づいて、すぐにやめた。

 たとえその場にいたとしても、魔法がつかえたとしても、きっと今と何も変わっていない。何も変わらず、傷ついていく姿をただ傍で見ていることしかできなかったろう。

 そして、それはおそらく事実なのだ。


     〇


 花火の打ち上げ会場の近くまで着いた頃には日もだいぶ暮れ、ぎっしりと立ち並ぶ露店の橙色の明かりが一斉に灯り始めた。浴衣や甚兵衛を身に包んだ人たちとすれ違うことが多くなり、アスファルトを蹴る高下駄の足音があちこちで響く。次第に大きくなる喧噪もまた非日常的な空間を演出していた。

 それにしても人が多い。打ち上げ会場の真下に近づくにつれ客の数は増え続け、誰かとぶつからずには歩けないほどに歩道には人があふれかえっている。小学生ぐらいの少年がレノックスにぶつかると、謝罪もそこいらに人混みのなかを縫うように走り抜けていった。後を追う少年の柔らかそうな後ろ髪を見ながら、これはファウストを無理に誘い出さなくて正解だったかもしれない、とレノックスは思った。

「ミチル、私と手を繋ごう。これじゃあ、はぐれちゃう」

 スピーカーから流れる迷子のアナウンスを聞きながら、ルチルが手を差し出す。

「い、嫌ですよ!」ミチルは慌ててぶんぶんと首を横に振った。「大丈夫です、レノさん目立つので! はぐれたらレノさんを目印に集合しましょう」

 確かにこの人混みのなかでも、文字通りレノックスは頭一つ抜きんでていた。

 ミチルの危惧していた通り、河川敷にはすでにレジャーシートが敷き詰められており、場所取りをする大人たちが先に酒盛りを始めていた。絶景とはいかないが少し離れた場所から見ることにして、先に露店で食料を調達することにする。

 焼きそば。たこ焼き。わたあめ。チョコバナナ。かき氷。露店の屋根に大きく描かれたお馴染みのラインナップの看板を前にすると童心に帰るような思いがした。どれもスーパーで買った方が安いのになんででしょうね、とルチルが言い、でもスーパーのよりおいしい気がします、とミチルも笑った。

「ミチルは今年もチョコバナナとりんごあめ?」

「いえ、もう大人なのでりんごあめは卒業です! もっとおいしくておなかのコストパフォーマンスに優れたものを食べます」

 ミチルは胸を張ったが、混ぜ合わせるとキラキラ色の変わるトロピカルジュースを見つけるや否や、「ああ……」と絶望したような声を漏らした。さっそく誘惑に駆られているようである。

「フィガロ先生も来れればよかったのに」

 真剣に露店の品定めをしながら残念そうにミチルがつぶやくと、ルチルが付け足した。

「毎年フィガロ先生と来てたんです。ミチルに露店でいろいろ買ってくれてたんですけど、今年は用事があるようで」

「買ってくれるからじゃないですよ」慌ててミチルが否定する。「だって先生、きっと今頃一人ぼっちで寂しがってますよ」

「確かに寂しがられてるだろうな」

「じゃあ寂しがり屋の先生にたくさんお土産買っていこうか」

 ルチルの提案に、ミチルは張り切って人混みのなかへ繰り出していった。

 途中、サイズのわりに中にぎっしり物が詰まっていそうなビニールのレジ袋を持ったレノックスを見て、ミチルは目を丸くした。

「レノさんそんなに食べるんですか?」

「いや、俺も少しでも祭りの感じをお裾分けしたくて」

 きょとんと聞いていたルチルはすぐにその相手に思い至ったようで、うんうんと頷いた。

「そうしたらりんごあめとかどうですか? お祭りっぽいですよね」

「かき氷……は溶けちゃいますね」

「チョコバナナは運びづらいし」

「お面は処分に困るかも」

「金魚は生き物だからなあ」

「あ、風車はお祭りっぽいです! ボクが買ってきてあげます」

 りんごあめと、風車もレジ袋の中に追加した。

 打ち上げ場所から離れた方へ川沿いを随分と下っていくと、だんだんと人の影がまばらになっていき、レジャーシートの敷き詰められていた土手にも空きが目につくようになってきた。すっかり暗くなった空には星が瞬き始め、水面に対岸の露店や提灯の橙色の無数の明かりが映り込んでいる。

 適当に空いた芝の上に座り、花火が始まるまで調達した食料を食べていると、ふと橋の欄干にひとりぼっちで座り込んでいる少年の姿が目についた。友達を待っているのか、レノックスらが来る前からそこにいた少年は、彼らの腹がだいぶ満たされたあともまだ長いことひとりぼっちでいた。

「あれ迷子かな」

「えっ、どこですか」

 ルチルが身を乗り出して、目を凝らす。「暗くてよく見えないですね。何歳ぐらいの子ですか」

「まだ十歳になってないくらいかな」

「友達とはぐれちゃったんですかね」

「ちょっと行ってくる」

「お願いします、レノさん」

 橋の上の少年に近づいていくと、その少年が先ほど露店の前の人だかりのなかで、友達とぶつかってきた子だと気づいた。

「何? 知らない大人と話しちゃいけないんだけど」

「友達とはぐれたのか」

「違うよ、喧嘩しただけ。あいつ帰っちゃったみたい」

 不貞腐れたように少年は欄干から投げ出した足をぶらぶらと揺らした。彼のすぐ後ろに見える黒い水面を見て、レノックスは少年を持ち上げると欄干から降ろす。

「夜の川は落ちたら危ないからな」

「あいつみたいなこと言うんだな」

 橋の両脇のスピーカーから、聞き覚えのある音楽とともにアナウンスが流れ始めた。花火大会が始まったようだ。

「なんでもかんでも危ないって言うし、もっと慎重になれって怒るんだ」

「心配して言っているんだろう」

「それにおれは犬の方が好きなのに、あいつは猫の方がかわいいって言うし」

 次々に打ち上げられる花火の音にかき消され、ぶつぶつと続く少年の文句はすべては聞こえなかった。

「ちゃんと仲直りできるうちに、仲直りしてこい」

 ちょうど手に持っていたままだったビニール袋から風車を取り出して差し出すと、少年は風車をじっと見つめて、それからふっと息を吹きかけた。カタカタと勢いよく羽が回るのを見て、レノックスに向かってにっこりした。

 そのとき、ひと際大きな音が空に響いた。思わず音の鳴る方へと顔を向けると、夜空いっぱいの特別大きな花火が打ちあげられ、弾けた火薬が流星群のように地上へ線を描いていた。

 再び視線を戻すと、少年の姿はもう見当たらなかった。

 ミチルたちの元へすぐには戻らず、橋の上からしばらく空を見上げていた。音楽に合わせるように、大きな音ともに夜空に色とりどりの大きな花が咲き乱れては散っていった。

 もう少しだけ、無理に誘ってみればよかったと思った。


     〇


 マンションに帰ると、家の中の電気はすべて消されていた。もうすでに寝てしまったのかと思っていると、奥で引き戸を開ける音がし、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。

「思ったより早かったな」

 玄関まで迎えに来たファウストは、レノックスの手首を掴むと、「ちょっと来い」とつかつかと居間の方まで連れて行った。

 居間へ入るとベランダへの窓が全開になっており、外から入ってきた風がカーテンをなびかせていた。珍しく興奮した様子のファウストは、これまた珍しくベランダに出ていたようである。

「ペルセウス座流星群だ」と説明した。

「極大が今夜なんだ。今年は条件がいいからいつもより見やすいぞ」

「ここから見えますか?」

 都会は夜でも明るすぎて、星の明かりは霞んでしまうのである。おまけに今日は花火大会で、まだ空にうっすら煙がかかっている気がした。

「ちょこちょこ見えてるは見えてるな」

 空を見上げてから、レノックスへ向き直った。「ほら、おまえも座れ」

「おみやげです」

 言われた通り、隣に腰かけてからレジ袋を手渡すと、受け取ったファウストは「妙に重いな」と不思議がった。「一体いくつ買ったんだ」

 焼きそばにお好み焼き、フランクフルト、イカ焼きとパックが積み重なったレジ袋の中身を覗いた。

「えらく張り切ったじゃないか」

 上目遣いで笑われて、少しだけ恥ずかしくなった。

「一人じゃこんなに食べきれないよ」

「すみません。もう夕飯お済みですよね」

「いや、さっきまで寝てたから。一緒に食べよう」

 そう言ってから、「いや、二人でも食べきれるかな……」と心配そうな声を出した。

 いくつかのパックを冷蔵庫に入れて戻ってくると、ファウストは風車を手に持ち、息を吹きかけていた。あれは少年にあげたはずだったのだがと首をひねっているレノックスを尻目に、ファウストはカタカタと回る風車を見て「かわいいな」と笑うとベランダの隅に置いてある植木鉢に差した。

「ここからも少しだけ花火見えたよ」

「そうなんですか。結構距離があるのに」

「ちょうどビルの隙間から見えるんだよ。低い花火は見えないけどな」

「最後のあたりで乱発したのがすごく綺麗でした」

「うん。近くで見たらもっと綺麗だったろうな」

 そんな話をしながら、レノックスは自身の胸のあたりがむずむずと騒ぐのを、他人事のように驚いていた。別々の場所から同じものを見ていたことがとても嬉しかったのだ。

 焼きそばを半分ずつ食べながら、二人でぼんやり空を見上げていた。

「流星群って肉眼でも見えるんですか」

「逆に肉眼じゃないと見づらいな。望遠鏡だと視野が狭くなる」

「いつも思うんですが、ファウスト様は星空にもすごく詳しいですよね」

「昔はとにかく目に映るもの、なんでも知りたがってた奴が近くにいたんだよ」

 もう一度空を見上げる。田舎の黒々とした空を比べると、うっすら明るくてぼんやりと霞みがかった空だ。

「あ」レノックスが声をあげた。視界にきらりと光ったものが見えた。「見えました」

「本当か?」

「はい。また光った」

「きみは見つけるのがうまいな」

「俺に向いてるかもしれません」空を見上げたまま、レノックスが言った。「何もしないでぼんやりしてるのが好きなんです」

「へえ」

「学校から自転車で帰っているとき、冬の夜空を見上げる時間が好きでした。高い建物がないから、いつでも澄んだ空が見えたんです。それで一回畑に落ちたことがあって、泥だらけになった姿を見て家族に笑われて」そこまで言って、レノックスは口を喋んだ。「すみません、つまらない話をしました」

「いや、いいよ。きみの昔の話を聞くのは楽しい」

 紫色の双眸が、楽し気に、ふ、と細められた。

「きみ自身に触れたみたいで、そこへ行ってみたくなる」

 腹の奥から色とりどりの蝶が舞い上がるようなこの感情を、なんと表現したらいいかすぐにはわからなかった。

 ただ、ずっと空の高いところで輝いていた星が、流星のように目の前まで降りてきてくれたように思った。

「好きです」

 じわりと浮いた汗が肌を伝った。視界の端で、また星空がちかちかと光る。振り向いた顔は呆けたようにレノックスを見つめた。

「好きです」

 紫の双眸はみるみると大きく見開かれていった。

「なんで」

 問いかける声は少し掠れていた。

「あなたが好きなんです」

「そうじゃなくて」

 無意識に口からついて出たそれは、おそろしいほどにあっさりと、すとんとレノックスの胸の内に落ちてしまっていた。

 反対に、ファウストはひどく返答に窮していた。その顔を見て、レノックスは困ってしまう。彼を困らせたいわけではないのだ。彼が眉を下げて微笑む顔が好きで、ずっとそうしていてほしいだけなのに。

 随分と長い時間をかけて、ファウストは考えているようだった。

「きみが」と彼はゆっくりと口を開いた。「きみが、ただの冗談や同情で、そんなことを言っているわけじゃないのは僕にもわかるよ」

 彼は丁寧に言葉を選んでいた。

「でも今の僕には、きみに好きになってもらえるほどの価値はないよ」

 首筋を伝う汗がなまぬるい夜風に触れて、肌を冷やした。

 そんなはずはなかった。彼は夜空に浮かぶ一等星のように、決してぶれずにいる存在だった。誰かが閉塞感に苛まれたときに、空を見上げれば輝いている、希望みたいな人だった。

「きみがどうしても僕を星だと言うなら、僕は超新星なんだろう」

 ファウストが目を伏せた。

「何光年もずっと前に、死んでる星だよ」

 ずっと遠くの銀河で、ずっと遠い昔に、最期に爆発した星の輝きが、この星から見ええているだけなのだと。

「そんなことを言わないでください」

 伝えたかった。伝える術を持っていないことがもどかしかった。

 あなたがどれだけ尊い人間であるかを。その存在は決して無価値なんかではなく、夜空に浮かぶ星々のどれよりも色褪せず美しいことを。伝えたかったし、知らせたかった。どれだけそれを貴く思い、好きでいる人間が、この世に存在しているのかを。

 それが自分の言葉では、彼の心には決して届かないだろうことを理解しながらも。

「俺はずっと前から、あなたのことが好きでした」

「うん」

「この先もずっと」

「うん」

「ずっと、あなたが好きです」

「ありがとう、レノ」

 ファウストは目を逸らさなかった。何度か瞳が揺れたが、否定せず受け入れようとしてくれるようにも見えた。

 それだけに、その瞳から以前の光がまた失われてしまったことが、ただ無性に悲しかった。





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