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07.

畦道のネオンサイン



 月が替わるとぐずぐずとした気持ちの悪い空模様が続いた。高速道路のサービスエリアにあるファストフード店の上空にも黒い雲が立ち込め、今にも雫が零れ落ちそうなほどにぱんぱんに膨れ上がっていた。

「なんで僕たちで行かなきゃいけないんだ」

 外のじめじめした空気に呼応するように、じめじめとした面持ちで冷めてパサパサした冷凍のミニパンケーキを一口食べて、その味にファウストは眉をひそめた。温かければまだしも、冷めたパンケーキほどひどいものはないなと思いながら、口直しにアイスティーを吸うも、こちらも氷が多いのかすでに味が薄くなっている。

「俺一人で行って済むならよかったんですが」

「別にきみだけに押し付ける気はないよ」

 そう言いながら、ダブルチーズバーガーの包み紙を開けるレノックスの手元に視線をやる。写真で見るとかなりボリュームがあるように見えたが、レノックスの大きな手が持つからか普通のサイズのチーズバーガーに見える。いや、それにしたって平べったい。

「それ、なんか写真と違うな」

「ここはどの店舗もこんなもんです」

 そう説明しながら、レノックスはぺちゃんこなチーズバーガーにかぶりついた。

 風が強くなったのか、壁一面の大きなガラス窓の向こうでは植え込みの低木が横倒しになりそうなほどに大きく揺れている。夜にはまた天候が荒れると聞く。そのせいか、週末だというのに下りのサービスエリア内は閑散としていた。こんなときにわざわざ田舎に出かける物好きはいないのだろう。先ほどまで暇そうに店内を掃除していた店員も、奥に引っ込んでしまったのか見当たらなくなっていた。

 氷でさらに薄くなったアイスティーをストローで吸いながら、話を戻す。

「そもそもあいつが自分で来ればいい話だろう」

「フィガロ先生は今忙しいですから」

 一瞬で胃の中に消えたバーガーの包み紙をぐしゃぐしゃと丸めながらレノックスが言った。


     〇


 ガルシア研究室へ珍しい来訪者があったのは先週の頭のことだった。

 ファウストがレノックスを連れて資料を借りに研究室に入ると、応接室としても使用している奥の部屋にある来客用のソファに、小さな男の子が二人ちょこんと座っていた。双子なのだろうか、うり二つの姿をした男の子たちは、どちらも黒いクラシカルな上等そうな子供服を身にまとい、アンティークな人形を大事そうに抱えている。

 来訪客のお子さんなのかと思っていると、二人は部屋に戻ってきたフィガロの顔を見るなり、とびきりの笑顔を見せて立ち上がり、

「パパ!」

 と呼んだ。

「パパ、ホワイトちゃんがジュースが飲みたいと言ってるのじゃ」

「パパ、スノウちゃんはオレンジジュースがいいと言っているのじゃ」

 きゃいきゃいと飛び掛かって首もとにまとわりつく小さな男の子たちをあしらいながら、フィガロは困った声を出した。

「ちょっと、お二人とも孫弟子をからかうのはやめてください」

 研究室の入口で立ち尽くしているファウストは、しばらく呆気に取られてその光景を見ていたが、「おまえ、結婚してたのか!」と言った。「子供までいて遊び呆けているとはなおのことたちが悪い」

「ちゃんと認知はされた方がいいですよ」

 レノックスに便乗して、フィガロの両腕にしがみつく双子も「認知して、パパ」と甘えた声を揃えた。

「子供がいるにしてもなんで認知してないと思うのか知らないけど、俺はちゃんと優しい独身イケメン准教授だし、この人たちは俺の師匠だから」

 そう説明して、フィガロは二人の教え子の表情を見比べた。「お願いだから無言でドン引くのだけはやめてくれる?」

 さすがに無理のある言い訳だと表情だけで語る教え子たちに向かって溜息をつきながら、自分もどっかりソファに座ると、双子たちもその両脇にそれぞれちょんと座った。どう見てもミチルやリケよりもずっと小さい、小学生ぐらいの男の子であった。

「面倒くさいから説明は端折るけど、こう見えてこの人たち俺より年上だから! エスターみたいなもんだから」

「人をエスター呼ばわりとはひどいの」

「ホラー映画扱いとはひどいじゃないの、フィガロちゃん」

「せめてコナンくんと呼んでほしいの、フィガロちゃん」

 半信半疑ではあったが、双子が名乗る名前は業界で大変著名な研究者のものであり、ファウストもその著書は所持していた。確かに顔写真だとどちらも立派な成人男性の姿をしていたと記憶している。そう指摘すると双子は「フォトショップの力はすごいのう」と、カカと笑った。

 彼らはこれからまた新しい研究に入るというので、力を借りに、もとい力を貸させにフィガロの元を訪れたようであった。

 この急な師匠の来訪はフィガロにとっては人災以外の何物でもなかったが、ガルシアゼミの生徒たちにとっては溜飲の下がる事件でもあった。普段、散々生徒たちに無理な課題を出してはのらりくらりとしているフィガロが、小さな男の子たちにペースを乱されている姿はなかなかに痛快だったのだ。

 それも、その矛先が孫弟子に向かうまではのことだったが。

「そこの二人が暇そうじゃのう」

「ちょっとお使いに行ってくれんかの」

 いつものように引きこもっていたファウストが、たまたまレノックスと研究室まで降りてきたときである。

 片道二時間以上はかかるだろう山の奥にある大学が所有している演習林の沼地へ赴き、地盤と水質調査をしてくるように命じた。長いこと放置され、荒れ放題の演習林は大学側も持て余し、近々売却される噂もあった。本当に売れるかどうかはともかくとして、手放される前に調査してこいということである。

「絶対に嫌だ」

 断固としてファウストは拒否した。「卒業研究を抱えているうえ、月末には院試を控えている受験生なんだぞ、こっちは!」

「俺が一人で行ってきます」

「ダメ、ファウストが行きなさい」

 レノックスの申し出をあっさり蹴ったのはフィガロだった。一週間の鬱憤の捌け口なのだろうか、フィガロはニコニコしていた。

「行ってこないと卒論通さないよ」

 そういうわけで、二人そろって三時間かけて山の中まで車を走らせる羽目になったのである。


     〇


「車の免許も持ってたんだな」

 駐車場に停めていた大学の公用車に戻り、シートベルトを締めながらファウストが言った。慣れた様子で運転席に座ってエンジンをかけるレノックスは、はあ、と気のない返事をした。

「田舎は持ってないと生活できないので。大型や重機も仕事で使えればと取りました。俺は自分で乗るなら二輪の方が好きですが」

 二輪は維持費がかかんないですし。駐車場を出て、そのままガラガラの下り線に乗った。防音壁の上から、まだ紅葉していない深い色をした山々が覗きはじめていた。

「そういえばきみの昔の話は、ちゃんと聞いたことがなかったな」

 レノックスはべらべらと自らの身の上を話すような性格ではなかった。だが、ときどき自分の田舎の話はした。彼の田舎は夜行バスで長時間揺れる必要のあるような場所にあり、四方を山に囲まれ、夜になると澄んだ星空が広がるのだそうだ。しかし彼がその土地でどうやって生きてきたのかは知らなかった。

「面白くない話ですから」とレックスは前を向いたまま答えた。

 灰色の空から窓にぽつぽつと水滴が落ちはじめ、景色を滲ませる。急いだほうがいいですね、とレノックスは呟いてウインカーをつけた。左右に振れるウインカーはメトロノームのように一定のリズムを刻む。

 ウインカーの振れる音と、サアと小雨が車に跳ね返る音だけが車内に響いた。そのままこの話は立ち消えになるかと思ったが、そのうちに、知りたいのは仕事のことですか、とレノックスの方から尋ねた。

「話したくないのなら、無理に話さなくてもいい」

 レノックスは黙っていたが、しばらくすると彼は低い声でゆっくり話しはじめた。

「大学に入る前は、土方をしていました」

 とにかく現場監督がむちゃくちゃな人できつかったな。彼の語るいくつかのエピソードに、ひどいな、と眉をひそめると、かなり無理な工期を要求してくるので事故や怪我の多い現場でした、と彼は少し笑って呟いた。

 淡々と語る彼の声色は、外の雨の音に吸われていくようだった。工事現場で働いているレノックスは、なんだか想像できる気がした。想像できるが、全く知らない土地で、知らない人たちに囲まれて生きている彼を想像するのは不思議で、窓に張り付く水滴越しの風景のように現実味がなかった。

「たいした学もなかったので、選択肢は似たり寄ったりでした」

 大昔は炭坑の町だったそうですが、閉山してからは仕事がありません。農業や酪農するには土地が悪く、観光資源もない、若い人は流動的に都会に出てしまう、寂しい町です。

「兄弟はとっくに町を出ていましたが、俺は父の具合が悪いのもあって残りました。地元が嫌いなわけではなかったんです。ただ一年ほどで父が死んで、広い家だけ残されてから、これからどうしようか考えました」

 大学のライトバンの横を、大型トラックが大きな音と水しぶきを飛ばしながら追い越していった。いつの間にか防音壁から覗く山は高さを増していく。車をわずかに端に寄せながら、レノックスは話を続けた。

「それで、勉強をしてみようと思いました。とくにやることもなかったからですが、農作物の品種改良で地元を活性化させた人の話を思い出したんです。幸い、高校生のときのバイト代も含めて給料はほとんど使ってなかったので入学資金くらいにはなる額が残っていました。父はしっかりしていた人で、自分の治療費も葬式代も全部用意していましたから。そこから二年間は働きながら、夜に勉強をしました」

 一拍置いて、すみません、とレノックスは謝った。「面白くない話で」

「いいや」ファウストが首を振る。「話してくれてありがとう」

「いえ、聞いてくださってありがとうございます」

 そのあとの道中、レノックスの昔のことについては触れなかった。高速を降りると広い道路の両脇に飲食店や車のディーラーなど背の低い店舗が立ち並び、それも過ぎるとすっかり収穫されて寂しくなった田園風景が続き、その隙間を縫うようにぽつぽつと家屋が見える。田畑を囲うように広がる高い山々は水気をたっぷりと含んで、先ほどよりも黒々と閉塞感があった。


     〇


 演習林で目的を済ませ、駐車場に戻ってきていたころには、それまでの小雨から滝のような大雨に変わり、低く分厚い黒い雲からごろごろと不穏な音が鳴り始めていた。

 暴力的なまでの雨粒が轟轟と車のフロントガラスに叩きつけられるのを運転席から見ながら、レノックスが息をついた。

「なんとか間に合ってよかったですね」

「まったくだ」

 後部座席から大判のタオルを手に取ると、雨と泥で汚れたファウストに手渡した。

「それにしても、山の中に底なし沼ができていたとは」

「この数年の異常気象で地盤に変化があったのかもしれませんね」

「きみが沼に沈んでいく光景は、思い出すだけで肝が冷えるよ」

「ファウスト様が機転を利かせて、周りに倒木を張ってくださらなかったら命はなかったかもしれません」

「そもそも僕が沼に落ちそうになったところを助けようと代わりにきみが落ちてしまったんだから、礼を言うのは僕の方だ」

 きれいなタオルで顔をぬぐいながら、ファウストも溜息をつく。

「しかし帰り道で野生の猪に襲われたときは、今度こそ本当にもうだめかと思った」

「秋は猪が活動的になりますからね」

「まさかきみが突進してくる猪を受け止めて一本背負いを決めるとはな」

「ファウスト様にお怪我がなく良かったです」

「レノのおかげで今回は助かったが、ああいう危険なことはもうやめてくれ」

「善処します」

「しかしこれで目的は果たせたんだ。あいつも文句はないだろう」

 フロントガラスにまばゆい光がカッと広がり、遅れて爆音が鼓膜を突いた。雷が近くに落ちたのかもしれない。

 これは早く戻った方が良さそうだと、車を走らせる。演習林の中でどろどろになった汚れは激しい豪雨で大方洗い流されてはいたが、一刻も早くシャワーを浴びたかった。

 轟轟と降りしきる雨の音で周囲の環境音はかき消され、もはやワイパーが意味を為していないほどに雨は滝のようにフロントガラスを伝う。この状況で慣れない山道を走るのはかなり危険だった。視界の悪い中、車通りのない道を走っていると急に道路の真ん中にバリケードが現れた。

 通行止めだ。

「ここから先、土砂崩れの危険区域だそうです」

 車から降りて看板を見てきたレノックスが説明した。

「先を進んで山を降りてから、遠回りで帰るしかないですかね」

 しかし来た道を引き返すと、ほどなくして先ほどと同じバリケードが道路の真ん中で通せんぼしている。

「今日はどこかで休んで、明日の朝天気がおさまるのを待つしかないかもしれません」

 休むったって、周りはなにもない田舎道である。ビジネスホテルがありそうな市街地までは随分と距離があった。

 ふと、通行止めから戻ってきた道のりの中で、ホテルの看板があったのをファウストは思い出した。滝の裏側のような窓ガラスからはよく見えなかったが、分かれ道に確かにホテルと書かれた看板があったはずである。

 この朗報に、なぜかレノックスは渋い顔をしていた。

「そもそも演習林の宿舎が使い物にならないのが悪いんだから、ホテルくらい経費で落ちるから大丈夫だよ」

「いや……どうでしょう」

 金銭面が心配なのかと思われたが、それにしては珍しく歯切れが悪い。ハンドルを握りしめてしばらく俯いていたが、「わかりました」と頷くなり、分かれ道まで車を引き返した。

 湿度の高い車内から眼鏡の奥の表情は見えないが、覚悟を決めたような鬼気迫るハンドルさばきがこちらにまで伝わってくる。横風に煽られたライトバンの揺れに身を任せながら隣から感じる緊迫感に戸惑っていたが、それも高台のホテルの外装を実際に見るまでのことだった。

 終末を予感させる暗い山道に「空室」と書かれた青いネオン看板が場違いに浮かび上がっている。駐車場に入り、外壁に貼られた古びた看板の「休憩三〇〇〇円」の文字を見て、ファウストは表情を引き攣らせながらすべてを理解した。

「行きましょう」

「ちょ、ちょっと待って」

 ウインドブレーカーのフードをかぶり、さっさと車を降りていくレノックスを追いかけようと、慌ててバンのドアをほんの少し開けた瞬間、鉄砲水のような雨と共に突風が吹き荒れ、意思と無関係に勢いよく開け放たれる。

 たった僅かの距離ですら強風に体を持っていかれそうになっていると、少し先を歩いていたレノックスが気づいて、手を引いて入口まで連れていった。

 ホテルのロビーは、ひどく簡素だった。壁に部屋写真の載ったパネルと、ソファが一つあるのみで、ビジネスホテルにあるようなフロントは見当たらなかった。

「ここはそこのパネルで部屋を選ぶとカードキーが出てくるシステムのようです。おそらく支払いは、帰りに部屋の精算機でするのかと」

 レノックスはロビーを見渡すと、そう彼にしては早口で説明して、またウインドブレーカーのフードを深くかぶった。

「では俺は車で寝るので、ファウスト様はおひとりでどうぞ」

「ひとりで!?」

 ひとりぼっちでこんな未知の領域に置いて行かれるのはかなり不安だった。それはともかくとしても、外は激しい暴風雨である。車内泊は危険だと散々説き伏せ、頑固な男が「それでは二部屋取りますか」と折れたところで、また問題が発生した。

 無情にも、壁面のパネルの中に空室表示のライトが光っているのは一部屋しかなかったのである。

 このあたりに宿泊施設どころか、大人数が収容できそうな頑丈な建物は見当たらない。暴風雨で足止めを食らった人や、避難所代わりに利用している人たちがほかにもいるのかもしれない。

 車に引き返そうとするレノックスをファウストが引き留めた。

「同じ家に住んでるんだし、別に部屋ぐらい一緒でもいいんじゃないか」

 ウインドブレーカーの袖を掴むファウストの睨むような上目遣いをじっと見つめながら、レノックスが言った。

「でも、ベッドは一つしかないと思いますよ」

 そこにはまったく考えが及ばなかったが、よく考えなくたってそりゃそうである。

「でかいベッドなら、端と端で寝れば、そうは気にならない、んじゃないか」

「普通のダブルだと思いますよ。成人男性が二人いけますかね」

「じゃあ僕が床で寝るよ。それなら文句ないだろう」

「それだけはできません」

 レノックスは息をつくと、唯一光っている部屋のパネルのボタンを押した。パネルの横から出てきたカードキーを引き抜くと、ファウストの分の荷物を持ち、どうぞ、と一瞥するなりエレベーターホールへ向かう。どうやら同じ部屋に泊ってくれるらしかった。

 エレベーターが降りてくるのを、階数が表示された電光パネルを見ながら待っていると、ぽつりとレノックスが呟く。

「部屋のベッド、まわるタイプみたいですね」

「まわる!?」

 ベッドが回るとはどういうことなのかさっぱり想像できなかったが、こうコーヒーカップのように回転するんです、とレノックスの説明を聞いてもなお理解できなかった。

「まわるうえに上下に動くやつですね」

「ベッドが動くことにどういう意味があるんだ……」

「さあ、おまけに全面鏡ばりみたいです」

「待て、ほんとうにそんな部屋だったか」

「冗談です」

 涼しい顔をしているレノックスをぽかんと凝視していると、彼は赤い瞳を細めてこちらを見るや、喉の奥で小さく笑いながら白状した。ふつふつとむかっ腹が立ってきて、フィガロみたいなことを言うなと背中を拳で小突くと、レノックスはおとなしくされるがまま受け入れている。そこでちょうどエレベーターが到着して、扉が開いた。


     〇


 客室に一歩入ってしまえば、ビジネスホテルとさほど変わらなかった。清潔にされている明るい室内は、想像していたようなムーディーな雰囲気でもなければ、もちろんヘンテコな機能のついたベッドでもない。部屋の隅には一人掛けのソファが二脚と小さな丸テーブルが一つ、テレビの下には冷蔵庫と小さな自販機が置かれている。バスルームがガラス張りなのにはぎょっとしたが、あとから確認したレノックスが「ガラスの内側にシャワーカーテンがあるので大丈夫そうです」と冷静に対処したことで解決した。

 すぐにシャワーを浴びると、ようやく心身ともにすっきりとした。部屋にはバスローブしか用意されていなかったが仕方がない。濡れた服で寝るわけにもいかない。レノックスにバスルームを明け渡すと、ベッドの上に倒れこんだ。

 温かい湯を浴びたら、途端に一日の疲れが出て眠くなっていた。沼にはまって、崖から落ちかけて、猪から命からがら逃げてきたので当たり前である。だがうとうととしながら何気なくベッドフレームのアメニティを見て、一気に目が覚めた。起き上がって慌ててそれらをサイドテーブルの引き出しに突っ込む。よく見れば冷蔵庫の隣に置かれた自販機の中身も日常とかけ離れたラインナップである。

 ちょうどタイミングよく、レノックスがバスルームから出てきて「ぎゃっ!」と心臓が跳ねた。同じように白いバスルームを纏い、濡れた黒い髪をワイルドにがしがしとタオルで拭きながら、彼は真っすぐベッドに向かってきた。端に腰かけると、ファウストに覆いかぶさるように、腕を伸ばす。

「すみません、失礼します」

「ま、ま、待て」

 勢いよく仰け反りすぎて、ぼすっと布団の上に仰向けに倒れこんだ。ごん、と小さく鈍い音をしながら頭をベッドフレームにぶつけたのも気づかないくらい、心臓が早鐘を打った。バスローブから覗く鍛えられた胸筋はまだ少し濡れていて、水滴がつうっと肌を伝う。ええいままよ!、と思わずぎゅっと目を瞑った。

 身を乗り出したレノックスの右手は、ファウストの上を通り過ぎ、そのままベッドフレームにあった内線電話の受話器を取った。フロントの番号を押すと、淡々と二言三言やり取りし、受話器を降ろした。

「ベッドの空きはないそうですが、毛布を持ってきてくれるそうです。俺はソファで寝るので、ファウスト様はこちらでお休みになられてください」

「あ、そう」

「そういえばさっき頭ぶつけられてませんか」

「別に平気……」

 思い出したように、ぶつけたところをさすりながら言った。

 レノックスはベッドから立ち上がると、部屋に備え付けの冷蔵庫の中から缶のお茶を取り出し(一本二〇〇円もする)、それをホテルのフェイスタオルにくるむと、ファウストに手渡した。

「これぐらいしかないですが、一応冷やしてください」

 おとなしく言われた通りに冷えたアルミ缶を頭部に当てながら横になる。

 その姿にレノックスは満足げに頷くと、客室のドアがノックされた。フロントスタッフが毛布を届けに来たようである。

 毛布の受け取りを横目で見ながら、ファウストは長い溜息をついた。一瞬でも馬鹿な勘違いをしたことの羞恥心と罪悪感が、遅れて襲ってきていた。世界がひっくり返ったって、レノックスが他人の気持ちを蔑ろにするはずがないのだ。

 レノックスはソファに腰かけると、丸テーブルにノートパソコンを広げた。今日の報告をメールするのだろう。

 頭部の痛みもすっかり引いて起き上がり、ソファに近づくと、レノックスが声をかけた。

「もう大丈夫そうですか。傷とかになってませんか」

「多分大丈夫だと思う」

 ほら、と彼を安心させようと、少ししゃがんで頭を下げると、後ろ髪を掻き上げて後頭部を見せた。

「それなら良かったです」

 しかしレノックスはろくに見ようともせずに、視線を逸らして眼鏡を押し上げる。

 妙である。顔をあげながらファウストは戸惑った。いつもなら過保護なくらい傷口を確認して処置しようとするのに、さっさとノートパソコンの画面に視線を戻している。

「今何やってる?」向かいのソファに座って尋ねると、レノックスは顔を上げずに答えた。

「今日の報告をレポートにまとめています」

「貸せ、一人で勝手に進めるな」

 自分もノートパソコンを開き、途中まで作られたデータを貰いながらファウストが言った。「二人でやったほうが早いんだから」

 それから二人で黙々と作業を進め、夜食に自販機のカップ麺を啜り、日付が変わって少し経ったところで、ようやくひと段落ついた。

 ファウストがあくびを一つすると、レノックスは上体を起こして伸びをした。レノックスの大きな体にホテルの背の低いテーブルとソファは随分と小さいだろう。

「やっぱりきみがベッドを使った方がいい。僕より体が大きいんだから大きい寝具を使うのは当然だよ」

「いえ、俺はソファで十分です」

 きっぱりと言い切る姿は、相変わらず視線も合わせず頑なである。この頑固な男を、ファウストは睨むように凝視していたが、小さく息をつくと、ぽつりと「悪かった」と呟いた。

 レノックスが赤い瞳を丸くする。

「きみにとても失礼なことを、一瞬でも思ってしまったから」

 先ほどからレノックスの様子はどうもいつもと違うように感じた。それはとても些細な違和感だったが、もし彼が怒っているのだったら、それはあの一瞬の、自分の不埒で下劣な考えが見透かされたのだろう。

 レノックスはきょとんと頭を下げるファウストを見つめていて、そのうちに何か思い至ったのか急に思いつめた顔をした。

「いえ、俺が悪いんです」

 彼は目を伏せる。「俺が、面白くもない話を聞かせてしまったので。失望させてしまったのも仕方がありません」

 ファウストが顔を上げて、眉をひそめる。

 どうやら話が食い違っているようだ。

 しかし視線を落としたままのレノックスは気づかないまま、申し訳なさそうに首筋のあたりをさすっている。

「何故か謙虚だとか言われるんですが、俺は本来、そんなにできた人間ではないんです」

 ファウストは項垂れたように話す目の前の男を見つめた。「きみは十分に誠実な人間だと思うけれど」

「そうありたいとは、思っています。しかしどちらにしても、地元と家を捨てた形には変わりません」

「きみはそれらを捨てたかったのか」

「いえ」そう否定して、レノックスはまたも考え込んだ。自分の気持ちを真摯に掬い取ろうとし、そしてそれを正確に言葉にしようとしているようだった。

「家も墓もすべて他人に任せて町を出ることを決めておきながら、ものすごく勝手ではあるんですが、俺はあの町やあそこに住んでいる人たちが好きでした。俺は地元に縛られたわけでも父に縛られたわけでもなく、好きで残ったんです。俺が地元を出るときも、親戚たちや町の人にはすごく喜ばれました。もちろん嫌なことを言ってくる人もいましたが、若者がこんな田舎に残ったってしょうがないと、背中を押してくれる人が多かった。後悔はないけれど、今でも思い出しては複雑な気持ちになります」

 レノックスが口を噤むと、またしても長い沈黙が訪れた。外の暴風雨が木々と一緒に窓ガラスを叩く音が部屋に反響する。

「やっぱり、きみに謝っておきたい」

 先に口を開いたのはファウストだった。

「僕はきみの好きなものを、僕の価値観で判断を下していた」

 がたのきている学生寮も、お古の学術書も、彼の田舎のこともそうだった。どこかでずっと、彼の何かを決めつけていたらしかった。「そんな権利は僕にはないはずなのに、きみの権利はきみだけのものなのに、踏みにじるようなことをしていた。すまなかった」

「俺はファウスト様に踏みにじられたと思ったことは一度もありません」

 レノックスはむしろ驚いたようだった。

「あなたは聡明で理知的で、俺の話にも否定せずに耳を傾けてくださるのが、すごくうれしいんです」

 ただ、と彼は目を伏せた。

「あなたがご自身を好きになれないことだけが、それだけが俺は悲しいんです」


     〇


 朝になると、台風は夜のうちにすっかり過ぎ去ったようだった。昨夜あれだけ激しく吹き荒れていた雨風の音の一切が止み、代わりにブラインドの隙間から漏れるように朝の光と、小鳥の囀る声が差し込んでいる。

 ファウストが起き上がって部屋の中を見渡すと、レノックスは毛布にくるまってソファに座って眠っていた。どちらがベッドを使うか、眠る直前まで揉めたが結局はファウストが折れたのである。

 その仕返しではないが、立ち上がってすぐ近くまで寄ると彼の寝顔を覗きこんだ。普段早起きのレノックスが眠っている姿を見ることはほとんどない。何故か黒縁の眼鏡はかけられたままだが、いつもは重い前髪に隠された眉毛がちらりと覗いていて、普段より幾分幼く見える。もの珍しさに不躾にじろじろと眺めていると、気配に気づいたのかレノックスが目を覚ました。

「おはようございます」寝起きの掠れた声は、少しだけ困惑の色を含んでいた。自らの額への視線に気づくと、大きな掌でそれを隠す。「あの、何か」

 早朝のうちにチェックアウトすると、外に出た途端、夜のうちに冷やされた澄んだ朝の空気に肌寒さを感じた。朝の日の光が葉の上に残された雨粒に反射し、水たまりには青い空が映りこんでいる。駐車場に停めていた車は随分泥水や風で飛んできた葉や枝がくっついて汚らしくはなっていたが、流されることもなくちゃんと無事にそこにあった。あたりも大きな被害はなかったようである。

 車内で二度寝をして、昼近くになりようやく通行止めが解除されると、ガソリンスタンドで洗車をし、コンビニで遅い朝ごはんを買って、帰路につく。

 その間、ぽつぽつと他愛もない話をした。

 レノックスは昔飼っていた犬の話をよくしたので、ファウストはお返しに近所の捨て猫に餌をやっていたときの話をした。

 いつの間にか助手席でうとうとしていて、少しだけ夢を見た。

 夜道を自転車で走っていた青年の夢は、庭先の大きな黒いボーダーコリーを抱く少年の姿に変化した。犬はとてもお利口で少年の言うことをなんでもよく聞いた。ボール遊びとおもちゃの引っ張り合いが大好きで、首の付け根のもふもふしたところに顔を埋めると、香ばしいお日様の香りがした。少年は犬が大好きで、犬も少年のことが大好きだった。その夢の中で、少年に気を許せる一番の友人がいることに、ファウストは心の底からほっとした。





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