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10.

羊と観覧車





 羊というのは山岳地方に生息している、もこもことした体毛をまとっている生物である。その羊毛のために、主に家畜として飼われ、その歴史は犬と並び最古であるという。垂れた目元は優しそうで愛嬌があり、牧羊犬によってよたよたと動きを変える群れの姿は実にかわいらしい。

 それも、一〇〇キロ近い雄羊の群れに囲まれなければの話である。

 日が暮れる前に餌場の牧草地から畜舎へと戻ってきた三十頭近い大きな羊たちの群れが、タイミング悪く買ったばかりの餌袋めがけて一斉に走り寄ってくる光景を想像してみてほしい。普通にこわい。

 あっという間に群れに囲まれると、餌を寄越せとせっつかれ、どうにもこうにも身動きが取れなくなってしまった。

 そのなかでもとりわけ大きな黒い羊に鼻先をぐいと押しつけられてよろけると、背後からがっしりした掌で両肩を支えられた。振り向く間もなく、視界が揺れる。

「うわっ」

「角が当たったら危ないです」

 肩に置かれていた腕が素早く下に降り、膝裏に滑り込ませると、目の前の細い身体を抱き上げたのだった。

 ちょうどそこへ走ってきた二頭の牧羊犬が周りから吠え立てると、羊たちはしぶしぶといった風にぞろぞろと離れていった。羊たちがほとんどその場からいなくなると、ようやくレノックスはファウストを地面におろした。

「おまえ場所と人目を考えろ!」

「すみません」

 謝りながらもファウストの手に握られたままの餌袋を掴むと、袋の中から一握り分だけ取り出して、ファウストの掌に乗せた。「分担しましょう」

 レノックスが離れると、周りにいた羊たちも後についていく。それでも残ったとりわけマイペースな羊に慌てて餌を差し出すと、一瞬で掌から綺麗に舐めとられた。

「まったく、えらい目にあった……」

「お疲れ様です」

 掌についたカスを払いながら、レノックスが合流する。あれだけの羊に囲まれながら微動だにせず堂々としているのはさすがであったが、ああも子供のように軽々しく持ち上げられるのは、こちらとしても甚だ不本意である。

 じとりとした視線をものともせず、「どこかで休憩しませんか」と彼は広い牧場を見渡した。山の斜面に開かれただだ広い牧場は芝が広がり、ぽつぽつと建てられたログハウス風の建物の中には土産屋やレストランが入っている。

 ふと上着の裾をぐいぐいと引っ張られていることに気づき、下を向けば一頭の羊がファウストの上着の裾を咥えていた。牧羊犬に追い立てられながらも、ファウストの傍に最後まで残っていたマイペースな羊である。

 おや、と思って距離を取ると、裾から口は離したものの、とことことファウストの後をついてきた。

「もう餌はないよ」

「どうやらファウスト様を気に入ったようですね」

 羊との間に割って入ってやりながらレノックスが言うと、それにこたえるようにメエ、と羊が鳴いた。


     〇


 遡ること数時間前、昼前にようやく自室から出てきたファウストを見るや、レノックスは掃除機をかけていた手を止め、深々と頭を下げた。

「お誕生日、おめでとうございます」

「ああ、ありがとう」

 つられて頭を下げながら、なんだか年始の挨拶をもう一回してるみたいだなと思う。

「昨日は遅くまで起きてたんですか」

 いつもはなんだかんだ朝の早いファウストが、昼まで部屋から出てこなかったのが珍しかったのだろう。それもそのはずで、ついに卒業研究を明け方に終わらせ、今の今まで死んだようにぐっすりと寝ていたのである。これであと卒業するには、三月までにひたすら論文にまとめて、発表用のスライドをつくるのみとなった。

 ダイニングテーブルにすっかり昼食となってしまった朝食を並べながら、レノックスが労った。

「今日くらいはゆっくりされてもいいんじゃないんですか」

「そうだな」

 とはいうものの、この年になると誕生日だからといって特別感慨深いものがあるわけでもない。当日になるまですっかり忘れていた年だってあった。今年はちゃんと意識していたのは、何日も前からしつこいくらいレノックスが話題にしてきたからである。

「せっかくなので、してほしいことがあったらなんでも言ってください」

 これもこの数日のうちに何度も言われていることだった。そもそも彼はいつもファウストに気を配り、少しでもファウストが過ごしやすいようにと動いているので、これ以上彼に望むものなどあるはずなく、どちらかといえばゆっくり休んで自分のために時間を使ってほしいというのが望みらしい望みであった。

 しかし忠犬よろしくじっと黙って次の言葉を待っているレノックスにそんなこと言えるはずもなく、こちらもここいらで真剣に何かしら捻り出さなければならなそうである。

 寝起きの頭で一生懸命思考を巡らせていると、あ、と不意に頭に浮かんだものがあった。しっかり思い出したときには、無意識に口から出ていた。

「牧場」

 レノックスが何度か瞬きした。

「フィガロ先生が行っていたとこですか」

「そう」

 レノックスは口元に手を当てて何やら考え込んだ。起きたばかりのぽやぽやとした頭に急に浮かんだだけなので、大真面目に捉えられると気恥ずかしい。普段だったら思いついても、口にはしなかっただろう。「別にすごい行きたいわけではないんだけれど」と付け加える前に、レノックスが口を開いた。

「わかりました。行きましょう」

 力強く頷いたのが、気恥ずかしくも少しだけうれしかった。誠実なレノックスとなら、いつか一緒に行くこともあるかもしれない。

 しかしダイニングテーブルで食後の紅茶を飲みながらぼんやりしてると、アウターを着込んだレノックスがファウストの分も手に持って居間に現れたので驚いた。

 今から?

 問いかける間もなく、レノックスはファウストに彼のチェスターコートを着せてポケットにホッカイロを仕込むと、腕を引いてつかつかと最寄り駅まで連れていってしまった。

「待て、どうやって行くんだ」

 ターミナル駅までの電車をホームで待ちながら、ファウストがレノックスに尋ねる。ホームを突っ切る一月の風は身を切るように冷たく、家を出る前に慌ててひっつかんできた、昨夜レノックスがくれた白いマフラーを緩く巻いた。

「わかりません」正直者のレノックスは、すぐさま上着のポケットからスマートフォンを取り出していた。「調べます」

「別に、何も今から行かなくてもいいんじゃないか」

 いつもと様子の違うレノックスに幾分気圧されながら、ファウストが意見を挟む。それに冬は日が落ちるのが早いから、今から行ったところでたいして長居はできないんじゃないか。

「でも」と、手元のスマートフォンから顔を上げ、やはり珍しくレノックスは反論した。「せっかくの誕生日ですし、今日は天気もいいですし、それに次はいつ落ち着けるかわかりませんから」

「う、うん」

「ターミナル駅から直行バスが出てるようです。まだ間に合うのでこれに乗りましょう」

 そう言って緩く巻かれたファウストのマフラーをぎゅうぎゅうに巻き直した。

 それから電車に揺られ無事に高速バスに乗り込むと、今度は山道を揺られながら一時間ほどで目的地へと到着した。

 ログハウス風のチケットカウンターのある牧場の入口には、ここのイメージキャラクターらしき二足歩行の牛のモニュメントが出迎えるように立っている。出かけた頃にはてっぺんにあった太陽は少しずつ沈み始めていたが、冬季はイルミネーションで園内を飾るから、逆に遅くまで開園しているようである。

 レノックスはチケットと園内パンフレットを貰ってくると、一部ファウストへ渡し、もう一部をその場で自分で開いた。

「どこから行きますか? 暗くなると閉まってしまう施設もあるので、ファウスト様が一番行きたいところから先に行きましょう」

「今日は張り切ってるな、レノ」

「そうですか?」

 レノックスは表情を変えず園内マップを見ている。

 すると不意に目を見開き、驚いたようにファウストの顔を見つめた。それもすぐに明後日の方へと逸らされ、彼は口元に手の甲をあてながら俯いた。

「すみません、確かにまた張り切ってたようです」


     〇


「可愛かったですね」

「うん」

「ちいさくてふわふわでしたね」

「うん……」

 かねてより希望していた「ふれあいハウス」でのウサギやモルモットといった小動物たちとの触れ合いを終え、小さなかわいらしい丸太小屋から出てきたファウストは、充実感に浸っていた。長い道中もこのためにあったと思えばなんてことはない。感無量のままふわふわした足取りで道なりに歩いていたが、後ろからついてくる大男が嬉しそうにこちらを見ていることに気づくと、慌てて取り繕う。

「なんだ、別にいいだろう。ああいう小動物はアニマルセラピーといって癒し効果があるんだ」

「はい、俺もとても癒されました」

 大真面目にレノックスは頷いた。

「それに小学校の頃を思い出しました。生物委員だったので毎朝ウサギ小屋の世話をしに行ってたんです」

 ファウストはあからさまに羨ましそうな顔をした。「僕の学校にはいなかった。大昔はいたらしいけれど……」

「都会の学校だと匂いとかで飼うのが難しいのかもしれないですね」

「まさか教室にハムスターもいたんじゃないだろうな」

「……」

「もういい、何も言うな」

 嘘が下手なレノックスが言い淀んでいるのを見ながらファウストはため息をついた。

「そういえばファウスト様は猫を飼われたりはしないんですか」

 話を変えようとレノックスが尋ねる。彼が以前から気になっていたことでもあった。ファウストは何故かきょとんとレノックスの顔を見ていて、それから「飼わないよ」と言った。

「必ず自分より先に死ぬからな」

 山の上の斜面に建てられた牧場はだだ広く、あてもなく歩いていたら迷子になりそうだった。牛柄のバスが巡回している敷地をすべて回ろうとすれば一日かかりそうだ。牧草地のほかに子供向けの小さな遊園地やレジャー施設、キャンプ施設が敷地内にあり、丘の上から観覧車が顔をのぞかせている。

 さっそく手持無沙汰になってしまったので園内マップを開いてみると、近くに羊の畜舎があるそうなので行ってみることにした。

 多くは放牧されているのか、畜舎の中は閑散としており、大人よりも一回りも二回りも小さな仔羊の姿が多い。大人の羊は眠たそうな眼をしているが、畜舎で愛くるしく顔を出している小さな羊たちはみな黒い瞳をくりくりさせている。ファウストが近づくと、仔羊たちは一様に木の柵から顔を突き出し、くんくんと鼻を鳴らした。あと一か月もすれば、さらに小さな赤ちゃん羊がたくさん産まれて、この畜舎で同じように育てられるのだろう。

「そういえば来る途中、牧柵の横に羊の餌が売っていましたね」

 レノックスが思い出したように口にした。そういえば道の脇に小さな木箱が置かれていたような気がする。

「仕方ない、どうせだから仔羊にも餌をやるか」

 後ろからついてくる大きな男がニコニコしているのに気づかないふりをしながら、そそくさと畜舎を後にする。

 木箱に小銭を入れ、紙袋に入った餌を取り出していると、レノックスが丘の上を見上げていた。

「羊たちが帰ってきましたね」

「本当だ」

 牧羊犬に連れられて、羊の群れが畜舎へと戻っていくところだった。少し近づいて見てみると、丘を下る白い羊の大群が牧羊犬によって自在に群れの形を変えながら進んでおり、なかなか見応えがあった。その後ろでは、牧場のスタッフが両手を大きく振って、何やら声を張り上げている。「危ないので、退いてください!」

 そこでようやく彼らは、自分たちが羊の行進ルートのど真ん中にいること、手には買ったばかりの羊の餌があること、そこから導き出される結論に思い至ったのだった。

 丘の上からドドドドと音を立てて、羊の大行進がこちらへ勢いよく向かってくる。

「わーッ!」

 こうして冒頭に戻る。


     〇


「えらい目にあった……」

「お疲れ様です」

 先ほどから顔色ひとつ変えずに戻ってきたレノックスを、ファウストはじとりと睨みつけた。

「さっきの、ああいうことは二度と人前でやるな。いいか」

「絶対やらないと断言はできませんが気をつけます」

 涼しい顔で馬鹿正直に答える男に呆れながら牧柵によりかかっていると、レノックスはメッセンジャーバッグからウエットティッシュを取り出してファウストに差し出した。羊に舐められてべとべとしていた掌をどうにかしたかったのでこれはかなり助かったが、内心まだ怒ってはいたので、フンと鼻を鳴らして受け取る。「でもありがとう」

 並んでウエットティッシュで手を拭き取りながら、羊の群れを眺めていた。

「こうして見ると、羊もそれぞれ性格や個性がありますね」

「そうか……?」

 緊急事態に必死であまりよく見ていなかったが、確かに見た目はそれぞれ違っていた。顔の色が白いのもいれば黒いのもおり、毛質や角の形が他と大きく違う羊もいる。いろいろな品種の羊が共に暮らしているようだった。

 そうしてよく観察していると、餌や水を独り占めしようと食い意地が張っているものや、それに邪魔される要領の悪いものと、レノックスの言う通り性格の違いも見えてきた。少し離れたところにいる、綺麗な毛質の若い羊の傍には、身体の小さな羊が周りを飛び跳ねるようにくっついており、遠くに行くたびに呼び戻されている。ほほえましい光景に、ファウストがくすりと笑った。

「親子か、兄弟かな」

「ミチルやルチルを思い出します」

 その奥には客に愛想を振りまいて、餌を貰っている羊がいる。

「あの軽薄そうなのはフィガロだな。一人ですましてるのはネロっぽい」

「マイペースに見えて意外と周りに気を遣ってますね」

「あっちで喧嘩してる小さいのはシノとヒースに似てる」

「ああ」とレノックスも思い出したようだった。「この前の学園祭に来た子たちですね」

「そう」

 しばらく多様な羊の群れを、ああでもないこうでもないと言い合いながら眺めていた。ふと視線を感じて隣に顔を向けると、レノックスがじっとファウストの横顔を見つめていた。

「なに?」

「いえ、なんだかうれしいと思って」

「羊を見るのが?」

「そうですね」とレノックスは考えながら答えた。「たくさん羊のともだちができたことが、です」

 どこかで休憩しませんか、というレノックスの提案に園内マップを見ながら考えていると、上着の裾を誰かにぐいぐいと引っ張られていることに気づき、下を向けば一頭の羊がファウストの上着の裾を咥えているのであった。後ろに下がって距離を取ろうとすると、口をぱっと開けて、メエ、と鳴いた。場所を移動すると、やはり羊もついてきて、メエメエと鳴いてみせる。

「もう餌はないよ」

「ファウスト様を気に入ったみたいですね」

 ぐりぐりと頭を擦り付けようとしてくるのを間に入ってやりながら、レノックスが言った。

「こいつは俺に似てます」


     〇


 牧場の入口近くまで戻ると、丸い芝の広場に食べ物の屋台が立ちならび、あたりにおいしそうなにおいを漂わせていた。レストランに入るほど腹は減っていなかったし、あれだけ羊と触れ合っておいてジンギスカンを食べる気にもなれなかったので、屋台で済ませることにする。

 平日だったが、意外にも入園客はぱらぱらといた。帰り支度をしているのは小さな子供を連れた家族であり、これからレジャーシートを広げて明るいうちから軽い酒宴を開こうとしているグループもいた。持ってきたポップアップテントの中でイチャイチャしているのはイルミネーションの時間まで暇を潰しているカップルか。

 ホットドッグと地ビールを買って戻ると、レノックスは着ていた上着を脱ぎ、芝の上に広げているところだった。

「どうぞ、こちらに」

「座れないよ」上着を拾ってレノックスに着させると、貰ってきた大きめのビニール袋の上に座る。ビールの入ったプラカップを手渡して、軽く乾杯をした。

「昼間っから酒飲みとはいい身分だな」

「たまにはいいですね」

 風が止むと、陽を遮るものがないので意外にもぽかぽかと暖かかった。アルコールが入ったせいもある。ファウストの機嫌もすっかり元に戻り、しばらくぼんやりと遠くの山々を眺めた。葉の落ち切った黒い山に、花壇に咲く水仙の白さが似合っていた。

 レノックスは芝の上に横たわると、すうと息を吸った。

「陽の光が気持ちがいいですね」

「きみはそうしているのが似合うな」

 平均身長よりも随分と背が高いレノックスは、この世界の何もかもが彼には小さくて、あちこちで頭をぶつけていた。こうして広い大地に身を投げている彼の姿は、ひどく自由のように見えて、とても良いと思った。

 レノックスの真似をして芝の上に寝転がってみる。

「汚れますよ」

「構わないよ」

 山の上にあるからか、空がいつもより近く感じる。薄く黄色がかった芝から冬のにおいがした。そよそよと肌を撫でる風は冷たいけれど、アルコールで火照った身体にはちょうどいい。ふと横を向くと、赤い瞳と視線がかち合った。

「好きです」

「それはいっぱい聞いたよ。ありがとう」

 ファウストが苦笑いすると、レノックスも満足したように笑った。

「なあ、僕なんかのどこがいいんだ」

 口に出してみると、酒が入っているとはいえ、これは思った以上に恥ずかしい。言ったそばから後悔して、顔を背ける。だが飽きもせず好意を繰り返し表現するレノックスに対してずっと疑問に思っていたことなのだ。聞いてみたかったのは確かだ。

 そんな思いに反して、レノックスは大まじめに考え込んでしまった。

「どこがいいと言われると、困ってしまうんですが……」

「えっ」

「月並みですが全部かと」

「……なんだそれ」

 想定してたよりもふわふわした回答に思わず吹き出すと、レノックスは驚いたように身を乗り出してファウストの顔をまじまじと見つめた。「なに?」

「笑った顔が好きです」

 真っすぐにファウストの瞳を見つめながら、レノックスは言った。

「聡明であられるところや、現状に甘んじずひたむきに努力されるところ、立ち振る舞いが気品にあふれているところ、何故か可愛いものを愛でるときに恥ずかしがられる姿も好きですが」

「もういい、もういい」

 つらつら並べたてられる言葉の羅列に気恥ずかしくなって遮るが、レノックスは気にせず続ける。「そうやって優しく笑われた顔が一番好きです。見ていると、胸のあたりがあったかくなります」

「ふうん……」

「逆に悲しい顔をされてると、ずっと落ち着かなくなります」

「ずっと?」

「ずっとです」

「へえ」とファウストは笑った。少し意地悪を言うときの声だ。「じゃあ、今はあったかい?」

 尋ねると、レノックスは目を細めた。腕が伸びて、梳くように一瞬髪に触れて、離れた。指にはこがね色の芝をつままれている。髪についていたらしい。

「はい、すごくあったかいです。今日は笑顔が見れたから本当に良かった」


     〇


 どちらともなく、帰る前に観覧車に乗ろうと提案した。あんまり暗くなる前に帰るつもりだったのだが、なんとなくこのまま帰ってしまうのが惜しい気持ちがあったのかもしれない。

 さほど高さのない観覧車の窓からでも、眼下に広がる牧草地は少しずつ遠くなり、より空に近くなっていく。赤い夕空の中に一番星が光ったと思えば、すぐに深い色の夜空が夕焼けを上から侵し、二層のカクテルのように空が染まっていた。

「今日はすみません。勝手にお連れして」

「ファウスト様の誕生日なのに、結局また俺ばかりたくさん貰ってしまいました」

「そんなことないよ。謝らなくていい」

 確かに疲れたけれど馬に乗ったり牛の乳しぼりができたり楽しかったと伝えると、それなら良かったです、と彼は控えめに目を伏せた。

「きみはもっとわがままになっていいくらいだ」

「俺は十分わがままですよ」

 控えめであるが頑固な彼は、とりわけ自分の評価に関しては、意見を決して曲げようとはしなかった。「本当は休まれた方がいいのをわかっていたのに、俺のわがままで遠出させてしまいました」

「そもそも僕が行きたいって言いだしたんだからいいんだよ」

「それに」とレノックスは続けた。「大学に入るのに、自分のためだけに、数百万も使いました。俺はそれを後悔もしてないんです。俺は欲張りです」

 いつの間にか、日は完全に沈みきっていた。夜に押しつぶされるように、しんとした静寂が広がる。何か声を発しようとして、一瞬、息が詰まった。地上から離れたゴンドラの窓の先はどこまでも続く暗闇で、酸素のない宇宙にでもいるようだ。

「レノックス、それらはわがままでも、欲張りでもなんでもない」

 気づけば、自身の腹のうちにふつふつと静かな怒りがわき上がっていることにファウストは気づいていた。

「普通だよ。それはごく普通のきみの欲望で、普通の自分への投資だ。きみが生まれ持っている最低限の権利だ」

 それが何に対する怒りなのか、自身でもわからなかった。ただこの目の前にいる気のやさしい男が、自分のために行動する度に、自分に傷を付けるように罪悪感を覚えるようなことが、決してあってはならないと強く思った。それを脅かすものがあることが許せなかったし、同時に最低限の幸せを後生大事にしている彼の姿を腹立たしくも思う。彼はそれを当然のごとく受け入れる権利があった。

 レノックスはこの世界でもっとも、当たり前に幸せになるべき存在だった。

「普通ですか」

 レノックスは驚いたような顔をして、噛みしめるように復唱した。それからゆっくりと目を細めてほほえむ。足元のガラス窓から見える地上では、光の粒がぽつぽつと灯りはじめていた。

「そうか、俺は普通なんですね」





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