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09.

よいお年を




 クリスマスが終わるや否や、街は忙しなく年越しの準備へと様相を変えていった。キラキラした電飾は少しだけなりを潜め、あちこちで流れていた浮かれたクリスマスミュージックは、新年の訪れを感じさせるものへとなり替わった。学生たちも授業を終えた者から冬休みに入り、次第に構内もまた閑散としていった。年を跨ぐぎりぎりまで残っているのは、部活やサークル活動に勤しむ者か、卒業研究の進捗があまりに悪い者か、はたまた空き教室に籠城する引きこもりくらいである。

 いよいよ年が変わろうという十二月某日、その引きこもりの巣である旧研究棟の脇から、もくもくと黒煙が上がっていた。

 秋の間紅葉させていた校舎横の桜の木は、寒さが厳しくなるとすっかりその葉を落とし、外階段に降り積もらせていった。大掃除をしていたレノックスがそれらの分をすっかり掃き出すと、ちょうど焚火ができるくらいの量がある。落ち葉の山を前にしたレノックスに考えが浮かんで、学生寮跡地の畑からサツマイモを引っこ抜いてきた。そうして焼き芋をしていると、いつの間にか外階段の上から引きこもりがこちらの様子を窺っていて、しばらくすると下まで降りてきて、やがててきぱきと焼き加減に指示を出し始めたのだった。ちなみに構内での火気の扱いは厳禁である。

「ファウスト様は帰省されるのですか」

 火ばさみで焚火の中から頃合いの良さそうな芋を取り出しながらレノックスが尋ねた。厚い軍手で芋を掴むと、包んだアルミホイルを剥がして二つに割った。ほくほくとした熟した黄色い断面が顔を出す。

「近所だから帰省ってほどでもないけど、大晦日から正月くらいは顔を出そうと思ってる」

「そうですか」

「きみはどうする」

「俺も兄の家には顔を出しに行こうかと」

 レノックスは焼き芋の片半分をファウストに差し出した。「どうぞ、まだ熱いので気を付けてください」

 二人で甘い芋をのんびり食べていると、裏門から同じ色のウインドブレーカーを纏った運動部の群れがなだれ込んできた。試合帰りなのか、今日の結果に意見を交わし合っていたが、中には「焼き芋だいいなー」という羨む声も聞こえてきた。そのうち一人がこちらに気づくと、悠々と近づいた。

「レノックスにファウストじゃないか」

 快活な声に顔を上げると、レノックスは「カインか」と言った。

「焼き芋か、美味そうだな」

「少し持ってくか。たくさんある」

 レノックスは焼きあがった芋の山を指さした。「二人じゃ食べきれなかったところだ」

「本当にいいのか!」カインは嬉しそうな声を出すと、振り返って腹ペコの部員たちに声をかけた。「おいおまえら、食っていいって!」

 わらわらと群がり、「あざっす」と口々に礼を言いながら芋を二つ三つと抱えて取っていく部員たちの傍らで、レノックスは「ファウスト様のこともご存知だったのか」とカインに尋ねた。

「ああ、もちろん知ってる。高校の先輩なんだ。生徒会とは文化祭で一緒に仕事をしたから顔見知りになった」

 な、と同意を得るようにカインはファウストの方を窺ったが、当のファウストは顔を上げようともせず、落ち葉を火ばさみでつつきながら「覚えてない」と呟いた。

「でも、元気そうで安心したよ。いろいろ噂を聞いて、あの方もずっと心配していたんだ」

「元気が無くても芋ぐらい食べる」

 相変わらずの愛想のない返事に、カインは「それはそうだ」と笑った。

「ところであんたは部活に入らないのか。今からでも遅くはないだろ」

「今は考えてないな」

「勿体ないな。まあ、助っ人が必要なときまた頼むよ」

 騒がしい団体が去っていくと、あたりは急に静かになった。ぱちぱちと火花が爆ぜる音だけがしばらく響く中、ファウストが口を開いた。

「そういえばおまえはあいつと同学年だったのか」

「語学が同じクラスだったんです。それに、カインは受験の時に後ろの席にいて」

「受験?」

 聞き返そうと顔を上げたのと、レノックスが勢いよく立ち上がったのはほぼ同時だった。レノックスの視線の先には、煙に向かってこちらに近づいてくる人影がある。どうやらカインたちが戻って来たのではない。相手は旧研究棟の私的利用について、たびたび衝突していた教員たちのようだった。

 ファウストは声を高らかに叫んだ。

「撤収!」

 レノックスは傍らに水を張って置いておいたバケツを、勢いよく焚火の上にひっくり返す。代わりに焼きあがった芋をバケツの中に放り込んで回収すると、二人は大急ぎで教員棟へと駆け込んだ。


     〇


 三年前の冬の日、カインがこの大学に受験をしに来た二度目のことだった。

 その日の受験会場は一度目と違って大きな教室であり、カインの受験番号は一番後ろの席に書かれてあった。前の席には不織布のマスクをした大きな男が座っており、机の上に突っ伏すように分厚い参考書を凝視する姿はどこか狂気じみていた。浪人生だろうか。カインが着席すると同時に、ゴホゴホと痰の絡んだ咳と共に目の前の大きな背中が上下に揺れた。

「あんた大丈夫か」

 背中を叩いて声をかけると、振り返った男の重い前髪の隙間から額に貼られた冷えピタが見えた。

「悪い、うるさかったか」そういう男の声はガラガラした鼻声だった。

「いや、それはいいんだけどさ」純粋に心配してカインは尋ねていた。「風邪薬持ってるけど、飲むか?」

「ありがたいけど大丈夫だ。薬を飲むと眠くなる」

 しかし試験が始まると病状は悪化する一方に見えた。咳が比較的治まってる間でも、鼻を啜る音とぜぇぜぇと荒い息使いがひっきりなしに聞こえ、そしてしばらくするとまた重い咳が繰り返されるのだった。

 午前の試験が終わったタイミングで、カインはまた前の席を様子見た。男は食事もろくに取らず、一心不乱にノートを見つめている。

「食事はとった方がいいぞ」

 カインがゼリー飲料を机の上に置いてやると、男は、悪い、だの、ありがとう、だのと言ったことをぼそぼそと呟いた。

「あんたよっぽど切羽詰まってるみたいだけど、ここで身体を壊しちゃ意味がない。来年もあるだろ」

「来年じゃだめだ」

 うわごとのように男は呟いた。カインにではなく、自分に言い聞かせているようだった。「これ以上は、だめなんだ」

 一応ライバルであるはずだが、カインにとってはもはや試験よりも目の前の男の病状が気になって仕方がなかった。だから試験がすべて終わり、男の答案が無事に全問回答して回収されたときには思わず喜んでしまい、そのまま男が机に突っ伏したまま意識を失ったことに気がつくと、慌てて近くの試験官を呼び止め、一緒に保健室まで運んで行ったのである。

 保健室まで付き添ってくれた試験官は、飄々とした優男風の教員だった。教員は保健室のベッドに男を寝っ転がらせると、大げさに肩を回して溜息をついた。

「最初から保健室で受験させればよかったのに!」

 何故かその考えには思い至らなかった。

 帰ろうとしたところで男が目を覚ましたので、カインはベッドまで戻って、近くに置いてあったパイプ椅子に腰かけた。

「レノックス、具合はどうだ」

 声をかけると、ベッドの上で不思議そうに眉を顰めている。「悪い、机の上の受験票で見た。俺はカイン・ナイトレイだ」

「ありがとうカイン。ここまで運んでくれたのか」

「ああ、さすがに骨が折れたよ。これが理由であんたが落ちなけりゃいいけど」

 そう言ってカインは付け足した。「ほら、あんた、受かるのに必死だったからさ。最後の教科が始まる直前に、コンパスの針で自分の太ももをぶっさしはじめたときは、さすがに止めようかと思ったけど」

「止めないでくれてありがとう」

「二回目をしたら、さすがにそこで試験官を呼ぼうと決めてたけどな」

 起き上がろうとするレノックスをカインは無理にベッドにとどめた。「あんまりゆっくりしていると、夜行バスの時間に間に合わなくなる」とレノックスは強行しようとした。「明日の朝から仕事なんだ。一日しか休みが取れなかったから」

「その熱でとんぼ帰りするのか? やめといたほうがいい。さすがに死ぬぞ」

 しばらく攻防が続いたが、結局高熱がぶり返したレノックスがベッドに倒れたことでカインの勝利に終わった。

「あんた凄いな」

 さっきまで暴れていた手負いの獣じみた男を見ながら、カインはしみじみ呟いた。「社会人枠だろ。それだけやりたいことがあって学ぼうとしてるのは、純粋に尊敬するよ」

「別にやりたいことがあったわけじゃない。何もすることがなかったからだ」

「さっきまでの様子から見るに、全然そうは思えないけどな……」

「俺には、崇高な理由なんて何もない」

「俺だって人のことは言えないさ」

 パイプ椅子に座りなおしながら、カインが言った。

「俺は指定校推薦でここを落とされたんだ」

 レノックスが顔を向けた。

「推薦の面接も終わってあとは結果を待つだけの時期に、俺が他校の不良グループに万引きをさせていると、学校に虚偽の通報があったんだ。もちろんそんな事実はない。一度、万引きしてるのを止めたことがあるから、おそらくその腹いせだろう。だけど、誰かに何かを吹き込まれたみたいに巧妙な嘘をつくから、たちが悪かった。最終的には警察も学校も信じてくれたけど、大学だけは不合格になっちまった」

「腹が立たないか、理不尽な目に遭わされて」

「もちろん腹は立ったさ。しばらく落ち込みもしたし、自棄にもなった。こんな学校こっちから願い下げだと思ったね。でもこのまま引き下がったら、やってもいないことを俺自身が認めたみたいになるだろ。だから正々堂々一般入試をすることにした。合格点を取れなければ俺の問題だし、合格点以上取っても不合格にするなら、それはこの学校の器量の問題だ。入学するかどうかは受かってから決めようと思ったんだ」

 カインは説明してから、少し笑った。

「な、人に言えるような大層な理由なんてないんだ」

 保健室の窓から西日が射しこんでいた。レノックスは腕で顔を覆うと、息をついた。

「いや、俺より、よっぽど立派な理由だと思う」


     〇


 気がつけばあっという間に一年の暮れの日になっていた。昼過ぎに一緒にマンションを出て、家の向かいにあるバス停へと向かった。帰省といっても一泊二日なので、二人とも軽装である。

「きみは新幹線使うの」

 エレベーターの中で尋ねると、「いえ」と階数表示を見上げながらレノックスが答える。

「乗車券が取れなかったので特急で」

「時間かかるんじゃない。大変じゃないか」

「まあ寝てれば着くので」

 レノックスは駅まで歩いていくそうだが、バスが来るまで一緒に待つと申し出た。

 大晦日だからか、バス停には既に次のバスを待つ人たちで短い列がつくられていた。最後尾に並ぶと、ほどなくしてバスが到着した。

「じゃあ、また来年」

 ぞろぞろと列が進み、ファウストは前の人に続いて乗り込もうとバスに片足を乗せたところで、不意に後ろから腕を掴まれた。

 バスから降りて一歩下がると、目の前でドアが閉められる。ごろごろとエンジン音を立ててゆっくりと発車するバスを見送りながら、ファウストは振り返った。

「なんできみが驚いた顔をしてるんだ」

 レノックスはうまく説明できないでいた。ファウストの腕に触れたまま珍しく視線を彷徨わせている姿は、理由を探しているようにも見えた。何本目かの車が通り過ぎたところで、ようやく「夜景が」と彼の重い口が開いた。

「夜景?」

 はい、とレノックスは頷いた。「以前、この先で夜景が綺麗な通りを見たんです。もし、よろしければ。少し歩くので、寒い思いをさせてしまいますが」

「いいよ、行こう。案内して」

 腕を掴んでいた大きな掌がすっと下に滑り落ちるようにして離れた。レノックスは小さく頷くと、来た道と逆方向に歩き始める。いつの間にかバス停には二人の後ろに小さな列ができはじめていた。

 しばらく道沿いを二人で黙って歩いていた。そのうちに「本当にお乗りにならなくて良かったんですか」とまるで他人事のような呟く声が前から聞こえてきた。

「別にいい。きみが見せたいと思ったんだろ」

「はい」

「それなら気になる」


     〇


 コンビニから出てきたレノックスは、レジ袋から大量の使い捨てカイロを取り出すと、よくもみほぐしてからいくつかファウストの上着のポケットに忍ばせて、ひとつは掌に握らせた。

「では、行きましょう」

 軽い気持ちで了承したが、一体どこまで連れて行かれるのかと若干の不安を覚える。

 家を出たときはまだ明るかった空は、すでにうっすらと赤く暮れかかっていた。歩くたびに白い息が口から吐き出されては消えた。歩いている間たいした会話はないけれど、これはいつものことだ。二人分の足音と、通り過ぎる自動車の走行音だけが耳に残る。

 人通りの多い通りでも、先を案内するレノックスはするすると人の流れを器用にかきわけて歩いていった。除雪車のごとき彼の大きな背の後ろをついて歩くのはとても楽だった。ちらりと鴨居に頭をぶつけている普段のレノックスの姿がよぎる。

 彼の年末の予定を尋ねるのには、少しだけ勇気が必要だった。

 それはこの三年間で一度も、レノックスが帰省している様子をファウストが見たことがないことによる。今年の盆休みもレノックスは一度も帰省をしなかったし、以前本人から聞いた話から推測すれば今彼の生家には誰も住んでいないからだ。

 そうしてかれこれ三十分ほど歩き続け、ビル街の青い電飾を纏った石畳の並木道を通り過ぎた頃、ふわりと潮の香りが鼻をついた。

 道が開けて、目の前に広がるのは海だった。闇を溶かした真っ黒な水面に映りこんだ、対岸の無数の灯りや、岸に停められたいくつもの大きな客船の電飾の灯りが小波に揺れて、夜空を閉じ込めたみたいに広がっている。ボォッと、船の汽笛が冬の空気に響いた。

「ああ、やっぱりここか」

 思わず立ち止まって呟くと、レノックスが振り返った。

「ご存知でしたか」

「うん。何度か来たことがある」

 港につくられた芝とレンガの敷かれた大きな公園だった。海を眺められるように等間隔にベンチが置かれ、昼間はマーケットが開かれたり、子供を連れた家族で賑わっていたりする。さすがに今は人通りは少ないけれど、潮風を浴びながら海沿いを散歩する人影もちらほら見られた。

「すみません、考えれば当たり前でした。このあたりは俺よりずっと長く親しまれているのに」

「いや、ここ数年はとんと来ていなかったし、実際この景色はきれいだよ」

 手すりまで寄って、下を覗いてみる。真っ暗い海は底が知れなくて恐ろしいのに、光に照らされてそれが和らいでいた。

 歩いているうちに、どこに連れて行かれるかはなんとなく気づいてはいた。気づいていたけれど、実際に目で見て確かめてみたかった。

「それに、きみが見せたいと思ってくれたから、この景色も価値がある気がする」

 せっかくだからベンチに座ると、レノックスは自販機で買ってきたホットレモンを一つファウストに渡して、自分も隣に腰かけた。受け取ったホットレモンを掌で転がすと、冷えた指先がほのかにあたたまる。

「今はわからないけれど、昔はクリスマスマーケットもやっていた。フランクフルトやホットワインなんかの出店が立ち並んで、海を見ながら飲み食いできるんだ」

「ホットワインか、いいですね」

「来年行くか」

 ペットボトルの蓋を開けて口をつけると、飲み物は既に冷め始めていてぬるい液体が喉を伝った。ふと隣から一向に反応がないのを不思議に思って顔を向けると、レノックスは黙ってこちらをじっと見つめていた。「なに?」

「いえ、なんだか意外だったので」

「ホットワインは屋外で飲んだ方が美味いからな」

「それは確かにそうですね」

 そう言ってレノックスも冷めた缶コーヒーの蓋を開けるのを見て、ファウストはまた視線を海へと戻した。

 たまには幻想的な風景を前にのんびりとするのも悪くはないだろう。

 それも、とんでもなく寒くなければの話ではあるが。

 このとき実は到着直後から、海から吹いてくる冷たく強い海風がびゅうびゅうと肌を刺し、二人そろって容赦なく髪は乱れていた。ひときわ強い風が吹けば、風の音で会話もかき消され、声を張って言い直さなければならない有様だ。今も隣に座るレノックスは、吹き荒れる風に負けじとする犬のような顔をして踏ん張っている。のんびりしたいのは山々だけれど、まったく長居はできなそうだ。

「寒いですね」

「寒いな」

 さすがに凍えるような寒さにさすがに体力が限界を迎え、現状を口にするしかできなくなっていると、びょおっと強い向かい風が吹いた。隣を見ると、重いレノックスの前髪も風で上げられて、珍しく額がむき出しになっていた。彼はひどく困った顔をしていて、今までそんな顔をしていたのかと思うとだいぶ愉快な心地になって、ファウストは声を上げて笑っていた。


     〇


「ホームまで送ります」

 最寄り駅まで歩いていくと、レノックスはまだそんなことを言った。ここからだとバスよりも電車を使った方が近いけれど、どちらにせよレノックスとは路線がまったく違う。

 利用客が途絶えることなく行き交う改札の脇で、ファウストは相変わらずじっとこちらにお伺いを立てている男を見上げた。明るすぎる蛍光灯の下では、冷たい風に煽られてぼさぼさの髪の下から赤く染まった耳までよく見えた。

「レノ、ちゃんと鍵は持ったか」

 レノックスは不意をくらったような顔した。「はい、もちろん持ってます」

「ならいい。失くすなよ」

「はい」

「ホームまでは送らなくていい」

「わかりました」

 頷くのを確認すると、よしと鞄を背負いなおす。ファウストはホームへ向かうエスカレーターの下で振り返った。

「よいお年を、レノックス」

 はい、と今度こそレノックスもほほ笑んだ。

「来年もよろしくお願いします」






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