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06.

夕焼け小焼け


 思えば、レノックスははじめから変な男だった。

 愛想笑いの一つもないえらく神妙な顔で研究室を訪ねてきた彼は、開口一番に「覚えていますか」と言った。当時といえば盗まれた研究成果のことで気分は常に最悪で、そんな状態でもお構いなしに積み重なる課題を消化するのがやっとの日々だった。おまけに入学してすぐに研究室を訪ねに来る学生もまだ大勢いて心底うんざりしていた頃であり、レノックスはそのうちの一人でしかなかった。かつての栄光でも気に入られれば損は無いとでも勘違いするのか、一様に覚えたてのおべっかを投げかけてくる彼らは、暗い部屋の中から追い返すだけで二度と来なくなった。何度か試みようとする者も図太い者たちも何人かはいたが、結局は一か月も続かずに諦めた。そうしているうちにみんなに忘れられていって、ついたあだ名が幽霊である。

「あなたに会いに来ました」

 そんなセリフも、当時は別に珍しくもなかった。

 最初に無下に追い返してから、しばらくレノックスは教室の扉を叩くことはしなかった。だが何度か地上から教室の窓を見上げているのを見かけ、そのたびにカーテンをきっちりと閉めなおした。彼は体躯がでかく、どこにいてもよく目立ったから、認知するのは早かった。それでも、結局は他の学生たちとなんら変わらず、放っておけばいつの間にかいなくなっているだろうと高を括っていた。

 だから二度目に彼が訪ねてきたときも、初めと同じように追い返そうとしていた。

 ちょうどその日は何を思い至ったのか、引きこもっている教室の大掃除を決行しており、備え付けの棚の上に置かれた、いつからあるのかもわからないダンボールをひっくり返して部屋の中は大惨事となっていた。埃の舞う教室内は一瞬にして真っ白になり、慌てて窓を開けて換気をしていたところで、レノックスが来たのだ。

 今はそれどころではなく、さっさと追い返そうとドアを開けると、レノックスは何故か驚いた顔をしていた。最初のように何度か無視されると思っていたのかもしれない。今は構っている余裕がないと端的に伝えて追い返そうとしたが、彼は聞いてないようだった。

「泣いてるんですか」

 そう言って閉めようとしたドアに、勢いよく手の甲を挟んで阻止してきたわけである。

 思わず叫んだのは何故かレノックスではなく、ファウストであった。重い扉に勢いよく指を挟めば、最悪切断することだってあるのだ。慌てて扉を開いて、彼の手を確認した。関節のあたりが扉の形に沿って紫色にうっすら鬱血していたが、太く節くれだった彼の五本の指はしっかりとくっついていた。

「何やってるんだおまえは!」

 しかしレノックスは自身の指に見向きもせず、ファウストの顔を見つめていた。

「あなたが泣いているのかと」

 そういえば扉を開けたとき、宙に舞う塵が目に沁みて瞼のあたりをこすっていた。半ば呆れながら部屋の惨状を見せてやると、レノックスはようやく状況を理解し、少し安堵した様子を見せた。それから彼は幾分ばつが悪そうに、損傷してない片方の手から提げていた小さめのレジ袋を持ち上げてみせた。

「休憩にされませんか。埃もしばらく落ち着かなそうですし」

 それからのことはあまり覚えていないが、「平気です。丈夫なので」と一点張りで表情一つ変えないでいる男を、実はヒビが入ってたりするものだとかなんとか説き伏せながら、ドクドクとはやる心臓を押さえて、医務室へ連れて行くために教室から出たのだろう。久しぶりに太陽が高いところにある時間にまともに外を歩くと、陽の光はあまりに目に眩しく、幽霊というよりも吸血鬼にでもなったようだった。怪我をしていない方の手を引かれる、自分よりも身体も年齢も大きな後輩は、おとなしく従順についてきた。

 つまり、ファウストが最初にレノックスに感じた感情はひたすらに恐怖であった。この異常なほど諦めの悪く、自傷を厭わない男がとにかくめちゃくちゃ怖かったのである。

 そして、あの冬の朝に彼と出会っていたことを思い出したのも、確かそのときだった。


     〇


 目が覚めてから、視界に映る薄暗いぼんやりとした空間が知らない部屋の天井であることに気づくまで、そう時間はかからなかった。遮光カーテンの隙間から漏れる一筋の陽光がフローリングに長い線を描き、部屋の中をやんわりと照らした。部屋の一面を占める大きなクローゼットの扉には、クリーニング屋のビニールがかけられたままのスーツが暖簾のように重なっている。

 背中を支えるやわらかな地面が軋み、振り向けばこれまたぼんやりした人影が自分のすぐ隣で添い寝をするように横たわっている。乱れた白いシーツの上で頬杖をつきながらこちらを眺めているその人物の身にまとった白いシャツはボタンが留められておらず、肌が大きく露出していてもはや衣服としての機能をろくに果たしていない。腹を冷やしそうだ。

「おはよ、レノ」

「おはようございます、フィガロ先生」

 律儀に挨拶を返しながら、レノックスは疑問を呈した。「なんで隣で寝てるんですか」

「やだな、忘れたの。意外に薄情だな」

 フィガロは細く長い人差し指で、レノックスのシャツの隙間から、胸元をつーっと撫でた。見れば昨日から着ていたレノックスのシャツもまた何故か大きくはだけており、ボトムスのベルトもどこかに消えていた。

「昨夜、あんなことしたばかりなのに」

「いや、何もしてないでしょう」

 レノックスは起き上がると、寝ぐせで乱れた頭をかきながら眼鏡を探しながら記憶を辿った。「昨夜は研究室の打ち上げが終わって他のゼミ生を送り届けたあと、フィガロ先生と飲みなおし、寝落ちた先生を寝室に運んで部屋を軽く片づけてからリビングのソファで寝させてもらったんです」

「なんだ、珍しく酔ってるように見えてしっかり覚えてるのか」

「覚えてます。そもそもそんなに酔ってません」

 幸いにも探し物はサイドテーブルの上にちんまり置かれており、ついでに床に投げ捨てられている自身のベルトも見つけた。眼鏡をかけようやく視界が鮮明になると同時に、意識もだいぶしっかりとしてくる。寝室にかけられている時計の短針はとっくにてっぺんを過ぎていた。レノックスの反応につまらなそうに起き上がったフィガロは床に穿き捨てられていたスラックスを手に取った。

「じゃあ、ソファで寝てたはずなのに俺のベッドにいるのはなんでだと思う?」

 ボタンを留めなおしていたレノックスの手がはたと止まる。それはまったく記憶になかった。「覚えてないですけど、絶対何も無いです」

「正解。明け方トイレに行った帰りに寝ぼけてソファと間違えたんだよ。布団取られてむかついたから、ちょっと肝を冷やしてやろうと思ったのに」

「それはすみません」

「ま、これで一日中むさくるしい男の顔も見なくて済むと思うと俺はせいせいするよ」

「明日から授業なのでまたすぐ会いますよ」

 レノックスの指摘に、フィガロはわかりやすくげんなりした。

「ろくに遊びもせず、可哀想な夏休みだなあ」

「呼んだのはあなたでしょう」

 レノックスを含めたゼミ生の何人かが徴収されたのは八月の半ばのことだった。研究室のフィールドワークとして、一か月ほど泊りがけで国北の山奥へと駆り出されることとなったのである。ありとあらゆる娯楽から切り離され過酷な雑用を強いられる生活に音を上げた生徒からは脱走者が相次いだが、その度にフィガロの命を受けたレノックスに連れ戻される羽目となった。そうして久方ぶりに都会の大地を踏み、ようやく無事に生きて下山できた実感に震える生徒たちによってフィガロのマンションで小さな打ち上げ会が開かれたのが昨日であり、今に至る。

「なんだか気まずそうだったから、フィガロ先生なりの優しさだよ」

 スラックスのベルトを締めるとリビングに向かったフィガロが、ベランダに面した大きな窓のシェードを開けると部屋に陽光が射しこんだ。ローテーブルの上は空になった缶ビールが昨夜の様相のまま無造作に並べられている。急に明るくなったことに目を細めながらレノックスが聞き返す。「優しさだったんですか」

「だってそりゃあ、自分に好意を持った男が同じ屋根の下にいるのは気持ち悪いだろう」

 そう言いながらフィガロは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、レノックスに投げて寄越した。レノックスは手に持ったペットボトルと、フィガロの顔を見比べる。

「なんで知ってるんですか」

「見てればわかる。ばかだな、うまくやったと思ったのに」

「うまくやってたんですか、俺は」

 ダイニングチェアに腰かけたフィガロは、レノックスのその問いには答えなかった。長い脚を優雅に組むと頬杖をつきながら、テーブルの上に重ねられたピザの空き箱を雑に退かし、山のように積み重なった郵便物の宛名を一つ一つ気のない素振りで確認している。

 手渡されたペットボトルの蓋を開けて、喉に流し込む。冷蔵庫で冷やされた水は寝起きの体を冷ますのにちょうどよかった。

「受け入れられると思った?」ダイレクトメールから目を離さずにフィガロが尋ねた。

「何も考えてなかったんです」口元を拭いながら、正直に答える。「でも相手を不快にさせてしまったかもしれません」

「じゃあ想い出作りの自己満足か」

「自己満足なのは多分そうです。どうしたいわけでも、どうなりたいわけでもないんです。何もいらないんです」

「何も求めないで動き続けられる人間はいないよ」

「俺は、何もいりたくはないんです」

 フィガロが顔を上げた。ペットボトルを相変わらず持ち替えながら淡々と話すレノックスの顔を見つめていたが、やがて溜息をついた。

「ばかだなあ」フィガロが言った。口調のわりに、子供を諭すような声だった。「本当にそう思いこんでるなら、おまえは俺が思ってたよりずっと愚かだよ」

 フィガロが寝直さんとばかりにソファの上に寝っ転がっている間に、レノックスがビールの空き缶をゴミ袋にすべて放り込み、ダイニングチェアの上に積み重ねられていた洗濯ものを畳んでやり、長いこと放置されていた観葉植物に新しい栄養剤を突き刺してやっていると、インターホンが鳴った。

 フィガロ邸を訪ねてきたのはルチルとミチルだった。

「うわ、二人とも酒くさ!」玄関から入るなり、ルチルがオーバーに鼻を摘まんで見せた。「もうお昼ですよ!」

「フィガロ先生、お酒の飲みすぎは身体に悪いって何回も言ってるじゃないですか!」

 ミチルはぷりぷり怒りながら、フィガロを風呂まで追い立てた。「それに二人とも起きたばっかりでしょう! もう、ずっと前から約束してたじゃないですか!」

 なんでも今日は以前からフィガロと一緒に動物園に行く予定を立てていたものの、あまりにくるのが遅いから逆に迎えに来たそうだ。完全に頭から抜け落ちていたらしいフィガロは、平謝りしながら大人しくミチルに脱衣所へ追い立てられていたが、お暇しようと玄関に向かうレノックスに気づくと声をかけた。

「レノも一緒に行くかい」

 レノックスは逡巡して、ボトムスのポケットに突っ込んだままのスマートフォンを取り出した。通知に気づくと、顔を上げる。

「いえ、俺は帰ります」


     〇


「なんだこれ」

 スマートフォンの画面を見つめてファウストは首をひねる。

 買い物帰りに公園で休んでいるところに、後輩からメッセージで唐突に送られてきたのは、当人の寝姿の写真だった。見知らぬベッドの上に寝かされている彼のシャツは胸元が大きく開けられ、いつもは衣服の下に隠された彼のよく鍛えられた胸筋や、浮き出た鎖骨が覗いている。本人がそんなものを送ってくるはずがないので、十中八九犯人は決まっている。

 レノックスはこの一か月ほど、フィガロによって研究室のフィールドワークで演習林のある国北にある山奥に連れて行かれていた。ファウストも一年のときに連れていかれたことがあるが、携帯電話の電波もろくに入らないような下界から完全に遮断された未開の地であり、ありとあらゆる自由を奪われながら昼夜構わずひたすら働かせられ、ろくな思い出がない。当時は既に引きこもりのプロに片足を突っ込んでいたからなんとかなったが、常人であれば一か月も正気でいるのは難しいだろう。予定では昨日にはもう刑期を終えるはずだったが、打ち上げをするだとかで一日延びたようだ。

 それに少しだけ安堵した自分がいたのは事実だった。そうして後回しになっただけのことに、結局小さな公園のブランコに座りながら、今になってこうして途方に暮れていることも。

 ファウストは再びスマートフォンに表示された写真を見つめる。写っている男の顔を見るのもまた一か月ぶりで、もうずいぶん長いこと会っていないような気がした。開いた瞬間は困惑が勝ったが、だんだんと人の秘密を覗き見させられたような罪悪感を覚えて、今は少しだけ腹が立っていた。セクハラまがいの准教授へは言わずもがな、こんな写真を撮られる方も少し無防備すぎるんじゃないだろうか。普段、人には散々腹を出して寝るななど小言に近いことを言ってくるのにだ。

 見なかったことにしようとスマートフォンをしまいかけてから、ファウストは思い直してメッセージを打ち込む。その間、近くの踏切からカンカンと甲高い音が鳴り、ゴオっと轟音と共に風が起こった。公園のすぐ脇を在来線が大きな音を出しながら通り過ぎていく。

 今度こそスマートフォンを上着のポケットにしまって顔をあげると、ギィとブランコをちいさく揺らした。目の前を小学生ほどの少年たちが駆けていく。子供たちは鬼ごっこをしているのか、わあわあと声変わり前の甲高い声をあげながら円形のぐるぐる回る遊具に飛び乗っている。かつて幼馴染もあの遊具から落ちて大けがをしたことを思い出して、もはや反射とも呼べるそんな己の思考回路に辟易した。

 いつまでも同じところにいる気がした。動く意志を失った肉体はとうに朽ちて地面に根を張り、生き汚く残った精神だけが忙しなく変わっていく景色を見ながら、もう何度もした問答を、未だに飽きずに繰り返している。

 こんなとうに死んだ人間に関わったところで、ろくなことにはならないのはわかりきっている。

 いつの間にか鬼ごっこをしていた子供たちの姿は見えなくなっていた。帰ったのだろうかと思うも、まだ笑い声は聞こえる。あたりを見渡して、ファウストはぎょっとして立ち上がった。子供たちは線路沿いに聳えるフェンスを軽々と越え、その脇に生えるススキを摘むことに夢中になっていたのである。

「おい、何をやってる!」

 大声をあげてフェンスに駆け寄ると、子供たちはびくりと体を強張らせて一瞬こちらを向くものの、学校の先生や警察ではないと知るや否や、聞こえなかったふりに徹した。なかなか手ごわい相手にファウストはフェンスを飛び越えると、少年の一人の首根っこを掴んだ。

「わからないのか、線路の脇で遊んで何かあったらどうする!」

 子供たちはそこでようやく驚いて動きをとめた。首根っこを掴まれた少年はファウストの顔を、豆鉄砲を食らった鳩のごとくぽかんと見つめていた。先生でもない見ず知らずの大人がフェンスを飛び越えてまで怒ってくるとは思わなかったのだろう。しかしようやく我に返ると、顔を真っ赤にして腕から逃れようと暴れた。「うるせー! カミナリクソジジイ!」と捨て台詞を吐くと同時に腕を抜け出すと、思いっきり地面を蹴とばして砂かけまでしてきた。

「こら、待て!」

 追いかけようも、顔面にもろに食らった砂埃は、口や鼻だけでなく眼鏡の隙間からも容赦なく入りこみ、悲しいことにファウストは前後不覚となった。よろめいている間に、すっかり子供たちは逃げてしまったようだった。「最近の子供は口が悪すぎる!」

 文句を言ったところで、秋の空に消えるだけである。ろくに目も開けられない状態で不用意に動くのは危険だと判断し、仕方なくその場で蹲っているとスマートフォンの着信音が鳴った。

「すみません、買い物して帰ろうと思ったんですが、いつも特売をしているスーパーが臨時休業で」

 なんとか電話に出ると、相手はレノックスだった。挨拶もそこそこにそう切り出すレノックスの言葉は一瞬なんのことかわからなかったが、そういえば先ほどメッセージで買い忘れた牛乳のお使いを頼んでいたことを思い出す。彼のゆったりした低い声を聞くのも随分と久しかったが、今は感慨に耽っているどころではない。

「じゃあ、特売のじゃなくていいよ。ちょうど切らしてるから。あといくつか頼んでもいいか」

「わかりました」

 レノックスはどこか外を歩いているのか、電話の向こうからは自動車の行きかう音に混じって等間隔にアスファルトを踏む音が聞こえてくる。目をこすりながら買い物リストを伝えていると、最初のうちは律儀に返って来た相槌が、そのうちぴたりと止んだ。

「レノックス?」不審に思って呼びかけるも、電話口からはわずかな環境音が届くだけだ。もう一度聞き返そうと口を開くよりも、相手の方が先だった。

「泣いてますか?」

 電話口の静かな声にファウストは面食らった。

 あたりに踏切のカンカンと甲高い警報音が鳴り響いた。少し遅れて、電話の向こうからも同じ警報音が聞こえてくる。

「おまえ、どこにいるんだ」

「そこを動かないでください」

 まるで会話の成り立たない相手に苛立ちを覚えながら、立ち上がって周囲を見渡して、ファウストは動きを止める。線路の向かいに、レノックスはいた。金網の向こう側でスマートフォンを耳にあて、こちらを凝視しながら立ち尽くしている彼と目が合ったその瞬間、間を緑色の在来線が突風と共に勢いよく割って入った。

 ガタガタと車輪が轟音を立てながら十両近い車両が走り抜けると、そこにはもうレノックスの姿はなかった。慌てて周りを探してもそれらしき姿は見つからない。動くなと言ってきた彼は、おそらく近くの踏切をわたってくるはずだ。ファウストが踏切の方へ向かおうと歩き出すと、突如後ろから勢いよく腕を掴まれ振り返った。

「何があったんですか」ファウストの瞳から一瞬も目を離さず、レノックスが尋ねる。腕を掴む力が一層込められた。「誰かに、何かされたんですか」

「レノックス落ち着け、別に泣いてない」

「嘘です。さっき蹲って目をこすっているのを見ました」

「嘘じゃない」

「今も目が赤くなっている」

「レノ、手を離せ」

「離したらどうするんですか」

「どうもしない。いいから話を聞け」

「どうしてあんな線路の近くにいたんですか」

 レノックスは一向に視線を外そうとはしなかった。ぎりぎりと捕まれた腕が軋むように痛みはじめている。「あんなところで泣いていたら、誰が見たっておかしいと思うに決まっている──」

「砂埃が目に入っただけだ!」

 一息に怒鳴ると、レノックスはきょとんと目を丸くした。腕を掴んでいた力が緩められる。

「砂埃?」

「ああ」自棄気味にファウストは説明する。「子供がフェンスの向こう側にいたから叱りに行ったら、砂をかけられてこのざまだ」

 レノックスはしばらくの間、事実を見極めるようにファウストの顔を見つめていたが、やがて気まずそうに腕を離すと、深く頭を下げた。

「申し訳ありません」

「もういい」

 自由になった腕をさすりながら、ファウストは言った。

「おまえの方がどうしたんだ」

「……とんでもない早とちりをしました。お詫びの言葉もありません」

 大きな掌で顔を覆うように項垂れるレノックスは、珍しく憔悴しているように見えた。少し気の毒に思えてファウストは溜息をつく。

「確かにあの状況はそう見えたかもしれないし、そう思わせた僕の普段の言動も問題だった」

「いえ、違うんです」

 レノックスは首を振った。

「嫌なんです」

 絞り出すような低い声に、ファウストは男の顔を見上げる。「あなたが泣いていたり、悲しい想いをしているんじゃないかって想像するだけで、何故だか無性に落ち着かなくなるんです。冷静な判断ができなくなるほどに」

「レノ」静かな声でファウストが呼んだ。「とりあえず、僕は今元気だ。とくに悲しくもない」

「はい」

「砂が目に入ってまだちょっと痛いけれど」

「はい、家に帰るまで公園の洗い場で洗いましょう」

「うん」

 強引にファウストの腕を引いていた大きな掌は、今は支えるように触れているだけだった。ちらりと窺った先の顔はいつもの平静さが戻っているように見える。

「おまえは変わらないな」

 ファウストの言葉に、レノックスは振り返ると、何度か瞳を瞬いた。

 いつだか部屋をこじ開けてきた男の姿を思い出していた。自分を好きだという目の前の男に、あのときからそういう感情があったのだろうかと一瞬考えて、それがまったく意味のないことだと気づいてすぐにやめた。レノックスはあのときから今まで何一つ変わっていない。無理やり教室をこじ開けてきた時から、雪の日に会ったときからずっと彼は変わっていない。何もかも変わってしまったのはこちらの方なのだ。


     〇


 公園の手洗い場で砂を洗い流してもなお、レノックスは心配そうにファウストの様子を窺っていた。

「やっぱり病院に行きましょう」

「これくらい市販の目薬で十分だ」

 既に何度も繰り返された問答にファウストがうんざりしかけた頃、それなら、とレノックスはしゃがんだ。

「どうぞ」

 背負って連れて帰るつもりらしい。帰り道、一本出ればすぐに大通りである。まだ人通りだって少ないわけじゃない。成人男性が成人男性をおぶっていたら目立つことこの上ないだろう。ファウストが広い背中を前に躊躇していると、レノックスは何か思い至ったのか、あ、と小さく声を漏らした。

「すみません、いつものクセで」

 レノックスが突飛な方向で世話を焼こうとするのは今に始まったことじゃない。そしてそういうときの彼ほど頑固で自分の主張を曲げようとはしない。そんなことは今までの付き合いの中でとっくに知っている。だからレノックスが珍しく、あっさりと聞き分けよく引こうとするのが、妙に気に食わなかった。

 立ち上がりかけているレノックスの肩に手を置くと、その背中に重心を預ける。

「ほら、さっさと帰るぞ」

 下にいる男が一瞬息を詰めたのを感じた。

「うわ……っ」

 太ももの裏に手をまわしレノックスが立ち上がると、根を張るように地面に吸い付いていた足が浮いたと同時に、ファウストは反動で大きく後ろに仰け反った。その拍子に顔が空を向く。いつもよりも空がずっと近い。紺色に染まる空から逃げるように沈んでいく西の空には、すでに金星が輝き出していた。公園の時計、街灯、信号の点滅。普段遠くに感じるものが近くて、浮いた足の影が落ちる地面はひどく遠い。まるで知らない町を歩いているようだ。

 すん、と甘い香りが鼻をついた。これは少し冷たくなった風と共に流れてきた、どこかの庭の金木犀の香りと、それから。

「おまえちょっと酒臭いな」

「え?」

 動揺したのか、体が揺れる。

「すみません、一応シャワーは浴びたんですけれど、臭いですか」

「別に臭うわけじゃないけど、どうせフィガロに明け方まで飲まされたんだろ」

 ファウストの指摘に、レノックスは、いえそういうわけでは、など珍しく歯切れの悪い様子でもごもごと弁明をしていると、公園に立てられたスピーカーから夕方のチャイムが流れ始めた。

「やっぱり人に預けてられないな」

 呟くと同時に強い向かい風が吹いて、言葉は届く前にかき消されていった。色のない、秋の初風だ。あまり冷たく感じない理由は、なんとなくわかるような気がした。




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