top of page

08.

  • 執筆者の写真: matsuo
    matsuo
  • 2022年6月26日
  • 読了時間: 26分

更新日:2022年7月5日

お手をどうぞ





 ヒースクリフはこのあたりでも有数の莫大な資産家、ブランシェット家の跡取り息子である。

 立派な門構えと万里の長城のごとくどこまでも続く背の高い塀の向こうにある、四季の移ろいを感じられる公園のように広い庭と、城のように大きな屋敷は近所でも有名で、彼はそこに優しい両親とたくさんの使用人たちと共に住んでいる。そんな環境で暮らしていても、決して驕らず、使用人たちにも丁重に接し、日々の勉学に励む生真面目で優秀な彼は、両親にとっても自慢の息子であった。

 ヒースクリフは毎朝決まった時間に自室で目を覚ますと、自ら部屋のカーテンを開け、身支度をすべて済ませてしまう。そしてダイニングと呼ぶには広すぎる広間へと降りて朝食をいただくと、自室に戻って参考書に向かう。窓辺で広大な庭を見下ろして一息ついていると、部屋の掃除をするのにガラガラとカートを押した使用人が部屋へと入って来た。使用人たちは主人を見つけると、小さく頭を下げた。

「坊ちゃん、シノ様がいらっしゃってますよ」

「わかってるよ。すぐ降りるから」

 今日はこの冬に受験する予定の大学の学園祭に行こうと、幼馴染と数か月も前から予定していた。

 しかしヒースクリフはこの学園祭へ行くのに乗り気ではなかった。否、数日前までは確かに楽しみにしていたのだが、今はただそのことを考えると気が重いだけだ。

 理由はとても年相応の少年らしいものだった。

 大広間への階段を降りていくと、使用人の言葉通り玄関には既に客人がいた。大勢の使用人に囲まれ、常人であれば委縮しそうな場であるにも関わらず、その見知った小さな黒髪の少年は意にも介さず堂々と立っている。

「遅い」

 幼馴染はむすっとした顔で一瞥すると、くるりと背を向けてさっさと玄関へ向かった。「さっさと行こうぜ」

 遅いも何も時間より早く来ているのは向こうの方だった。いつも通りの偉そうな態度にむっとしながらも、ヒースクリフはその後ろをついていく。行ってらっしゃいませ、と玄関に横一列にずらりと並ぶ使用人たちが見送りをした。

 玄関の前に停められた長いリムジンに乗り込んだあとも、どちらから話しかけるわけでもない。シノはむすっとした表情のまま窓の外に視線をやっており、ヒースクリフは気づかれないように小さく溜息をついた。気が重い理由はこれだ。つまるところ、一緒に行く予定のこの幼馴染と、昨日喧嘩をしたばかりなのだ。


     〇


 大学の校門を入ってすぐ並木道には色とりどりの派手な立て看板が並んだ。大学中のゼミやサークル、有志団体による出し物が描かれており、一般来客に向けてあちこちからチラシが差し出されて情報の洪水に目が滑る。並木道の先には「大学祭実行委員本部」と大きな看板のかけられたテントが建てられており、お揃いのTシャツを着た実行委員と思しき学生たちがパンフレットを配っていた。

「まずなんか食おうぜ。腹が減った」

「もうかよ。朝ごはん食べてこなかったのか」

「そんなのとっくに消化した」

 シノの言葉に呆れながらもヒースクリフがあたりを見渡す。広場には所狭しと模擬店がひしめいていて、ちょっとした縁日のようだ。模擬店に挟まれた通路には学生たちや一般来場者に加えて、着ぐるみやコスプレをした学生たちが我こそ一番に目立とうと高く看板を掲げながら催しの宣伝に練り歩いている。立ち並んだ模擬店の真ん中には鉄筋の特設ステージが建てられており、部隊の上ではブラスバンド部がマーチングバンドを組んで陽気な音楽を奏でていた。

 ヒースクリフはパンフレットを開いた。

 本日の催しはおおまかにいうと以下の通りだ。


講堂前特設メインステージ

 10:00 学園祭テーマソング マーチングバンド

 11:00 吹奏楽部スペシャルメドレー

 12:00 軽音楽部ライブ

 11:00 ストリートダンス部パフォーマンス

 14:00 近隣大学合同ファッションショー

 15:00 お笑いライブ

 16:00 学内ミスターコンテスト

 17:00 エンディングフェスティバル・キャンプファイヤー


A棟大講堂

 12:00 オーケストラ部特別公演

 13:00 チェンバロ奏者ラスティカ・フェルチ トークショー

 14:00 モダンジャズ研究会

 15:00 アカペラサークル

 16:00 落語研究会


七号館二階体育館

 ロボット研究会 ロボットコンテスト(13:00)


七号館前広場

 宇宙工学科 ハイブリッドロケット公開燃焼実験(11:00)


九号館地下講堂

 法学部 模擬裁判(11:00/13:00/15:00)


十一号館四階講堂

 映画研究会 自主製作映画上映(30分間隔)


「工学部エリアでロボコンしてるって。教室でいろいろ展示もしてるみたい。ちょっと行ってみたいな」

 そう言うヒースクリフの声は少しだけ浮かれていた。

 ヒースクリフは高校からの推薦が取れる予定の工学科を受験するつもりでいる。本当に家を継ぐつもりでいるなら経営学を学んだ方がいいのはヒースクリフにもわかってはいるが、優しい両親は彼の進路に何も口を出さないでいた。ちなみにスポーツ推薦を取る予定のシノもついてくるつもりらしい。彼の身体能力なら好きな学科を選べるらしいからいいご身分だ。

「ああでもお腹が減ってるなら先に昼食か。そのへんの模擬店で買い食いしてもいいけど、学食も開いてるみたいだからそっちで食べてもいいかも」

 そこでヒースクリフは、それまで前を歩いていた幼馴染が急に立ち止まったのに気づき、同じように足を止める。「シノ?」

「あいつ怪しいな」

 険しい表情を浮かべるシノの視線の先を追うと、人混みの向こうに小さな女の子に屈んで話しかけている身体の大きな男がいた。今にも泣き出しそうな表情を浮かべた女の子は、見るからに男に対して怯えているではないか。なにより男は引き攣ったようなとても邪悪な笑みを浮かべ、手に持っている風船で子供の気を引いて釣ろうとしていた。

「あいつ人攫いじゃないか? どう考えたって大学生じゃないだろ」

 偏見に満ちたシノの物言いに、しかしヒースクリフの脳裏にも物騒な噂がよぎった。とくにこのあたりは世間で話題の窃盗団の犯行も多く、つい最近も近くの公園の雑木林の中で自殺未遂事件が立て続けに起こったばかりだ。数年前に起きた子供の失踪事件の現場もこのすぐ近くだったりと、何かと治安の良くない話を聞く。

「それなら実行委員に言わないと。あ、警察の方がいいか」

「いや、オレが行く」

 ヒースクリフの制止も間に合わず、シノが飛び出した。

 シノは無鉄砲だ。そして小さな身体でありながら誰よりも負けず嫌いで、一度負けた人間には勝つまで絶対に諦めない。だからもうここ数年は、たいていの大人は喧嘩であれ格闘技であれ彼に勝てなくなっており、それが余計にシノの無鉄砲さに歯止めを効かせなくなっていた。

 シノは近くにあった模擬店ののぼりを掴むと、石畳を蹴り上がった。空中で軽やかに身体を翻し、背後からのぼりの柄を男の背中に叩きいれる。体重の軽いシノが体術だけで相手に与えられる一発の重さはたかが知れている。だから彼は自分よりも大きなものを使って戦うのが上手だった。そうやって理不尽な因縁をつけてきた上級生や近所の不良たち相手に、シノがこうして一人で戦ってきたのをヒースクリフも何度も見てきた。

 だからこそ油断していた。ヒースクリフはもちろん、喧嘩に慣れきっていたシノもそうだ。

 男は長いのぼりの柄が入ってくるよりも先に振り向くと、柄を掴んで思い切り自分の方に引き寄せた。ぐっと一緒に引き寄せられるシノの腕を捕らえ、そのまま身体を地面に押し付ける。

 その日、ヒースクリフは久しぶりに、シノが大人に負けたのを見た。


     〇


「とんだご迷惑をおかけしました!」

 本日何度目かわからない謝罪を口にしながら、ヒースクリフは頭を下げた。「まさか本当にただ迷子を保護しようとしていただけとは知らず、一方的に暴行を加えようとしてしまって……」

「いや、どちらかというと怪我をさせたのは俺だ」

 そして今、背を屈めてヒースクリフに頭を上げるように促しているのは、先ほどシノが強襲をしかけた男であった。重い前髪と眼鏡に隠れた表情は読みづらいが、平謝りに謝る青年に対してむしろ決まりが悪そうである。

 対するシノはというと、男に抱えられて連れてこられた模擬店のテントの裏で、パイプ椅子に座らされ教師らしき男に治療を受けていた。臨戦態勢の相手の動きを封じ込めようとした男から逃れようと暴れたことで、シノの体中にすり傷ができてしまっていたのだ。それゆえか彼の今の表情は重く、ヒースクリフから目を逸らすように地面を睨みながら、じっと何かを考え込んでいるようだった。今のシノの心情なら、ヒースクリフにも容易く察せられた。

「あんた格闘技でもやっているのか」

「とくに習ってはいないが、子供の頃は暇さえあれば兄貴に技をかけられてはいた」

「じゃあスポーツは」

「運動部は入ってなかったな」

 負けず嫌いの彼らしくよっぽど悔しかったのか、気がつけば質問攻めしはじめた。

 そんな様子に呆れながらもヒースクリフはあたりを見渡す。男に連れてこられたのは、農学部エリアの模擬店のテントだった。このあたりは学内でつくったものを売っているゼミやサークルが多く、中には生花や野菜、米なども売られていて、学園祭というよりは市場のような雰囲気だ。

 この模擬店でも、遺伝子実験から品種改良を重ねた新種の野菜などを他のゼミと合同で販売しているらしい。テントの下の長机には野菜の入った籠が積まれ、手拭いの上から大きな麦わら帽子をかぶり桃色のエプロンをした、いかにも農家のおばさんらしき風貌の店番が、農家のおばさんとは思えぬ丸い色付き眼鏡をかけ、何が気に食わないのかひどくぶすくれた表情でパイプ椅子に足を組んで座っていた。この店番、愛想を振りまく気も、そもそも野菜を売る気も無いらしく、お安いお値段の珍しい野菜に客が足を止めるたびに、にこりともせず「百円」と言い放つものだから、そのたびに悉く客に逃げられている。直売所でこんなにやる気の無い農家のおばさんもそうそう見ない。

「はい、終わり」人の良さそうな笑顔を浮かべた教師は自らの手で包帯を巻いた腕を、完成とばかりにぺちんっと叩いた。シノが痛みに顔を歪める。

「本当にありがとうございました」

「レノックスの愛想笑いは人殺しのそれだからね。間違えるのも無理はない」

「俺はもっと自然に笑えるようになりたいんですが……」

「じゃあ、また客の呼び込みでもして練習しておいで」

 そうします、とレノックスと呼ばれた男は手持ち看板とガスボンベで膨らませた風船を掴むと、テントを出て行った。

「二人はもういろいろ回ったの」

 改めてフィガロと名乗った教師(助教授であるらしい)は、にこやかに二人に尋ねる。

「いえ、俺たちさっき来たばかりで」

「そうなの? 来たばかりで災難だったね」

 同情した様子で頷きながら二人を労った。「棟の中ではいろいろ面白い展示やふざけた展示もやってるし、ここに来る前に通って来たメインステージでは常に何かしら催しがやってる。一般来場者参加型のイベントもあったはずだから、どうか楽しんで」

 フィガロがそう簡単に案内していると、あたりに子供の甲高い泣き声が響き渡った。「よーし、やっぱり誰かレノックスを回収してきてくれる?」

「俺は展示が見たいんだけど」

 パンフレットを眺めていたヒースクリフは、それまで黙っていたシノの「イベントには参加するぞ」という言葉に顔を上げた。

「ミスターコンテストに出る」

 巻いてもらった包帯の調子を確認するように腕の関節を動かしている幼馴染の涼しい顔をヒースクリフは唖然と見つめた。

「シノが?」

「ヒースに決まってるだろ」

 シノは事も無げに言いのけた。

「ここまでざっと見てきた限りだと、どいつもたいしたことない。おまえが一番かっこいい。おまえはただ堂々としてればいい。そうすれば絶対に優勝する」

「絶対に嫌だ、そんなわけのわからないコンテストに出るのなんか」

「もう申し込んだ」

「なんでいつも勝手なことをするんだよ!」

 ヒースクリフが珍しく声を荒らげると、「おい」と低い声が二人にかけられる。いつの間にか店番をしている農家のおばさんがこちらに顔を向けていた。

「喧嘩をするならそろそろ出ていけ」

 冷や水を浴びせられ、頭に上っていた血が一気に引くのを感じたヒースクリフは口を噤む。一方のシノは癇に障ったのか、はたまたさすがに決まりでも悪かったのか、彼は鼻を鳴らして立ち上がった。

「もういいだろ、農学部なんて農業やってるだけでダサいし。はやく工学部に行こうぜ」

 そう言って荷物を掴み、テントから出て行こうとするシノの前に、人影が立ちはだかった。足を止めて顔を上げると、人影は先ほどの農家のおばさんである。

「は?」

 聞き返すその声は氷のように冷たく、色付き眼鏡の向こうの眼光の鋭さに、二人は思わず押し黙った。


     〇


「よくやるよなあ、まったく」

 少し離れたテントで突然行われている公開授業を横目に、ネロは苦笑した。

 捕まってしまったのはおそらく一般来場者の高校生だろう。数か月の付き合いでも根暗なんだか熱血なんだかいまいちわからない先生だが、人一倍生真面目であることは確かだ。もちろん本人は否定するだろうが。

 慣れた手つきで鉄板の上のソース麺をへらでかき混ぜたあと、フードパックに入れて長机に積み上げる。文系学部が連なり大学の顔とも言える中央キャンパスとは違い、農学部の小さな食堂は学園祭の間は休業している。その代わり食堂前のテラス席付近に模擬店を構えて軽食を販売していた。おかげさまで昨日から大繁盛でゆっくり休んでいる暇もない。

「焼きそば一つ」

「あいよ」

 昼時の列を一旦捌ききり、一息ついたところに現れたスーツ姿の客の顔を確認すると、ネロは視線を手元に戻した。「五百円」

「どうせだから肉多めで野菜は抜いてくれよ」

「悪いね、いちいちお客さんのそういう要望には応えてたらきりがないもんで」

「いいぜ、俺は待つからよ。できたら呼んでくれや」

 客は店の前のテラス席にどっかり座ると、長い脚を投げ出すように組み替えた。ラフな恰好が多い学園祭に、上等な黒いスーツに色物のシャツを合わせた若い男は、明らかに異質な存在であった。こちらの話も聞かず、予定でもあるのかスマートフォンでどこかに電話をかけだした不遜な客の態度に、ネロは小さく舌打ちをする。ネロの苛立ちは幸いにもスピーカーから流れるBGMと、あちこちからひっきりなしに聞こえる呼び込みの声にかき消されたようだ。周囲の学生や一般来場者たちはおしゃべりに夢中でこちらの様子を気にも留めていないし、他の従業員たちはちょうど休憩に出ていて、今はネロが一人でまわしていた。

「しかし天下の料理人が、ガキ相手にこんなとこで焼きそば作ってるとはなあ」

 新しく袋麺を熱した鉄板の上に開けていると、えらく不遜な客はいつの間にか電話を終え、仰け反るようにこちらに顔を向けている。こちらを試すような赤い瞳から逃げるように、ネロは視線を逸らした。

「なあネロ、自分の店持つんじゃなかったのかよ」

「持つよ。だから勉強してんだろ。俺はちゃんと経営の勉強して、表の店を出してえんだよ」

 視線から逃げたまま、鉄板の上でヘラを動かす。ふうん、とつまらなそうな声は、納得はしていないようだった。

「それで、何しに来たんだ」

「あ?」

「まさか有名人さまがこんなとこにのこのこ焼きそば食いに来たわけじゃねえんだろ」

「そりゃあな」

 口の端を小さく上げると、巷を賑わす窃盗団のボス、ブラッドリー・ベインは椅子から立ち上がり、折り畳んだチラシをネロの前に広げて見せた。訝し気に眉をひそめるネロに向かって、すっと指でチラシのある一点を指し示す。

「この大学の理事長室に代々飾ってあるという、西の赤い宝石をあしらった王冠だ。毎年このバカみてえなコンテストの優勝者と写真を撮るときだけ表舞台に出てくる。今回はそれを盗りに来た」

「おまえ、まさかこのコンテストに出るんじゃねえだろうな」

「バカか、出るわけねえだろ。こんなもん普通に貰って何が楽しいんだよ」

 ぐしゃぐしゃとチラシを上着のポケットにしまいながら、ブラッドリーが鼻で笑った。参加したら普通に優勝する気ではいるようだ。

 少しばかり呆れると同時に、ネロは一点別のところが気になっていた。声を落とし、ブラッドリーの耳元に顔を近づける。

「別に学園祭のときじゃなくても盗みには入れるだろ。ここの警備、理事長室のあたりなんか気味が悪いくらいガバガバだぞ」

「いや、実は一度盗みには入ってる」

 ブラッドリーも同じように声を落とす。「つまんねえくらい簡単に獲物の目の前までいけたんだがな、いざ手に取ろうとしたら背後にその理事長が立ってたんだよ。しかも『別にいらないからあげるよ』ときたもんだ。代わりに俺のことを教えてくれとか、根掘り葉掘り質問してきて気色悪くてよ、そのまま帰ったんだよ。いらねえって言ってるもん盗ってもしょうがねえだろ。だけどこのまま引き下がるのも気に食わねえ。だからコンテストで観客の前で堂々盗むことにした」

「またくだらねえ意地か」

「おまえの夢も、俺には意地に思えるけどな」

 そう言うと、ブラッドリーは黒いスラックスのポケットに手をつっこみながら、悠々と周囲を見渡す。傲慢でありながら余裕のある佇まいは何故だか絵になった。

「しかし、どいつもこいつも腑抜けた坊ちゃんって感じだな」

 値踏みするかのような視線をあたりに向けていたが、ある一点に目を止めた。「まあ、あそこの奴はなかなかいい体格してる。それにぬぼっとしてるようであたりへの警戒も怠っていない。連れているちっこいのも身軽そうでなかなかいいじゃねえか」

「でかいほうは春におまえが燃やした家に住んでた奴だよ」

 ブラッドリーはネロの顔を見て「まじか」と口を動かした。「世間狭いな」

 話題にされているとは露知らずにいるレノックスは、客の呼び込みという仕事を取り上げられて手持無沙汰になったのか、先ほどまで「先生」にとっつかまっていた黒髪の高校生を連れて、こちらに向かって歩いてきているところだった。ネロはさっさと焼きそばの入ったパックを輪ゴムで止めると、ブラッドリーに押し付ける。

「そういうことだ。ほら、バレてサツ呼ばれる前にさっさと行け」

「そうするわ」

 しかし一歩遅かったようだった。「ちょっといいか」とネロに話しかけてきたレノックスは、それまで店主と親密に話していた様子のブラッドリーに気がつくと、二人の顔を見比べるながら「知り合いか?」と尋ねた。

「知り合いなら向こうで休んできたらどうだ。その間俺が店を見てるが」

「いや、まったくの初対面だよ。ですよね、お客さん」

「ああ、このコックの料理が絶品なもんだから、店でも開いたらどうかって提案してたとこだよ」

 余計なことを。見つからないようにじろりとブラッドリーを睨むが、レノックスは何か勘づいているのかいないのか、眼鏡の奥からブラッドリーの顔をじっと見つめている。内心はらはらとその様子を固唾をのんで見守っていると、やがてレノックスは「そうだな」と頷いた。

「確かにネロのつくる料理はいつもうまい」

「だろ。おまえ話がわかるな」

「ところで、どこかで会ったことあるか?」

「いや、どうだろうな。無いんじゃねえか?」

 自然な仕草で白を切るブラッドリーの度胸だけはいつも感心させられる。

「で、そっちは?」

 話題をできるだけ遠くへ逸らそうと、ネロはレノックスの小さな連れへと目を向けた。

 チラシの束を小脇に抱えた少年は、にこりともせずにそのうちの一枚をネロへと渡した。

「ヒースクリフ・ブランシェット。ミスターコンテストをも制する男だ。投票権を無駄にするくらいならこいつに投票しろ」

 妙に偉そうな態度に若干怯みながらチラシを見ると、金髪の美少年がどこか憂いを帯びた表情をした写真がでかでかと刷られている。突貫でつくったわりには、妙に気合の入った写真のチラシだ。そのことを指摘すると、何故か得意げにシノは胸を張った。

「生徒会選挙のときのポスターのデータがスマホに残っていたから、そこのコンビニで刷ってきた。こんな大学のコンテストでも無いよりはあったほうが箔がつくってもんだろ」

「そりゃそうだ。優勝者に送られる宝石ってのもなかなか立派だしな」

 にやりと笑うブラッドリーの足の甲を机の下で思いっきり踏みつけると、「いってえな」と足をあげながら音をあげた。レノックスはちらりとブラッドリーを見やったが、シノは気づかなかったようだ。「それに」と彼は続けた。

「それにあいつが自信持つまで、なんだってあったほうがいい」

 学園祭の見回りがてらチラシ配りをしている二人がすっかり見えなくなるまで去ったところで、ようやく緊張が解れてネロは額を抱えながら長い息をついた。

「余計なことしてんじゃねえよ」

「スリルがあったろ」

 今にもヘラで襲いかからん勢いで睨みつけると、ブラッドリーは「相変わらずおっかねえな」と大げさに肩をすくめてみせた。

「もういいから、さっさとそれ食って帰れ」

 そう言い残すと、ネロは自分もバックヤードへと戻っていく。どうやら交代の時間のようだった。

 人混みに紛れながらネロに渡された焼きそばのパックをブラッドリーは改めて見ると、目の前でこれを作った店員の顔を思い浮かべて思わず小さく舌打ちをした。

「他の奴のより野菜が多いじゃねえかよ」


     〇


「なんと、うっとりするほど素晴らしく大きなかぼちゃだ。見てごらんクロエ、あんなに立派なのだからもしかしたら僕の花嫁かもしれない」

「それは遺伝子操作で従来のものより食物繊維が一〇パーセントも多いかぼちゃだ」

「食物繊維が一〇パーセントも! それはとても興味深い。ますます僕の花嫁に違いない」

 先ほどからスーパーに売っているものよりも立派に育った野菜たちに賛辞を送っている青年を、こっそりとヒースクリフは様子見る。言動はどこか浮世離れしているが、身に着けた服飾はどれも上等そうでセンスが良く、自然と出る立ち振る舞いはとても上品で育ちの良さがうかがえた。少しばかり化粧を施しているように見えるから、何か舞台に立っていたのかもしれない。「ラスティカ、さすがに野菜は花嫁じゃないよ」とあたりまえのことを一生懸命教えて彼の行動を軌道修正しようとしている一緒にいる赤い髪の青年は、友達というよりはどちらかというと付き人のように思えた。

 不思議な客に野菜が売れると、農家のおばちゃんのような様相をしていた店番は帽子と手拭いを脱ぎ捨て、おばちゃんから愛想の悪い桃色のエプロンをした若いやせ型の男性になった。

「もういいんですか」

「やってられるか」

 准教授にファウストと呼ばれていた彼は、おばちゃんじゃなくなっても機嫌と愛想が悪いのは変わらないようで、相変わらずむっすりとパイプ椅子の上で腕を組んでいる。隣に座っていたヒースクリフは居心地の悪さに身を小さくした。

「せっかく来たのに、こんなところで時間を潰していていいのか」

「はい。シノがここに戻ってくるかもしれないし」

 シノと喧嘩別れをし、仕方なく一人で工学部の展示も一通りまわったものの、他の事が気になってしまい、どの展示内容もいまいち頭に入ってこなかった。シノにこちらから連絡をするのは癪だし、かといって一人で帰る気にもなれず、彼が戻ってくるかもしれない農学部のエリアをうろうろしていたところ、フィガロに捕まって店番二号としてパイプ椅子に座らされたのである。

「それに先ほどの講義もとてもためになったので、少し興味があるんです」

「気を遣わなくていい。講義なんてたいそうなものでもないし」

「いえ本当です! 初心者の俺たちでもとてもわかりやすかったですし、興味のない話なんて聞かないシノが最後までちゃんと耳を傾けていたくらいですから」

 シノの名前を出して、ヒースクリフは俯いた。

「いいのか、あいつ何が何でも票を取ってきて、あの時代錯誤な舞台に上げようとしてくるぞ」

 学生、一般来場者全員にパンフレットと一緒にコンテストの投票権が配られており、その得票数と審査委員の得票によってミスターコンテストの優勝が決まるのだという。シノはつくったチラシを配りに、見回りに出たレノックスについていってから一度も戻ってこない。

「俺が何を言っても無駄なんです」

「えらく諦めるのが早いな」

「昔から、ずっとそうなので。あいつは俺の両親のためにやってるんです」

 孤児院に住んでいるシノは、ブランシェット家の奨学金制度で私立の学校に通わせてもらっていた。

 以前より何かに秀でた孤児たちに奨学金を出してきたブランシェット家では、運動能力がずば抜けて高かったシノにものびのびと才能を伸ばせるよう環境からサポートしてきていた。それだけでなく、当時引っ込み思案だった息子の遊び相手になればと彼を客人としてよく家に招いていたことから、シノとヒースクリフは幼馴染のように一緒に育ってきた。それゆえか、どうやらシノはブランシェット家に多大なる恩義を感じているようで、優しいブランシェットの主人たちのために、その家の一人息子が立派な跡取りになるよう尽くそうとしているらしいのだ。

 それも幼い頃はまだかわいらしいものだったが、つい最近、一年次、二年次と学校の生徒会長に推薦し当選させたのが、どうやらシノが一枚噛んでいたことによるものだと知って喧嘩になったばかりだ。

「おかしいなあ」

 先ほどからテントの奥でがたがたと何か作業していたフィガロの声に二人は揃って振り向いた。「どうした」

「借りてきたデジタルサイネージが映らなくなってたんだよね」

 フィガロが大きなため息をつく。野菜を売っている横で、大きな液晶画面にゼミの研究成果をスライドショーのように映していたのだが、今は何度電源をつけても画面は真っ暗なままになっていた。

「おまえの扱いが悪かったんじゃないか」

「いや、借りてきたときから既に電源の付きが悪かったよ。仕方ない。今日はもうこのままでいいか」

「俺、直せるかもしれません」

 黙ってデジタルサイネージをじっと見ていたヒースクリフがぽつりと言うと、フィガロが目をぱちぱちと瞬かせた。

「これを?」

「はい」

「じゃあ、ちょっと見てくれる?」

 ヒースクリフは鞄から携帯用の小さな工具箱を取り出すと、ドライバーで裏板を外して基盤をひとつひとつ見ていった。どうやら回路の接触が悪いだけのようで、繋ぎなおしてから試しに電源を入れてみると何事もなかったようにサイネージは動き始めた。

「いやあ、すごいなあ」

 裏板を再びドライバーで閉め直しているヒースクリフの姿を、感心したようにフィガロがしゃがんで見ていると、上から「もし」と声がかけられる。顔をあげると、先ほどの浮世離れした青年たちであった。

「僕の時計も直せますか。とても気に入っていたものだけれど、先ほど時が止まってしまったのです」

「電池が切れたのかも。見てみますね」

 青年から渡されたのは、とても細かく美しい装飾が施された懐中時計だった。大事にされているがとても古いつくりのもののようで、慎重にカバーを外してみると、どうやら何かの衝撃で歯車がかみ合ってしまったようだった。これくらいなら直せそうだ。

 蓋を閉めると、時計の秒針は再びカチカチと時を刻み始めていた。「どうぞ」

 手渡すと青年はぱっと顔を綻ばせた。

「どうもありがとう。是非お礼を」

「いえ、素人が勝手にやったことなので金銭はちょっと。それに申請してないので大学にばれたら怒られますし……」

「それでは一曲お礼をとしたいところだけれど、あいにく今は手元にチェンバロが無いのです。いつかコンサートに招待させてください。会場で名乗り出てくだされば、いつでもあなたを特等席へとご案内しましょう」

 胸元に手を当て優雅にお辞儀をすると「そのときまでは、これを代わりに」と青年は自分の名刺とパンフレットに挟んであった小さな投票券を机上に置いた。「集めていらっしゃるようなので」

「別に集めているわけじゃ!」ヒースクリフが慌てて券を戻そうとすると、赤い髪の青年が首を傾げた。

「あれ、違う?」彼は大きな鞄から折り畳まれたチラシを取り出した。「さっきこのチラシをくれた子にコンテストに出るって聞いたんだけど」

「なんでもいいから貰っておくといい」

 ファウストが言った。「きみの技術と仕事への評価だ。まあ正当かはわからないがな」

「そんな、仕事なんて言うほどじゃ……」

「今からタダ働きに慣れるのだけはやめておけ、馬鹿を見る。最初はありがたがられても、それがそのうち当たり前になって、いずれきみを人として見なくなる。きみが自分を尊重しなければ、誰もきみを尊重しなくなる。貰っておきなさい」

 ヒースクリフは手元の小さな投票券を見つめた。本当にヒースクリフにとってはなんの価値もない券だけれど、今は本来の価値だけじゃない、少しばかり誇らしいものに見えた。

「はい。ありがとうございます。でも念のため、あとで職人にも見てもらってください」

「あの、それじゃあ俺もいいかな」

 赤い髪の青年が大きな鞄を持ち上げた。「さっきのファッションショーの直しでミシンを持って来たんだけど、なんだか調子が悪くて」

 ミシンの調子を見ていると、いつの間にかヒースクリフの元へ学園祭の什器や、時計などの小さな小物の修理の依頼をする客の列がすっかりできあがっていた。ついでに野菜も飛ぶように売れていった。

 一体どこから聞きつけたのか、ヒースクリフとファウストが疑問に思い始めた頃、見知った顔が大きなガスコンロを持って現れた。

「おまえまでなんだ」

「いや、投票権一枚でなんでも壊れた機械直してくれて、ついでに新鮮な野菜も安く譲ってくれるんだろ」

 そう答えたネロは先ほどヒースクリフが直したデジタルサイネージを指さした。サイネージの上には、新たに手書きのポスターが付け加えられるように貼りつけられていた。


     〇


 秋空が傾きはじめた頃、講堂前の特設メインステージでは両脇のスピーカーから壮大なBGMが流れ出し、ようやく学園祭最後の催しであるミスターコンテストが始まった。

 舞台上にはコンテストを進行をする妙ちくりんな衣装を着た司会のほかに、後ろの方に控えている審査員たちと、数名の参加者たちが一列に立っている。その中にはシノの姿もあった。

「エントリーナンバー、6! 自己紹介をお願いします」

「オレはヒースじゃない。代理だ。ヒースならそこの観客席で縮こまってる」

「なるほど、代理の方ではだめなので、ご本人に舞台に上がってきてもらえますか?」

「だ、そうだ。ヒース! 上がってこい!」

 嫌だ!、と客席から声が上がった。

「となると、棄権ということでよろしいですか?」

「ちょっと待て、説得すればいいんだろう」

 絶対に嫌だからな!、と客席の声は更に断固拒否の姿勢を見せた。「いつもシノが勝手にやってるだけじゃないか!」

「そうだ、オレは別に何もしてない」

 いつの間にか運営側が面白がったのか、暗くなり始めた客席にスポットライトが当てられていた。ひと際目立つ光を当てられているヒースクリフは、舞台のシノだけを見ているせいか気がついていないようだ。

「本当はおまえの役に立ちたいけれど、オレはまだ結局何もできてないし、ときどきおまえに迷惑までかけてる」

「ときどきじゃないけどな」

「オレはおまえがすごいやつだってみんなに言ってるだけだ」

「それが一番迷惑なんだよ。俺は自分のことでシノにも周りにも迷惑かけたくないよ」

「みんなそこまでバカじゃない。本当にすごくない奴に投票なんかしない」

 シノはそこまで言うと、さっそうと舞台から飛び降りた。おお、と何故か歓声が上がって、周りの観客が一斉に引いて道をつくる。

 つくられた道を歩いてきたシノは、ヒースクリフの前で立ち止まると、恭しくお辞儀をし、それから手を差し出した。

「みんな、おまえが思っているよりおまえのことを見ている。おまえのことをすごいと思ってるから勝手にやってるだけだ」


     〇


「なんだあれは」

 めちゃくちゃな演説に、ドラマティックな茶番に盛り上がる観客たちの様子を、二階の講義室の窓から見ていたファウストは苦笑する。しかし隣のレノックスはまったく違う感想を抱いたようだった。

「いいですね。すごくいいです」

 いたく気に入ったのか、ヘタクソな愛想笑いが嘘のように何度もうなずいてにこにこしている。

「そんなにいいか?」

「はい。俺はとてもいいと思いました」

 人の感じ方というものはそれぞれである。首をひねりながらコンテストの様子を引き続き見ていたが、結局優勝したのは大学内でもひと際人望の厚いフェンシング部の三年生だった。彼も推薦で舞台に上げられたのか、照れくさそうにしていたが、優勝者に王冠を授与しようというところで肝心の王冠が失くなっていて、コンテストは一時大騒ぎとなった。

 なんともしまらないまま閉会式が始まった裏ではパトカーが何台も裏門に到着し、警察が構内へと入っている。ファウストがまともに学園祭に参加したのははじめてのことだったが、今年の学園祭は長い大学史に刻まれることだろう。

 すっかり暗くなった特設ステージから、軽快な音楽が鳴り始めた。どうやら後夜祭は予定通り行われるようだ。酒が入っている参加者たちは歌をうたい、踊り始め、その波は次第に広がっていった。

「ファウスト様、踊りませんか」

 音楽に合わせて口ずさんでいたレノックスが急にそんな提案をするので、ファウストは呆れて小さく笑う。

「嫌だよ。幽霊が踊るなんて聞いたこともない」

「幽霊だって楽しければ歌ったり踊ったりしますよ。それに誰も見てません」

 そう言うとレノックスは一歩引いてから、手を差し出した。

「お手をどうぞ」

 一瞬の躊躇いのあと、観念したように手を取った。

「きみ、歌はうまいのにリードはめちゃくちゃだな」

「そうですか?」

 レノックスのステップは型も何もなく、彼の好き勝手に動いているようだ。

「よく考えたら、マイムマイムしか踊ったことありませんでした」

「きみの隣の人は手を上げるのが大変だったろうな」

「気分が乗ると宙に浮かせるので俺の隣は不人気でしたね」

 うっかり気分が乗っているレノックスを想像してしまってくつくつ笑っているのを、当のレノックスは嬉しそうににっこりしながら見ている。

「ほら、こうだよ」

 ひとしきり笑ったあと、ぐっと彼の腕を引いてリードを交代する。ファウストの動きに合わせようとするレノックスはそのうち身体が覚えたのかリードなしにも踊れるようになって、また結局めちゃくちゃなステップに戻り、そうこうしているうちに夜は更けていった。

 素直に認めれば、それはなかなかに楽しい夜だった。





 
 
 

最新記事

すべて表示

風が強くて、猫が騒ぐ。 足元を通り抜けた風が青い葉を宙へと舞い上げた。そのまま空を見上げると、煌々としたペーパームーンのような満月がぽっかりと浮かんでいる。周りの星が隠れてしまうほど月の明るい晩だった。 向かい風を切るように足早にマンションのエントランスへ向かうと、猫の鳴き...

 
 
 

Bình luận


crushcrushcrush. matsuo // since 2013.07
bottom of page